シーン4:戦奏、鳴り響き渡る
-§-
「――来るわよッ!!」
エメリーが叫ぶのと〈骸機獣〉の群れが動き出すのは、ほぼ同時だった。
本来、実戦において明確な戦闘開始の合図など存在しない。極限まで高まった緊張が破裂した瞬間から、剥き出しの殺意が互いにぶつかり合うだけだ。
それでも「戦い」という行為に臨む際、心に戦意を定めるきっかけは重要だ。
だからこそエメリーは警句を発したのだし、それを受け取ったレーゲンもまた、心構えを新たに“敵”を見据える。
自分を目掛けて猛然と突進してくる〈骸機獣〉の様相、その異形を。
(……“三眼狼”、か)
〈骸機獣〉の中では、比較的小型に分類される個体である。
大雑把なシルエットは実際「狼」に近い。
細長くしなやかな胴体に付属する獣らしい四足と、逆立った尾に、尖った耳。鋭利な爪と口元に覗く牙に、素早く地を駆け一直線に獲物へ迫る獰猛さ。
ここまでは野生の狼そのものだ。遠目に見れば区別は付かないだろう。
そんな第一印象を塗り潰して上書きするのが、名前の由来ともなっている特徴、顔面前方に備わる禍々しい三つの眼だ。
血のようにドス赤い光を宿した眼球がぎょろりと蠢き、無機質な害意を含んだ視線がレーゲンを射抜いた。
「相変わらず、何度見ても物騒な面構えだよ……!」
軽口とは裏腹、レーゲンの面構えには強い警戒心が滲む。
“三眼狼”は狼さながらの機動力と凶暴性を持ち、多くの場合は今回のように徒党を組んで現れる。複数個体による苛烈な包囲攻撃は、小銃で武装した兵士さえ容易く殺害し得るほどに危険だ。間違っても油断をしていい相手ではない。
さらに悪いことに、レーゲンたちは現在八体もの“三眼狼”に取り囲まれている。立ち回りを間違えたが最後、危機的状況に陥るのは必至だろう。最悪、碌な抵抗もできないまま嬲り殺しにされる可能性すらあった。
(熱烈歓迎……というか、普通に絶体絶命ってやつかな、これは。一体ずつなら、まあ、わりかし対処はしやすい方だけど……)
今、レーゲンに向かってくる“三眼狼”の数は、二体。
視界の端、ヴィルの方にも同じ数が向かったのをレーゲンは確認している。ただ、そちらに関してはあまり心配していない。
その一方で、大変なのはエメリーだ。一人だけで四体を相手取らなければならないうえ、自衛能力を持たないリウィアを庇いつつ、全員分の「壁役」を任じるのは並大抵の負担ではないはず。
(なるべく早めに片付けないと……)
とはいえ、焦ってこちらから仕掛けるのは不味い。
もしも“三眼狼”を後ろに通せば、エメリーやリウィアが危険に晒される。かと言って、村の方へ逃がしてしまえば本末転倒だ。
故になるべく“三眼狼”の標的はこちらに釘付けにしたまま、かつ、立ち位置を維持したまま戦わなければならないのである。
(自由に動いていいなら、いくらでもやりようはあるんだけど)
要求が、というより、制約が多い。万全の態勢で迎え撃つことが難しく、行動選択の時間的猶予も乏しい、不意の遭遇戦の怖さがここにある。
が、それでもレーゲンは絶望しない。
(だって後ろには、エメリーが居る)
まだまだ短い付き合いではあるが、彼女の力量はよく見知っている。そして、勝気でプライドが高く自分を強く保つことに懸命な黒髪の空素術士が、同時に諦めの悪い直向きな努力家でもあることも。
(そんなエメリーが「どうにかする」って言ったんだ。なら、……信じるべきだし、信じられるよね!)
そもそも、エメリーはまだ作戦変更を宣言していない。ならば、自分は与えられた役割を全うすることに全力を注ぐべきだ。
なにより、開けた場所で戦うにあたって背中を突かれる心配をしなくていいというのは、紛れもなく立派なアドバンテージになる。エメリーはそれを理解したうえで、敢えて自分に負担を集中させる方針を採ったのだ。
守られている。信頼されている。二つの想いが、レーゲンの不安を拭い取った。
(だったら、委縮する理由なんて……ないッ!)
深い藍色を湛えた瞳の奥、煌く炎の如くに戦意が燃えた。
映り込む異形の影は、猛スピードで接近する二体の“三眼狼”。
荒々しい足音が二重奏となり、見る見るうちに彼我の距離が詰まった。
“三眼狼”が一歩を踏むごとに、踏み躙られた緑の葉が千切れて舞う。浮いた葉の切れ端は、空中で不意に色彩を失うと萎れるように縮こまり、数秒と経たずに腐って砕ける。〈骸機獣〉によって瘴気に変貌させられたエーテルの影響だ。
当然、この瘴気は人間にとっても有害極まりない物質である。多量に吸い込めば肺が腐り、血反吐を吐いて死亡する羽目になる。
〈骸機獣〉相手の接近戦が避けられる理由のひとつだ。故に相対に際しては原則、瘴気を防ぐ装備か空素術が必須とされる。
しかし現在、レーゲンの口元を覆うものはなにもない。
たった一度の呼吸が死に直結する状況に在りながら、彼女は怯えた様子もなく剣を構え、じりじりと姿勢を沈めた。浅い前傾姿勢。両脚に力を溜めるように。
対する二体の“三眼狼”は身を屈めたレーゲンの所作を、臆病な獲物が竦んで動けなくなったと判断したか、走る速度をさらに上げた。
その禍々しい三眼に標的を捉え、到達まで残り五歩の距離に至った時、異形の狼は地を蹴り跳躍! 弾丸のような勢いでレーゲンへと踊りかかった!
直後に“三眼狼”の突き出した口先が「がばり」と、頭頂部を起点に左右に裂けた。内部から現れたのは、滴るような機械油で刃を濡らした凶悪な丸鋸だ。
丸鋸は即座に高速回転を開始。不気味な唸りがけたたましく響き渡る。
この恐ろしい武器は、人間の皮膚程度なら掠っただけで紙切れのように引き裂くだろう。それどころか、骨ごと一瞬で断ち切りかねない。
ましてや小柄なレーゲンがまともに喰らえば致命傷だ。
手足、首、胴体。全てがひとたまりもなく刎ね飛ばされ、彼女は血溜りの中に荒々しく解体された肉塊として沈むことになるだろう。
が、レーゲンの顔に現れたのは不敵な笑みだった。
そのまま彼女は怯えた風もなく、唸りを上げて迫る凶器へ向け、大きく一歩を踏み込んだ。突進とでも評すべき勢いである。恐れ知らずを通り越し自殺志願めいた行動だが、素早く続いた二歩目にも迷いはなかった。
状況を見た“三眼狼”の眼が喜色を宿す。この獲物は臆病なだけでなく大馬鹿だ。自ら死にに来るとは!
無論、レーゲンは自暴自棄になったわけでも、正気を失ったわけでもない。
彼女は加速を乗せた三歩目と同時、短剣を握った左手を大きく前方へと突き出した。目にも止まらぬ速度。滑らかな弧を描いた残像が銀閃となり、切り裂かれた空が「ひょう」と軽い音を鳴らす。
直後、激音! レーゲンの振るった短剣が正確無比な一撃として、完全に油断していた“三眼狼”の横面を強かに打ったのだ。手応えを感じたレーゲンの笑みが、変わる。歯を見せた攻撃的なものへと。
「――そ、ぉりゃあッ!!」
気勢一声! 剣筋の勢いは止まらない。まともに刃を喰らった横面を断ち割られながら、“三眼狼”の一体が打ち飛ばされる!
甲高い悲鳴と共に吹き飛んだ身体は、狙いすましたようにもう一体の“三眼狼”と激突。空中で縺れ合った二体の異形は、耳障りな金属音を掻き鳴らしながら大地へと突っ込んだ。異形の狼が、衝撃と驚愕の籠った苦悶を漏らす。
「よっしゃ、狙い通り……!」
眉を立てた笑みを浮かべるレーゲンの口元へ、しかし“三眼狼”が纏っていた瘴気が風に乗って吹き付ける。
“三眼狼”の身体そのものはともかく、無形である瘴気までを物理的に打ち払えはしない。粘着くタール煙にも似たドス黒い瘴気が、瑞々しい唇を侵さんと迫る。飛び退いて避けるには、僅かに間に合わない。
万事休すか――
≪――風は、満ち≫
――否である。
響いた歌声が瘴気を一瞬にして掻き消し、レーゲンの唇を撫でるその寸前、本来の清浄な大気へと還した。触れるものすべてを蝕む毒が一転、まったく無害なただの風として溶けて消える。
硝子を弾いたように高く澄み、絹を撫でるように柔らかな少女の声が、汚染されたエーテルを整調したのだ。
「綺麗な声だ」
レーゲンは微笑み、戦闘の熱さえ和らいだような口調で言った。
「ありがと、リウィア! その調子でお願い!」
その言葉の向かう先。エメリーの背に守られるリウィアが歌を口遊んでいた。胸の前で手指を組み、浅く目を伏せ、緊張から額に薄く汗を滲ませつつも、桜色の唇から途切れることのない旋律を紡ぎ続ける。
≪――風は満ち 土は在り 水は流れ 火は巡る≫
≪――あらゆるもの エーテルの理よ 示し 支え 循環し≫
≪――土から生まれ 水を経て風へ やがて火へと行きつき≫
≪――始まりより終わりへ 終わりより始まりへ 生と死を結び≫
≪――止まり 流れ 薄らぎ 終焉へ そう至るべし≫
≪――あらゆるもの エーテルの理よ そうあれかし≫
≪――変転の理よ 不動の理よ 永久に 永久に≫
それは、この世界の理を示す歌だった。
滔々と奏でられる力ある詞が草原の上を鳴り響き渡り、〈骸機獣〉の生んだ瘴気を打ち払っていく。淀み狂ったエーテルが「正しい理」を再定義されることで、清く正しい姿へ修復されていくのだ。
これがリウィア・カントゥスという少女が持ち得た力であり、彼女だけが行うことのできるエーテルの≪整調≫である。
そう。リウィアは非力だが無力ではない。瘴気の無効化。むしろ対〈骸機獣〉戦においては、彼女こそが一行の命綱であり、最大の要であるのだ。
-§-
「いやあ、何度聞いても良いものですねえ。なんだか身体の調子まで良くなる気がしますよ」
リウィアの歌に耳を澄ましながら、ヴィルも二体の“三眼狼”と相対していた。
戦闘の前と変わらない、微塵も緊張感のない飄々とした態度。準備運動めいて肩をぐるぐると回す彼女の金色の瞳は、鏡のように異形の姿を映し出し、揺らぎもせずにいる。
「ほらほら、こっちですよ……っと」
ヴィルは襲い掛かる“三眼狼”を、二体同時に難なく相手取っていた。安定した足運びは危なげなく、スキップでもするかのように軽やかである。
ときおり、鋭い爪や牙がジャケットの袖ギリギリを掠めても、驚いた声一つ上げない。彼女は平静を保ったまま“三眼狼”の攻撃を危なげなく捌いていく。
一方で“三眼狼”の挙動は、奇妙なことに徐々に「戸惑ったような」ぎこちないものへと変わっていく。〈骸機獣〉が本質的に持ち合せる攻撃性さえも、むしろ思考と動きを混乱させる原因になっているらしい。眼に宿る赤の光はチカチカと頼りなく明滅し、今にも消え失せそうなほどだ。
明らかに動きに精彩を欠いた二体の異形へ、ヴィルは相変わらずのヘラヘラした笑みを向けながら言う。
「そちらは、リウィアさんの歌をお気に召さないようですねえ。まあ、狂ったエーテルが煮凝りになったような存在からしてみれば、自らの存在を否定されるにも等しいんでしょうが」
リウィアの歌が“三眼狼”の動作を阻害しているのだ。エーテルを正しい在り方へと還元する≪整調≫は、その理から外れた〈骸機獣〉にとっては逆にノイズとなるのである。
「さーて、と。そのまま歌に聞き惚れて眠ってくれれば、私としても楽なんですけど。……そう、都合良くはいきませんかね、やはり」
ヴィルが首を傾げ言葉を結んだと同時、二体の“三眼狼”が突如身を大きく震わせた。まるで不愉快なものを振り払うような動作の直後、再び“三眼狼”の眼に狂暴な光が煌々と燃え盛り出す。
リウィアの≪整調≫を拒絶し、影響を跳ね除けたのだ。
実体として固定された物体は、エーテル的には良かれ悪しかれ「強固」な存在である。それは〈骸機獣〉も例外ではない。徐々に戦意を取り戻しつつある二体の“三眼狼”へ、ヴィルは嘆息を零した。
「不良ですねえ、意地張っちゃって。しかし、そこまで狂った自分自身を突っ張れるなら、ある意味では一本気のある……おおっと!」
言葉の最中に飛び掛かられ、ヴィルは慌ててその場を飛び退いた。数歩をバックステップし、構えを取り直して肩を竦める。
「……やれやれ、落ち着きませんね」
「アンタが落ち着き過ぎなのよッ!!」
と、そこにエメリーの怒声が響いた。
-§-
エメリーは奮戦していた。リウィアを守りながら四体もの“三眼狼”を同時に相手取り、手にした“共振杖”を振るいつつ、多種多様な魔導具類を駆使してなんとか持ち堪えている。
「こ、の……ッ!!」
エメリーは飛び掛かってきた“三眼狼”目掛け、素早く胸のポーチから取り出した細長い小筒のような魔導具を、手首のスナップだけで投じた。
真っ直ぐ飛んだ魔導具は“三眼狼”の鼻面前で炸裂し、激しい紫電を撒き散らす。まともに喰らった“三眼狼”は悲鳴を上げて吹き飛ばされた。
「ああ、もう! 高いのよ〈炸雷筒〉!?」
文句を言いつつ、エメリーの指は躊躇なく次に用いるべき魔導具を掴んでいた。出費は痛いが命に代えられるものはないからだ。
(最悪だわ……!! つくづく、アレを失くしたのが痛いわね……!!)
少し前に喪失した装備のことを考え、エメリーは臍を噛む。いまさら悔やんでも後の祭りだが、やはり有ると無いとでは対応力に雲泥の差が出る。少なくともここまで追い詰められるような状況にはならなかったはずだ。
「エメリー! 大丈夫!?」
そこで、切羽詰まったエメリーの声を聞き、ふと心配になったレーゲンが“三眼狼”と戦いながら声を飛ばしてきた。対し、エメリーは眦を吊り上げる。
「――ッ!! 誰にモノ言ってんの、レーゲン!! こっちのことは良いから、アンタは自分の仕事をさっさと片付けなさい!!」
そう言い返す程度の余裕は彼女にもまだあった。
実際、エメリーはここまで手傷を受けていない。彼女が数々の魔導具を駆使することによって“三眼狼”たちの連携は途切れ、バラバラのタイミングで飛び掛かることしかできていないためだ。
(一体ずつを相手にするのなら、私でもどうにか捌ける……!)
そう思いつつ、エメリーの翠玉色の瞳は状況確認のために忙しなく動き回り、引き攣った表情には色濃い焦燥が滲んでいた。
(……だけど、術を唱える暇がない!)
詠唱術士であるエメリーは、詠唱術の行使に数語の発動詞を唱える必要がある。その隙をまずは作らねばならないが、現状は攻めかかる“三眼狼”を前にしての防戦一方だ。
当然ながら抵抗を永遠に続けられるはずもなく、体力か魔導具が尽きた時が最期だ。かと言って、背後にリウィアを庇っている以上、現在の立ち位置を離れることもできない。
本命の技と戦略的撤退を封じられた不利な状況。リウィアの歌が“三眼狼”の動きを鈍らせていることで、辛うじてエメリーは持ち堪えられていた。
「だァ、しつっこい……ッ!!」
なおも執拗に喰らい付いてくる“三眼狼”の顔面を、黒檀の“共振杖”で殴って退けつつ、エメリーは悪態を吐いた。
「ああ、もう!! やり辛いったら……!!」
予想よりも旗色が悪い。エメリーの脳裡を「失策」の二文字が過る。
無論、この状況は予め覚悟していたものとはいえ、ペース配分まで考慮しなかったのは明らかなミスだ。敵が自分たちの都合良く動いてくれる保証など、ありはしないと分かっていたはずだろうに。
(というか、初手からさっさと術を使っておけばよかったのよ……! 相手の出方を窺おうなんて、小賢しいこと考えないでおけば……!)
後悔先に立たず。念のため力を温存しようとした結果、却って激しい消耗に見舞われている現状は、まさに皮肉以外のなにものでもない。
やはりひとりで四体を相手にするのは無理だったのでは?
リウィアを守るにしても他に取るべき手段があったのでは?
今からでもレーゲンかヴィルに手伝ってもらうべきではないか?
そもそも作戦立案に際して、自惚れがあったのではないか?
(――揺れるな、今更!!)
心に忍び寄ってきた弱気を、エメリーは意思の力で捻じ伏せた。
すでに戦いは始まっているのだ。そんな時に余計な迷いを抱けば怖気が生まれ、怖気は動きを鈍らせ、動きが鈍れば後は死ぬだけだ。
(そんな無様、見せられるわけがないでしょう!!)
自信を持て。己を定めろ。今までに血反吐を吐きながら得てきたものを、こんな化物如きに否定させて堪るものか。
「……エメリー!! やっぱり、手伝う!?」
「――要らないッ!!」
再び送られてきたレーゲンの言葉に、エメリーは即座の否定を返した。
そうしてまた新たな魔導具を選び、用い、押し寄せる敗北を遠ざけていく。
徹底抗戦の構え。いっそ生き汚いとすら称せるようなその戦いぶりはそれでも、エメリーが今までの人生で積み上げてきたものを総動員しての抗いであった。
(まだやれる、戦える! それができるように、私は……やってきたッ!!)
詠唱術士としては邪道とされる魔導具を大量に消費しての戦い方も、エメリー自身が選んだスタイルだ。才能がないものが生き残るための。
そしてエメリーがここまで意地を張る理由も、単に作戦案を出した者としての責任感からだけではない。≪整調≫を行うリウィアを守る意味もあるが、それ以上にレーゲンたちがまだ“三眼狼”を倒し切ってはいないからだ。
(敵を後ろに通せば、陣形が意味を成さなくなる! 味方同士が孤立するわ!)
まずはどちらか片方側の脅威を片付けてからでなければ、結局はジリ貧に追い込まれる。そうなれば誰かが確実に犠牲となるだろう。その可能性をエメリーは絶対に許容できなかった。
(よりにもよって言い出しっぺの私がしくじって、その所為で味方を死なせるなんて冗談じゃないわ! だいたい、この程度の雑魚に負けるようなら、この先どうやって旅を続けられるっていうのよ!?)
自分たちの力量が未熟であることはよく理解している。持ち得る個性もバラバラだ。しかしそれを最大限に活かし、全員を勝利へと導くのが己の役目なのだと、エメリーは自認していた。
「舐めんじゃ、ないわよ……ッ!!」
そして彼女の徹底抗戦は、ついに状況解決の糸口を生み出した。粘り続けるエメリーに嫌気が差したか、ほんの一瞬だけ“三眼狼”たちの動きが止まったのである。それも、四体同時の奇跡的なタイミングだ。
(――今ッ!!)
千載一遇。この好機を逃すまいと、エメリーは素早く懐から取り出した丸い物体を、躊躇なく“三眼狼”へ向けて投げつけた。
放物線を描いて飛び、“三眼狼”が群れる中心点で微かな音と共に炸裂したそれは、陽光を受けてキラキラと輝く白い粉を撒き散らす。
エメリーはそこへ“共振杖”の先端を向けると、短く数語を叫んだ。
「――“熱”、“乾”、“爆ぜろ”、≪点火≫ッ!!」
大気中のエーテルを力ある詞によって操り、現象を引き起こす詠唱術。その働きにより微かな煌きが空中に生まれる。
エメリーが唱えたのは基礎中の基礎、火の最下級術である≪点火≫の短縮形。
効果としては、ほんの小さな火種を生み出すだけではあるのだが……。
「リウィア! そのまま歌い続けてね!」
そう叫んだエメリーがコートを広げ、リウィアと自身を庇うようにした直後、爆発音と共に激しい閃光が走った! まともに爆風を喰らった“三眼狼”たちが全身に焦げ目を刻んで吹き飛ぶ。
エメリーが投じたのは、強い可燃性を持つ物質であった。
「きゃ……っ!」
リウィアが小さく悲鳴を上げた。
前もって警告されてはいても、間近で発生した爆音は恐怖心を煽るものだ。
しかし彼女はすぐに気を取り直して歌を再開する。瘴気を打ち払う自分の歌が、皆の生命線であると理解しているために。
「ごめん、――ありがとう!」
怯えながらも懸命に歌い続けるリウィアへ、エメリーは短く礼を告げた。
自分たちの中で一番か弱いリウィアが、必死に役割を果たそうとしている。ならば、ここで自分が奮起せずにどうするのだ。なにより彼女は自分や仲間を信じて、この場を逃げ出さずにいるではないか。
(なら、裏切れるわけがないでしょう、それを!!)
エメリーは“共振杖”を構え直すと、さきほどよりも長い詠唱を開始する。
せっかくもぎ取った絶好のタイミングを逃しはしない。
ここからが本番だ。さあ、空素術士としての本領を見せてやろう。
思うがままにエーテルへ訴えかけ、世界を書き換える能を操る者の力を――!
「――“冷にして乾なりしエーテルへ”、“我は求め訴えたり”、“土よその密と硬とを以て”、“我らを守る壁となれ”――」
要したのは二秒ほど。滑らかな活舌で早回しのように紡がれた詠唱の結び、エメリーは満を持して“共振杖”の引き金を引いた。
「――≪障壁≫ッ!!」
発動詞の完成を以て、エメリーの詠唱術が成立する。
彼女が突き出した“共振杖”の先端、その先にある地面が地響きを立てながら分厚い壁と化して、勢い良く立ち上がったのだ!
土のエーテルに訴えかけ、大地を防御壁として屹立させる術である!
≪障壁≫の生成に巻き込まれ、突き上げられた“三眼狼”たちが空へと吹っ飛ぶのを見て、エメリーはほくそ笑む。どんぴしゃり、狙い通りだ。
無防備な胴体を晒した敵へ、エメリーは攻撃的な視線を向ける。そうして素早く“共振杖”を口に咥えると、腰のポーチへ両手を突っ込んだ。
瞬時に引き抜かれた人差し指と中指には、眩い輝きを放つ小さな鉱石が挟み込まれている。精製したエーテル鉱石だ。
「隙だらけよ……ッ!!」
エメリーはエーテル鉱石を挟んだ指を素早く中空に走らせる。描かれるのは一対の正確な五芒星。白い光の軌跡が結んだ図形が、眩い輝きを放った!
「≪エーテル・アロー≫ッ!!」
その宣言により五芒星が一点に収束。光点と化すと、そのまま“三眼狼”目掛けて高速で射出された! 引き伸ばされた線のような軌跡を一直線に描きつつ、威力ある光点は“三眼狼”のどてっぱらを穿ち、空の彼方へと消えた。
描画術。エメリーが用いるもう一つの空素術だ。詠唱術が言葉によるアプローチならば、描画術は図形描写によるアプローチである。
「もう一丁ッ!!」
光を失った鉱石を放り捨て、新しいものを抜き取ったエメリーは再び五芒星を描き、二発目の≪エーテル・アロー≫を放った。こちらも寸分違わず残りの“三眼狼”のどてっぱらを貫いた。
「まだよッ!」
それだけでは終わらせない。確実なトドメを与えてこそ勝利と言えるのだ。
散々辛酸を舐めさせられた相手に、逆襲をしないままで納得がいくものか。
これまでの鬱憤を晴らすが如く、エメリーは猛々しく新たな詠唱を開始する。
「――“温にして乾なりしエーテルへ”――」
“共振杖”を構え、エメリーは力ある詞を大気へ響かせていく。
「――“我は求め訴えたり”、“其は熱”、“其は光”、“其は雷”、“還流する熱き力よ”――」
これまでで最長の詠唱。エメリーの瞳の奥、渦巻く怒りが解放を求めて荒れ狂っている。それでいて思考はどこまでも冷静に、集中を保ちながら発動詞を組み上げていく。
「――“万物を終焉へと導く力よ”、“轟炎と成りて我が敵を捉え”、“灰塵に帰せ”――」
空素術が組み上がって行くのに合わせ、エメリーの周囲で激しく深紅の閃光が明滅し始める。大気中のエーテルが反応し収束していく際に起きる現象としての輝き、エーテル光だ。
そしてその輝きが頂点に達した所で、エメリーは力の開放を許可する!
「――≪天焼轟炎≫――ッ!!」
引き金が引かれた瞬間、青空を紅蓮の色に染め上げるほどの、凄まじい劫火が吹き上がった!
轟、と大気を焼き焦がしながら広がった炎は一瞬にして“三眼狼”たちを呑み込み、その存在自体を焼却する勢いで蹂躙する。
直撃を喰らった“三眼狼”たちは、為す術もなく全身を炎に抱かれ、撫でられ、見る見るうちに造作を失っていく。やがて地表へと落ちた時、異形の群れは元の形が分からないほどに、無惨な炭の塊と化していた。
これほどの威力を発揮する術を、不用意に草原地帯で使うことはできなかった。そのためわざわざ敵を上空に打ち上げたのだが、結果としては上々である。
「よっしゃあッ!! ざまぁみなさい狼モドキ!! 犬は犬死にするものよ!!」
独力で脅威を打ち破ったエメリーは意気軒昂と、攻撃役に割り振ったレーゲンとヴィルへ振り返る。そこで見たものは――まともに戦っているレーゲンは良いが――ヴィルが未だに“三眼狼”二体と戯れている姿であった。
「ヴィル――ッ!! アンタ、これ以上サボってると後で焼くわよッ!!」
高揚感が激情に転化し、エメリーはキレた。
-§-
「アンタ、こっちが必死こいて戦ってるのにふざけた真似してると本気で怒るわよ!! 昼食も抜くッ!!」
背中に圧を感じるほどの凄まじい怒声。すでにエメリーは最大限に怒っているとしかヴィルには思えなかったが、なにより恐ろしいのは最後の一言であった。
「オァーッ!! そ、それだけは勘弁してください!! 後生ですから!!」
「嫌なら働きなさいッ!! こっちはアンタ信用して任せたんだからッ!!」
戦闘の余波で思考が過熱しているのだろう、皮肉を絡めるではなく普段以上に率直な物言いが飛んだ。そして、そうまで言われたからにはヴィルとしても応えないわけにはいかない。
「……そうですよねえ。なんでもやりますと、約束しましたしね」
省エネでの立ち回りにはやはり限界があり、そもそも結局のところ、敵を倒さねば戦いは終わらないのだ。本音を言えばガス欠が近かったので、なるべく体力を温存しておきたかったのだが、この段に至っては長引かせるだけ損だろう。
「エメリーさんの手も空きましたし、ここいらが仕掛け時でしょう」
ヴィルは肩を竦め、手指を開き、握り。
「それじゃあ、摂取したカロリー分は働くとしましょうか。……動き方のクセも、だいたい覚えましたしね」
ここで初めて、ヴィルは明確な戦意を露わにした。愛嬌のある飄々とした雰囲気は鳴りを潜め、代わりに剃刀のような鋭い気配が滲み出る。
それに触発されたのか、あるいは何らかの危機感を得たのか、二体の“三眼狼”は益々いきり立ってヴィルを睨みつけた。
多少の個体差があるのか、こちらが頭部に内臓している凶器は丸鋸でなく、三本の鋏を重ねたような形の歪な刃だ。“三眼狼”の興奮を反映してか鋏が何度か開閉し、その度に鉄同士が擦れ合う音が鳴る。
「雑な武器ですねえ」
ぽつりと零された侮蔑を引き金とし、二体の“三眼狼”がヴィルに飛び掛かる。それも同時にではなく、左右からわずかな時間差を置いて、である。
「お、考えましたね」
片方を避けても後続が回避先へと攻撃を加えるという、単純だが有効な手段だ。
仮に両方を避けられたとしても大きく移動を強いられる為、体勢が崩れることは免れない。そこに先に仕掛けた側の“三眼狼”が再び攻撃を加えれば、今度は回避自体が困難となる。
かといって逃げ回ることに専念すれば、体力の消耗と時間の浪費を招く。
「そういうところばかり、半端に狼っぽいのは、どうかと思いますがね」
対応を迫られたヴィルは、その場を微動だにせず、悠然と構えていた。
避けようという素振りすら見せない彼女へ、吸い込まれるように一体目の“三眼狼”が三枚刃の鋏を喰らい付かせようとし――
「しかしは所詮、獣知恵……っと」
――無造作に伸ばされたヴィルの掌によって阻まれた。
「おお、危ない危ない」
口ぶりとは裏腹、ヴィルは平然としている。
驚くべきことに彼女は“三眼狼”一体分の体重を片手だけで支え、万力の如き力でその首を掴んでいた。動きを封じられた“三眼狼”が激しく身を捩り逃れようとするが、ヴィルは身動ぎ一つしない。喘ぐように開閉する三枚刃の鋏がガチガチと虚しく空を切る。
「ほい、こっちもいらっしゃい」
二番手の“三眼狼”も同じ運命を辿った。こちらは先の仲間が捕らえられたことを知りつつも、すでに宙へ飛んだ後だったためにどうすることもできず、ヴィルに首元を掴まれるしかなかったのだ。
それでも往生際悪く、二体の異形は拘束を振り解こうと暴れ出すが、
「無駄ですよ。それじゃ、このへんでお別れですねえ」
勝敗はこの時点で決していた。ヴィルの瞳が光を放ち、その表面に微細な文字列を流す。そうして彼女は、己の機能を行使する宣言を発した。
「《武装選択:振動破砕波、起動》」
首元を掴んだヴィルの両掌、そこに不可視の力場が発生する。直後、二体の“三眼狼”は一瞬身体をびくりと震わせると……まるで内側から膨らむように、体内のあらゆるものをぶちまけながら破裂し、粉々に砕け散った!
「……ふぅ、これお腹減るから嫌なんですよねえ。連発もできませんし」
手にこびり付いた残滓を払い落としながら、まるで何事もなかったかのようにヴィルは呟いた。足元に散乱した“三眼狼”の成れの果てはピクリとも動かない。それに無感動な一瞥をくれてから、ヴィルはレーゲンの方を見やった。
「さて、レーゲンさんは……」
ヴィルが視線を向けた先、果たしてレーゲンと“三眼狼”の対決も佳境を迎えていた。
「おりゃあ――ッ!!」
とっくに攻守は逆転し、一方的に攻撃を加えているのはレーゲンの側だった。
果敢な攻め手に“三眼狼”は翻弄され、うち一体は既に胴体を大きく切り裂かれて地に伏している。現在やり合っている方も前足を一本欠いていた。
「おお、さすが。やっぱりレーゲンさんは戦い慣れてますねえ」
実質的な勝負がすでに着いているのは、ヴィルの目にも明らかだった。
それでもなお執念深く、生き残った“三眼狼”が丸鋸を唸らせて襲い掛かるが、レーゲンはそんな苦し紛れの一撃を喰らうほど愚かではない。
「隙有りッ!! てやぁ――ッ!!」
反撃を難なく回避した彼女は、交差際に素早く銀閃を走らせた。“三眼狼”の首が刎ね飛ぶ。泣き別れとなった胴体が大地へと激突し、激しい衝突音を響かせた後、完全に動きを止めた。
最後の一体が撃破され、ようやく草原の上に静寂が戻る。戦闘が終了したのだ。
-§-
「……ふぅ。結局、私がドンケツになっちゃったか、まだまだだなぁ」
レーゲンは嘆息を零しつつ周囲に点在する亡骸を数え、その数が間違いなく――四体は炭化し、二体は粉々に砕けているが――八体分であることを確かめると、頷いた。
「……ともかく、これで全部倒した、と」
そうしてからリウィアへと顔を向け、言う。
「それじゃ、リウィア。最後の仕上げ、よろしく!」
リウィアは微笑みを湛え、レーゲンへ頷き返すと、何巡目かになる≪整調≫の歌を再び初めから紡ぎ出した。
≪――風は満ち 土は在り 水は流れ 火は巡る≫
≪――あらゆるもの エーテルの理よ 示し 支え 循環し≫
≪――土から生まれ 水を経て風へ やがて火へと行きつき≫
≪――始まりより終わりへ 終わりより始まりへ 生と死を結び≫
≪――止まり 流れ 薄らぎ 終焉へ そう至るべし≫
≪――あらゆるもの エーテルの理よ そうあれかし≫
≪――変転の理よ 不動の理よ 永久に 永久に≫
ここまでは同じ。そこへ更に、リウィアはもう一節を付け加えて朗じた。
≪――そして淀みは ここに清められ 理の中へと還る≫
一言一句を確かめるように囁かれた一節が結ばれた時、彼女らの周囲に散らばっていた“三眼狼”の亡骸に劇的な変化が起きた。それらは端から解けるように分解されていくと、最初からなにもそこにはなかったかのように消滅したのだ。
〈骸機獣〉としての身体がエーテルへと還元されたのである。
「放っておいてもそのうち消えるけど、こうした方が後腐れもないし、なにより安全だしね。ありがと、リウィア」
「……ふぅ。いえ、どういたしまして。お役に立てたのなら良かったです」
リウィアは一息を吐くと、ようやく安堵の表情を浮かべた。
頬は紅潮し、髪も汗によって肌に張り付いてはいるが、怪我を負った様子はない。彼女は仲間達を見回して、これ以上嬉しいことはないとばかりに目を細めた。
「皆さんにも怪我がなくて、本当に良かったです。私を守ってくれて、有難う御座います……!」
リウィアは仲間たちへそれぞれ深々とお辞儀を送っていく。
対して、レーゲンはどこか決まり悪そうに頬を掻いた。敵を排除することに急いていながら、仲間の様子にどうにも気がいってしまい、却って一番最後になったことを気にしているのだ。
「いやあ……、私はあんまり役に立ってないかなあ……。リウィアが頑張ってくれたおかげだよ」
「そんな、レーゲンさんだって二体も倒してるのに。十分凄いですよ!」
「あはは、ありがと。まぁでも、今回に関しては……」
言いつつ、レーゲンは肩で息をしているエメリーを見た。彼女の顔は汗まみれで、髪の毛もぼさぼさになっていたが、強い達成感に満ちていた。
「一番働いたのはエメリーだしね。というか、……いや、ほんと凄いね? よくひとりで四体も倒したね、エメリー」
「はぁ……はぁ……、と、当然よ……」
感心した表情のレーゲンに水を向けられ、エメリーは口元に強い笑みを作る。レンズの奥、眩いばかりの自負の光が彼女の瞳に輝いた。
「鍛え方が、違うのよ……! あれくらい、できなきゃ……!」
傲岸不遜ともとれる返事に、レーゲンは素直に頷いた。
「流石は未来の筆頭術士。世界中にエメリーの名前が轟くのも、そう遠くない日のことかもね」
「……フン、気分良いわね、それ。もっと言いなさい」
賞賛にも満更でない様子。基本的に自尊心を擽られるのが弱い性質なのだ。とは言え、彼女のそんな性格が窮地を乗り切る大きな要因になった以上、揶揄をするのも憚られるというもの。
(……というか、エメリーって典型的な即興派だもんなあ。咄嗟の機転は利くし、窮地になるほど粘り強いんだけど、その分わりと裏目を掻かれるというか)
まあ、長所と短所は表裏一体。それに、乗ってるときの彼女は強い。エメリーのそういう部分を、レーゲンは好意的に捉えていた。
「本当、凄い術でしたね! ちょっと驚きましたけど、やっぱりエメリーさんは本当に凄いです! ≪障壁≫をあんな使い方するなんて、思いもしませんでした! 描画術の描き方も決まってて、それにそれに、あれだけ沢山の魔導具を使って混乱しないなんて……!」
リウィアなどは目を輝かせながら、すっかり興奮した様子で熱っぽく捲し立てる。出会って以来、どうも彼女はエメリーに対してやたらと大きな尊敬を抱いているらしかった。
一方、彼女自身「褒められたものでない」と考える立ち回りを手放しで褒められるのは流石に気恥ずかしかったらしく、運動由来のそれとは別種の熱に頬を染めたエメリーは「分かった分かった」とばかり手を振りながら背を向けた。
「……さて、と。それじゃ、後始末を済ませて報酬確認といきましょうか、ね」
エメリーは“三眼狼”たちが消えた場所でしゃがみ込むと、じっくりと目を凝らし、草原の中から何かを見出そうとし始めた。
「えっと……まあ、小型だしあんまり量は期待できないけど……! あった!」
数秒後、目的の物を探り出したエメリーは、指先で摘まんだそれを掲げた。
「……エーテル結晶。しょっぱいにもほどがあるけど、ないよりはマシね」
戦いの報酬と言うにはあまりにささやかな小指大のそれは、〈骸機獣〉の残滓とも呼べるものだ。反エーテル的存在である〈骸機獣〉が整調される際、大気に還元されなかった余剰分のエーテルが結晶体として残ることがあるのだ。
「エメリー、それ、お金になりそう?」
レーゲンの問いにエメリーはやや渋い顔。
エーテル結晶は高純度のエネルギー体であり、燃料や触媒などに利用できるため、集めて国家公認の回収業者に渡すことで換金が可能である。
場合によってはそれだけで一財産作れる程度の儲けにもなる、……のだが。
「……この大きさと純度だと、良くて昼一食分くらいかしらね」
「だよねー。世の中そんなに甘くない、か」
レーゲンは肩を落とした。とはいえ金銭目当てで戦ったわけではないのだから、最初から期待などしていない。あくまで余禄だ。そもそも彼女にとっての報酬とは、仲間たちが全員無事でいることである。
「甘くないどころか、渋すぎるくらいね……」
ただ、エメリーは悔しさを隠せないようだった。
「今の戦闘で手持ちの魔導具がほとんど底を突いちゃったのよ。だから早急に補充しないといけないんだけど、この結晶を全部売ったところで使い捨ての粗悪品すら買えないだろうし。アンタは知らないだろうけど、魔導具ってすごく高いのよ?」
「良いじゃないですか、一食分でも浮くなら」
と、そこにフラフラと寄ってきて口を挟んだのはヴィルであった。
「それだけ次の食事を豪華に出来ますよ? 使った分のカロリーを取り戻すのに使いましょうよ、それ。いやあ、今から夢が膨らみますね。首都に着いたら、きっとさぞかし美味しいものがたくさん……」
「却下」
エメリーは冷酷に断じた。ヴィルが泣き声を上げる。
「そんな殺生な!!」
「アンタの食欲に一々付き合ってたらキリがないのよ! 大体、途中までサボってたアンタに決定権はない! これは共用の財布に入れるから!」
「ちょっとだけ!! ちょっとだけで良いですからお情けを!!」
「アンタそれを自分で言ってて情けなくないの!?」
やいのやいのと、緊張感のないやり取りを始めた二人にレーゲンは苦笑。ふと見れば、リウィアも普段の困ったような笑みを浮かべている。レーゲンの視線に気が付いたリウィアは、首を傾げて言った。
「本当に、皆さん無事で良かったですね」
彼女はさらに続ける。それが何よりも嬉しいのだ、と心から示すように。
「またこうして他愛もないお喋りができて、皆で旅が出来るんですから」
「……そうだね」
まったくもってその通りだ。奇妙な切っ掛けで集った四人が、バラバラの個性を持ち寄ることで組み上がった一党。レーゲンにとってそれは既に馴染み、心地の良いものだった。
故にもしもここから誰か一人が欠けてしまえば、心ごと削り取られるような寂しさと喪失感を味わうに違いない。旅を続けるかどうかというモチベーションにさえ、あるいは、関わってくるかも知れないのだ。
だからこそ。レーゲンは共に苦境を乗り越えた仲間達へ、満面の笑みを浮かべて言った。
「ともかく……。お疲れ、皆!」
ここに彼女たちの遭遇戦は終わりを迎えた。
誰ひとりとして欠けることなく、勝利という結果を示して。
-§-
そして。空の上から顛末を見届けていた輸送飛行船内の軍人たちは、皆、呆けたようになっていた。
「……勝っちゃいましたね、あの子たち」
「……勝ったな。しかも、誰ひとり、死ぬこともなく」
実際に自分の目で確認しておきながらいまだに信じられない。眼下に繰り広げられた攻防の結末は、予想を完全に裏切る形で終息したのだ。
普通ならば考えられないことだ。〈骸機獣〉との戦いは正規の訓練を受けた兵士であっても危険が伴う難事である。
一対一で戦い五体満足で勝てるような人間は、それこそ〈ゲルプ騎士団〉や〈巡回騎士隊〉といった部隊に籍を置く強者たちに限られるはずだ。
ましてや、あの少女たちが相手取ったのはそれぞれ二体ずつ。控えめに評しても、並大抵の技量ではない。
さらに“空素術士”と思しきロングコートの少女に至っては、ひとりで四体もの〈骸機獣〉を撃破しているのだから、とんでもない。
特に印象的なのは、彼女が最後に見せた空素術だ。
かなり離れた位置に浮かぶこちらの飛行船まで衝撃が伝わるほどに巨大な爆炎を生み出したあれは、子供が使えるレベルを遥かに超えた代物だ。
「……夢でも、見てたってのか? 俺たちは」
中年曹長は頭を振りながら呟いた。
なにより信じられないのは、薄青髪の少女がほぼ完全な形でのエーテル整調を成し遂げたことである。あんなことが可能なのは、中年曹長の知る限り軍属の高等級“空素術士”だけだ。
あれ程の才能をもつ人材が、何故こんな場所で旅行士などやっているのか? なにもかも意味不明だ。常識を外れている。
「……それとも、時代は変わったってのか?」
全身から力が抜けていくような感覚。
それは自分の不安が結局空回りに終わったことへの虚脱感もあるが、どちらかと言えば安堵の方が強い。
なにせ、目の前で年若い少女たちの無惨な死を見ずに済んだのだ。経緯はともかく、それは喜ばしい事実に違いないのだから。
「……ああ、そうかい。もう、十八年前とは違うんだな」
中年曹長は腹の底から込み上げてくる笑いを、堪えるようなことはせずに素直に解き放った。それに釣られて他の兵士たちも喝采を上げる。歓声が響く左舷観測室内の誰もが、少女たちの無事を心から喜んでいた。
「ともかく、だ。とりあえずは、メデタシという――」
そこまで言いかけ、中年曹長は一つ思い出した。
そう言えば、自分はさきほど、なんと言った? 上官に暴言を吐いてまで、なにを首都から呼び寄せた?
思わず腕時計を覗き込むと、数分以上が経過していた。既に彼らは支度を追えて出撃した後だろう。今から状況の終了を報告したところで、手遅れだ。
「……マルトリッツ上等兵」
「は、如何致しましたか、曹長殿」
すっかり不安を晴らしたとばかり明るい表情を浮かべた若い兵士へ、中年曹長は疲れたような、しかしある意味では吹っ切れたような表情でこう言った。
「……辞表の書き方って、お前、知ってるか?」
「……は?」
若い兵士は、この日一番の惚けた顔になった。
-§-
捕捉1:描画術士。エーテルに対して図形や記号を用いたアプローチを試みる者。触媒となるエーテル鉱石を用いて特定の図形を描画し、それを発動詞代わりとして空素術を行使するのが一般的な方式。類似する例として、西洋諸国では更に複雑な紋章を用いることで効力と持続性を向上させた紋章術士や、極東の島国である〈菊花皇国〉で独自の進化を遂げた「印」と呼ばれる特殊な図形描画を元に不可思議な術を行使する陰陽師など、いくつかの亜流が存在する。
捕捉2:エーテル結晶。読んで字のごとく、エーテルが固体化して結晶体の形を取ったもの。基本的には鉱床から産出される原石を精製するか、エーテルを宿す物質から何らかの形で抽出することで得る。燃料の他、空素術の触媒としても有用であり、非常に高いエネルギー変換効率を持つ。