シーン14:希望と共に握り締めて
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――眠れない。
灯りの消された室内を、自分以外の寝息が満たしている。
すうすうと規則正しいリズムを刻む呼気の連なりを傍に聞きながら、しかしレーゲンはただ一人、まんじりともできずにいた。
もちろん眠るための努力は試みた。
羊の数を数えてみたり、腹式呼吸を試してみたり。
けれど頭の中でひしめく羊の群れの規模は、息を吸っては吐くごとに膨れ上がっていくばかりで、そのうち鳴き声を上げて駆け回り出す始末。
(……だああっ!! 余計に寝られないっ!!)
突如始まった羊たちの大運動会。そんな愉快で騒々しいイメージを振り払おうと、レーゲンはベッドの中でモゾモゾと寝返りを繰り返す。
(疲れてるはずなんだけどな。結局、ずっとヴィルに付き合ってたから)
うつ伏せになって、深い深い溜息を吐く。
全身を包み込む適度な倦怠感。すでに日もとっぷりと暮れている。
元来寝つきの良いレーゲンとしては、とっくに寝入ってしかるべき状況だ。
床に就いて大人しく数秒を数えれば、あっさり睡魔に誘われるはずの自分が、しかしどういうわけか今夜に限って妙に目が冴えてしまっているのである。
……否。どういうわけかは、とっくに分かっているのだ。
思い返すのはホテルに帰ってきてからエメリーに告げられた情報の数々。
レーゲンたちが向き合わなければならない、いくつもの苦い現実だった。
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「――昼間、イーリスさんと会ったわ」
その唐突な報告がエメリーから齎されたとき、レーゲンは驚きのあまり思わず「ふぇっ!?」などと呆けた声をあげてしまった。
……謎多き虎柄コートの女性との邂逅から数時間後。
一向に食欲の衰えないヴィルに彼方此方と引きずり回された挙句、とうとう夕方近くになってからようやくホテルに帰り着いたレーゲンを待ち受けていたのは、鬼の形相を浮かべたエメリーと開口一番の「遅い!」という怒声であった。
そのままヴィル共々説教を喰らい、今度こそ四人揃って夕食を摂り、慌ただしく入浴を済ませ、各々で抱えた荷物や装備品の整理を終えて。
さて、後はもう寝るだけという段になってからの、件の発言である。
「え、いつの間に……? 私、そのこと知らないです……」
「あなたがアイスの列に並んでるとき、向こうから接触してきたのよ」
「……そういえば、誰かと話してるな、とは思ったんですけど」
「黙っててごめんね、リウィア。私の方も、考えを纏めてて」
「……いえ。エメリーさんは必要ならちゃんと話してくれるって信じてますから。それが今になったってだけですし、気にしてません」
はにかむリウィアに、エメリーは眉根を下げて「ありがと」と返す。
そこにヴィルが茶々を入れてくる。彼女は実に悔しそうな顔で、
「ほほう、アイスですか。そういえば旧市街の広場に、地元で人気の屋台が出てるんでしたね。ぬぐぐ、食べ逃しましたか。この私ともあろうものが」
「ヴィルはちょっと黙ってて。……エメリー。イーリスさんって、あの?」
レーゲンがヴィルを制して問うと、エメリーは頷いた。
イーリス。その名を聞いて思い浮かぶのは、長大な“共振杖”を振りかざし、強烈な雷撃術を自在に操る、小柄な空素術士の勇ましい姿だった。
「そっか。私もちゃんと、お礼言いたかったな……」
ともあれ、元気なら何よりだ。そう暢気に考えていたレーゲンの顔は、エメリーが語り始めた内容を聞いていくにつれ、徐々に強張っていく。
「未整調地帯……、か……。話には聞いてたけど……」
「一応言っておくけど、首を突っ込みに行くのはナシだからね」
「わかってるよ。さすがに私もそんなに命知らずじゃない。……だいいち、私たちみたいな素人がしゃしゃり出ても、邪魔するだけなのは目に見えてるし」
もちろん、人々に害為す脅威に手出しできない状況は歯痒かった。
けれども、そういった想いは前線に立つ騎士たちも同じはずなのだ。
なにより素人の集まりが領分を弁えず本職と同じ土俵に立てると思うことそれ自体が傲慢であり、現場で血と汗を絞り出す誇り高き騎士たちへの侮辱であろう。
「この前みたいなことはさ、やっぱり例外だよ」
故に。胸の奥で渦巻く苦さを感じつつ、レーゲンはエメリーが提示した「南側のルートは絶対に避ける」という意見を素直に受け入れた。
そもそも大前提として、自分はまだまだ未熟なのだ。
殻を破った雛鳥がようやく羽撃き方を覚えた程度が関の山。
そんな状態で断崖絶壁に身を躍らせて、自由自在に空を飛び回れると無邪気に信じられるほど、レーゲンは愚かでもなかった。自信と増長は別である。
そうして進路選択の件はここで決着したのだが――
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(――もう一個、考えなきゃいけないこともできちゃって……)
その件について、いちおう仲間内での話し合いは済んでいた。
それでも、本当にあれで良かったのかという疑問は拭えないまま、モヤモヤとした霞めいて胸中にわだかまり続けていて。
(……うじうじしてんなあ、私。大事なのはあの子がどうしたいか、なのに)
結局のところ今の自分は、すでに決定した事項をしつこく捏ね繰り回しているだけなのだ。そのうえ議題の当事者ですらないにも関わらず、である。
余計なお世話もここまでくると笑えない。人並み以上にお節介な性質だと自覚はしているが、今回ばかりは根が入り過ぎているとも思う。
ぐるぐる。渦巻く思考に没頭していると、気分はいっそう悶々としてきて。
(……寝よう。とにかく寝ちゃった方がいい。明日になれば忘れてるはず)
そう願いながら、もう一度寝返りを打つ。続けて二度、三度。そうしていると、ますます眠気が頭の外へ追いやられていくようで。
(……ぬぁあッ! 駄目だこりゃ!)
がばりとシーツを跳ね上げてレーゲンは起き上がる。
このまま横になっていても、おそらく眠ることはできない。
ならばいっそ起きていれば、そのうち自然と眠くなるのではないか。
そう結論したレーゲンは音を立てずにベッドから降り、仲間たちを起こさぬよう静かに寝間着から普段着に着替えると、玄関に向かって歩き出す。
「……おや、お出かけですか?」
「うん。ちょっと寝付けなくて」
「ふむん、珍しいですね。子守唄でも歌いましょうか」
「あはは、遠慮しとく。適当にホテルの中、うろついてくるよ」
「ですか。……どうせなら私もお供しましょうか?」
「ん、ごめん。一人がいいな。エメリーたちのこと、見といてくれる?」
「ほいほい、了解です。あんまり遅くならないよう、お気を付けて」
相変わらず壁際を定位置にしているヴィルと小声でそんな会話を交わしつつ。笑顔で手を振るヴィルに見送られて、レーゲンは部屋を出た。
「……さて、と。どうしよっかな」
背後でドアの閉まる音を聞きつつ、溜息混じりに独り言ちる。
とりあえず部屋の外に出てはみたものの、どこか行く当てがあるわけでもない。
夜更けのホテルは静寂に包まれていた。遠くからかすかに響いてくる足音と車輪が転がる音は、従業員がなにか作業をしているためだろうか。
皓々と照明に照らされた廊下にレーゲン以外の人影は皆無。
そもそも施設の大半が閉まっているのだから当然だが、昼間はあれだけ賑わっていた場の印象がこうも様変わりするのは、なんとも奇妙な光景だった。
寂しいような、その一方で、妙にワクワクするような。
そのくせ目的がないのが、どうにも手持ち無沙汰な気分である。
と、なれば。これから行うのは文字通り、無計画な徘徊になるわけで。
(……それやったら完全に不審者だなあ)
だからといって咎められはしないだろうが、ただでさえ一般客の中に紛れ込んだ旅行士という闖入者が、これ以上悪目立ちするのも気が引ける。
どうしたものかと再び悩みつつ視線を彷徨わせていたレーゲンは、ふと廊下の壁に張り出されたポスターに目を留めた。そこに書かれた内容は、
(へえ。上の階に展望台があるんだ)
どうやら宿泊者限定で展望台が解放されているらしい。
軽食や飲み物が提供されるラウンジも併設されているようで、こちらは日付けを跨いでもしばらくは営業しているとのことだった。
(……いいかも。そこなら長居しても不自然じゃないだろうし)
眠れぬ夜を過ごすにはうってつけに思えた。旅の締めくくりに首都の夜景を眺めるというのも悪くない。どころか、むしろ抒情的ですらある。
なんとなく口寂しい気分もあり、レーゲンはこれ幸いと足を向けることにした。
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そして、辿り着いて早々に後悔する羽目になった。
(ば、場違いすぎる……! 他の人たち、スーツやドレスじゃん……!)
ちょっと豪華な酒場くらいのものだろう。そんなレーゲンの甘い予想を裏切り、展望台中はフォーマルな雰囲気に満ち満ちていた。
飛び交う会話の内容も、小難しい専門用語とやたらに桁の大きな数字が飛び交うばかりで、傍で聞いているレーゲンにはちんぷんかんぷんである。
翻ってグラスを片手に談笑する人々は正装に身を包み、目も眩まんばかりの煌びやかで華やかな空気の中で、いたって自然体な風に過ごしているのだ。
対してレーゲンの格好は普段通りの空色パーカー。
どこからどう見ても、まるっきり子供の服装だった。
さすがに武器類は部屋に預けてきたため、入り口で阻まれこそしなかったものの、係員の表情は言下に「引き返した方がいい」と告げており、
(そこで意地張んなきゃよかったなあ……!!)
あの態度は侮りではなく、むしろ気遣いだったのだと思い当たっても、こうなってはもはや後の祭りである。いまやレーゲンはラウンジ席の隅っこに逃げ込み、周囲の訝し気な視線を浴びながら、リンゴジュースを片手に身を縮こまらせていた。
「……これ飲んだら、帰ろっかなあ」
窓の外を眺めながら、ぼんやりとそう呟く。リンゴジュースの瑞々しい香りと甘さが、却って居た堪れなさを助長した。ついでに値段も随分と高かった。
「眺めは抜群なんだけどなあ」
実際、景色の素晴らしさだけが、今のレーゲンにとっては唯一の救いだった。
磨き上げられた窓ガラスを通して観る“ゲルプ”の夜景は、昼間の賑やかな雰囲気とは打って変わって、底知れない威圧感を醸し出している。
規則正しく敷き詰められた家々の陰影が作り出す稜線が見渡す限りに広がるその中心部、威風堂々と天を貫いてそそり立つ王城の威容は、まさに闇夜に沈み込む山脈を思わせるような雄大さで圧倒的な存在感を発し。
その谷間にぽつぽつと灯る街明かりは、地上に現れた星空のようで。
「……すっごいなあ」
無意識に惚けた声が零れる。
広い。そして厚い。この一ヶ月の間に駆け巡った街並みは、しかしこの都市全体からすれば、ほんの一部に過ぎなかったのだと再認識せざるを得なかった。
人類の叡智が造り上げた営みの集合体。これが都市というものなのだと、その力強さをレーゲンは改めて思い知らされていた。なによりこんな巨大な構造物が、この広い世界にはまだまだ幾つも存在するのだと考えると、眩暈を覚えるようで。
けれど。その偉大さを目の当たりにしてなお、レーゲンの目は自然とその上空へと惹かれていた。遮るもののない夜空と、数多瞬く本物の星々へと。
どれだけ“ゲルプ”が大きくとも、空の広がりは正真正銘の無制限だ。
物心付いた時から、空を眺めるのが好きだった。
薄暮に染まる黎明の空が、透き通る真昼の青空が、深い瑠璃色の夜空と星々の瞬きが。季節と時刻に合わせ、様々に移り変わる色彩を愛した。
その果てしなさが。限りのなさが。
胸の奥を熱くさせる。鼓動を高鳴らせる。
風はどこから来て、どこまで流れていくのか。今、星の海を駆ける夜風の視点は、きっと地上から見渡すより遥かに素晴らしい世界を眺めているのだろう。
想像力が及ぶ限り、その旅路はいつまでも続く。レーゲンの心を故郷の外へ連れ出したのは、結局のところそんな想いだった。抑えきれない渇望だった。
だから、これからもずっと。己が力の敵う限り、己が心の折れぬ限り。命運が逆境に打ち負かされぬ限り、旅を続けていきたいと、そう願っているのだが。
「……楽しいばかりの明日じゃ、ないんだもんな」
嘆息。脳裏に描く想像の翼が、急激に萎んで色褪せていく。
荒野を進めば必ず小石に躓いて足を挫く日が来るものだ。
あるいは市井で生きるにしろ面倒事をすべて避けられはせず、今回もその類が目の前に現れたというそれだけ。生きていれば当たり前のことだ。
が、そんな当たり前が、どうにも呑み込み難かった。
(贅沢というか、……やっぱ能天気なんだろうな、私。何かを望んで、楽観して、突き進んで。そうして壁にぶち当たってから文句を言ってんだからさ)
思考の隅に焦げ付いたそんな苦みが、今宵の寝つきを悪くしていた。あるいはそんな「明日」を迎えるのを躊躇って、今日の終わりを引き延ばそうと本能が悪足掻きしているのか。レーゲンはそう考えて苦笑した。
「こんなんじゃ駄目だぞ。しっかりしろ、レーゲン・アーヴェント」
分かっていたはずではないか。都合の良い出来事ばかりではないのだと。
むしろ理不尽と不条理の集合体こそがこの世界のあるべき姿で、だからこそ諦念に抗いたくて自分はこの旅に挑んだのではなかったか。
初心忘るべからず。レーゲンは意気を取り戻そうと額を拳で叩く。
けれども弱気は追い出せず。これはまだまだ掛かりそうだぞと、長い夜を覚悟したレーゲンが追加注文を取るため、手を上げようとした時に。
「――すみません。こちらに紅茶をひとつ、アールグレイをポットで。それと、あればでいいんですが、イチゴのジャムを小皿で添えてください」
不意に背後から発せられた声に、レーゲンは思わずそちらを振り返った。そこに居たのは普段着からコートとポーチ類を外した格好の、
「エメリー。……あの、なんでここに居るの?」
「部屋をこっそり抜け出したの、気付かないとでも思った?」
フン、と。鼻を鳴らして言いながら、エメリーが隣の席に腰を下ろす。
迷いも竦みもない淑やかな所作だった。よくよく見れば身嗜みはきっちりと整えられ、髪にも丁寧に櫛が入れられている。
少なくとも寝起きそのまま抜け出してきた雰囲気ではない。
「……もしかして、起きてた? てか、追いかけてきたの?」
よくここが分かったね。そう疑問すると、エメリーは肩を竦めて、
「アンタは寝付けなかった。だから暇潰しに外に出た。けれど行く当てがなくて、ふと壁を見たら、展望台への案内が目についた。そのまま深い考えもなく、普段着でのこのこやってきて、雰囲気に圧倒されて隅に縮こまる羽目になった」
すらすらと述べ立てられ、レーゲンは仰け反った。何から何まで行動を予測されていたのだ。とすれば、部屋を出る瞬間から見られていたのだろう。ならば。
「エメリーも、眠れなかったんだ。あれ、じゃあリウィアは?」
「あの子はすっかり寝入ってたわよ。無理に起こすのも可哀想だから、ヴィルに留守番を任せてきたわ。だから今夜、ここに来れるのは私だけ」
つまり。エメリーは不敵に笑い、レーゲンを真っ直ぐ見据え。
「私とアンタでサシよ。……どうせ、明日からのことで、らしくもなく悩んでたんでしょ。ちょうどいい機会だから、思う存分に言いたいことを言い合いましょう」
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他人に聞かせたくない話は誰にでもあるものだ。故にラウンジ席には壁と扉で区切られた個室スペースがいくつか用意されている。
レーゲンたちはせっかくならとそちらに移動することにした。
「思ったより広いんだね。……わ! エメリー! このソファ、ふかふかだよ!」
「はしゃぎすぎでしょアンタ。お上りさん丸出しでみっともないから止しなさい」
最初の数分間は当たり障りのない会話に終始した。昼間、それぞれに見てきたものや、食べてきたもの。そんな想い出話で二人は文字通りお茶を濁した。
なんだかんだと楽しい休暇を過ごしたのはお互いに共通していたようで、時には屈託のない笑い声も出るほど、終始和やかな雰囲気で会話は弾んだ。
「……アンタ、本当に骨の髄から、余計なトラブルを招き込む体質なのね」
ただ、虎柄コートの怪人物に絡まれたという話をレーゲンがした時だけは、エメリーの顔が険しくなった。エメリーは深々とした溜息を吐いて、
「あのね、レーゲン。そういう情報は、もっと早く共有してちょうだい」
「ごめん。後で言おうと思ってたんだけど、タイミングを外しちゃって」
「アンタがそういうところあるの忘れてたわ。今日は私も人のこと言えないけど。……で? その人、所属や姓名は一切名乗らなかったのよね?」
「うん。秘密なんだって。でも、たぶん、とんでもなく強いよ」
「厄介な相手に目を付けられたか。まったく、頭の痛いことばかりね」
とりあえず件の奇人について、彼女の正体などを推測するようなことは差し控え、対応についても保留ということで話は決着した。
それからほどなくしてエメリーに紅茶が運ばれてきてからが本番だった。
「……リウィアのこと、なんだけどさ」
恐る恐ると。口火を切ったのはレーゲンからだった。
対するエメリーは紅茶を一口含み、満足気に頷いた後に視線をレーゲンへ向ける。レンズの奥の眇めた瞳に刺すような光が宿っていた。
その鋭さを意識しながら、レーゲンは重ねて言葉を放つ。
「――イーリスさんが言ってたこと、本当なのかな」
「少なくとも、あの人が語ったのは事実だけでしょうね」
明かしていない情報も当然ながらあるだろう。が、口にした言葉に嘘や誤魔化しは潜んでいない。エメリーはそう判断しているようだった。
「アンタの話に出てきた女性が語ったことと合わせて裏付けも取れたし。イーリスさん、だいぶ踏み込んだところまで話してくれてたのね」
嘆息。カップの中で揺れる紅玉色の水面を見つめながら、エメリーが呟く。
「……常軌を逸した天才。あの人は、そうリウィアを評したわ」
エメリーは当時の会話を思い出していた。
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「――名前を出しただけでその反応。やっぱりあの子、ただモンじゃないな」
その言葉だけでエメリーは己の失敗を悟った。
咄嗟に装った無表情も遅きに失した。すでにイーリスはこちらの些細な反応から、得るべき情報を盗み取っているに違いない。
だから。せめてもの反撃とばかりに眦を鋭く睨み返し、
「それが本題ですか。わざわざ話しかけてきたのも、あの子のことを探るために」
「おいおい、人聞きの悪い言い方すんなよ。だが、……否定はできねぇな」
「言っておきますが、リウィアの事情を無遠慮に根掘り葉掘り聞き出そうっていうなら、あなた相手でも私は容赦するつもりはないですよ」
剣呑な雰囲気が立ち込め、双方の視線が火花を散らす。
まさに一触即発の空気を、しかし和らげたのはイーリスの方だった。
「お前さ。ツンケンした態度のわりに、根っこのところは友達想いだよな」
「――は、はあぁッ!?」
予想外の角度から打ち込まれ、エメリーの精神的な防壁に亀裂が走る。イーリスはその隙を逃さなかった。彼女はニヤリと好戦的な笑みを浮かべ、
「アタシがお前を一番気に入ってるのは、実はそういうところなんだよ。で、そういうアツい奴にアタシは、できるだけ力を貸してやりたい――」
イーリスは一呼吸分の溜めを作ってから、続く言葉を送った。
「――率直に、マジで言うぜ。アタシはお前たちの味方だ。軍人である前に、騎士として。それ以上にイーリス・アーベライン個人として。お前たちがこの国と民に仇為すことのない限り、アタシは全面的な意味で、お前たちを護るつもりでいる」
ざっくばらんな物言いで為されたそれは紛れもない宣誓だった。しかも並大抵ではない熱意の込められた。エメリーはしばし、向けられた想いの強さに面食らい、ややあってから口を開く。舌の上で転がす言葉の温度を確かめるように、
「……どうして、そこまでしてくれるんですか?」
「惚れた男の命を救われた。女にとって、それ以上の恩があるか?」
返答は即座にして率直だった。エメリーの頬が瞬時に紅く染まる。
「……私には、わからない理屈ですよ、それ」
「ははは! わかると人生に深味が増すぜ。甘ったるいだけじゃねぇがな」
「……んんっ!! と、ともかく!!」
主導権を取り返すように、エメリーは強めの咳払いをしてから言う。
「わかりました。私は“個人的に”あなたのことを信用します」
「ん、それで十分さ。それを踏まえた上で、聞いてくれ」
一息を挟んでから、イーリスは語り始める。
「アタシの知り合いに、治療術と浄化術の専門家がいる。贔屓目を差っ引いても、この国で右に出るものはまずいないってくらいの、卓越した術士だ。
だがな。そんな人でも〈骸機獣〉が出現するほど澱んだエーテルを完全にきれいさっぱり整調するってのは、下手すりゃあ一日仕事になる。
それにそもそもエーテルってのは、性質的に常に流動するもんだ。水や風の流れに乗ることでな。そんな不確かな代物を、結界で範囲を区切ったり基準点すら置かず、ただ歌うだけで完璧に操る。どころか属性まで自在に偏らせる――」
脱帽だ、と。イーリスは頭を掻きながら呟いた。
「――ハッキリ言って、常軌を逸してる。専門家が見たらひっくり返るよ。下手すりゃあ整調術という分野の概念そのものがひっくり返りかねない。……あの子はな、天才だよ。たぶん、今の時代には二人といないレベルの、な」
そして、と。イーリスは眉根を寄せた険しい顔で、こう続けた。
「だからこそ中央軍や騎士団は、あの子の素性や目的を躍起になって探ってる。その上で、どうにか自分たちの陣営に引き込めないかと画策している――」
エメリーの目が見開かれた。つまり、それは。
「――今後、確実に。お前たちの旅は誰かに干渉されることになる。軍がお前らを拘束しようとした理由もそれだとアタシは睨んでる。実際、連中はまさに喉から手が出るほど、リウィアみたいな才能を欲しがってるはずだ」
「……だから最悪の場合、身柄を強引に抑えられるかもしれない、と?」
「難癖を付ければ理由はいくらでも作れるからな。もちろんアタシはンなことぁ赦さねぇ。騎士団の連中も誇りにかけて手荒な真似はしないはずだ。が、例えば他の陣営は、そこまでお行儀が良くないだろう。法外な手段に出る可能性がある」
だから、と。イーリスは真剣な眼差しを向けて、言った。
「与せず、委ねず。お前たちがこれから旅を続けるうえで、誰かの思惑よりも自由を尊ぶなら。いざって時に自分を貫く理由を定めておいた方がいい」
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「…リウィアの力が求められる理由は、ひとつしかないのよ」
眉間に深い溝を刻んだエメリーが、吐き捨てるように言う。
「なにせ、あの子の歌があれば……」
「未整調地帯の解放も夢じゃない、って?」
続く言葉を先に答えられ、エメリーが半目になる。
「そうね。アンタでも想像付くようなこと、軍や政府のお偉方が考えないはずもないわ。そしてその考えは、きっと『正しい』。世のため人のため。多くの命を救い、莫大な利益を生み出す、奇跡のような一手になり得るかもしれない」
そう。リウィアの≪整調≫が瘴気の除去目的において劇的な効果を発揮することは、他でもないレーゲンたちが旅の中で証明してきた。
ならば。仮にその威力が正規軍の指揮下で効率的に運用された場合、極めて広範囲の汚染領域を整調することも不可能ではないだろう。そして、かつて〈黎明の翼〉だけが成し得た『未整調地帯の消滅』という偉業が再現されれば――
「――リウィアには文字通り、戦略兵器級の価値が付与される。英雄か聖女か、呼び方なんてわからないけど、きっと国賓級の待遇を受けることになるでしょうね」
地位も、名誉も、ありとあらゆる贅沢も。
そうなればきっと、彼女は手に入れる。
万人が羨む恵まれた暮らしが与えられるのだ。
それは草木に紛れて野宿したり、川で身体と衣服を洗ったり、野山で食料を調達するような野卑な生活とは比べるのも烏滸がましい、安寧で芳醇な日々だろう。
「けれど、その代わり。あの子は一切の自由を奪われる。待っているのは道具としての一生だわ。都合のいい時だけ駆り出されて、地獄の真っ只中に容赦なく放り込まれて、用が済めば籠の中に閉じ込められる……ッ」
皮肉るようだったエメリーの語調が徐々に熱を帯びていく。
エメリーは怒っていた。氷壁の如き表情の奥に、沸き立つ溶岩を駆け巡らせていた。彼女がそれほどまでに激情を抱く理由を、そしてレーゲンも知っている。
「あの子は、それを望まないから、私たちと一緒に居ることを選んだのよ」
リウィア・カントゥスという少女が、旅に出た理由を、知っている。
「……あのね、エメリー。私さ、後悔はしてないんだよ」
だから。レーゲンもまた、口を開いた。
「リウィアを旅に誘ったこと。あの子と一緒に旅を続けてること。あの時の決断は絶対に間違ってないって今でも信じてるし、リウィア自身も今の生活を本当に楽しんでくれてるって感じてる。だから、これで良かったんだ、とは思ってる」
けどさ、と前置いて。
「私が、さ。彼方此方連れ回したり、色んなことに首を突っ込んだせいで。リウィアが今、そういう状況に巻き込まれそうになってるんだとしたら――」
と、そこでレーゲンの言葉が止まる。
「最近分かったんだけどさ。アンタって結構、落ち込む方なのね」
エメリーの白く嫋やかな指が、レーゲンの唇を塞いでいた。
「それも済んだことを後から捏ね繰り回す、けっこう面倒くさいタイプの」
「……そういう意味での面倒くさい云々はエメリーに言われたくないなあ」
身体を引いて自由になった唇を、レーゲンは苦笑の形に歪めた。
「落ち込むよ、そりゃ。エメリーは私のこと、能天気っていうけどさ。実際にはもっとこう、短絡なだけなんだよ。その瞬間に後悔したくなくて、後先考えずに行動しちゃって、その結果取り損ねた百点満点を後から欲しがってる……」
「不毛な完璧主義ね。アンタのそれは次に活かすための復習じゃなくて、終わったテスト用紙を眺めながら愚痴を言ってるだけ。時間の無駄よ」
「バッサリ言うなあ! ……いや、ほんっと、抉り方キツいねキミ」
「私が一番嫌いな態度だもの、それ。いつもみたいに猪突猛進やっててくれる方が遥かにマシだわ。少なくとも前には進んでるから舵取りはできるし」
「……舵、ちゃんと取れてる?」
「ええ。だって全員生きてるもの」
その言葉に。いつしか俯いていたレーゲンの顔が、跳ね上げられたように正面を向く。その反応がエメリーは可笑しくて堪らないというように、
「だって、そうでしょう? 航路も操法もしっちゃかめっちゃか。嵐も大波も落雷だって経験したけど、私たちは沈没せずに寄港地まで辿り着いたわ。そして、その船の帆を張る風を吹かせ続けたのは、他でもないアンタでしょう?」
エメリーは笑う。気付いていないのか、とでも言いたげな表情で。
「さっきリウィアがなんて言ってたか、アンタはもう忘れたの?」
問われ、レーゲンは思い出す。リウィアの言葉、その決意を。
あの時。エメリーから自らの置かれた状況についての説明を受け。今後、旅を続ける上でのリスクを知らされて。けれど、それでも彼女は。
『……だとしても、私はこのままがいいです』
瞳を揺らし。
声を震わせて。
意志を真っ直ぐに。
『皆さんがいいです。皆さんとがいいです。他の誰でもなくて、他にどんな理由でもなくて。皆さんが誘ってくれて、皆さんが一緒にいてくれて、皆さんと同じことを望めるこの旅が好きなんです。だって、そうじゃないですか。そうだったじゃないですか。危なくても、怖くても、痛くても辛くても哀しくても――』
類稀なる“歌”の才を持つ少女は。
世界を変える“詞”の能を持つ少女は。
おそらく万人が求める“声”を持つ少女は。
『――私の居場所は、幸せは。危なっかしくて怖いことだらけの、皆さんと歩む旅路の中にあるんです。歌うことの楽しさも、新しいことに出会う嬉しさも。レーゲンさんに連れ出してもらって、エメリーさんに背を押してもらって、ヴィルさんに支えてもらってなかったら、――ずっと知らずにいたはずなんです!!』
英雄にも聖女にもなれるリウィア・カントゥスは、他に選び得るどんな可能性よりも、ただひとりの旅行士であることを選んだのだ。
「立派ね。そして、我侭だわ。あの子、自分がなにを選んでなにを救うか、全部自分で決めたいって言ってるのよ。私たちのためじゃなくて、自分がそうしたいから。で、そんな我侭に私たちが付き合うって、……ハナから信じてるのよ?」
まるでどこかの誰かさんみたいね。エメリーの声に、レーゲンは拳を握る。怒りではなく。哀しみでもなく。溢れんばかりの感情を込めて。
「いい、レーゲン。よく聞きなさい」
だから。その先はもう、言われるまでもなく。
「あの子はね、私たちを選んだのよ」
「――分かってる。うん、分かってた」
息を吸って、吐く。胸の奥に渦巻いていた苦みが、ゆっくりと溶けていくようだった。レーゲンの瞳に輝きが宿る。確信と、希望と、意気の輝きが。
「どう、開き直れた?」
「うん、開き直った!」
そうだ。リウィアの決意を聞いたときから、本当はもう分かっていたのだ。ただ、それを呑み込んでいいのか迷っていただけで。
だけど、もう大丈夫。迷いは消えた。
リウィアとこれからも旅を続ける。それでいい。彼女の望みと、自分の願いは一致している。危険も障害も、歩き続ける限りぶつかるすべての出来事に、仲間たちはもう巻き込まれる覚悟を決めてくれていたのだ。そして今、レーゲン自身も。
「エメリー、……あのさ」
「なによ、キラキラした目ぇしちゃって」
「私で、良いんだよね?」
何が、とは問わない。故に、エメリーも応じる。
「結局、私たちは全員。物好きの集まりだったってことよ」
彼女らしい、皮肉めいた言い方で。
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グラスは空になり、ポットの紅茶も残り少なく。そろそろお開きかという時分。
「……で? まだなんか、言いたいことがありそうね?」
不意に促され、レーゲンは肩を竦めた。
「私さ、……怒られると思ってたんだよね」
「はあ? ……ああ、例の秘密の特訓とやらの話か」
エメリーは頬を歪ませた。皮肉るような笑みの形に。
「なに。怒って欲しかったの?」
「いやあ、それは勘弁。だけどさ、その……」
隠し事をしていたのは事実だ。それによって仲間内の不和を招いたのではないか。レーゲンの危惧は詰まるところ、その二点だったのだが。
「過ぎたことをああだこうだと穿り返してもしょうがないでしょ。それにどうせアンタが話に加わってても、遅かれ早かれリウィアはああなってただろうし。起こるべくして起こった問題なんだから、アンタだけの責任じゃないわよ」
あっさりと言い返され、レーゲンは拍子抜けする気分だった。
実際、帰宅後に秘密を打ち明けた時にもエメリーは淡白な反応を示していたが、あれは怒りを抑えていたわけではなかったということか。
「言っとくけど、怒ってないわけじゃないから」
グサリ、と。釘を刺すように言われ、レーゲンは「うぐ」と呻く。
「せめて早めに相談しなさいよ。戦闘時の選択肢が増えるのは私たち全員にとって有意義なことだわ。だったら少なくともアンタの提案を反対はしないわよ」
「それは、その。ごめん。でも、エメリーずっと、ピリピリしてたから」
「……その点に関しては、私の落ち度を認めるわ。相談しろと言っておきながら、あの時はそんな雰囲気じゃなかったの、今ならよく分かるし。だからこの件は御相子ということで、アンタに責任を求めたりしない。お小言もなし。いいわね?」
レーゲンは頷いた。残っていた胸のつかえも、これで完全に軽くなった。
「鍛錬の成果、さ。街中で披露するわけにもいかないから、首都を出たあたりの適当なタイミングで皆に見せるよ。エメリーの戦術にも組み込めると思うから」
「そうね。ぶっつけ本番でやられても困るから、そうしてもらえると助かるわ」
エメリーの口調は意外にも楽しげだった。それにつられてレーゲンも言う。
「エメリーが仕入れた魔導具や空素筆も組み合わせてさ、色々と面白いことできそうじゃない? ヴィルも新しい機能を幾つか手に入れたらしいから、どこかで試してみたいね。そしたら行ける場所がもっと広がりそうだ」
「自分から危険に飛び込む趣味はないけど、降りかかる火の粉を払えるに越したことはないからね。そこも含めて本当は昼間に相談するつもりだったんだけど」
「あ、あはは……。でもさ、ヴィルの食欲には敵わないって……」
「食欲といえば。一日中食べ歩きできるだけの予算がよくあったわね?」
藪蛇、二匹目。じろりとエメリーに睨まれ、レーゲンの背中に汗が噴き出す。
「……その反応。あいつ、まだヘソクリ隠してたわね」
「モクヒケンヲコウシシマス」
「いいわ、別に。――明日、ヴィル自身に問い詰めるから」
エメリーは冷たく言い放つ。レーゲンは内心でヴィルに詫びた。
「レーゲン。他に隠し事があるなら、今のうちに言っておきなさい。今夜だけ特別に、普段より三割引きしてあげるから。滅多にない譲歩よ」
「な、ないよ。ない、ない! 別に隠し事なんて、これ以上は……」
「アンタの師匠絡みとか、……家族のこととかも?」
問われ、レーゲンは唇を尖らせた。
「師匠のことはさ、エメリーが信じなかっただけじゃん」
「当たり前でしょう。よりにもよって〈明星の剣〉イルマ・シーベットよ。そんな人物と関わりがあるなんて、常識で考えたら嘘だと思うでしょう」
実はだいぶ早い段階で、レーゲンは自身が師事した人物についてエメリーに語っていたのだが、当のエメリーが頑として信じなかったという経緯があったのだ。
とはいえ、当時のやり取りに関しては、エメリー自身も反省しているようで、
「……ただ、ね。正直、あの頃はアンタのことを侮ってたのは事実だし。そういう部分で責められるのなら、それは私が全面的に悪いわ。今更だけどね」
いつになく殊勝な態度のエメリーに、レーゲンはむしろ困惑した。
「あの、どしたの? エメリー? すごい謝ってくれるじゃん、今日」
「……リウィアの件でイーリスさんと話をしたって言ったでしょう」
レーゲンは頷きかけ、首を傾げる。それとこれと、どんな関係があるのか。そして、間を置かず続いた言葉によって、その理由を悟ることになる。
「その後、アンタの家族についても、聞かされてさ」
「……ああー。父さんと、母さんのことか」
「イーリスさんの名誉のために言っておくけど、たまたま話の流れで知っただけで、彼女が殊更に暴き立てようとしたわけじゃないわ。むしろイーリスさんは私がアンタの家族について、何も知らなかったことを驚いてたくらいだし」
レーゲンは納得する。別に隠していたわけではなかったのだが、
「そういや、言ってなかったもんね。言う機会がなかったというか、そのう」
「私も聞かなかったからね。だからそれはもう、良いんだけどさ……」
数秒の沈黙。エメリーは温い紅茶を口に運び、喉を鳴らしてから言う。
「……私、アンタにとって、嫌なことを言ったと思うから。だから、ごめん」
飛び出した言葉はレーゲンにとって予想外だった。てっきり両親の素性について、情報を求められると思っていただけに、ますます面食らった。
「え、あの。……そっち? てか、なんのこと? いつの話?」
「一ヶ月前。オープスト村に入る直前、喧嘩したでしょ。そこで私はアンタの家族を侮辱するようなことを言った。そこではただ言葉の弾みだったけど――」
知らなかったから、と。エメリーはか細い声で言った。
「――あなたの母親が、亡くなってたなんて」
どうやら。エメリーもまた、眠れない理由を抱えていたらしかった。
-§-
〈浮雲銃士〉ヴォルケ・アーヴェント。
かつて〈黎明の翼〉の一行として、その類稀なる射撃の才能を活かし数々の難局を退けたとされる不世出の狙撃手は、しかし最終決戦の場において視力の大半と片足の自由を、地獄から生還を果たした代償として損なった。
そんな彼が故郷の村に隠遁する際に、伴侶として選んだのが、旅の仲間にして同じく世界を救った一行の輩である〈雨龍の巫女〉アカリ・ハクウであった。
高濃度の水属性エーテルを体内に宿し、常人を遥かに凌駕する瘴気への耐性と、極めて高い肉体回復能力を有していたという彼女は、しかしその能力故に最終決戦の場においても皆を守護する盾としてその身を汚染領域の最前線に置き続けた。
その労がアカリの命を削った。
持ち前の耐性も回復能力も、猛毒が如き瘴気を長時間にわたって浴び続けた結果として、最終的には機能しなくなり。すべての戦いが終わった時には、もはや余命幾許もないほど、心身ともに消耗していたという。
公に〈雨龍の巫女〉は〈災禍の厄年〉終息後、故郷の菊花皇国へと帰還し、世界を救った英雄として祀り上げられ、短い余命を過ごしたとされている。
しかし実際に彼女が終の棲家として選んだのは、夫となったヴォルケの故郷であり、そこで出産された一人娘こそがレーゲンだったのだ。
「……私は公式発表を信じてたけど、関係者たちにとっては公然の秘密だったみたいね。そしてアンタ自身も当然ながらその事実を知っていた」
「あのさ、エメリー。本当に隠してたわけじゃないんだよ。父さんは大っぴらに触れ回るなって言ってたけど、だからってエメリーたちを信頼してなかったわけじゃ……いや、そうだね。どう言い繕っても、言い訳臭いよね……」
レーゲンは力のない笑みを浮かべた。結局、隠し事であったことは事実なのだ。
レーゲンが母親の素性を知らされたのは九歳の頃。とある事件をきっかけにして、父親本人の口から経緯も含めたすべてを聞かされたのが始まりだ。
両親が〈黎明の翼〉一行だったという、ともすれば衝撃的な事実に対し、しかしレーゲンはその生まれを「特別」だとは感じなかった。ただ一組の愛し合う男女が契りを結び、その結果として自らが生まれたということのみが重要だった。
自分は間違いなく両親から愛され、望まれて産まれてきたのだと、そう知ることができただけで良かった。十分に幸せであったのだから。
けれど、その血筋が招き得るトラブルについて、無神経でいられるほどレーゲンは世間知らずではなく。故に必要のない限り自らの素性を喧伝しなかったのだが、
「知ってる人は、そりゃあ知ってるよね。……黙ってて、ごめん」
「いいわ。気にしなくていい。言わなかった理由も分かるから。私にそれを責める権利なんてない。だけど、だからこそ。知らなかったとしても……」
その後にどんな言葉が続くか、レーゲンには察しがついた。だから、
「いいよ。赦す。もう謝ってくれたしね。だから、この話はおしまい!」
「あなたがそう言ってくれても、……私の気が済まないのよ」
「済んでよ。私はさ、もう納得してるんだから。母さんは私を愛してくれていた。望んでこの世に産んでくれた。それだけで良いんだ。十分なんだよ。……そりゃあ確かに寂しいけどさ、受け入れたことだから。本当に大丈夫なんだよ」
嘘偽りない、本心だった。伝われ、とレーゲンは祈る。エメリーがこの件で、これ以上気に病む必要などないんだと、理解してほしかった。
「……羨ましい、わね。アンタのそういうとこ、私とはぜんぜん違うから」
だから、エメリーがそうポツリと言ったとき。少なくとも自分の言葉は届いたのだと、レーゲンは安堵し。同時にエメリーの横顔に浮かぶ寂寥感が気になって、
「エメリーだって、大切に想われてたんじゃないの?」
「名家を飛び出してきた不良娘よ、私は。家名に泥を塗った親不孝者……」
「そ、それは、そのう。……ごめん。私もひどいこと、言ったよね」
「事実だから、別にいいわ。……本当のところはどうだったのかしらね」
エメリーはすっかり冷めた紅茶をまた一口飲んで、浅く息を吐いた。
「愛されていたのか。望まれていたのか。大事にはされてたと思う。そうじゃなきゃあんな暮らしはできなかったもの。……けれど、どんな想いで接されていたのかは、分からないままなの。それを確かめる前に、私は関係を断ち切ってしまった」
「エメリーは、さ。家を飛び出してきたこと、後悔してるの……?」
「してない。外に出たことで、得られたことや分かったことは多いもの」
断言だった。エメリーの瞳に宿る輝きも、彼女が抱くその意志が、確信に近いことを裏付けている。しかし一対の翠玉色は憂いめいた翳りを滲ませてもいて。
「――じゃあ、さ! 確かめに行こうよ!」
反射的にレーゲンはそう口にしていた。疑問符を浮かべて見返してくるエメリーを、真正面から見つめながらレーゲンはさらに言う。
「このまま旅を続けてさ、いつかエメリーの故郷に行こうよ! もちろん皆で、一緒にね! で、そしたらもう一度、お母さんたちと話をするんだよ。今度こそ誤解のないように、誤魔化さずに時間をかけて、喧嘩になってもいいくらいに本気で」
「……気楽に言ってくれるじゃないの」
呆れるような口調。レーゲンは「また怒られるかな」と思いかけるが、
「でも、そのくらい気軽な方が、いいのかもね」
エメリーは、笑った。
眉尻を下げた柔らかな笑みを浮かべ、くつくつと肩を震わせる彼女に対し、レーゲンもまた笑いかける。衒いのない、明るい瞳を向けて。
「目標、できたじゃん」
「……そう、そうね。喧嘩か。したことなかったわね。いつも一方的に言うか、言われるかだけで。ちゃんと想いをぶつけ合ったこと、なかったな」
ふう、と。小さく溜息を零し、エメリーは頷いた。
「なら、今からアンタにクラースヌィ貴族式の礼儀作法を叩き込んでおかないとね。母様はマナーに厳しい人だし、ちょっとでも粗相をしようものなら、きっと四の五の言うより早く家から叩き出されるわよ」
予想外の方向に話が向き、レーゲンは「ええっ!?」と愕然。
「……私、そういうの、ぜんっぜん自信ないんだけど」
「嫌でも覚えてもらうわよ。じゃないと、私が恥をかくことになるし――」
-§-
「――せっかく実家に招いた、友達が、馬鹿にされるのは嫌だもの」
-§-
エメリーが小声で呟いたその言葉は、レーゲンの耳には届かなかった。
「……エメリー? 今、なんか言った?」
「なんでもないわよっ」
どういうわけか顔を真っ赤に染めてしまったエメリーは取り付く島もない。そっぽを向かれてしまったレーゲンは苦笑しつつ頬を掻く。
今夜のエメリーはなんだか普段と様子が違うらしい。
ただ、機嫌が悪いわけではなさそうで。ならいいか、と一先ず納得。
「……ほら、もうこんな時間じゃない。そろそろ引き上げるわよ!」
唐突にそう告げられ「照れ隠しかな」とレーゲンは思いかけるも、実際に壁掛け時計はすでにだいぶ遅い時間を指しており。
「明日起きられなくなるのは不味いよね」
そう結論付けて、今宵の座談会は閉幕。撤収と相成った。
二人が個室スペースを出ると、展望台内の人影は疎らとなっていた。
残っている人々も、大半は帰り支度を始めている様子である。
その流れに乗るようにして、レーゲンとエメリーも出口へと向かう。
欠伸を漏らす大人たちに混じって、二人の子供もうつらうつらしながら歩みを進める。幸い帰路を失念するほど寝惚けてはいなかった。
「エメリー。また明日から、頑張ろうね。ふああ」
「……あふ。……ん、ええ。やってかないとね」
エレベーター内ではそんな中身のない会話を交わしつつ。千鳥足で部屋に帰り着いた二人は、歯を磨き、着替えを済ませ。各々、ベッドに潜り込む。
「おや、お帰りなさい。随分と遅かったようですが――」
留守番をしていたヴィルがそう声をかけるも、すでに眠気が頂点に達していたレーゲンたちは生返事を返しただけで、即座に寝入ってしまい。
「――続きは、また、明日ですね。おやすみなさい。良い夢を」
ヴィルもまた瞼を伏せ。やがて、室内を静かな寝息だけが満たす。
-§-
休憩時間の日々が終わり。そして、旅立ちの明日がやってくる。
-§-
「――案の定、寝坊したじゃないの!! もう昼前よ!!」
「――いくら揺すっても起きないのが悪いんじゃんか!!」
ホテルの前に響く金切り声に、元気な声が言い返している。
昨日と変わらず陽気は麗らか、空は蒼く澄んで晴れ渡り。まさに旅立ちには絶好の日和なのだが、旅行士たちは、一歩目から早速躓いたようで。
「首都出口行きのバス、もう行っちゃったみたいです!」
「次に来るのを待ってたら、首都から出るのは正午過ぎになりますねえ」
慌てた声に、暢気な声が続き。
「……走るわよ。近道を辿れば、次の次くらいのバス停に追い付けるかも」
「いくらなんでも無茶だよ。私とヴィルだけならいいけどさ」
「アンタがリウィアを担いで、ヴィルが私を担げば……」
「お、落ち着きましょう! エメリーさん!」
「なんなら、もう一泊します? まだ食べてないものありますし」
「そのままズルズル連泊しそうだから却下!! ああ、もう!!」
騒ぎ立てる奇妙な一行を、首都の住民たちは遠巻きに見守り、忍び笑いを漏らす。傍から見れば微笑ましい光景だった。当人たちには笑いごとではないが。
「……とにかく、進みましょう! ここに留まってても」
「あれ、エメリー。なんか向こうの方、騒がしくない?」
勢い良く踏み出そうとしていたエメリーだったが、突然レーゲンに話しかけられたことでつんのめってしまう。「アンタねえ!」と怒鳴りかけたエメリーは、しかしふと、耳に届いた騒ぎの内容に表情を変え。
「ねえ、行ってみない? もしかして、さ」
「……そうね、もしかすると、だけど」
予感に推されるように、一行は騒ぎの方へと足を向け。
「……やっぱり! 今日だったんだ!」
レーゲンが喜色を満面に叫んだ。
彼女の視線が向いた先、拝謁通りの両脇にずらりと並んだ人だかりと、その真ん中を長蛇の列を為して行進していく人々の群れがある。
その顔ぶれはレーゲンたちにとって見覚えのあるものだった。
「オープスト村の人たちだよ、あれって!! 村に帰れるんだ!!」
そう。首都市民の喝采を浴びながら、歓喜と興奮の表情で道を行く人々は、オープスト村の住民たちだった。“恐嶽砲竜”の襲撃から丸一ヶ月。偶然にも本日が、彼らが故郷への帰還を赦された、そのタイミングであったのだ。
「頑張れよー!! 必要なものがあったら、支援するからなー!!」
「アンタたちが作ったハムやソーセージ、また食えるようになって嬉しいぜ!!」
激励の声が飛び交う中を、住民たちは真っ直ぐ進んでいく。
その中、ある一点にレーゲンは目を留めた。幸せそうに肩を寄せ合って歩く一組の男女。その間に挟まれて、ニコニコと笑っている少女は。
「ローゼだ!! おーい!! ロー、ぐぇっ」
「馬鹿!! アンタが飛び出てったら、台無しでしょうが!!」
思わず駆け出していこうとするレーゲンの後ろ襟を咄嗟にエメリーが掴んだ。
レーゲン自身も忘れかけていたが、オープスト村の事件における一行たちの公式設定は、あくまでも住民避難を手伝った端役でしかない……とされている。
それでもいちおう筋書きの内容的に、挨拶を交わす程度なら問題ないのだろうが、衆目が多すぎるこの状況では余計な勘繰りを招きかねなかった。
「寂しいけど、ここで見送るだけにしましょう」
「……うん、そうだね。迷惑、掛かっちゃうかもだしね」
エメリーに諭され、レーゲンはしょんぼりと頷いた。その背中をヴィルが叩く。横ではリウィアが泣きそうな顔になっていた。
と、その時。おそらく村までの護衛だろう、オープスト村の住民たちに同行する鎧姿の騎士のうち一人が、不意にレーゲンたちの方を向いた。目線が合う。
彼は数秒ほど何かを考えるように立ち竦むと、ごく自然な歩みでローゼたちの元へと近付いていき、幼い少女の肩を優しく叩く。そして、つと、指差した。
レーゲンたちが居る方向を。
「あ……!!」
一瞬彷徨いかけたローゼの視点が、やがてレーゲンたちの姿を捉える。
直後。幼い少女の顔に弾けるような笑顔が咲いた。ローゼは大きく、大きく。千切れんばかりに手を振るう。その様子に群衆が歓声を上げた。
「見て、あの子! あんなに喜んでるわ、可愛いわね」
「そりゃそうさ。やっと家に帰れるんだからな。嬉しいだろうよ」
すぐ近くで年配の夫婦が会話するのを、レーゲンたちは茫然と聞いていた。そして見る。こちらを指差した騎士が頭部装甲の庇を上げて晒した顔は、してやったりとばかりに微笑むその顔は、“シュレーダー隊”の隊員であった。
「……、~~~~ッ!!!!」
レーゲンたちは、声を上げず。しかし、堪え切れない喜びを爆発させるように、できる限りの力で手を振った。大きく、大きく。ここにいると示すために。
そして、行列は去っていく。見送りを終えた市民たちも三々五々に散っていき、拝謁通りには平常時の静けさが戻る。祭りの後に取り残されたレーゲンたちは、その余韻を噛み締めるようにしばし立ち尽くし、やがて歩き出す。
草原を越えて、目指す先は荒野。その彼方に待ち受ける大海。
楽な旅路ではない。数々の危機と、敵意と、惨酷が牙を剥くだろう。
それでも明日に向かって吹く風が、彼女らの背中を力強く押した。
希望は己の中に在り。自らに由を求めて、少女たちは旅立つ。
空高くに坐した太陽が、四人の若き旅行士の道行きを照らしていた。
-§-
通り雨の旅行士:「騒乱劇のその後に」END...
-§-




