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通り雨の旅行士《トラベラー》  作者: 赤黒伊猫
インターミッション:騒乱劇のその後に
37/41

シーン10:騎士たる者は――



 -§-



「はわぁ……! シュレーダー大尉、恰好良いです……!」


 不意に背後から聞こえてきた、感極まったようなその科白。明らかに聞き覚えのある、まだあどけなさを残した声に、コルトンは思わず嘆息を零した。


(なんとなく予想はしていたが、……やはり観に来てしまったか)


 はてさて、どうやってここまで侵入(はい)って来たのだろうか。

 練兵場の入り口は「立ち入り禁止」の張り紙と共に封鎖してあったはずだし、至る経路の途中には見張り役として部下を立てておいたのだが。


(いくらなんでも強行突破してきたわけではないと思うがな……)


 侵入者を見逃すほど迂闊な者たちではないし、まさか力尽くで入って来たわけでもあるまい。あるいは可愛い後輩の頼みだからと情に絆されて目溢ししたか。考える間も件の声は止まることなく、それどころか徐々に調子を上げていく。


「まさか、大尉の騎士の宣誓を、生で見れるなんて……! い、生きてて本当によかったよぉ……! はぁぅ、ヴァルト小隊長ありがとうございます……!」


 よほど眼下の光景に心を奪われているのか、少しばかり卑俗な心境が独り言として駄々洩れとなっていることにも、どうやら気付いていないようだった。

 このまま放置すればリーンハルトたちにも聞こえかねない。そうなれば彼らの決闘に水を差すことになり、()()自身にも気の毒な結果となるだろう。

 コルトンは数秒ほど逡巡した後、やれやれと頭を振ってから振り返る。


 そこに居たのは案の定、薄墨色の髪をボブカットにした、あの見習い騎士団員。リーンハルトの熱狂的ファンである、テア・アインホルンだった。


「やあ」

「あっ」


 二人の視線がかち合う。そこでテアは初めてコルトンの存在に気が付いたように、焦茶色の瞳を大きく見開いた。瑞々しい頬を冷や汗が一筋伝い落ちていく。


「……えっと。その。……き、奇遇ですね? ヴェーバー小隊長?」


 どうやらしらばっくれることにしたらしい。観覧席のひとつにちょこんと腰掛けたまま、すまし顔で言い返してくるテアに、コルトンはじっとりとした半目を向けた。効果は覿面だった。途端にテアは表情を凍りつかせ、しどろもどろになる。


「確かに奇遇だね。なにせここは今、立ち入り禁止のはずだ」

「あぅ、えっと。そ、そうなんですか、あはは……。し、知らなくて、その」

「悪いが誤魔化しは通じないぞ。入口の張り紙が見えなかったはずはなかろう。来る途中でも止められなかったか? だいたい今日はこの練兵場は貸し切りだと、事前に通達しておいたはずなんだがな。……どうして、きみがここに居るんだ?」

「あの、その。……た、た、大尉の戦う姿を、どうしても見たかったので!!」


 答えに窮したテアは、最終的に開き直ってしまった。あまりに明け透けなその言いように、コルトンはそれ以上の追及を諦めることにした。


(……こうも素直に言い切られてしまってはなあ)


 テアの澄んだ焦茶色の瞳は、いまや()()()()()に対する想いの丈を反映してキラキラと輝いている。そんな表情を見せられれば毒気も抜けるというものだし、侵入の手段を根掘り葉掘り聞き出している時間も今はなかった。


 無論、リーンハルト絡みになると箍が外れるだけで、普段は規律に忠実で誠実な人柄の彼女である。おそらく「出ていけ」と命ずれば素直に従うのだろうが、


(幼子が大事に抱えているぬいぐるみを奪い取るような真似はすまい……)


 最終的にお人好しの小隊長はそう結論した。


 ……もっとも。コルトンはテアの侵入に少し前から気付いており、彼女が静かに観戦し続けていたならば最初から見逃すつもりであったのだが、さすがにあれだけ大声を上げられては「居ない者として扱う」ことも不可能だった。


 とはいえ、言うべきことは言っておかねばならない。


「良いだろう。きみのことは見なかったことにする。ただし、今回限りだぞ」


 コルトンが釘を刺すと、テアは異論を差し挟まず殊勝に頷いた。その態度にコルトンはひとまず納得する。それに、なんだかんだといって、


「……その、申し訳ありませんでした。駄目だって解ってたのに、つい」


 この見習い騎士団員、根は真面目なのだ。赦された途端に申し訳なさそうな顔をするのは、やはり彼女自身、自らの行いに後ろめたさを抱えていたのだろう。


「追い出されると思っていたのかな? 私はそこまで狭量じゃないよ」

「規律違反を犯したのは事実ですし、赦されたのならばなおさら、ヴェーバー小隊長の優しさにつけ込んだことになりますから。……騎士として恥ずべき行いです」


 俯いてしょんぼりとするテアに、コルトンはあくまで穏やかに語り掛けた。

 

「反省してるならそれでいい。そもそも騎士団員である君が、王城内の施設へ自由に出入りできないというのも、本来おかしな話ではあるしな。……まあ、とは言え。他の者に示しがつかんから、私が許可したことは大っぴらにしないように」


 言ってから、コルトンは眼下の舞台に視線を戻す。そこではちょうどリーンハルトたちの会話に一区切りが付いたようで、今まさに騎士の誇りと正義を懸けた正当なる決闘が、本当の意味で始まろうとしているところだった。


「さあ。もっと前で見るといい。あれが騎士を任ずる者同士の決闘。きみが目指すべき者たちの姿だ。私の説教などより、よっぽど覚えておくべきものだよ」


 コルトンに促され、テアはおずおずと進み出てくる。そうして「憧れのかたち」を映した彼女の瞳は、再びキラキラとした輝きに彩られた。


(若さというのは、まったく特権だな。私にもこんな時代があっただろうか)


 そこはかとなく心の老いを感じつつ、コルトンもまた弟子の立ち居振る舞いに目を凝らす。宣誓を終えたリーンハルトの表情は、喜びと誇らしさに満ちていた。


(始まる前に私が感じていた不安は、どうやら杞憂だったようだな)


 もっとも、さきほど両者が不穏な雰囲気になりかけた時には、思わず腰を浮かしかけたのだが。大方、リーンハルトの言葉足らずがまた妙な誤解を生んだのだろうと察しはつくが、心臓に悪いのでああいうのは本当に勘弁してほしい。


(……とはいえ、その悪い流れを彼自身で断ち切ることができたのは立派だ)


 男子三日合わざれば刮目して見よと人は言う。しかし実際に男が一皮剥けるには、どうやらわずかなきっかけがひとつあれば、それで事足りるようだ。

 そうだ。リーンハルトは明らかに成長した。その全身から発せられる、今まで感じたことがないほどの自信、生き生きとした力感にコルトンは頬を緩めた。

 そうして思い起こすのは、ついさっき聞いたばかりの彼の宣誓。


(きみらしい誓いだよ、リーンハルト。それがきみの信じる誇りと正義、誠の騎士たる者の姿か。その憧れを、きみ自身が言葉にできたことが、私には嬉しい)


 あとは彼自身がその理想を貫き通せるかどうか。そして、だからこそ。


「――きみの憧れに敗けるな。勝てよ、リーンハルト……!!」


 送る言葉は、吹き荒れた疾風に浚われていった。



 -§-



 決闘が、始まる。



 -§-



 片や剣、片や拳。それぞれ頼みとする武器は違えど、込められた誇りと正義の重さは共に等しく。尋常なる決闘の誓いを胸に、二人の騎士が激突する。


 先攻の権利をもぎ取ったのは、拳の騎士(リーンハルト)だった。


「――おおォッ!!」


 雄叫びと共にリーンハルトが踏み込む。

 蹴られた土が捲れ上がり、芝が根こそぎ千切れ飛ぶ。

 桁外れの筋力がもたらす推進力が、ただの一歩で彼我の距離を殺した。


 (0.5)秒も要さず。クリストフはリーンハルトが自分を射程内に捉えたことを知る。


「行くぞ……ォオッ!!」


 右拳、()()。エーテルが散らす燐光の軌跡は定規で引いたような一直線。

 全身の体重を乗せて放たれた正拳突きが、大気を打ち抜き快音を奏でながら、クリストフを目掛けてまっしぐらに迫る。

 正中線ど真ん中。誤魔化しも躊躇いも一切ない、ド正直な鳩尾狙い。


 刹那の間隙。先制攻撃(イニシアティブ)を奪われたクリストフが、粘着くような時間の中で眉根を浅く顰めて「こうなると、やはり速いな」と呟く。


 ≪刃の修羅クリンゲ・ウンティーア≫によって強化されたリーンハルトの速度は、術に頼らず音の速さを超えるクリストフの踏み込みをもわずかに上回っていた。

 それは時間に換算すれば、瞬きひとつ分の極めて小さな差だが――


(――初撃の優位を生み出すには、十分すぎるほど決定的な差になる!)


 〈烈刃〉の名を頂く騎士が全力で放つ拳は、比喩や誇張なしに岩を砕き鉄をも貫く。まさしくそれ自体を武器と呼ぶに相応しい威力が乗った剛拳だ。その標的とされる危険性について、クリストフは文字通り()()()()()経験済みである。


(改めて目の当たりにすると、破城槌を打ち込まれるような気分だな……!)


 実際、軟な城壁程度ならば、リーンハルトは拳の一撃で打ち崩して見せるだろう。身一つでの吶喊を試みるにあたって、彼以上に得意な騎士はそう居ない。

 そして現在、彼我の距離は至近となっている。術や銃では遅すぎる、近接格闘の独壇場。拳と剣のみが戦況を支配する剣戟の間合いだ。

 今から≪エーテル・アロー≫などの飛び道具を持ち出したところで、大した効果は見込めないだろうし、そもそも並みの術士では用意するだけの暇がない。


(つまり、己が剣技の冴えにすべてが懸かっているというわけだ)


 (グリース)を差された高速モーターめいて、クリストフの思索が唸りを上げる。その間にも必殺の拳は猛然と迫り来る。目標までの最短距離を的確に辿る軌道だ。

 おそらく計算によるものではあるまい。経験則からの最適解(なんとなく)だろう。ただでさえリーンハルトは、()()()()()()()を壊し慣れており、その動作に淀みはない。


(技術の拙さと才覚の乏しさを、軍歴に比しても並外れた戦闘経験値が補っている。思い切りも良い。なるほど、改めて評するに十分な脅威だ――)


 なにせ「地面を捲り上げた」ことのある男だ。その馬鹿力具合は常識で測れない。拳の直撃を喰らえば、今度こそ問答無用で意識を刈り取られるだろう。

 さきほどのカウンターに耐えられたのは、ほとんど幸運に因るものでしかない。あるいは五枚重ねの≪サークル・シールド≫がわずかに打点をずらしたか。

 だとしてもあのまま追撃を喰らっていれば、こちらの敗北は必至だったであろう。それを仕切り直してもらったのだから、返す返すも無様なことだと思う。


(――()()()()()、私は、敗けるわけにはいかない)


 現状を認めたうえで〈迅光〉と綽名される騎士の表情に焦りの色はなかった。

 機先を制された状況下でなお、彼は至って冷静に姿勢を整える。流れるように踵、足元、腰、肘。幾百、幾千と繰り返すことで定着した淀みのない所作だ。

 動揺は足元を疎かにし、焦燥は精神を脆くする。故に心身ともに平静を保って敵に相対する。凪いだ心。それが「守りの剣」を扱う者に求められる素養であり、先程までの自分が迂闊にも失念していたものだった。


 そして。万全の技術と心構えを期したならば、望んだ結果は自然と達成される。


「疾――ッ」


 一息。こちらへ迫る拳の軌道上に、クリストフはそっとレイピアの切先を置いた。木の葉が水面に浮かぶような、極めてさりげない所作だった。


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「……ッ!!」


 必中と目されたリーンハルトの拳は、クリストフが把持するレイピアの切先に触れた途端に容易く矛先を逸らされ、あらぬ方向へと突き抜けていった。

 その結果にリーンハルトが慌てた様子はない。彼はクリストフの技量を知っている。このくらいは当然起こり得ると先刻承知している。

 そしてクリストフもまた、リーンハルトがそう考えているであろうことを確信している。だからこそ気を抜かない。必ず次が来ると知っている。


(――来た)


 リーンハルトが間を置かず二発目の拳を放った。左拳、発砲。

 そこで止まらず、さらに繰り返し、三発。四発、五発。互い違いに右と左。その度に打ち抜かれる大気が、拳銃を連射するのにも似た鈍く重い音を立てる。

 当たりさえすれば一撃必殺を叶える拳を乱れ打ちの大盤振る舞いだ。


 そのいずれもが、標的を捉えられぬまま、空振りに終わった。


「実際。君の拳を再び喰らえば、その時点で私の敗けだろう――」


 それは間違いのない事実だ。しかし。


「――だが、当たらなければ意味がない」

「……ッ!! ならば、当たるまで打ち込むまでだ!!」


 リーンハルトは悔しげに歯噛みしつつも、さらに勢いを増して攻めに来る。空白地帯に身体を捻じ込むような極端な前進気勢だ。


(こちらとの距離を詰めて、刃の内側に潜り込むつもりか)


 分かりやすい目論見だが、それが果たされた場合の効果は高い。レイピアは相手と適切な距離間隔を保ってこそ最大の威力を発揮する武器だからだ。

 もちろん近接用の手段がないわけではないが、威力と速度において拳に勝るものでもない。ましてや柄頭や鍔を用いた競り合い(バインド)の技は同じ剣士への対処が本分である。そもそも刃の通らない相手に組み付かれたら劣勢は必至だ。


(またレイピアの刀身を掴まれでもしたら面白くないことになる)


 で、あるならどうするか。答えは単純だ。そうさせなければ良い。


 クリストフは巧妙な足捌きを以て、彼我の位置関係を一定に保ち続ける。相手が近付けば退き、距離を取ろうとすれば逆に踏み込むのだ。

 そうするとリーンハルトは思い通りの攻め方ができなくなる。むしろ徐々に打撃のリズムまで狂ってくる。彼はその修正をするために余計な思考をせざるを得ず、ますます攻撃の精彩を欠いていくという悪循環に陥っていく。

 こうなればしめたものだ。クリストフの動きには余裕が生まれ、より優位な立ち回りが可能になる。対するリーンハルトもこれ以上は引き剥がされまいと、打撃のピッチを上げて必死に喰らい付く。結果として攻防は加速していくが、


「どうした。やり辛そうだな、リーンハルト」


 するりするりと、まるで宙に舞う羽毛がそれを掴もうとする手から逃げ回るがごとく、クリストフは襲い掛かる拳打の嵐を自在にいなしていく。


 リーンハルトが無双の攻城兵器ならば、クリストフは難攻不落の城塞だった。

 攻め入る隙がどこにも見当たらず、強引に突き破ろうとすれば分厚い防御に阻まれる。打ち込んだ楔は即座に取り払われ、突破口は端から埋め立てられる。

 類稀なる速さを活かした攻め手を身上とするクリストフだが、翻ってその能力が守りに転用されれば途端にこれほど強固な防御の才覚を発揮するのだ。


 これは果たして何の因果か。仕切り直しの前と現在とで、両者の攻守がちょうど逆転した構図となっていた。ただひとつ一貫して変わらないのは、場の主導権が依然として、クリストフの側にあるという事実である。


「……ああ、やり辛くて仕方がない! 陽炎に打ち込んでいるようだ!」


 翻弄されるリーンハルト。しかしその口元に浮かび上がるのは屈託のない笑みだった。彼はそのまま本領を発揮した友への賛辞を率直に叫んだ。


「クリス! やっぱり、お前は凄い奴だ! まったく攻撃が当たらない!」

「……ふん。君の拳が直線的過ぎるだけだ。少しは頭を使ったらどうだ」

「生憎、これ以外にやり方を知らない! だから、貫き徹す!」

「馬鹿の一つ覚えで越えられるほど軟い壁ではないぞ!」


 連打、連打、連打。その尽くに肉を捉えた打撃音は伴わず。交わし合う言葉の他には、風を切り裂く音だけが練兵場に鳴り響く。


 汗が散る。呼気が弾ける。鼓動の音が高まっていく。


「……らしくなってきたな、クリス!」


 打ち込むリズムに合わせて息を吐きながら、リーンハルトは嬉しそうに言った。


「俺が殴って、お前が迎え撃つ! 懐かしいな、いつもこんな感じだった!」

「ああ、そうだな! だから君との決闘は嫌なんだ! 時間ばかりかかる!」

「それについてはすまないが、正直に言うと俺はその時間がわりかし好きでな!」

「その問答無用に図々しいところ、やはり君は悪い意味でも相変わらずだな!」

「イーリスにもよく言われる! だが、どうもそれが俺という男の性根らしい!」

「言うに事を欠いて女を引き合いに開き直るかリーンハルト・シュレーダーッ!」


 科白の応酬が加速するにつれて、拳と剣のぶつかり合いも次第に烈しさを増していく。いつしかそのふたつは具体的な形状を失い、燐光と銀閃が数多の線となって中空で絡み合う様相を呈する。練兵場内を満たす甲高い連打音も、やがて重なり合い溶け合って、まるで刃を研磨するようなひとつの長い響きへと変じた。


 力と力。意地と意地。拮抗状態が、生じつつあった。



 -§-



 天高く突き抜けていく音の連なりに、テアは思わず身を振るわせる。


「――すごい、……凄い!」


 呆けたような声とは裏腹、決闘を見つめるテアの面持ちは真剣そのものだ。

 憧憬に輝く両の瞳を皿のように見開いて、呼吸すら忘れたように息を詰めて。

 二人の騎士が交わす剣戟、その一挙手一投足も見逃すまいと集中している様子が、ただ傍らに居るだけのコルトンにも如実に伝わってきていた。


 そう。この若き騎士見習いは今、眼前で繰り広げられる熾烈な戦いから、なにかを学び取ろうとしている。己が信ずる憧れのかたちにわずかでも近付かんとして、その手掛かりを掴み取ろうと必死にその小さな手の平を伸ばしているのだ。


(……連中の会話内容にまで気が向いていないのは不幸中の幸いだがな)


 あの二人は決闘の最中に、いったい何の話をしているのか。コルトンはそっと眉間を抑えた。なにしろ二人とも大真面目なのがなおさら始末に悪い。


「……けど、どうして大尉の拳は届かないんだろう」


 テアの呟きは、こちらに向いた問いかけではない、とコルトンは判断する。あくまでも純粋な疑問が独り言として零れただけだろうと。


 実際。大木を引き千切るような剛拳を、針金のように頼りない外見の刃が軽々といなす光景は、ともすれば手品や仕掛けの如くそれを見る者の目に映るだろう。

 しかしこの現象に()()()は存在せず、ひいては空素術(エーテル・ドライブ)の御業さえ介在していない。クリストフが用いているのは、あくまでも純粋な剣技であった。


「……()()()と呼ばれる技術を知っているかな?」


 その言葉にテアが振り向こうとするのを「視線はそのままで構わんよ」とコルトンは止めた。そうして彼女が聴く姿勢を整えたのを確認してから続ける。


「おそらくきみも戦技訓練で基本的なやり方は習っているはずだ。原義としては『回避、受け流し』という意味の言葉が、そのまま武器や防具を用いて敵の攻撃を躱す行為の名前になったものだね。ヴァルト小隊長が行っているのは正にそれだ」

「な、なるほど……。たしかに、聞いたことがあります……」


 改めて説明してみれば、テアにとっても既知の技術であったようだ。


 コルトンは頭の中でパリイの構図を描いた。斬り掛かってくる相手の刃に対し、その側面へと剣や盾を押し当てて力を加え、軌道をずらして命中を避ける……。

 原理としては単純だが、もちろん口で言うほど簡単なことではない。

 正確なタイミングを計る目と、支点を維持し続ける把持力、刹那の力加減を過たぬ技量。どれが欠けてもこの絶技は成立しないからだ。

 コルトン自身もパリイを訓練以外で成功させたことはほとんどない。なにしろ実戦では敵がどんな軌道で剣を振ってくるかは相手次第なのだ。故に普通なら盾を用いるか防御術を発動したほうが遥かに安全だし確実だろう。


 しかしそんな技術をクリストフは当たり前のように成功させ続けていた。


「もっとも、彼のパリイはだいぶ常識外れの代物だがな。方法も、精度も……」


 本来レイピアを用いた白兵戦は攻撃用と防御用の二刀を用意するのが基本だ。

 マンゴーシュと呼ばれる両刃の短剣を左手に持ち、それで敵の攻撃を受け流したうえで本命の攻撃を突き込むやり方が、型としては正しいのだし安全でもある。


 クリストフがその正道を敢えて無視したのは、攻撃と防御を右手と左手で切り替える際に生じる、わずかな時間差と体勢の乱れを嫌ったためだ。

 また動かす部位を右腕のみに限定することで体力の消耗も最低限に抑えられ長期戦にも耐えられる上、不測の事態に備えて左腕を自由にしておくこともできる。


「しかも彼は、攻撃を()()()()()()()()()()()いる。しかも人間の拳という突起物も多く軌道も一定ではない代物を、だ。神業と評するしかないな」


 完璧に決まった受け流し(パリイ)は、受け手側の被るダメージをほぼ無効化することさえ可能だ。当然ながら刀身への負担についても同様で、だからこそクリストフの扱うレイピアは、いまだ折れるどころか刃毀れすら起こしていない。

 仮に“骸機獣(メトゥス)”の大群に四方八方から襲い掛かられたとして、クリストフはその尽くを労せず捌き切るだろう。否、実際に彼はそのようにして、計六回にも及ぶ未整調地帯への遠征から五体満足のまま生還してきたのだ。


 クリストフが用いる攻防一体の剣技は、実績に裏打ちされた“本物”である。


「まあ、大前提としてヴァルト小隊長の剣技が超一流なのに対し、リーンハルトの大雑把な我流拳闘がまったく追い付けていないのは事実なんだが」

「お、大雑把って……。そこまで言わなくても良いじゃないですか……」

「彼の師を任じる者として嘘は吐けんよ。リーンハルトは剣も銃もロクに扱えなかったからな。ともかく、そういう技量面での格差は無視できない要因だが――」


 言いつつ、コルトンは眼下の攻防を指差した。


「――なにより決定的なのは、やはり()の差だろうな」


 テアが「目?」と首を傾げたのに、コルトンはひとつ頷いて。


「並外れた動体視力と、そこから生まれる極めて高精度の行動予測だ。ヴァルト小隊長は文字通り、リーンハルトが次に何をするかを予測しているんだ。目線の動き、衣服の縒れ方、筋肉のわずかな伸縮具合。判断材料は幾らでもあるからね」

「そ、そんな……。それじゃ、シュレーダー大尉は、このままじゃ」

「ああ、勝てないだろうね。加えてそもそも地力に差がありすぎる」


 攻めれば烈しく、護れば堅く。離れれば迅き空素術(エーテル・ドライブ)が、近付けば巧みな剣術で以て相手を翻弄する。〈迅光〉クリストフ・ヴァルトは攻守両面において、その能力に一切の瑕疵をもたず、あらゆる局面で十全に実力を発揮できる騎士だ。


「リーンハルトが持つ唯一の優位性は、術によって強化された身体能力だけだ。彼が今のところ喰らい付けているのは単なる力業に過ぎない。だから――」


 一息。コルトンは眉根を寄せ、続く一言を発した。


「――ほんのわずかなきっかけで、リーンハルトの攻め手は瓦解する」


 〈迅光〉クリストフがその技巧の粋をもって、現在の膠着を崩しにかかる。



 -§-



(……重要なのは運動エネルギーを逸らすことだ。受け止めるのでもなく、弾くのでもなく、むしろ相手の勢いを後押しするように沿わせて“流す”)


 川が山頂から海へと注ぐように、水は高所から低所へと流れるものだ。自然と流れやすい方へ向かうのは、重さを持つあらゆる物体の宿命である。物理法則を捻じ曲げでもしないかぎり、すべての運動エネルギーはその法則から逃れられない。


 では、そこへさらに()()()()()()()()()をしてやればどうなるか。


「ぉおおおおおッ!!!!」


 裂帛の気合と共に次なる剛拳が飛ぶ。

 そして一撃必殺の拳が、刃の側面に触れた刹那。クリストフは、まるで脳外科医が医療器具を操るが如き繊細さで、レイピアを把持する指先を動かした。

 それは肉眼では捉えられないほんの数ミリ、否、それ以下の揺らぎだ。しかしその、綿毛が撫でる程度のわずかな力が、リーンハルトの拳に余分な速度を加えた。


「……――ッ!?」


 効果は劇的だった。


 突き込んだ拳に引っ張られるように、リーンハルトの全身が前方へと勢いよく倒れかかる。立て直せない。長身痩躯の騎士が大きく態勢を崩す。寸でのところで必死に踏み止まり、転倒だけは避けたものの、もはや上体を引き戻すには遅すぎた。


 その致命的な隙をクリストフは見逃さない。


「――≪エーテル・アロー≫ッ!!」


 受け流し(パリイ)から描画(サイン)への移行は極めて滑らかに、レイピアの切先が正確な五芒星を瞬時に描く。並みの術士ならば絶対に不可能な速度での術式発動。


 が、忘れるなかれ。彼の綽名は〈迅光〉。クリストフにとって描画術(サイン・エフェクト)は、拳と同等、近接格闘戦の手札として十分成立する武器である。


 形成、発射。鋭く放たれたエーテルの力矢は、狙いを過たずリーンハルトの顎を直撃する。炸裂音が鳴り響き、閃光が真昼の練兵場を眩く照らした。

 命中を示す確かな証拠に、しかしクリストフは満足しない。彼は続けて二度、三度と≪エーテル・アロー≫を連射。眩い閃光、炸裂音、相次いで三連発。


 常人ならば首が千切れる威力を連続で叩きこまれたリーンハルトは、


「……やはり、効かんか!」

「うぉおおおおッ!!」


 無傷。クリストフが思わず苦笑いを浮かべたと同時、リーンハルトが気勢を迸らせて矢撃の弾幕を突き破った。彼の全身を包み込む≪刃の修羅クリンゲ・ウンティーア≫の常軌を逸した防護力が≪エーテル・アロー≫の威力を完全に無効化していた。


「並みの騎士が相手ならこれで決着しているところだぞ! 君を〈烈刃〉たらしめる術、やはり何度見ても、無茶苦茶な効果だな!」


 苦り切った口調とは裏腹、クリストフの表情はどこか楽し気だ。何故ならば、


「――だが、それでこそ打ち崩しがいがあるというもの!!」


 背に庇う誰かを守り抜くことと等しくして、立ち塞がる壁を打破することに心が燃えねば、それは騎士以前に男ではないからだ。



 -§-



(――燃えているな、クリスは……!!)


 リーンハルトは思わず苦笑を漏らす。決闘の開始時とは打って変わって、現在のクリストフが示す気勢は随分と前向きだ。その事実はリーンハルトにとって喜ばしく、尊敬する好敵手を相手に全力で挑む時間は、正直に言って楽しくもあった。


 が、それはそれとして、状況は明らかに厳しい。


「……疾ッ!!」


 懐に踏み込みながら左拳を放つ。鼻面を目掛けて弾くように打つ、牽制と目晦ましが目的のジャブだ。重さと威力でなく、軽さと速さを重視した打撃。

 クリストフはそれをあっさりとレイピアの切先で逸らした。こちらの打ち込みの強弱にも適切に対応してくる。完全に見切られてしまっているのだ。

 そもそも()()()()()という感覚すらない。かすかに()()()()()という気がするだけだ。さらに一度は詰めたはずの距離も、いつの間にか離されていた。


(どれだけ押し込もうとしても、クリスの傍まで近付けない……!)


 右拳を打ち込む。躱される。

 左拳を打ち込む。払われる。

 左足で蹴り込む。逸らされる。

 右足で蹴り込む。カウンターを食らう。


 届かない。越えられない。ほんの紙一重が、あまりに遠い。


(ああ、くそ。()()()()()()になってきている……!)


 それをより具体的に言うなら()()()()()()()()()()()である。そう。これまで繰り返されてきたクリストフとの決闘において、自分はついぞこの「紙一重」を越えることができぬまま力尽き、八度もの敗北を喫してきたのだ。

 

(……あの一撃で決められなかった俺自身の不出来が、そもそもの原因だが)


 リーンハルトは内心で臍を噛む。決闘の仕切り直し自体は問題ではない。隙を突いた一撃必殺を唯一の勝ち筋として事前に定めておきながら、その決定的な好機を十分に活かせなかった自分の至らなさこそがこの苦境を招いたのだから。


 しかしこうなってくると、もはや勝機は失われたも同然で――


「――ぅおおおおおおおッ!!」


 ()()()()()、喰らい付く。だからといって、諦めて堪るものか。

 前へ、前へ。両の拳に握り締めた正義を、背中を立たせ後押しする誇りを。

 ようやく信じることができるようになった「戦う理由」を力に変えて、超えなければならないと誓った男に、遮二無二挑んでいくのだ。


(……だが、遠い。届かない。あるいは正攻法(ばかしょうじき)でその差が埋まらないなら――)


 リーンハルトは前置きなく、唐突に打ち込みを停止した。

 同時にそれまで間断なく続いていた風切り音が立ち消える。

 一瞬の静寂。直後にリーンハルトは一気に姿勢を下げ、右足を投げ出すような勢いで足払いを放った。巻き込まれた芝が三日月状に刈り取られて舞い散る。

 不意打ち気味の一撃にも、クリストフは問題なく対応した。彼は素早いバックステップで足払いを回避する。その両脚が宙に浮いた。


 つまり、ほんのわずかな時間、彼は空中に拘束される。


「――これなら、どうだッ!!」


 リーンハルトは足払いを放った姿勢から、両腕の力を使って大地を押し込み、その反作用で強引に前全身を跳ね起こす。ヘッドスプリングの要領だ。

 違いはその目的が起き上がることではなく、クリストフへの攻撃であること。爪先を揃えた姿勢のまま、リーンハルトの全身がロケットのような勢いで跳ねた。

 逃げ場のないクリストフへと、リーンハルトの蹴撃が一直線に迫り。


「どうだ、とは?」


 クリストフは、顔色一つ変えなかった。彼は素早くレイピアの切先を奔らせ、空中に新たな記号を描き出す。大小二つの四角形を重ねた記号が発揮する効力は、


(……≪エア・ジャンプ≫! それがあったか!)


 リーンハルトがその名を認識すると同時、クリストフの身体が姿勢はそのまま、見えない発条に弾かれたように後方へと跳ねた。結果としてリーンハルトの奇襲攻撃は描画術(サイン・エフェクト)の成立を示すエーテル光の残滓を散らしただけで不発に終わる。


「私が描画術士(サイン・マジシャン)であることを忘れていたか? 空中での回避手段を用意することくらい造作もない。この程度の小細工で私の動きを縛れると思うなよ」


 誇りも嘲りも一切含まれていない平坦な口調は、この程度の対応がクリストフにとって息をするようなものである事実を如実に示していた。

 描画術(サイン・エフェクト)の最大の利点は、発動が非常に素早く簡易なことだ。しかし一方で効果が単純明快な分、状況に即した使い分けが必須となる。

 恐るべきは複数ある描画術(サイン・エフェクト)の選択肢から、状況に最も有効なものを瞬時に選び取り、正確に発動してのけるクリストフの判断力であろう。


「くっ……!」


 歯噛みするリーンハルトの無防備な背中に、再び放たれた≪エーテル・アロー≫が数本纏めた束となって突き刺さった。≪刃の修羅クリンゲ・ウンティーア≫の効果によりダメージこそ受けぬものの、着弾の衝撃でリーンハルトの身体が吹き飛ばされる。


「なん、のぉッ!!」


 が、リーンハルトは挫けない。リーンハルトは空中で身を翻し着地すると、直後に強靭な足腰をもって地を蹴り、強引にクリストフの方へと身を飛ばした。

 そのままリーンハルトは両腕を大きく真横に広げ、まるで相手に抱き着きに行くような恰好で、クリストフへと飛び掛かって行く。


(指先を一本でも引っ掛かければ……)


 リーンハルトにとって最も確実な勝ち筋は、クリストフの機動力を奪うことだ。衣服の裾をほんの一瞬でも掴めれば、力任せに地面へ引き倒すこともできる。

 愚直に攻めかかるリーンハルト。しかし彼が考え付くような手段は、当然ながらクリストフにとっても想定内だ。クリストフは再び≪エア・ジャンプ≫を用いて距離を取る。リーンハルトの伸ばした指先は、標的を掠りもせずに空を掻いた。


(止まるな。動け。攻め、続けろ……ッ)


 リーンハルトは再度前進。彼我の距離を詰めていく。すっ飛ばすように三歩。一秒と経たずにクリストフが眼前に迫る。射程内。ここまでは喰らい付けるのだ。しかしその後が埋まらない。埋まらなければ、強引にでも詰めるしかない。


(不格好だろうが、なんだろうが……ッ!!)


 今度は左拳で打つ。背中側、腰の辺りを狙ったフックだ。腰の捻りを入れた重い一撃。姿勢を屈め、肩をねじ込むように打ち抜く。

 そこは単純にレイピアでは防ぎ辛い部位だ。躱そうと思えば飛び退かざるを得ず、切先で逸らすにも無理な姿勢を取らざるを得ない。


 どちらにせよ隙が生まれる。そう考えての一撃だったが、


(――これも、難なく防ぐか!)


 リーンハルトは思わず目を見張った。

 クリストフは器用に持ち手を入れ替え、なんと逆手持ちの状態でレイピアを操ってみせたのだ。もはや曲芸じみた技巧である。

 さらに驚くべきことに、その常識では有り得ない剣捌きにも関わらず、クリストフの受け流し(パリイ)はなんら問題なく機能した。

 その結果、むしろ攻撃を仕掛けた側のリーンハルトが姿勢を崩す羽目になり、


「……さきほどから、なんだ? 君らしくもない、姑息な手段ばかり」


 わずかに不愉快を含んだ声が聞こえると同時、リーンハルトのこめかみに≪エーテル・アロー≫が突き刺さった。


「……ッ!!」


 その瞬間。弾けるエーテル光に混じって、鮮烈な赤色が飛び散った。直後にリーンハルトが感じたのは明らかに術由来ではない鋭い痛み。同時、どこかで誰かの悲鳴が聞こえたような気がしたが、それは些事として意識から締め出す。


 重要な事実はただひとつ。術の効力が切れかけているのだ。


 無敵の防御を誇る≪クリンゲ(刃の)ウンティーア(修羅)≫とて、当然ながら無限に使えるわけではない。攻撃を受け止め続ければその分だけエーテルは消費され、比例して制限時間もまた擦り減っていく。そして最後には強制解除が為される。


(五十発、……否、百発は喰らってるか? どちらにせよ、長くは保たない!)


 そうなってしまえばリーンハルトにはもう、クリストフに有効打を叩きこむ算段も、詠唱術(サイン・エフェクト)と剣技を絡めた猛攻を凌ぎ切れる保証もない。

 脳裡にチラつく敗北の二文字。これまでに味わったものと同じ轍を、今回もまた踏むことになるのか。あるいは“恐嶽砲竜”の火焔を受け止めた時のように、肝心なところで守るべき者の傍に立っていられない無様を再現することになるのか。


(――冗談じゃ、ないッ)


 焦れる心とは裏腹に、戦況は明らかにこちらの不利へと傾いていた。それを裏付けるようにクリストフの表情にも余裕が滲み始めて――


「ふん、攻めあぐねて奇手を試みたか? あるいは勝負を急いで粗が出たか。その出血、そろそろ術の処理限界点(オーバーフロー)が近付いてきているようだしな……!」


 ――否。かすかな失望すら、その言葉には滲んでいるようだった。


 リーンハルトの臓腑に焦げ付くような口惜しさが沸き起こる。

 なんという不出来か。慣れぬ小細工に走った挙句、却って窮地に陥る羽目となり、その上クリストフの期待まで裏切ってしまったのだから。


 だが、それでも。だとしても。なんとしても。


「仕方ないだろう、クリストフ・ヴァルト……ッ!!」


 頬に飛び散った血を拳で拭い、食い縛った歯の奥から絞り出すようにその名を呼ぶ。眼前、彼が「意外なものを見た」とでも言うように目を丸くする。


「――俺は、お前に勝ちたくて、しょうがないんだ……ッ!!」


 視線がかち合う。彼は、逸らさない。水色の透き通った瞳がこちらを真っ直ぐに見返してくる。その奥で皓々と燃え盛る戦意の焔が感じられた。


 見られている。観察されている。一挙手一投足を見逃すまいと、神経を張り詰めて、彼はこちらを注視している。そのことが手に取るように分かった。全身に突き刺さるようなその視線が、痛みすら感じるほどの苛烈さが、無性に嬉しかった。


 そうだ。だからこそ、敗けられないのだ。


「ぉ、おおおオオオッ!!」


 咆哮一声。全身を駆け巡る戦意に委ねるまま、彼は右拳を思い切り突き出した。



 -§-



 他方、クリストフの側も態度ほど余裕があるわけではなかった。


(……すでに()()()()()も撃ち込んでるんだぞ! まだ倒れないのか!)


 決して表情には出さないながらも、クリストフもまた徐々に焦燥を募らせつつあった。戦闘鎧(コンバット・メイル)の下の衣服は池にでも落ちたかのように、噴き出した大量の汗で全身べっとり濡れており、全身の筋肉は灼熱感を伴う悲鳴を上げ始めていた。

 なにせ休む暇がない。リーンハルトが猛攻を開始して以降、クリストフは一瞬たりとも気を抜けぬまま、全力で回避行動を続けているのだ。

 それによる精神および肉体の消耗たるや筆舌に尽くしがたく、いまクリストフが動けているのは騎士として積み重ねた鍛錬と誇りの賜物であった。


 さきほどの≪エア・ジャンプ≫を用いた緊急回避も、反射的に行って成功こそしたものの内心では心臓が縮むような思いを堪えていたのが実情だ。まさかリーンハルトがあのような搦め手を持ち出してくるとは思わなかっただけに驚きも強かった。


 そこにきて我武者羅な右拳の一撃である。リーンハルトらしい率直な打ち込みは見慣れたもので、幾許かの安堵と共にクリストフはそれに応じかけ、


(――……拳速が、上がっているッ!?)


 異常事態の発生に、思わず目を見開いた。


 そう。明らかにリーンハルトの拳が速度を増していたのである。

 いったいどんな原理によるものか。まさか意志の力で限界を超えたとでも。否、いわゆる火事場の馬鹿力というものは、実際に存在するものらしい。

 ただでさえ元から頭の螺子が数本外れているリーンハルトならば、この土壇場で自らその(リミッター)を強引に外したとしても不思議ではない……。


(――ええい、余計なことを考えている場合じゃないッ!!)


 空転する思考。その狭間に生じた雑念をクリストフは強制的に排除した。

 コンマ一秒を争う至近距離(クロスレンジ)の戦闘では、刹那に満たないほどの微細な誤差でさえもが致命的な結果へと繋がり得る。況してや五行にも及ぶ雑念など危険すぎた。

 まず考えるべきは「何故拳の速度が増したか」ではなく「拳の速度が増した場合に発生する危機」であり、そしてその答えは想像するまでもなく自明であった。


 正確無比なる軌道予測が、ここに来て初めて狂ったのだ。


(レイピアの切先に、手応えが、返らない――)

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


(――臆すなッ!!)


 全身が総毛立つような感覚。怖れを捻じ伏せてクリストフは即座に回避行動に移る。とはいえ取り得る手段は限られていた。背後へ倒れ込むように逸らした上体、その数ミリ真上を、暴力的なまでの風圧を伴ってリーンハルトの拳が薙いだ。


(間一髪、かッ!!)


 無論、それだけでは不十分。すぐに二発目が来るのは分かりきっている。

 予想は現実となった。スローモーションのように傾いでいく視界のど真ん中、リーンハルトが左拳を手刀に変えて上段に構え、こちらへ向かって踏み込んでくる。


 狙いは即座に分かった。手刀による打ち下ろし攻撃だ。


 上手く考えたものだ。あるいは本能的に有効打を選び取ったか。

 倒れ込む途中の自分にとって背後は地面だ。≪エア・ジャンプ≫を用いても背中を強かに打ってしまう。地面を蹴って逃れようにも肝心の両足が浮いている。

 そして、おそらく回避は間に合わない。崩れた姿勢を立て直すより、大鉈の如き手刀の一撃に身体を叩き折られる方が早いだろう。ならば万事休すか。


 ――否、否である。


(回避までの猶予がなければ、……作るまでだッ!!)


 クリストフはレイピアを地面に突き立てて杖代わりとし、倒れ込みかけた姿勢を強引に保持した。もちろんそれだけでは良い的である。彼は平行して自由な左手指を奔らせ、星形の記号を描画(サイン)。瞬時に≪エーテル・アロー≫を生成、射出する。


 リーンハルトの左足を、より正確には()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「――……ッ!?」


 閃光が炸裂し、土塊が吹き飛ぶ。足掛かりを失ったリーンハルトの身体がバランスを崩す。放たれる寸前だった追撃の拳は不発に終わった。

 その隙にクリストフは倒れ込む勢いを利用して後転、そのまま左手だけで強引に立ち上がると、二度三度と後ろへ飛び退って十分な距離を確保。

 ひとまず危機的状況を脱することには成功した。


 が、その顔色は依然として悪かった。


 息を切らせながら、クリストフは見る。己の胸元、戦闘鎧(コンバット・メイル)の胸部装甲が、マッシュポテトをフォークで荒々しく抉ったように大きく破損している様を。

 リーンハルトの拳が。エーテルによって強化されているとはいえ、単なる素拳の一撃が、強化合金製の戦闘鎧(コンバット・メイル)をまるで綿菓子かなにかの如くに容易く千切り取ったのである。それもほんの少し、縁を掠めただけで、だ。


(……奴の無茶苦茶もここまでくると、現実かどうか疑いたくなってくるな)


 クリストフの頬を冷たい汗が伝い落ちた。口端には引き攣った笑みが自然と浮かぶ。死の恐怖など当たり前に捻じ伏せて然るべき〈ゲルプ騎士団〉の精鋭が、有り得べからざることに、単純明快な「圧倒的暴力」の前に気圧されていた。


 対してリーンハルトはと言えば、追撃を仕掛けてくるでもなく立ち止まり、己が右手をどこか不思議そうな顔で見つめながら開いたり閉じたりしている。

 自らが発揮した力に戸惑っているのか。否、感触を確かめているのだ。

 そしてその行為を何度か繰り返した後、不意になにやら確信めいた気配を鉄色の瞳に浮かべると、クリストフへ向き直って拳を構えた。燐光を纏う右の拳を。


(自分が何をしたのか“理解”した、……らしいな)


 クリストフの脳裡に「危険」の二文字がくっきりと焼き付けられた。次にリーンハルトが仕掛けてくる時、おそらく彼はさらに早く鋭い拳を放ってくるはずだ。

 その状況をほぼ確定した未来と想定した上で、しかしクリストフはもはや微塵も動揺しなかった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ならばこそ、動揺や怯懦に心を割く余裕はなかった。


「……その渇望は、騎士の誇りに、勝るものか?」


 が、クリストフにはひとつだけ、訊いておきたいことがあった。



 -§-



「さきほど、君は言ったな。勝ちたいと。私に勝ちたくてしょうがないと」


 リーンハルトは聴く。クリストフが静かな声で問うてくるのを。

 眼前、クリストフの眉を立てた烈しい表情がある。その秀麗な顔つきにはいまや、剃刀めいて鋭い怒りがはっきりと表れていた。

 自分はまた言葉選びを間違えたと、ほんの少しの後悔がリーンハルトの胸に沸き上がる。その苦みを強引に飲み下せば、代わりに腹の底から熱が噴き出してくる。


「護るよりも勝ちたいと、君はそう宣うつもりか? ……君が誓った騎士の誇りと、引き換えにして恥じぬものか、その勝利はッ!?」


 その熱を、喉奥から迸らせるのだ。答えろ。言え。恥じるな。


「違うッ!! 護りたいから、勝ちたいんだ……ッ!!」



 -§-



 ――()と始めて会った時のことは、残念ながらよく憶えていない。


 当時の俺は生きた屍も同然で、まともに認識できたのは〈骸機獣(メトゥス)〉への果てしない憎悪とその身体を砕いた感触、それに伴う薄暗い悦びだけだった。


 だから〈溝浚い〉から帰ってきてからしばらく経って、()()()()()()()()()という男が「リベンジ」を果たすために決闘を申し込んできたとき、思わず「心当たりがない」と言ってしまった。失礼にも程がある。彼が怒るのも無理はない。


 結果として、俺は敗けた。


 言い訳のしようもないほど、徹底的に敗けた。

 ようやく取り戻した自我。それを握り締めて挑んだ初めての戦いは、まったく訳の分からないうちに終わってしまい、悔しいと思う暇すらもなかった。

 ただ、打ち据えられた全身が痛かった。そして、地に伏せった俺へと去り際に投げかけられた失望と優越の視線だけが、妙に心に焼き付いた。


 翌日から彼のことを調べ始めた。故郷を失って以来、始めて持った他人への興味だった。そして人伝に聞いた話の中で、クリストフという男の為人を知った。


 なにからなにまで正反対の人間だと、率直にそう思った。

 軍人の家系に生まれ、恵まれた才覚を持ち、皆に将来を嘱望され。

 なにより、自らに降りかかった挫折を、努力の末に跳ね除けた男だった。


 俺にはできなかったことを、彼はたった一人で、立派に成し遂げていたのだ。


 イーリスに救ってもらうまで、俺は閉ざした心の中に引き籠り、自分から現状を変えようとはしなかった。他人が自分をどう見ているか、自分が他人にどんな影響を与えているか、一切考えようとしないまま好き放題に振舞っていたのだ。


 人間としての在り方の決定的な差。それを突き付けられた俺は、そのとき生まれて初めて、心の底から「悔しい」と感じたのだと今にして思う。

 何故、俺はそう在れないのか。何故、そう在ろうとしてこなかったのか。

 そうだ。父に対しても、母に対しても、イーリスに対しても抱いたことのない「劣等感」を、俺はクリストフ・ヴァルトという男に与えられたのだ。


 だから、近付きたいと思った。彼のように強く、気高くなりたかった。コルトンさんに武術を教えてもらったり、イーリスに空素術(エーテル・ドライブ)を手解きしてもらったり。まあ、その試みの大半は、結果として失敗に終わったのだが。


 しかし、少なくとも俺が自分を変えようと思い始めた最初のきっかけは、間違いなくあの男に敗北したことだった。そしてその想いは、彼と言葉を交わし、戦うたびに強くなった。繰り返し敗北を喫するたびに固い決意へと変わっていった。


 それでも当時は自覚がなかった。いや、今に至るまではっきりとは理解していなかった。俺にとっての生き甲斐は〈骸機獣(メトゥス)〉を殺すことだけなのだと、そう思い込んでいた。それしかないのだと決めつけていた。


 けれど。本当の意味で騎士になりたいと願い、自分にはまだ望めるものがあるのだと受け止めて、やっとのことでその感情に明確なかたちを得た。


 俺にとって、クリストフ・ヴァルトは、超えるべき目標なのだ。



 -§-



「なあ、クリスッ!! 俺の誇りは、……誰かに敗ければ果たせないッ!!」


 叫ぶ。胸を切り裂き、心臓を掴んで引き摺り出して、晒すように。


「総てを護りたいのなら、もう二度と、誰にも敗けられないッ!! お前にも、お前より強い者にも、この世界のどんな相手にも敗けられないッ!!」

「私をその手始め扱いにするつもりか、リーンハルト・シュレーダーッ!!」

「ああ、そうだッ!! 肚の底から憧れた凄い男を、全身全霊賭してそれでも超えていけないようなら、俺はこれから誰にも勝てないだろうよッ!!」


 それは怖れであり、また同時に決意であった。対するクリストフは一瞬だけ面食らったような表情を見せた後、笑みを浮かべた。リーンハルトは直感的に、それが今自分の顔に浮かび上がるものと、同じ性質を秘めていることを悟った。


「リーンハルト! 君の覚悟、このクリストフ・ヴァルトがしかと受け取った!」


 その言葉を契機として、クリストフの纏う空気が変わった。

 否、さらに研ぎ澄まされたと評したほうが正確だろう。

 これまでも彼は真剣であった。真摯であった。


 しかし、今の彼はそれにも増して――


「故にこそ、――次で終わらせる。その結果、死んでも、恨むなよ」 


 ――本気で『敵』を屠り仕留めるための、純粋な殺意を露わにしていた。


「……ッ!!」 


 まるで大気が罅割れるような、極限まで高められた威圧感。それを真正面から受け止めたリーンハルトは、しかし、恐れるどころか心からの歓喜に打ち震えた。


(あのクリストフ・ヴァルトが、俺を相手に本気になってくれている……ッ!!)


 そう。クリストフが発する殺意には、憎しみや怒りといった不純な感情は、一片たりとも混じっていなかった。彼の表情は澄んだ水面が作る鏡の如く、むしろ穏やかなままに保たれており、しかしそれ故に容赦の気配も一切窺えなかった。


 つまり。クリストフは次の一合にて、決着を付けるつもりなのだ。小細工抜きの真っ向勝負、技巧の総てを注ぎ込んだ一撃を、繰り出すことで。


 ならば全霊以て迎え撃つのみ。

 リーンハルトは拳を握り締める。

 己が信ずる最大にして唯一の武器を。


(あいつを超える、その可能性に賭けて――)


 ――否。今日この場で超えるのだ。


 全身全霊、この命を賭けてでも。



 -§-



 耳が痛くなるほどの静寂が、練兵場を支配していた。


「……ヴェーバー、小隊長」


 ごくりと、テアが生唾を飲む音がやけに大きく響いた。


「し、死ぬとか、……本気じゃない、ですよね」

「本気だよ。リーンハルトも、ヴァルト小隊長も」


 コルトンの即答に、テアは絶望的な表情で彼を見た。

 きっと彼女は目の前で起きている事態が受け入れられないのだろう。

 それも当然だ。規律と正義を旨とする〈ゲルプ騎士団〉のお膝元で、誇りを賭けた騎士たちの決闘が、血腥い殺し合いへと変貌しようとしているのだから。


「と、止めなきゃ。止めなきゃ駄目ですよね? ねえ、このままじゃ……」


 平静を失いかけたテアの肩に、コルトンは静かに手を置いた。


「死なないさ。仮にどのような事態になっても、この私が彼らを死なせはしない」


 その言葉にテアは隣にいる男が誰なのかを思い出したようで、若干の落ち着きを取り戻したものの、いまだに状況に対する戸惑いと躊躇いがあるようだった。


「それに今から止めに入ったところで、二人とも絶対に納得しないだろう」

「ど、どうしてですか。だって、二人とも騎士ですよね。誇りと正義を任ずる」

「そうだ。その重みを知るからこそ、譲れない瞬間があるんだよ。是が非でも己を通さなければならない場面に、立ち向かわなければならない者として」


 言いつつコルトンは苦笑する。

 きっと傍らの幼気な見習い騎士にはまだ、リーンハルトたちが抱いている想いを理解することはできないだろう。事実としてそれは狂気に近い感情であり、傍から見れば支離滅裂な行為であるのは確かなのだから。

 しかし。しかしだ。狂気も、死の恐怖も、克服できねば騎士とは言えない。何故ならば騎士とは狂気と死と絶望の最前線に立つ者たちだからだ。


「そのためには文字通り、五体を砕かれ、命を賭けてでも退いてはならない。かつて〈災厄の禍年(カラミティ)〉を戦った先達たちも、皆そうしてきたんだよ」


 傷も、痛みも。弱さと醜さに通じる総てを鎧の下に隠し、堂々たる姿のみを民草には見せつける。血反吐と死臭が染み付いた魂を、それでも誇りと正義で輝くほどに磨き上げ、牙なき人々の明日のために槍を振るって地を駆ける。


「騎士の誇りとは、迸る鮮血によってのみ、鍛え上げられるのだから」


 騎士に憧れるとは、根本的にそういうことなのだ。


「騎士の誇りとは、迸る鮮血によって……ッ」


 そして。現実の一端を突き付けられたテアは、その生々しさをどうにか呑み込んだようだった。蒼褪めた顔に決意を滲ませ、逸らしかけていた視線を再び練兵場へと向ける。その健気な様子にコルトンは良心が咎めるのを感じた。


(……齢からすれば過ぎるほどに聡い子だな)


 コルトンがテアに語った内容は事実である。が、本来ならば見習いの身には早すぎる教えでもある。それでもテアが騎士の後ろ暗い側面を呑み込めたのは、彼女自身が幼少期に狂気と死と絶望を経験した側の人間であるが故だろうか。


(つくづく、あの時代が残した爪痕は大きいな)


 リーンハルトもテアも、その身に降りかかった悲劇がなければ、おそらく騎士になどなっていなかったはずの人種だ。騎士の誇りなど知らずに済んだはずなのだ。

 けれども過去は変えられない。起きた悲劇は覆しようもない。

 ならばその前途が少しでも善きものとなるよう、経験の総てが彼らを騎士として鍛え上げる糧になればいいと、コルトンは願わずにいられなかった。


 しかし各人の思いを置き去りに時は流れる。そして現在この場に居合わせた者たちが向き合うべきは、決闘の推移ただひとつのみであった。



 -§-



 そして、結末が訪れるまでも、やはり一瞬。



 -§-

 


 リーンハルトが踏み込む。クリストフが腰を落とす。

 動と静。あまりに対照的な所作を見せた両者の狭間で、火花が散らんばかりに圧し合う戦意に断ち割られた大気が、哭き叫ぶような甲高い音を奏でた。

 一瞬。爆ぜるように生じた真空地帯は、しかし刹那の間もなく埋められた。雄叫びを迸らせ吶喊する〈烈刃〉リーンハルト、その荒々しく躍動する五体によって。


(――もっと速く、もっと強くッ!! 今の俺に放てる、最高の一撃をッ!!)

(――全力で来い、全霊をぶつけてみろッ!! その全てを受け止めるッ!!)


 貫こうとする者、迎え撃とうとする者。重ねた想いの丈は共に等しく。

 譲れぬものは誇りと正義、そして目の前にあるひとつの勝利。

 そうだ。騎士として。騎士である前に男として。


((――この男にだけは敗けられないッ!!))


 意志と意志とが爆ぜて、そして――激突する。


「……――ぉおオオオオオオオオリャアアアッ!!」


 必然的に。仕掛けるのはリーンハルトからとなる。

 裂帛の気合を込めた左拳の一撃は、紛れもなくこの決闘内において、それどころか彼の全人生においても最高のパフォーマンスで放たれていた。

 疾風に散っていくエーテルの燐光は彗星の如き尾を引きながら、遮二無二に一直線の矢となって標的を穿ち貫かんと突き進んでいく。


 当たりさえすれば。


 彼の拳は間違いなく大山を崩し大河を断ち割るだけの威力を発揮するだろう。立ち塞がるものがなんであれ、その尽くを打ち倒したであろう。あるいはかつて敗北を喫したあの人型〈骸機獣(メトゥス)〉すらも例外でなく。


 そう。()()()()()()()()、なのだが。


(――見えるぞ、リーンハルト・シュレーダー) 


 飛沫ひとつ波紋ひとつなく凪いだ水面のように。あるいは荒れ狂う暴風にも揺るがぬ大樹のように。空間そのものを押し退けんばかりの気勢を真正面から受けながら、対する〈迅光〉クリストフは極めて冷静に迫り来る威力を観察していた。


(そして、読める。君のその素晴らしい左拳が、しかしその実は本命である右拳を確実に当てるための、あくまで前振り(ジャブ)に過ぎないことも……)


 目線の動き、衣服の縒れ方、筋肉のわずかな伸縮具合。判断材料は幾らでもあるのだ。そして心の底から真正直なリーンハルトならば猶更、全身全霊を賭しての攻撃であるならば余計に、その動きはひどく素直で読みやすいものとなる。


(……最後の最後。この土壇場で拳闘の基礎中の基礎であるワン・ツーを持ち出してくる素直さが、ある意味では君の良さなんだろうな、リーンハルト)


 仮に、受け手がクリストフでなかったならば。


 まず、こうして迫り来る拳の軌道を目で追えていないだろうし、その絶大なる威力を受け止めるだけの防御力も技術も足りなかっただろう。

 あるいは、よしんば受け止めたとしてその防御ごと貫かれていただろうし、そもそも回避を試みようにもまったく間に合わなかっただろう。


 そしてクリストフ以上の技量を持つ騎士は、このシュタルク共和国内全体を見回しても、両手の指で数えられるほどしか存在しない。

 この時点でリーンハルトの拳は、間違いなく国内最高水準に達していた。しかしそれでも「最強」ではない。「無比」ではない。


 クリストフ・ヴァルトを、超えては、いない。


(だとしても、君に敬意を払おうリーンハルト。よくぞここまで鍛え上げた。もはや二度と見下しはすまい。君は一人の騎士として誇るに値する実力者だ)


 心からの賞賛を込めてクリストフはレイピアを構え、そしてリーンハルトが全身全霊を賭して放った最高の一撃を、当り前のように受け流(パリイ)した。

 対し、リーンハルトの姿勢は、崩れない。彼はあらぬ方向へ逸れていこうとする左拳を、その強靭な足腰が発揮する優れた体幹を用いて強引に引き戻しながら、間髪入れずに右拳を構えた。馬鹿力で無理矢理に整えた滑らかさであった。


 その一挙手一投足すべてが、クリストフの予想通りであった。

 左腕を引き戻す時間。態勢を整える時間。右拳を構える時間。

 リーンハルトの所作は予め「読んだ」ものから寸分違わない。


 だからこそ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


(リーンハルト。この技を君に見せるのは、二度目だったな――)


 そう。正確無比な小技の連続発動を身上とするクリストフも、大物崩しを目的とした威力重視の一撃必殺技くらいは持っている。それは彼がかつて未整調地帯へ赴いた際、部隊を襲った大型〈骸機獣(メトゥス)〉を粉砕するために編み出されたもので、


「――“力よ”、“集いて”、“渦を成せ”――」


 囁くように唱えられた、たった三語の発動詞(トリガー)。それは描画術(サイン・エフェクト)を得手として操るクリストフが、実戦に持ち込むことを選んだ唯一の詠唱術(ワード・エフェクト)である。

 その効果は複数の攻撃術を螺旋状に束ね、一撃の威力を増幅させるというだけの至極単純なもの。あくまでも補助効果(バフ)的に用いられるものでしかない≪収束≫という術は、しかしその単純さ故に描画術(サイン・エフェクト)との喰い合わせが非常に良い。

 まして、一瞬のうちに数十発もの≪エーテル・アロー≫を放つことのできるクリストフが用いれば、その有用性たるや推して知るべしといったところか。


「――≪収束≫、……そしてッ!!」


 クリストフが構えるレイピアの切先。すでに描画(サイン)を済ませて現出していた二十八本もの≪エーテル・アロー≫が、瞬く間に刀身を中心とする螺旋運動を行いながらひとつに纏まっていき、やがて目も眩むような烈しい輝きへと変じた。


 師である〈乱輝流〉グリゼルダ・ガーレンにもその威力を認められ、実際に何十体もの大型〈骸機獣(メトゥス)〉を一撃のもとに葬り去ってきた絶技。そして完調状態にある≪クリンゲ(刃の)ウンティーア(修羅)≫をも打ち破った実績を持つ魔技。


 名を、彼自身の綽名に等しく≪迅光≫と呼ぶ。


「――せぁああああああああアアアアアアアアアアアアッ!!」

「――ぅおおおおりゃあああアアアアアアアアアアアアッ!!」


 吼えるクリストフが≪迅光≫を宿すレイピアを一直線に突き込む。それと同時にリーンハルトもまた右拳を打ち放つ。対極より放たれた刃と拳。


 その速度はわずかに、そして明らかに、刃の方が勝っていた。


(――勝ったぞッ!!)


 ただでさえ薄れつつある≪クリンゲ(刃の)ウンティーア(修羅)≫の防護、この威力で貫けないはずもなく。故に油断はなく、慢心もなく。クリストフは己が勝利を確信し、



 -§-



 並外れた動体視力によって、リーンハルトの右拳が、開いているのを見た。



 -§-



 瞬間、クリストフの脳裡に過ったのは既視感。


(――待て。どこだ。どこかで見たぞ。奴の拳が何故開いている。どこかでその状況をこの目で見たはずだ。思い出せ。何かが、……何かが不味いッ!!)


 そして、思い出す。

 それはほんの数分前。

 リーンハルトの拳速が不自然に増加した時のこと。あの時もリーンハルトの拳は、打ち込まれようとする瞬間、開いていなかっただろうか?


(――開いて、閉じる。否、握る。拳を握る。()()()を、……握るッ!?)


 凄まじい速度でピースが組み上がっていく。そうだ。あの右腕は。リーンハルトの右腕は義手なのだ。答えはすでに提示されていた。決闘が仕切り直されるその直前、騎士の宣誓を交わし合ったその直後。そこで彼が行った一動作。


 リーンハルトはどのように紋章術(クレスト・エフェクト)を発動していただろうか。


「――ぁああああああああああああアアアアアアアアアアッ!!」


 クリストフは迷わなかった。右肩が壊れても構わないとばかり、全力の上に無理を重ねて、レイピアを突き込む速度を上げようとした。骨が軋み腱が千切れる壮絶な音と痛みを味わいながら、ほんの少しでも早く刃を相手に届かせようと願い、


「クリス、……俺の、――勝ちだッ!!」


 リーンハルトの唇が、そう動くのを捉えた。そして彼が右腕を握り込む瞬間も。


「――はは、……見事ッ!!」


 直後。爆発的な閃光を発して急加速したリーンハルトの右拳が、こちらの鳩尾へと一直線に突き刺さった衝撃を感じて、クリストフは意識を手放した。



 -§-



 緑の芝が広がる練兵場の上、突き抜けるような青空の下。陽光を浴びて輝く鋼の破片を撒き散らしながら、眉目秀麗なる刃の騎士が宙を舞い飛ぶ。

 気勢を絶たれてなおもレイピアを握り締めたまま、放物線を描いて大地に落ち行く彼の姿を、拳を振り切った姿勢のままもう一人の騎士が見つめている。

 始めは茫然と。息をすることさえ忘れたような表情で、石像の如く立ち尽くしていた彼は、しかしやがてゆっくりと右拳を天高くへ向けて突き上げると、


「……――ぉ、」


 喘ぐように、呻くように。あるいは赤子が産声を上げるように。


「ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!!」


 強く、高らかに。雄叫びを轟かせる。勝利の凱歌を謳い上げる。

 

 疲れ切った身体で。

 襤褸切れのような風体で。

 しかし気高き立ち姿を示して。


 そうだ。騎士たる者は――折れず、退かず、敗けず。


 己が正義と誇りを貫いた証の勝鬨を、大空へ向けて騎士は吼え猛るのだ。



 -§-



          〈烈刃〉VS〈迅光〉


       勝者、リーンハルト・シュレーダー。



 -§-



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