シーン12:強くなりたいその理由と
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昼下がりを迎えた“ゲルプ”の街並みは、本格的に春めいた陽気に包まれていた。
そのどこか心浮き立つような雰囲気に誘われたように、路地はいつしか大勢の人で賑わい始める。中でも王城正門前の広場を中心として、手の平を開いたように五方向へと伸びる大通りでは、商売の熱気がますます盛り上がっていた。
「さぁーあ!! 甘い甘い、林檎はいかが!! 宝石より紅い、この輝き!!」
「はるばる砂漠を越えてきた特級品の織物だよ!! この肌触り、滑らかさ!!」
「お目利きさん寄っといで!! ウチの魚は産地直送、他とは鮮度が違うよ!!」
「皇后陛下にも好評とすっかり話題の推理小説、最新刊の発売は本日ですよ!!」
「この豊かな風味、奥深い甘みとコク!! 貴重な菊花皇国の澄み酒だよ!!」
「新品、新発売!! イグルスタから来た新型高性能の家庭用ミシンですよ!!」
わざわざ耳を澄まさずとも、どころか耳を塞いでいてさえ、威勢よく鼓膜を叩く呼び込みの声。店主たちは一人でも多く客を引き付けようと、愛想の好い声を張り上げて取り扱う商品自慢に精を出している。その種類がまた尋常ではない。
食肉が。乳製品が。野菜が。果物が。魚介が。菓子が。飲料が。衣類が。武具が。敷物が。食器が。玩具が。書籍が。その他、雑多な小物類までが。
ありとあらゆる品物が揃えられ、あちらこちらで販売されているのだ。
とりわけ中指にあたる一本。王城正門から市街を一直線に縦断し、首都そのものの出入口までを貫くように伸びる目抜き通り――通称“拝謁通り”には多種多様な商業施設が立ち並び、地元民と観光客を併せた群衆の河が止め処なく流れていく。
スーツ姿に鞄を提げた青年が小走りに過ぎ去れば、小麦粉の詰まった布袋を担いで汗だくのパン屋が歩いていく。日用品を満載した買い物籠を背負う女性が知り合いと談笑する脇を、お菓子の袋を掴んだ子供たちが数人連れ立って駆けていく。
宿泊施設から出てきたばかりと思しい旅装の一団に、雑貨の類を販売する露店の店主が土産はいかがと愛想よく声をかけ。砂糖をたっぷり塗した揚げ菓子の甘い匂いに誘われて、仲睦まじげに手を繋いだ年若い男女が販売員に値段を訊いている。
警邏中の騎士団員が四足形態の走鋼馬上から周囲の様子を見張り、その視線を避けるようにして旅行士と思しき男が忌々し気な表情で路地裏へ消えていく。
かつての帝国時代。偉大なる“褐色皇帝”に拝謁すべく、諸侯たちの贈り物を満載した馬車がずらりと行列した通りが、現代では庶民たちの営みに満たされている。
老若男女。売り手と買い手。混沌と活気。十人十色、どころか百人百色。
他所から訪れた人々が巷に溢れかえる凄まじい情報量に圧倒され、思わず口を揃えて「今日はなにか祭りでもやっているのか」と問うのも伊達ではない。
背格好も立ち振る舞いも多種多様な群衆が作り出す、この途方もない賑やかさこそが、大陸随一の巨大都市を標榜する“ゲルプ”の日常風景だ。
そんな陽と喜と騒の多重奏の片隅。王城からもほど近い、主に地元民が憩い集う飲食店が立ち並ぶ一角で、ごくごく小さな騒ぎが発生していた。
「なあ、おい。見ろよあれ……。積んだ皿で峡谷ができてるよ……」
「まさかあの量を全部食ったのか……? しかも女二人だけで……」
「いや、てか、おい。まだ食うつもりだぞあれ。まだ増えるぞ……」
とあるカフェテリアの店先。野次馬たちの好奇心を一手に引き受けるテーブル席に、通りがかった彼らにとっては見慣れない風体の二人組が腰掛け――
「もぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐ」
――その片割れが猛烈な勢いで口と手を動かしていた。
若草色の長髪を背に流し、金色の瞳を歓喜に爛々と輝かせ。両の頬を木の実を詰めに詰め込んだ欲張りな栗鼠めいてぷっくり膨らませて。
ご存じ食欲魔人・ヴィルベルヴィントが、その底なしの食欲に身を委ねるまま、食って食って喰いまくっているのであった。
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八件。本日これまでにヴィルが踏破、もとい食破した飲食店の数である。
脂滴る肉を平らげ、新鮮な魚介を貪り、濃厚な甘味を胃の腑に収め。
ありとあらゆる食材、多種多様な料理に、片っ端から挑みかかり。
もう一通りの名物は食い尽くしたであろうという段になってなお、ひたすら驀進する飢えた暴走機関車に停止の兆候は一向に窺えず。
(……ちょっと、食べ過ぎじゃない? え、あれ? どうなってんの?)
呆然と。ヴィルを見守るレーゲンの頬を、一筋の冷や汗が伝う。
ヴィルは確かに大食いだが、胃袋の容量には物理的な限界がある。
それを超過してまで食物をエネルギーに転換はできないし、余剰分は無駄になってしまうので、ヴィル自身もある程度の自重はする。
故に当初は「二、三件巡れば満足するだろう」と暢気に構えていたレーゲンも、この段に至ってようやく自らの予測が甘かったことを実感し始めていた。
(……そういや、なんか言ってたな。王城で『治して』もらったときに、胃袋を増やしてもらったとか、なんとか。……まさか、冗談じゃなかったんだ、あれ)
“恐嶽砲竜”との決戦後。レーゲンが療養のため数日入院したように、実はヴィルもまた身体の破損個所を修復する必要に迫られていた。
これまでの旅路ではエメリーが応急的な修理と整備を行っていたが、当然ながら素人の手並みとろくな設備もない環境下ではどうしても限界があった。
ならば、どうせ正体がバレてしまったのならと開き直ったヴィルは、仲間たちに相談した上で、徹底的な点検作業を王城政府に依頼していたのだ。
協議の結果、検査結果および身体構造の情報を公的な研究資料として提出するという条件で、ヴィルの要求は受け入れられた。
……なおその研究資料の内容を巡って後々、専門家間で凄まじい議論が紛糾することになるのだが、その件については割愛する。
ともかく王城政府の仲介で招聘された共和国内でも最高基準の魔導具技師たちに、文字通り身体の隅々まで手入れを受けたヴィルは新品同然の状態に復帰したのだが、どうやらその過程でいくつか新機能を搭載してもらったらしいのだ。
ほとんどは整備不良や部品欠損によって喪失していた機能の復活に留まったようだが、特にヴィルが強く希望したのが『増槽の追加』であったようで。
端的に言えば、余剰分を貯蓄する第二のエネルギー貯蔵庫、まさにもう一つの胃袋である。燃費の悪さに悩んでいたヴィルにとっては福音となったが、
(……つまり、今後。ヴィルの食欲の最大値が、跳ね上がったということで)
そして現在。要するにヴィルは空っぽの増槽に中身を貯める作業に没頭しているのだろう。ついでに首都を離れる前に思う存分食い溜めをしておこうという心算もあるに違いない。状況を把握したレーゲンは、思わず乾いた笑いを浮かべた。
もちろんレーゲンもただ流れに身を委ねていたわけでなく、頃合いを見て「そろそろ仲間たちと合流すべき」とも提言してみたのだが、
「大丈夫じゃないんですか。たぶん向こうもある程度、この事態は想定してますよ。案外、リウィアさんと二人っきりで、楽しくデートなんかしてるかも」
と、あっさり返されてしまえば言葉もなく。
加えてレーゲン自身もヴィルの言葉を真に受けて、なんだかんだと一緒に食い歩きを楽しんでいたので、いまさら強く言えないのも事実だった。
ただ、まあ。さすがに限度がある。レーゲンは意を決して口を開く。
「……あのさ、ヴィル。ちょっと、心配事なんだけどさ」
「むぐ。……ほうひまひはは、へーへんはん? ほはぶふへふは?」
「ああ、いや。ずっと食べてるけどさ。お小遣い、大丈夫なの? 足りる?」
レーゲンは金銭面から攻めることにした。
普段は星空を宿すように透き通った瞳の瑠璃色も、何とはなしにどんよりと沈んだようで。レーゲンはじっとりとした半目を相方へ向けて問う。
対してヴィルは「んぐ」と口の中の物を飲み下して――その際、明らかに彼女の喉は異常な膨らみ方をしたのだが、もはやレーゲンはその程度のことは疑問にすら思わない――から、いつも通りの暢気な態度と声色で応じる。
「いえいえ、ご心配なく。個人的な蓄えにはまだまだ余裕がありますので」
「バイト代からちょろまかしたヘソクリのこと? でも、そんなにたくさん持ってたっけなあ……。エメリーが目溢ししてくれるくらいの額じゃあ……」
「私は嘘は吐きませんが真実をすべて開示するとも限らないんですよね」
さらりとそう言われて。レーゲンは二度三度、目をパチクリさせた後。
「……誤魔化してたなあ!? え、というか、どうやって!? あんなに隅々探られてたのに!? それこそ服の内側まで根こそぎ浚うくらいに」
「あっはっは。私には秘密の隠し場所ってものがありますからねえ。……ああ、いや。変な意味じゃなく。こう、整備用ハッチの内側に、ちょちょいと」
言いつつヴィルは服の裾を捲り上げ、下腹部をちらりと覗かせる。
その引き締まった腹筋がうっすらと浮き出た肌色の下、目視では確認できないほど細かな分割線を抉じ開けると、冷たい機械群が曝け出されるのである。
要するに服の内側の、そのまた内側。文字通り体内に隠していたというわけだ。機械である彼女にしかできない芸当、流石のエメリーにも盲点だったのだろう。
衝撃の事実を知らされたレーゲンは茫然とし、次いでがっくりと首を垂れた。
「……エメリー、怒るぞお。すっごい怒るぞお。うああ想像したくない」
「まあまあ、そう落ち込まないでくださいよ。バレなきゃ大丈夫ですって」
「ヴィルはそうかもしれないけど事実を知った私の心痛はどう、――むぐっ」
レーゲンの文句は途中で止められた。ヴィルが自分の食べていたパンケーキを、素早くレーゲンの口へと押し込んだために。
しまったと思った時にはもう遅い。ひと噛み、ふた噛み。吐き出すこともできず、咀嚼を終えてしまえば、そのまま嚥下するしかない。
豊かなバターの香りと、濃厚なシロップの甘味。綿菓子のようなふわふわ食感と、焼かれた小麦粉生地の香ばしさ。なるほど美味だ。美味ではあるが。
「奢りです。これで共犯ですねえ」
「……今のはちょっとひどいぞ」
「でも、美味しかったでしょう?」
「え、うん。――いや、そうじゃなくて!!」
「まあまあ、もう一口。さらに二口。遠慮せずどうぞ」
「むぐもがむごごっ!!」
口を開いたタイミングを狙い、絶妙に突き込まれる甘味の連続。レーゲンが舌を噛んだり口内を怪我しないよう、力加減も完璧に調整されているのがまた憎らしい。結局レーゲンは一皿分を丸々味わう羽目になった。
「――いやもう本当に怒るぞ!! 私が!! エメリーより先に!!」
「あはは、流石にやり過ぎましたね。すみませんでした」
相変わらずへらへらと笑いながら言うヴィルに、いいや今度という今度は赦さないぞ、と鼻息を荒くするレーゲンだが、
「でも、ほら。隠し事してるのは、レーゲンさんも同じですし」
続いたヴィルの一言によって、その気勢は削がれることとなる。どころか打って変わって、今度はレーゲンが気まずそうに目を逸らした。
「……ナンノコトカナー」
「まず最初に弁解しとくと、私の真・ヘソクリは、個人的な夜間バイトで稼いだものでして。これは皆さんの稼ぎとは別会計としてご容赦頂ければ幸いです」
夜間バイト。その言葉にレーゲンは思い出す。深夜、ふと目が覚めた時、いつもは壁際に立っているはずのヴィルが、いつの間にか居なくなっているのを何度か目撃したことを。あれはそういうことだったのかと今更ながらに納得する。
「まあ、予定日までに皆さんの稼ぎが間に合わなかったら、こっそり付け足しても良かったんですけどね。……まあ! でもなんとかなったので、このヘソクリは晴れて私のものです! なので遠慮なく使わせてもらいますよ!」
これも本音だろう。そうならなくて良かったと、レーゲンは思う。
「ああ、犯罪とか後ろ暗い仕事には手を出してないんで、そこはもう信じてくださいとしか。主に日中はできない道路工事とかそういう作業の手伝いですね」
「……うん、そこは信じてる。そういうことをヴィルは絶対にしないって」
「ありがとうございます。で、レーゲンさんの件ですけど――」
そこまで言いかけたヴィルに、レーゲンは手の平を突き付ける。「待った」のジェスチャーだ。レーゲンは諦めたようにゆるゆると首を振ってから口を開く。
「言うよ。私から言う。……でも、いつから気付いてたの?」
「二度目で疑問に思って、三度目で確信した感じですかね」
「うわ、早。そういうところ、鋭いんだよなあ……」
レーゲンは苦笑。照れ臭そうに頬を掻き、ぽつりと零す。
「でも、言えないよね。皆に隠れてこっそり、秘密の特訓してたなんて」
そう。早朝や深夜の人目に付かないタイミングを見計らい、あるいはアルバイトの合間に少しずつ、レーゲンは鍛錬に励んでいたのだ。
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「……隠し切れたと思ってたんだけどなあ」
「恐らくお二人は気付いてませんからご安心ください。レーゲンさん、別に仕事の手を抜いたりはしてませんでしたし、皆が起きるころにはちゃんと帰ってきてましたしね。ただ、ヴィルちゃんの観察眼からは逃れられなかったということで」
「次回以降の改善点にするから、もうちょい具体的に根拠挙げてくれる?」
「ふむ。まあ、一番の理由はレーゲンさんが疲れてたことですかね」
それはどういうことか。首を傾げるレーゲンに、ヴィルは頷いてみせる。
「この一ヶ月間の連続バイト。健康な成人男性でもちょっと泣き入るくらいの仕事量だったとは思うんですが、ぶっちゃけレーゲンさんならその程度は平気なはずなんですよね。ちゃんと一晩寝たら、翌日は完全回復してるかな、と」
その指摘はレーゲンの図星を指していた。
そう。度を越した健康優良児のレーゲンとて、疲労が蓄積すれば判断力は鈍るし、その回復が不十分ならば困憊する。況してや一ヶ月間である。
結果、リウィアの不調に気付くのが遅れるなど、弊害は出ていたのだ。
しばしの沈黙。やがてヴィルが、彼女にしては珍しく、抑えた声で言った。
「こういう説教めいたこと、あんまり言いたくないんですけどね。あの日、倒れてたの。もしかしたら、レーゲンさんだったかもしれないんですよ」
「うん、分かってる。ごめん。今更だけど、本当に反省してる。好かれと思ってやったことが、皆に迷惑かけちゃうこともあるって、身に染みたから」
「……まあ、気持ちは分かるつもりですけどね。余裕がなかったのは皆そうでしたし、そんな状況で鍛錬がしたいって、言い出し辛かったんでしょうし」
次から次へと本心を言い当てられ、レーゲンは居た堪れない気分になった。
それに考えてみればこの一ヶ月間、最も苦労していたのはヴィルかもしれない。自分たちが余裕を失い己のことで手一杯になっていた中で、彼女だけが周囲に気を配り、仲間たちの異変に気付き、その解決策を図ろうとしていたのだ。
「いや、ほんと、……ごめんね。馬鹿だよなあ、私」
「あわわ、落ち込まないでくださいって。そんなつもりじゃないんです」
ヴィルのフォローも、却って身に抓まされる。だからレーゲンは本音を漏らした。否、気が付けば自然と零れ落ちていたのだ。
「……足りないと、思ったんだよね」
なにが、と問われたならば。レーゲンは「総てが」と答えただろう。
あの一ヶ月前の死地の最中。力量が。技術が。判断能力が。戦闘経験が。なにもかもが足りていなかったのだと、レーゲンは改めて痛感していた。
もちろん吹っ切りはした。いつまでも過ぎたことを悔やんではいられないと、前を向いてより良い明日を目指すため努力すべきだと。けれど、だからこそ。
「強くなりたかった、んだ。ほんの少しでもいいから、さ」
だから、その術を探った。今までに経験してきたことを積み上げ、乗り越えてきた死地を思い返し、どうすればその糸口が掴めるかを考えた。
「あのね。……皆を、信じていないわけじゃ、ないんだよ」
むしろ、その逆だ。仲間の力を。その有難みを心の底から思い知ったからこそ。絶対に失いたくないと思った。その信頼に応えたいと思った。
エメリーの土壇場でこそ輝く爆発的な克己心を。リウィアの献身的な姿勢と皆を支える歌の力を。ヴィルの飄々とした朗らかさと鋼の如き頼り甲斐を。
翻って、自分には何ができるのか。何があるのか。
「私だけが、なんというかさ。普通なんだよね」
胸を張って自慢できるものがあるとすれば、精々が銃の腕前と身体の頑丈さくらいのもの。剣の腕前はどう贔屓目に見積もっても二流だし、挫けぬ意志は自殺紛いの衝動だと釘を刺された。エーテルを操る術も、本職ほどには巧みではない。
世界最強の英雄〈明星の剣〉に。かつて世界を救った勇者本人に、ほんの少しの期間とて直接教えを乞うて、それでもこの程度なのだ。
「その程度の力しかなくて。普段、大口を叩いてるくせに、さ。いざって時に皆を守れないんじゃ、……自分で自分が赦せなくなる」
思わず卑屈な笑いが表れそうになり、レーゲンは慌てて口元を抑える。どうもこういう空気はよくない。根っこの自分が出てきそうになる。レーゲンは咳払いをひとつ。どうにか意気を奮い立たせ、声を頑張らせて、次なる言葉を紡ぎ出す。
「……だから、さ! 何もせずにはいられなかったんだ。それだけ! せっかく一ヶ月間も時間ができたんだしね、有効活用しなきゃって!」
「ですか。……それで、その成果は得られましたか? 結果発表、どうぞ!」
突っ込まれたなあ、とレーゲンは苦笑。
ただ、こういう状況でも訊くべきことをしっかり訊いてくれるのは、ヴィルの良いところだと思う。わざと茶化してくれるのも優しさだろう。
これがエメリーの場合は直球な上に抉り方がキツイ。
そして、レーゲンには答えがあった。確信を以て応じられる答えが。
「――うん。成果はあった。これは嘘じゃない。ふたつ、……いや、みっつ。これからの立ち回りで活かせそうなアイデアが見つかったよ」
「おお、それはおめでとうございます! それじゃあ反省会は早々に終わらせて、ここからは祝杯に切り替えですね! いやあ、めでたしめでたし!」
破顔一笑。ヴィルがそう言うとあっさり空気が入れ替わるから不思議だ。そこでふと、レーゲンは思い当たる。もしかすると、だが。
「あのさ、ヴィル。この話をするために、わざわざ私に着いてきたの?」
「……いえ? 単純に一ヶ月分溜まった食欲を開放したかっただけですよ」
ヴィルがそう言うのなら、そう言うことにしておこう。
レーゲンは改めてこの食いしん坊な仲間に感謝しつつ、ならば今日はもうとことんまで付き合おうと、自分も新しく注文を取ろうとし――
「いやあ、良いねえ。友情だねえ。眩しくってもうお姉さん涙出てきちゃうな」
――そこで初めて、気付いた。隣の席。息がかかるほどの距離。いつの間にか腰掛けていた、まったく見覚えのない女性の存在に。
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「……レーゲンさん」
「待って、ヴィル。たぶん、少なくとも、害意はないよ。私たちに何かする気があるなら、もうとっくに殺されてたっておかしくない状況だから」
咄嗟に腰を浮かしかけたヴィルをレーゲンは押し止める。ヴィルの表情は緊の一文字に染まっており、鈍く発光する金色の瞳には明らかな警戒色が滲んでいる。レーゲンが声をかけなければ、今頃は戦闘態勢に移行していただろう。
対し、件の女性は「そうそう、安心してちょ」などと飄々とした態度を崩さぬまま、いつの間にやら注文したのか湯気の立つコーヒーを啜っている。
目の覚めるような鮮烈な金髪。大型ネコ科めいたぎらつく深紅の瞳。スレンダーな肢体をブラックスーツに包み、虎柄模様の毛皮のコートを羽織り。
女性の姿を改めて観察するに、極めて強烈な格好をしている。
こんな人物が近付いてくれば、百メートル先からでも分かるだろう。なのにここまで接近されるまで気付かなかった。レーゲンの喉がゴクリと鳴る。
「ああ、気にしないでね。気配消してる私に気付くとか、ほっとんどの人が無理だから。少なくとも私と同格じゃなきゃむずいかなあ。初対面なら猶更っしょ」
軽い。口調も、振る舞いも、雰囲気も。存在感に至るまで極端に軽薄だった。その姿格好との対比が生み出す違和感にレーゲンは眩暈を覚える。
「……え?」
と、そこで新たな事実にレーゲンは気付き、戦慄する。
周囲から、人影が消えていた。先程までたむろしていた野次馬も、通りを行き交っていた人々も。まるでこの一帯だけが無人と化したように。
「ちょっとした技術の賜物かにゃん。人払いはちっとばかし得意でね」
レーゲンの心臓が跳ねる。内心を完全に見透かされていた。
動揺を必死に堪えながら、レーゲンは何を問うべきか考える。
この人物は何者か。どんな技術を用いたのか。何を目的に現れたのか。
「そんなに警戒しないでよう。お姉さん、哀しいなあ」
「……とりあえず。あなたの名前、訊いてもいいですか?」
「秘密。でも君の名前は知ってるよん、――レーゲンちゃん」
「……あはは。私、思ったより名が売れてるのかな?」
「有名人だよお、私たちにはね。……待った、待った。そんな睨まないでよヴィルちゃん。なんかしようってんじゃないから。マジで。お話しにきただけ」
女性は参ったとばかりに両手を上げ、ひらひらと振ってから言う。
「お礼と、釘刺しと、愚痴。たまたま君たち見かけたから、ここを出てかれちゃう前にしとこうかなって。いいじゃん、ガールズトークしようぜい」
「ガールズと評するには、一人だけ齢に差があるようですが」
「冷てぇなあ!! ねえ、頼むよう。ここの支払い持つからさあ」
「レーゲンさん、ぜひお話しましょう。この人はとても良い人です」
効果は抜群。ころりと態度を変えたヴィルに、レーゲンはずっこけそうになる。片や闖入者の女性は腹を抱えて笑い始めた。
「手の平返しはっや!! 面白ぇなあ、この子いつもこうなの?」
「……お恥ずかしながら、ウチの食欲魔人の平常運転です」
言って笑うと、全身から緊張が抜けた。こうなったからには気楽にいこう。気を取り直し、態勢を整えて、レーゲンは改めて闖入者の女性と向き直る。
「それで、お話ってなんですか? それにお礼って、私たち、なんかしたっけ」
「したじゃん。とりあえず村をひとつと〈巡回騎士隊〉の小隊をひとつ」
レーゲンとヴィルは顔を見合わせる。どうやらこの女性、随分と事情通らしい。というより明らかに王城の関係者なのだろう。それもかなり上位の。
「……えっと、その。いいんですか? 私たちと接触したりして」
「本当は駄目。だからこっそり来てるんだ。皆には内緒だよ。ともかくさ、ちゃんとお礼言っとかないとなって、個人的にね。上の連中は頭が固いからさあ……」
「固いんですか」
「かったいよお。融通利かねぇの。国家の統制下にない個人が、極端な武力を有する事実は、極めて危険であり憂慮すべき状況である!! とか言っちゃってさ。なんなら君たちを拘束すべきだって意見も、中央軍側から出てきたくらいでね」
告げられた内容にレーゲンの顔が強張る。ちらりと横目を向ければ、ヴィルは「十分有り得る可能性です」と返してくる。そんなやり取りに女性は笑い、
「大丈夫、それはナシになったから。まあ、内訳的には賛成と反対で半々くらいで、結局は折衷案というか日和見的に『保留』で落ち着いた感じだけど」
「そう、なんですか。良く、は……ない、ですよね。それ」
「良くないね。まあ、皆さ。要はビビってんのよ」
投げやりな言い方には、そこはかとない疲労感が滲んでいた。もっとも、レーゲンたちの処遇に関して交わされた議論が妥結に至るまでには、関係者各位においても複雑かつ微妙な駆け引きがあったであろうことは想像に難くなく。
「運営側の立場もねえ、色々考えることあってさ。調整とか諸々、大変なのよ。だからそこらへんは理解したげてね。それに――万が一君たちが国家に仇なすなら、容赦なく粉微塵にすれば万事解決するし。そうすりゃ後腐れもないしね」
本気の声だった。後半部分を語る最中、女性の目だけが笑っていない。
彼女に併せてこちらも笑うべきか、それとも恐れるべきか。
レーゲンは迷った末、苦笑いでお茶を濁すことにした。
と、そこで女性はころりと気楽な風に声色を変え、
「ま、私はできればヤだけどね。君たちのこと気に入ってるから。でも、そうじゃない連中もいるってことだけ憶えといて。はい、これで釘刺し終わり。続けてお礼ね。マジでサンキュウ。めちゃくちゃ助かった。ホント感謝してる。愛してるぜ」
ヴィルが小声で「この人、絡み辛いですね」と囁いたのに、レーゲンはどう応じていいかわからなくなった。もはやなにもかもがわからない。
「絡み辛い、かあ。やっぱヴァルっちもそうなのかなあ。……そう! 聞いてよ! 私さあ、部下に嫌われちゃったかもしれなくてね! すげぇショックで!」
話題が百八十度の極端な方向転換をし、レーゲンは面食らう。同時に女性がずい、と顔を近づけてきたことへの驚きもあったのだが。
「あのね、私はさ。置かれた立場に比するだけの仕事は、きっちり果たすべきだよねって思ってんの。その個人が持ちうる力量の限界点においてね」
どんどん話を進めていく女性に、レーゲンはとりあえず「はあ」と頷く。
「その結果、例えば死んじゃってもね。役割を成し遂げたんなら、誇るべきじゃないかなって。……ああ、いや。極論なのは自覚してるよ。自覚してるんだけどさ。その極論を当たり前にやってこその私たちじゃないかなあ、って思うわけよ」
「……そういう趣旨の発言をして、部下に嫌われたかもしれない、と?」
「そうなのヴィルちゃん! いや、ね。ちょっと危険な仕事があってね。それを部下に手伝ってもらおうと思ってさ。で、一緒に彼の友達も誘おうとしたのよ。見込みあるし。けど、部下がものすっごい反対してさ。ビックリしちゃった」
「なる、ほど……? それが、愚痴の内容ですかね?」
「ヴァルっちなんだかんだで優しいからさあ。心配なんだろうね、友達のことが。でも、やってみなきゃ分かんないじゃん。少なくとも本人の意思は確かめるべきだよ。聞けば行くって言うかもしれないじゃん。甘やかしすぎ。――温いんだよな」
ぼそり、と。最後の一言だけが、灼け付くような熱を帯びていた。
「で、……どう思う?」
唐突で端的な問いかけ。それが自らに向けられていることに、レーゲンは一拍遅れて気が付いた。そして、考える。肯定か、否定か。どう応じるべきか。
(……いや、どう答えろっての!? ロクに経緯も分からないのに!?)
レーゲンは愕然とする。女性の論旨は実際やたらと極端であり、また状況を完全に把握していないレーゲンが口を挟んだところで、お為ごかしが精々だろう。
それでもなんとなく分かるのは、力に伴う責任の話だとか、そういう深刻な相談ではないということだけ。彼女自身が最初に言ったように、これは単なる「愚痴」なのだ。自らの信念と他者のそれが噛み合わず、不和を招いたかもしれない、と。
だとしたら。他人事に過ぎないレーゲンの立場からでも、たったひとつだけ本音で語ることのできる言葉がある。レーゲンは唾を呑み込み、口を開いた。
「えっと。その部下さんのこと、あなたは大切なんですよね?」
「うん、超大事。めちゃくちゃ呑み込み早いし、センスも切れ味もいい。無茶振りしても期待値以上の結果を出すし。私が今までに育てた弟子では文句なしに一番かな。十年、良ければその半分で、私に並ぶかもしれない」
「なら、……死んでほしくないですよね」
レーゲンが言うと、女性は目を丸くした。レーゲンは続ける。
「私にも尊敬できる友達がいて。たまに喧嘩したりしても、やっぱりずっと一緒に居たい。けど、一緒に旅をするなら、やっぱり危険もあって……」
エメリーも。リウィアも。ヴィルも。
思い浮かぶ三人の顔。傷付いてほしくないし、絶対に喪いたくない。哀しみに歪む様を見たくはない。なのに危険と隣り合わせの日々を、実際に死地を経験してもなお、これからも続けて行きたいと思ってしまう。
矛盾だ、とレーゲンは考える。
けれどその矛盾を埋めていくのは、きっと積み上げた絆と経験だ。
そうだ。だから自分は鍛えようと思ったのだ。強くなりたいと願ったのだ。
皆を守れるように。皆に力を貸せるように。きっとそれは全員がそうで。
「あなたの部下さんも、その……友達? に対して、そう思ったんじゃないかな、って。死んでほしくないから。肩を並べて戦いたいから。今は無理だ。もう少しだけ時間が欲しい、って。……そういうことじゃ、ないのかな、と――」
「――なぁるほどねぇッッ!!!!」
大声量が響き、レーゲンは仰け反った。
「そっか、そっか!! ならしょうがない!! そうだね、育ち切るまでは待つよなあ、うん!! そりゃ私も同意見だわ、なんだ言ってくれりゃいいのにヴァルっちも!! だったら別に反対しないもん、……薄情だなあ信用ないのかなあ」
「いや、あの。あくまでこれ、推測というか、思い付きで」
「いやいやいやいや、当たってる当たってる。たぶんというか絶対そう。納得いった。私はスパルタだったもんなあ。とりあえず実践からって。でもヴァルっちはそういうスタンスなんだね。待つんだなあ。優しいねえ。でも、なら、ヨシ!」
がたん、と。けたたましい音を鳴らして、女性が席を立つ。その鮮烈な表情には、輝かんばかりの笑みが刻まれていた。
「やっぱ若者のことは若者に訊くべきだねえ。いやあ、助かった! マジで為になった! ありがとう、レーゲンちゃん! おかげで心置きなくドンパチできるってもんよ! そいじゃ支払い済ませとくからよろしく! じゃあねー!」
そう言い残して嵐のように。
あるいは、蜃気楼の如く。
一瞬のうちに女性は姿を消していた。
途端、周囲にざわめきが戻る。いつの間にか通りを行き交う人々が再び現れていた。なにもかもが女性の出現前と変わらない。風の匂いも、陽射しの暖かさも。
「……白昼夢でも、見てたみたいだ」
呆気に取られるとはこのことだ。レーゲンが呟いた一言に、ヴィルも頷いてみせる。彼女は「対象、完全にロストしてます」と前置きしてから、
「おっそろしい人でしたね。恐らくですが、相当の実力者ですよ」
「だろうね。もし戦うことになってたら、一瞬でやられてたと思う」
「というより、完全に喰われてましたね。いやはや、情けないです」
「いやあ。ヴィルですらそうなるんだから、もうどうしようもないよ」
まったく、世の中は広い。想像もつかないことが次から次へと起こるものだ。ただ、別れ際の余韻はそう悪くなかった。ならばこれも一期一会、旅の醍醐味としておこうか。レーゲンは肩を竦め、そう自らを納得させた。
「あ、本当に支払いされてますよ。ほら、伝票が……」
ヴィルの指摘にそちらを見やれば、なるほどテーブルの片隅にいつの間にか、注文内容の記載された一枚の紙切れが置かれていた。
どのようにしたものか、きちんと支払い済みの印も捺してある。
どうやら彼女は約束を守ってくれたようだ。レーゲンは伝票を手に取り、何気なく裏返してみて、今度こそ度肝を抜かれた。
そこに書かれていたのは、流麗な筆跡で、ごく短い一文。
「……追伸、ヴォルケ・アーヴェント氏によろしく、……だって」
レーゲンはテーブルに突っ伏した。どっと疲れたようだった。そうして大きく、大きく溜息を吐いてから、ふやけた声色で言う。
「……ヴィル。秘密鍛錬の件さ、後でエメリーたちにも言うよ。で、謝る。やっぱ、ちゃんと本音で話しないと駄目だよねって、つくづく感じたから」
「ふむ? 隠しておきたかったのでは?」
「本音、というか弱音ではね。でも、まだまだ足りてないんだ、私は。もっと強くならないといけないのに、隠れてやってちゃ、間に合わないから」
「……ですか。いいと思いますよ。きっと認めてくれますって」
「そうだといいなあ。でも、エメリーは怒るだろうなあ。やだなあ」
「エメリーさんはいつも怒ってますよ。誤差ですって、誤差」
「あはは、かもね。……よし、ちょっと気楽になった」
そして、席を立つ。大きく伸びをして、伝票を掴み取り。
「……よし! ヴィル、もう一件行こう! ここの支払い分、浮いたしね」
「おお!! 良いですねえ、大賛成です!! ぱあっと行きましょう!!」
すっかりご機嫌で小躍りを始めるヴィルを眺めながら、はてさてヘソクリの残りは幾らぐらいだろうとレーゲンは考えつつ。
「エメリーたちは、なにしてるのかなあ」
好く晴れた空を見上げて、独り言ちた。
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2023/07/11:会話を一部修正しました。ストーリー自体の変更はありません。




