シーン9:〈烈刃〉VS〈迅光〉
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……決闘とは読んで字のごとく、闘って決めるという意味合いを持つ。
この世界における決闘の成り立ちは、ゲルプ帝国の樹立以前からこの地に暮らしている民族の伝統が由来であるとされている。それは己の正義、あるいは誇りを証明するために行われる、一種の裁判に近い行為であった。
その作法に正しく従うならば、本来この場に居なければならない決闘者それぞれの身分と主張を保証するための介添え人の姿が、しかしどこにも見当たらない。
実質的に貸し切り状態となった練兵場には、決闘の当事者であるリーンハルトとクリストフの二人だけが、およそ十歩分の距離を空けて佇んでいる。
これでは第三者の目による公正な勝敗判定など望むべくもなく、どちらかが倒れるか降参するまで戦いは終わらないことになる。しかし今日この場に赴いた両名にとっては、むしろそれこそが望むところであった。
つまり今回の決闘は、力を持て余した戦士たちがお互いの力量を競い合う目的で突発的に行う、いわば「私闘」と評する方が正確なもので。そもそも勝敗の如何を他者の判断に委ねるつもりなど彼らには最初からなかったのである。
故に開始の合図として選ばれたのは、遥か遠い海の果てにあるイグルスタ合州国でもっぱら勝負事の始まりを告げる手段として用いられる――
「――コイントスだ」
クリストフが構えるレイピアの切っ先、その上。陽光を浴びて煌めく一枚のゴルト金貨が、その両面を二人の決闘者に向けるようにして立てられている。
不安定な足場にもかかわらず微動だにしない金貨は、表側をクリストフ、裏側をリーンハルトにそれぞれ見せつけている。この配置は偶然ではなく、クリストフなりの揶揄であった。つまり正統なる騎士は自分であるという意思表示だ。
無論、そんな当て付けはリーンハルトにとってどうでもいいことである。重要なのは、戦うべき相手が目の前にいて、十分な戦意を燃やしているという事実のみ。
とはいえ、いちおう訊いておくべきことがあった。それは些細な疑問だが、
「騎士としての宣誓は、なしか」
「不要に決まっているだろう」
問うたリーンハルトに、クリストフは即答した。
「騎士として懸けるべき誇りも、命を賭して証明すべき正義も、この争いには存在しない。故に開始の合図はイグルスタかぶれの兵卒どもがくだらん博打に使うこれで十分だ。この戦いを正当なる決闘として承認する者すらいないのだからな」
「ヴェーバー小隊長が決闘の承認と、ここの使用許可はしてくれているはずだが」
「……うるさいな、言葉のあやだ! 私にとっての気分の問題なんだよ!」
ちなみに審判役がいないだけで、万が一の事故に備えた監視役として、コルトン本人は現在練兵場の観覧席にて待機している。この規則ばかりは破るわけにもいかず、それ自体はクリストフも先刻承知であったのだが、
「まったく。そもそも、あの人の頼みでさえなければ、いまさら私がこんなことに付き合う義理もなかったものを……。言っても詮無いことだが……」
ともかく、と。クリストフは気を取り直して言葉を続ける。
「一度コインが落ちたら、その瞬間から私たちは敵同士だ。『降参』の声が上がるか、どちらかが継戦能力を喪失するまで戦いは続く。……君が言ったように本当に死ぬまでやるつもりはないが、まあ、骨折くらいは覚悟しておくんだな」
そこまで言って、クリストフは秀麗な細面を皮肉っぽく歪めた。
「なんなら今のうちに、例の紋章術を発動しておいたらどうだ? たしか名前を≪クリンゲ・ウンティーア≫と言ったか。あれは効果を発揮するために少し時間がかかるはずだ。それくらいはハンデとして待ってやってもいい」
傲慢。あるいは油断とも取れるその言葉は、リーンハルトにとって明らかに有利な提案であった。それを受けた彼はしかし、首を横に振った。
「いや、いい。それでは公平ではなくなる」
「……おい、思い上がるなよリーンハルト・シュレーダー。私はむしろ彼我の戦力差を公平にするために言っているんだ。身体強化術を発動していない君ごときが、私を相手に数分でも持ち堪えられると考えているなら、それは侮辱だぞ」
「違う。……すまない、また言い方を間違えたな。俺はただ、なるべく突発的な、実戦に近い形式でやりたいんだ。そうでなければ意味がないから」
クリストフを中心に爆発しかけた極めて剣呑な怒気が、リーンハルトの言葉によってわずかに萎んだ。代わりに表れるのは疑念と困惑。さすがのクリストフもリーンハルトの真意を図りかね、どういうつもりかと問い質そうとするが、
「……急いでいるんだろう、さっさと始めよう」
素っ気ない返事を返され、クリストフのこめかみに太い青筋が浮き出た。
リーンハルトとしては純粋に、いい加減に前置きが長くなっているのを気遣ったつもりなのだが、クリストフにしてみれば梯子を外されたも同然である。彼の思考はいまやどこまでも自分勝手な腐れ縁の仇敵に対する怒りに満ち満ちていた。
「君というやつは、いつもいつも……ッ」
それでも騎士としての意地が働いたか、はたまた怒りが一周して却って冷静になったのか。クリストフは激することなく、むしろ静謐な顔つきで吐息すると、
「――、」
ピン、と。心地良い音を立てて、ゴルト金貨が天高く跳ね跳んだ。金色の円盤が抜けるような青空を背景に踊り、やがて真っ逆さまに大地へ向かう。そして、ごくかすかな葉擦れの音を立てて、着地した瞬間。
「……ふッ!!」
吐息一つ。芝を蹴り、散らし、クリストフが前方へ踏み込んだ。
その姿がぶれ、揺らぎ、線の集合体と化すまではほんの一瞬。
鞭を強く振るような鋭い風音が響き、次いで甲高い破裂音。
「ああ、望み通りさっさと終わらせてやるともさ……ッ!!」
その残響にクリストフが重ねた呟きが、開戦の合図となる。
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「――速い」
観覧席に腰掛けるコルトンが、眼下の光景に感嘆を込めて言う。開始の合図から一秒と経たぬ間に、クリストフは五歩分の距離を一気に駆け抜けていた。
おそらく瞬間的にではあるが、彼は音の速さを超えていただろう。鍛え上げた肉体、磨き上げた技術、打ち固めた精神。その三つが揃って初めて可能な業だ。
「いつ見ても怖気が立つ。……さすがは〈迅光〉クリストフと呼ばれた男だな」
クリストフ・ヴァルト。中央軍在籍時代から極めて優秀な成績を示し続け、実質的な引き抜きにより〈ゲルプ騎士団〉に入団してからたったの一年。若干二十五歳にして小隊長の地位へ上り詰めた実力は、けっして伊達ではない。
生まれは帝国時代から脈々と受け継がれてきた軍人の家系。文武両道にして礼儀作法にも通じ、まさに生え抜きのサラブレッドとでも称すべき人物だ。
その上で「現場を体験しないことには兵士の実情を掴めない」という実家の教育方針から、敢えて一兵卒としての立場に身を置きつつ、並行して騎士としての専門教育をも熟してきたという異色の経歴を持っている。
実直にして清廉潔白な性格から、彼直属の部下を含める騎士団員たちからの信頼も篤い。自他共に規律に厳しく少々生真面目に過ぎるきらいはあるが、騎士を名乗る以上その徹底ぶりはむしろ美徳と捉えられるであろう。
軍功を見ても大したものだ。獲得した記章については数知れず、射撃や運動能力等の技能を競う大会では、そのほぼすべてで優勝経験がある。
加えて医学知識や土木・建築技術など、軍事に有用な特殊資格も一通り習得しており、どの兵科に配属されても専門家顔負けの働きが可能だ。
(中央軍どころか騎士団全体を見渡しても、彼ほど多彩なスキルを持つ者はいない。万能兵士と呼ぶべきものがあるならば、それは彼のことだろうな)
また、昨今では実戦を一度も経験したことのない若い兵士が軍内に増えつつあるなかで、クリストフはシュタルク共和国南部の未整調地帯への遠征履歴がある。
かつて〈災厄の禍年〉において国内最大の激戦区となったその一帯には、いまだに濃密な瘴気が渦巻いており、大量の〈骸機獣〉が日夜湧き出し続けている。
屈強な丈夫でも半日で音を上げ、経験豊富な古兵でも油断をすればたちまち死にかねないほどの、国内で最も過酷な状況にあると皆が口を揃える地獄。そこへクリストフは一度や二度ではなく、通算六度も赴き、生還しているのだ。
(彼が騎士団にスカウトされたのも、その危機回避能力の高さを見込まれたというのが一番大きな理由だったか。当時“護帝剣”の一人が南部遠征に帯同していたのも、ある意味では青田買いに近い狙いがあったんだろうな……)
ちなみに現地でクリストフを見込み熱心に勧誘を行った“護帝剣”の紅一点、〈乱輝流〉グリゼルダ・ガーレンが、現在の彼の直属の上司である。
如何にもお坊ちゃん然とした華奢で清廉な風貌とは裏腹、荒れ果てた獣道を不断の努力に末に踏破してきた彼は、まさに筋金入りの根性派であった。
(……リーンハルトとは、あらゆる面で対照的な人物と言うべきだろう)
比類なき努力と恵まれた才能。成るべくして成った、現代における騎士の模範解答。それがクリストフ・ヴァルトという男の評価であった。
実践においても隙はない。兵士としての基礎的な能力が高水準にあるのは当然として、巧みに洗練された剣捌きは、超一流と呼んで差し支えない域にある。
また生来の素質か頭の回転が極めて速く、冷静沈着にして正確な判断力から部隊長としての優れた適性も持ち、それは単騎戦闘でも遺憾なく発揮される。
特に空素術に頼らない肉体由来の純粋な速度においては、小隊長クラスでも抜きん出た能力を有しているとまで評されている。
事実、並大抵の技量では彼が踏み込む瞬間を認識することさえ不可能だ。そのまま致命部位にレイピアの鋭い一撃を喰らって即戦闘終了となるのが通常である。
コルトンでさえ開けた空間で真っ向から切り結べば勝負にならない。仮に初撃を防いだとして、そのまま速度を増して縦横無尽に駆け回るクリストフに四方八方から斬り掛かられれば、やがて対処が間に合わなくなり圧殺されるのが関の山だ。
(彼の得意なレイピアで競えば勝負にならんな。同じ長剣を使い、背を壁に預ければ、どうにか五分くらいには持ち込めるか……)
しかしそれは、あくまでも「純粋な剣技」のみで競った場合の話だ。
クリストフの武器はそれだけではない。さきほど列記した三つの長所に加えて、もうひとつ――超常を具現化する術理の力を彼は手にしている。
コルトンは見た。レイピアを構えるクリストフの右腕、そこに嵌められた手袋に刻まれた文様が、いつの間にか淡い燐光を発している事実を。
(手加減の気配はない。どうやらヴァルト小隊長は、初手からお前を本気で仕留めるつもりらしいぞ、リーンハルト……!)
開始早々に訪れた窮地。その結果が示されるまで、残り時間はわずかしかない。弟子を見守るコルトンの目がわずかに細まった。
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頬で風を切る感触が、まるで火花を散らすような激しさを帯びている。
それは全身に漲る力が熱となり、また鋭さとなり、大気を割り裂いて駆ける己が身を灼熱の刃へと変えているからだろうか。一閃と化して吶喊するクリストフは、刹那に脳裡を過ったそんな雑念を、次の瞬間には捨て去っていた。
見据える先には打ち倒すべき敵の姿。こちらへ対して迎撃の構えを取るリーンハルトがいる。彼我の距離は残り五歩。到達するまで一秒も要らない。少なくとも術の発動は間に合わないだろう。生身に刃を叩き込めばそれで終わる――
(――普通の相手ならば、な)
クリストフはリーンハルトのしぶとさを嫌というほど知っていた。
常軌を逸する鍛錬によって鍛え上げられたリーンハルトの肉体と精神は、術抜きでも驚異的な頑健さを内包している。実際の例として中央軍時代にリーンハルトはほぼ不眠不休の状態で三日三晩にも及ぶ単独行軍を成し遂げている。
また各種苦痛への耐性も高く、特に純粋な「痛み」に関しては異常なほどに我慢強い。状況によっては相手の攻撃を避けすらしないほどだ。
つまりリーンハルトに対しては牽制の類がまったく意味を為さず、また彼が意識を失っていない限りは確実に反撃が飛んでくると見ていい。そしてリーンハルトを一撃で気絶させられるような人間は、騎士団の中にも数えるほどしかいない。
(……まさに全身が鉛で出来ているような男だ、奴は)
当然ながら倒すのは容易ではない。もしも不用意に近付けば、人間離れした膂力から繰り出される強烈な打撃を喰らって、そのまま一発KOである。
故にリーンハルトを相手取る場合は、遠距離から攻撃術を連射して体力を削り切るのが常道で、必然的に勝負が決するまでには長い時間を要してしまう。
そこへさらに≪クリンゲ・ウンティーア≫が発動していた場合は、もはや純粋な暴力を用いての打倒は不可能に近い。クリストフ自身もその点については、リーンハルトが与しやすくはない難敵であると素直に認めていた。
(だが、いつものように長々と付き合うつもりはない。奴はまだ紋章術を発動していないから、その防御力は精々「人間離れした」程度に収まっている。ならば崩すのは容易い。予定通りに速攻で以て決着してやる)
代わりに生じた決断的思考は無論、この下らない「決闘」を早々に切り上げるため。ただでさえ低かったクリストフのモチベーションは、リーンハルトとのどこまでも噛み合わない問答を交わすうちに、もはやどん底まで落ち込んで――
(……いや、本当にそうだろうか)
――気付けば、レイピアを握る指先に力が籠っていた。
おかしな話だ。あれほど嫌っていた男を前にしておきながら。あれほど疎んじていた「決闘」が始まってしまったというのに。弾かれたコインが落ちたその瞬間、スイッチが切り替わるかのごとく、クリストフは本気になっていた。
それは軍人の家系に生まれた者の習性か。それとも騎士を任じる者としての責任感か。あるいは単純に男という生き物が持つ本能か。
少なくともクリストフの中に「戦いで手を抜く」という思考は端から存在しない。そもそも相手や状況の如何によって士気の程度が左右されるような者は騎士ではない。騎士とは油断せず、慢心せず、激昂しない者なのだから。
心の乱れは油断を生む。油断は判断を誤らせ、致命的な失策へと繋がる。失策は敗北を招き、そして騎士の敗北は、取り返しのつかない損失をもたらす。
(騎士とは、――その背後にある総てを守護する者故に)
そう、だからこそ。
(私は君が嫌いなんだ、リーンハルト。規律を破り、風紀を乱し、多くの人々を不安にさせて。剰え私自身をも、こうして惑わすような輩が……ッ!!)
クリストフは本気になっていた。本気になりすぎていた。リーンハルトを相手取るといつもそうなる。下手をすれば顔を合わせるだけで心が乱れた。その理由を正確に捉えたことはない。しかし不愉快なのは確かだった。
即ち、リーンハルト・シュレーダー。騎士の誇りを穢す者なり。
「さきほども言ったが、リーンハルト――」
よって、クリストフは容赦しない。
「――後悔するなよ。これは君が望んだ結果だ」
高速で流れていく景色の中、もはや圧さえ感じるほどの烈風に言葉を吐き捨て散らし、クリストフは右手のレイピアを左右に猛烈な勢いで振るう。
「……疾ッ!!」
猛々しくも鋭い剣捌きは、急加速によって生じる空気抵抗をものともしない。手袋から伝わった淡い燐光が刀身に纏い、真昼の空に眩い軌跡が幾つも躍る。
切先に割り裂かれた大気に次々と刻まれていく精緻な図形は、そのすべてが正確無比な五芒星。図形を構築する燐光の正体は、言わずもがなエーテル光だ。
クリストフが着用する手袋は簡易的な魔導具である。その効果はエーテル制御の安定化と出力の強化。さらに彼が扱うレイピアは刀身にエーテルを流すことが可能な特別製、言うなればレイピア型の空素筆とも呼び表せる代物だ。
描画術士。それがクリストフ・ヴァルトという騎士に与えられた才の名前であり、また彼自身が徹底的な鍛錬によって磨き上げたもうひとつの剣であった。
そしてクリストフの六歩目が大地を踏むと同時、彼の喉から発せられた意気ある声が、命ずるようにその術の名を叫んだ。
「≪エーテル・アロー≫、……射出!」
瞬間、鮮烈なエーテル光が真昼の舞台を照らす。光輝の五芒星は即座に形状を撃ち貫く力の具現へと変じ、クリストフの身体に先んじて空を駆けた。
≪エーテル・アロー≫。発動が比較的容易であり、速射性と威力に優れ、発揮される効果は「標的を追尾して撃ち抜く光の矢」と単純明快の一言だ。
攻撃用途に類する描画術としては基礎も基礎、荒事に携わる者ならば必修レベルの術と言ってもよく、その取り回しの良さから使用者数も非常に多い。
……裏を返せばそれだけ平易な術だからこそ、実戦においての有用性は、使用者の技量によって大きく左右される。
その度合いを測るための最も分かりやすい指標は、数だ。
クリストフが描いた五芒星の数は、合計して実に二十八個。その間に彼の身体はまだ空中にあった。つまり一歩の間隙、その刹那に描画を完了したことになる。
そう。クリストフの武器は「眼にも止まらぬスピード」と「巧みに洗練された剣捌き」だけではない。その二つに「生来の高速思考能力」を複合することによって生まれる「正確無比かつ極めて高速の描画術行使」なのだ。
故にその綽名は〈迅光〉。迅く、鋭く。狙い過たず敵を射抜き、容赦なく穿ち貫く光の刃。怒涛にして流麗。苛烈にして冷徹。触れなば切り裂くその切れ味は、彼の前に立ち塞がる者を徹底的に打ちのめし、骨も肉も区別なく粉微塵に粉砕する。
もちろん、その対象が〈烈刃〉の綽名を頂く騎士であっても、例外はない。
(さあ、どうする? 大口を叩いたんだ、このくらいは凌いで見せろ!)
クリストフの口端が、ほんのわずかに上を向く。初手からの圧殺を狙っておきながら、その胸中には少しばかり矛盾する想いがあるようだ。
もっとも彼自身は、あくまでもそれを「敵と対峙する上で当たり前の警戒意識」と認識しており、間違っても「期待」などと称することはないだろうが。
「……ッ!」
一方、己を目掛けて殺到する力矢の群れに対し、リーンハルトが選択したのは回避ではなく防御の構えだった。彼は体勢を半身に、腰を据え、右腕を突き出す。その様子を目の当たりにし、クリストフの顔に困惑の色が浮かぶ。
(……馬鹿正直に受け止める気か!?)
≪エーテル・アロー≫は〈骸機獣〉に対しても有効な攻撃術だ。人間が生身で受け止めれば最低でも骨折、酷ければ腕が千切れてもおかしくないだけの威力がある。
もちろん今回は模擬戦であるため、クリストフは意図的に術の殺傷力を抑えている。高い汎用性と簡易性と引き換えに改変の余地を失った描画術だが、さすがにその程度の調整ならある程度の技量があればそう難しくはない。
それでもまともに喰らえば重傷を負うことは避けられない。下手をすれば全身打撲で、再び入院生活に逆戻りする羽目になるのは明白だ。
だというのにリーンハルトは紋章術を起動せず、回避すらせず、まるっきり無防備に近い状態である。これでは自殺行為に近い。
いったい、なにを考えているのだろうか。向こうから決闘を持ちかけてきておきながら「勝つ気がない」とも取れる態度に、クリストフは疑念を覚える。
(普段から内面を窺い知れぬところのある男だが、いくらなんでも常軌を逸した判断だ。それとも何らかの狙いがあるのか? あるいはブラフか……)
いずれにしても、らしくない。だいたい、あの直情径行の突撃馬鹿が、最初から「待ち」の姿勢を取っているのも今にして思えば相当に不可解だ。
思索の時は瞬く間に過ぎ去る。最終的にクリストフが下した結論は至極単純。どのような意図があろうとも、真正面から粉砕すればそれで良い、だった。
直後、≪エーテル・アロー≫の矢群が一斉に着弾する。放たれた矢のひとつひとつは小さくとも、それらが一点に収束すれば、目も眩むほどの大光球を作り出す。リーンハルトの姿が一瞬にして激しい閃光に呑まれ、掻き消えた。
勝負あったか。胸中に生まれかけた予測を、クリストフは即座に握り潰す。リーンハルト・シュレーダーという男が、この程度で沈むはずはない。
(……しぶとさだけなら、私が知る限りでも最上位の男だ!)
ある意味では信頼にも似た感情だった。故にこそクリストフは駆け足を緩めることなく、むしろ勢いを増してリーンハルトへと肉薄する。
その判断が正しかったことは、果たして直後に裏付けられた。クリストフの鋭敏な視覚が、眩い光の中で激しく躍動する影を捉える。
正体については考えるまでもない。リーンハルトが義手の右腕を振るい、襲い掛かる≪エーテル・アロー≫の群れを、近付く傍から弾き落しているのだ。
「……野獣めッ!!」
クリストフの頬が歪んだ。嫌悪とも笑みともつかぬ形に。
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「……くぉおおおおッ!!」
獣の如き雄叫びが、修羅の如き男の喉奥から発せられていた。
初撃を一つ、二つ。続けて三、四、五。さらに六、七、八。唸りを上げて叩き付けられた拳が、次々に光の力矢を圧し折って無害なエーテルに還していく。
当たり前だが、並大抵の所業ではない。複数人から一斉に射かけられた矢を、素手で打ち落とすようなものだ。いっそ狂気の沙汰であろう。
が、そもそもリーンハルトという男は並大抵ではない。
特にその耐久性と根性には常軌を逸したものがあり、例え紋章術を発動していなくとも、意気が折れぬ限り彼はいつまでも食い下がり抗い続ける。
そしてリーンハルトの意気を、苦痛によって折ることは絶対にできない。不屈の修羅たる彼にとって、単なる痛みは膝を突く理由にはなりえないのだ。
しかしさすがに〈烈刃〉と言えども、攻撃に対して無敵というわけではない。クリストフとリーンハルトの距離が狭まるにつれ、必然的に矢撃の勢いは加速する。
着弾数はとっくに十五を超えていた。飛沫が弾けるような音の連なりは、絶え間なく押し寄せる追撃によって、激しい豪雨にも似た様相を呈し始めている。
必然、リーンハルトの右腕を襲う負荷も、指数関数的に増大していた。彼の額に汗が滲み、食い縛った歯の間から苦悶する声が漏れ出す。
だが、それでも彼は折れない。それどころかリーンハルトの新たな右腕はいまだなんの不具合も見せず、矢群を弾き落せている。
(なるほど、あの右腕は単なる義手ではないらしいな。それどころか、空素術の威力を受けても破損しないとなれば、立派に武器として成立する代物だろう。どうやら、まるっきり無策無謀で挑んできたわけでもないようだ)
クリストフはリーンハルトの戦力評価を若干ながら上方修正する。否、正確には本来の評価値に戻したと評すべきか。
(……少なくともあの義手の性能は、奴が失った右腕の代わりとしても遜色ない。それに動きを見る限り、奴自身の技量にも衰えた様子はなさそうだ)
クリストフは確信する。〈烈刃〉リーンハルト・シュレーダーの戦闘能力は、前回戦った時点と比較して微塵も劣化していない、と。
むしろ肉体と精神のコンディションに関しては両面とも、以前よりも遥かに良好であることが、彼の体捌きの滑らかさからも明らかだ。
具体的には動きに無駄な力みがなく、行動選択にも迷いがない。おそらくは決闘前に治療術かなにかを受けたのだろうと容易に察しが付いた。
(ヴェーバー小隊長の老婆心か、……あの人らしい)
無論、それを卑怯と断じるつもりはクリストフになかった。戦いに際しては体調を万全に整えてから臨むのが当然の心構えであるからだ。
つまり、現在のリーンハルトの肉体および精神は万全のコンディションにあり、技量に関しても負傷前と変わらぬ水準を保っているということになる。少なくとも大幅に劣化はしていないだろうが、一方で極端な上積みがあるわけでもない。
以上を念頭に置いたうえで、クリストフが下した結論は――
(――なにも、問題はない。ほぼ確実に、私が勝つ)
それは油断でも、慢心でもなかった。純然たる事実に基づく計算である。
何故なら大前提として、リーンハルトよりもクリストフの方が強いからだ。
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九戦八勝の勝ち越し。それがクリストフとリーンハルトの戦歴だ。
クリストフがリーンハルトと出会ってから、おおよそ五年の月日が経つ。その日から現在に至るまで折にふれては矛を交え、積み上げた勝利の数がそれだ。
唯一の黒星は初戦、中央軍時代に行った模擬戦で刻まれたものだが、それはクリストフにとっていまだに思い出すことさえ躊躇われる苦い記憶となっている。
そう。二人の関係はクリストフの無残な敗北から始まった。
文字通り、言い訳のしようもないほどの、瞬殺だった。
クリストフは鍛えた剣技と術式の才気を発揮するより早く、ただ無造作に近付いてきたリーンハルトに真正面から殴り倒されて、呆気なく気絶したのだ。
片や、一流の血筋と才覚を持ち将来を嘱望された逸材。片や、庶民の生まれにして道理の通じない軍記違反常習者。誰もが前者の勝利を疑わない中で起きた予想外の顛末は、その場に居合わせた者たちに驚愕と困惑を植え付けた。
以来、クリストフは針の筵を味わった。訓練校時代に示した優秀な成績も却って災いした。所詮は親の七光りでしかなかったのだと、周囲からの侮りと失望を含んだ視線に晒され続ける日々は、彼の誇りを甚く傷付けた。
しかし、その惨めな体験がクリストフの在り方を、根底から変えた。
クリストフの鍛錬は「血の滲むような」ものから「血を吐くような」ものになった。過酷な現場に望んで赴き、苛烈な戦場に自ら挑み、逆境の中で自らの精神と身体に鑢掛けを施した。「どこにでもいる秀才」は「唯一無二の烈士」へ成った。
一年が経過する頃には周囲の目も変わっていた。
未整調地帯への遠征歴もすでに二度目を数え、もはや軍内に〈迅光〉クリストフの実力を疑う者は、誰一人として存在しなくなっていた。
そして〈溝浚い〉から生還したリーンハルトと行った二度目の模擬戦において、クリストフは終始優位に立ち続け、ほぼ完封に近いかたちで勝利を収めた。
雪辱は完璧に果たされ、クリストフは大いに留飲を下げた。
が、それで話は終わらなかった。どういうわけかその日以来、リーンハルトが幾度となく、再戦を挑んでくるようになったのだ。
ついでに彼はクリストフに対して馴れ馴れしくなった。顔を見れば近寄り、道で擦れ違えば話しかけ、その度に「決闘」を申し込んでくるのだ。
無視しようが煙に巻こうがしつこく絡んでくるリーンハルトに、とうとうクリストフは根負けして求めに応じた。そして衆人環視の中で行われた模擬戦において、彼はリーンハルトを徹底的に打ちのめし、二度目の勝利を収めた。
これで懲りただろう。クリストフのそんな思いは、しかし見事に裏切られた。
繰り返し、繰り返し、繰り返し。何度打ち倒されても、何度地に這い蹲らされても、リーンハルト・シュレーダーの意気は挫けなかったのだ。
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それでも、と。クリストフは考える。それでも、両者の格付けはとっくに済んでいる、と。事実として三ヵ月ほど前、リーンハルトが警邏任務に出発する直前に行われた九度目の対決においても、クリストフは勝利しているのだ。
そのうえリーンハルトには「怪我の療養期間」という一ヶ月分のブランクがある。対してクリストフは同じ期間を鍛錬に費やしている。ならば当然の帰結として双方の経験値には一ヶ月分の開きが生まれて然るべきだ。
無論、たかが一ヶ月。伸びしろとしては微々たるものだろう。が、その微々たる伸びしろこそが、勝敗を分ける要因だとクリストフは信じている。
踏み込みの速度が、剣筋の冴えが、術の精度が。たとえわずかでも成長したならば、それは一刻一秒を争う戦闘において、先手を勝ち取る決定的な差になり得る。
そして常に先手を取り続けられたならば、判断を過たぬ限り戦局を常に優位に保つことができるだろう。優位を保っていれば、いずれ相手は致命的な隙を晒す。
その瞬間、一度だけ確定打を与えられたならば、それが勝ちなのだ。
クリストフは知っている。全霊を懸けて流した血と汗は己を裏切らないと。
かつて這い蹲って舐めた泥の味が、胃の腑を焦がすほどの屈辱が、今の自分を騎士として成り立たせる力なのだと。その克己心が揺るがぬ誇りに成ったのだと。
地道にして堅実。弛まず己を研磨し、一歩一歩を踏みしめるように進み、前を目指す。それがクリストフ・ヴァルトという男の本質なのだ。
だからこそ、言う。突き付けるように。断じるように。いまだに泥の中で藻掻いているだけの男へ向けて、その無駄な足掻きを嘲笑うように。
「いいか、リーンハルト・シュレーダー! 私にとって君は疾うに通り過ぎた過去でしかない! だからもう、いい加減に私に纏わりつくのは止めろ!」
被せるように、クリストフは剣を振るう。
音より速く描かれるのは、ふたつの三角形を繋げたような、ちょうど砂時計に似た形の図形だ。エーテル光によって構成されたそれが、併せて四つ。
そして疾駆する足が七歩目を踏み、芝を蹴散らし、より勢いを増して全身を前へ跳ばすと同時。クリストフは第二の術の名を宣言する。
「――≪チェーン・バインド≫!」
応じるように生じたのは、エーテル製の捕縛鎖だ。四つの砂時計がそのまま延長するようにして形を変え、勢いよくリーンハルトへと迫る。
「……くッ!?」
≪エーテル・アロー≫の処理に忙殺されていたリーンハルトはそれを防げない。まず矢撃を払おうとしていた右腕が絡め捕られ、続いて左足。バランスを崩したところで右足を拘束され、最後に残った左腕が捕縛された。
こうなるとリーンハルトは身動ぎができない。歪んだ大の字のように、奇妙な格好に四肢を固定され、守るべき正中線が無防備となる。
「どうした、私の技を知らないわけではないだろう」
「――、ぉおおおおッ!!」
即座にリーンハルトは全身に力を込め、戒めを引き千切ろうと試みた。その痩せた外見からは想像もつかない素晴らしい力感が彼の両手両足に宿り、頑丈なはずの≪チェーン・バインド≫が激しく軋む。一秒もあれば確実に抜け出せるだろう。
「させるとでも思ったか?」
その一秒を、クリストフは赦さない。
「――がっ!?」
リーンハルトの脇腹に≪エーテル・アロー≫が突き刺さった。叩き落し損ねた矢が今頃になってやってきたのだ。もちろんこのタイミングは偶然ではない。
姿勢を崩したリーンハルトを狙って、二発目の≪エーテル・アロー≫が飛んでくる。リーンハルトは身を捩って直撃を避けようとするが、光の力矢はその抵抗を嘲笑うかのように弧を描き、軌道を変じて再び彼の脇腹を穿った。
即ち、曲がる≪エーテル・アロー≫。
その繰り手は無論、クリストフだ。彼の把持するレイピアの切先が、指揮棒の如く揺れる度、それに合わせて矢の軌道と速度が変化するのだ。
「そら、次が行くぞ!」
「――ぐぅっ!!」
続けざまにもう一発、今度は反対側の脇腹に着弾。間を置かずの四発目は、リーンハルトの背中を襲った。さらに鳩尾、膝、顎。連続する矢撃は的確に人体の急所を撃ち抜き、その度にリーンハルトの喉奥から苦悶が漏れる。
一発として狙いを外さない、恐るべき精密動作性であった。
……実のところ≪エーテル・アロー≫の軌道操作はそれほど特別な技術ではない。例を挙げればあのエメリー・グラナートですら上下左右に軌道を曲げる程度はできるのだし、極めれば標的を自動追尾するようなことも十分に可能である。
が、クリストフのそれは次元が違った。彼はリアルタイムで、数十本の力矢を、円を描けるほどの急角度で操作し、目標地点に狙い過たず着弾させているのだ。
大技は要らない。奇を衒う必要もない。必要な威力を的確に通しさえすればそれで良い。用いる武器はシンプルかつスマートであればあるほど良い。
正道にして率直。一瞬の間隙もなく叩き込まれる小粒の描画術による鋭く、迅く、苛烈な攻勢。これが〈迅光〉を綽名とする騎士の基本戦術である。
そしてその“基本戦術”は、クリストフの卓越した技術に裏打ちされることで、対人戦を完封しかねないほどの威力を有するまでになっていた。
「……ゥ、ぐぁッ!!」
対してその猛威を浴びるリーンハルトは、拘束を破るどころではない。着弾の衝撃が彼の姿勢を大きく傾がせ、鈍く重い痛みが全身から力感を奪う。
その様は嵐に嬲られる案山子も同然だ。歯を食いしばり額に脂汗を滲ませたリーンハルトの表情は、彼が受けるダメージに微塵も手心がない事実を示していた。
このまま十分に体力を削ったうえで、急所にトドメの一撃を叩きこむ。それで決着だ。クリストフが想定する勝利の構図は確実に近付きつつあった。
だが、それでもリーンハルトは「参った」の一言を口には出さない。
口内を切ったのか唇の端から血を垂らしながらも、彼は依然として意気を保ち続けている。一歩も退かず、両足に力を込めて。
驚嘆すべき辛抱強さだ。同時に「こういう奴なのだ」という思いが脳裏を過る。やはりこの男はしぶとい。生半可では打ち倒せない。
そうだ。クリストフは思い出す。これまでに重ねた九度の戦いと八度の勝利は、常に全力の猛攻で以て勝ち取ったものだった。
余裕ではなかったし、いつも苦しかった。そうとも。だから嫌なのだ。奴との戦いは、毎回毎回、時間ばかりかかって仕方がない。大汗をかいて、息を切らして、心臓と肺が痛くなって。そこまでしてようやく奴は力尽きるのだ。
(そうだ、リーンハルト。君は、しぶといんだ……ッ!!)
だからこそ徹底的に打ちのめし、今度こそ絶対的な敗北をその魂に刻み込まねばならない。そして堂々と示してやるのだ。
「――だとしても、何度繰り返そうとも、君は私には勝てないッ!!」
クリストフは叫び、駄目押しの≪エーテル・アロー≫を放とうとし――
(……待て。……まさか、そういうことなのか?)
――不意に、気付いた。リーンハルトが持ち掛けてきた「決闘」の目的に。
何故、最初に紋章術を発動しなかったのか。何故、いつものように攻めてこなかったのか。何故、回避でなく無理筋の防御を選んだのか。
(そして何故、わざとこちらの攻撃を喰らうような真似をしているのか……)
その理由はおそらく、馬鹿々々しいほどに単純だ。
(……つまり奴の目的は始めから、私と技を競って戦うことではなく、ひたすら耐え続けることだったのか? だからこそ奴らしくもない守勢を選び、好き放題に撃たれているというわけだ。ろくな抵抗もせず、かといって降参もせずに――)
云わば義手の「馴らし」というより「耐久性試験」に近い行為だ。これまでのリーンハルトの言動を鑑みれば、この予想はほぼ確実と見ていいだろう。
しかもリーンハルトは義手の強度を測るだけでなく、本人の身体が負担に耐えられるかという点も含めて試そうとしているらしい。まったくもって狂気じみたやり方だが、それを理解したクリストフが抱いたのは、当初のような困惑ではなく、
(――馬鹿にしやがってッ!!!!)
今度こそ本気の、腹の底から湧き上がる失望だった。
「君は、……貴様という奴はッ!! どれだけ私を侮辱すれば気が済むんだ、リーンハルト・シュレーダーッ!!」
激情を乗せた叫びが練兵場に響き渡った。
クリストフは怒り狂っていた。ブラフでもなんでもなく、リーンハルトは「勝つ気がない」のだ。コルトンや大勢の人間に苦労をかけさせ、このような場をわざわざ用意させたうえで、ただの案山子となってこちらの攻撃を受けるに任せている。
だったら最初から一人で滝にでも打たれていればいい。なにが本気で来いだ。馬鹿にするにもほどがある。騎士という肩書をなんだと思っているのか。その名に宿る誇りと意義を理解していないのか。クリストフの胸中に黒い焔が燃えた。
その焦げ付くような感覚が、言葉に変わって喉奥から迸り出る。
「――ふざけるなよッ!! 確かに貴様は、これまで私に敗け続けているッ!! だが少なくとも、勝とうという気概はあったッ!! それがなんだ、そのザマはッ!? それが騎士の態度か、それが決闘に望む者の心構えかッ!!」
怒りに任せたクリストフの荒々しい踏み込みが大地を蹴る。すでに十分な速度が乗っていたため、芝生が大きく削れて捲れ上がった。
その生々しい傷跡をクリストフは見ない。
憤りに燃える彼の視線は、彼方に立つリーンハルトだけに向いていた。全身を打ちのめされ、息を荒くしているリーンハルトは、
(……この期に及んで、なにを戸惑った顔をしている!)
脳髄を掻き毟るような不愉快に後押しされ、クリストフは口汚い罵倒を発しかけた。が、その寸前に思い止まり、代わりに舌打ちだけを零すと、
「もういい、どのみち既定路線だ。これで終わりにしてやる……ッ!」
一方的に断じ、レイピアを構えた。
本来はこのまま≪エーテル・アロー≫を至近距離から撃ち続けた後、本命の一撃をどてっぱらに撃ち込んで意識を刈り取り穏便に決着とするつもりであったが、リーンハルトの欺瞞に気付いてしまった以上すでにその気は失せた。
(より容赦なく、より徹底的に、より残酷な形での敗北を与えてやる)
風を裂く切先が指し示すのは正面、無防備に晒されたリーンハルトの喉元。
狙うには非常に危険な部位だ。頸動脈や脳幹などのわずかなダメージが致命傷に直結する器官が集中する人体の急所であり、普段のクリストフならば仮にどれほど激昂していようが積極的に刃を向けるようなことはまず有り得ない。
しかし幸か不幸か、ここは〈ゲルプ騎士団〉のお膝元だ。医療設備も国内最高峰の機材が揃っており、優れた回復術の使い手も数多く在籍している。なにより、すぐ傍にはあの〈聖域〉コルトン・ヴェーバーが控えているのだ。
よって、どう転んでもリーンハルトが死亡することはない。
憤怒で煮え滾るクリストフの思考は、それでも冷徹な判断力をいまだ保てていた。しかしだからこそ残忍苛烈な手段に対する引き金が甘くなる。
(……殺す気で来い。この決闘が始まる前に、貴様はそう言っていたな)
ならば、お望み通りにしてやろう。何故なら相手は騎士ではない。ならば礼を尽くす必要もなく、襤褸切れのごとく地に這わせてやるのがお似合いだ。
クリストフはもはや情け容赦なく、レイピアを一直線に突き出した。そして、疾風を裂いて飛んだ刃先は――
「……やっと、手が届く」
――リーンハルトを貫くことはなかった。
(……な、ん)
刹那、目の前で起きた事象のすべてを、クリストフは見た。
いつの間にかエーテルの枷が砕けていた。リーンハルトの両腕が自由になっていた。その片方、義手となった右腕が、こちらの突き込んだレイピアの刀身を掴んでいた。危機感に全身が総毛立った。直後に物凄い力で引き寄せられた。咄嗟に抗おうとして踏ん張った足がそのまま地面から浮いた。
そして間近に奴の目を見た。リーンハルトの目が生きている。ようやくクリストフは気付いた。勘違いだった。奴は、勝利を、諦めてなどいない。
そう悟ったと同時、クリストフの鳩尾に、強烈な一撃が叩き込まれた。
-§-
「――ごっぅ、ぼぉッ!?!?!?」
苦悶を堪えることなど不可能だった。腸が丸ごと弾け飛ぶような衝撃と、背骨まで貫通する激烈な痛み。全身が軋みを上げて、そのまま吹き飛ばされる。小枝になった気分だった。鍛え上げたはずの身体があまりに頼りなく感じられた。
宙を舞いながら、そこでようやくボディーブローを食らったのだと理解した。
(た、だの拳の、一発で、……これかッ!!)
直撃の寸前、とっさに左手指で≪サークル・シールド≫を五枚重ねで発動したが、そもそも物理的な攻撃に対しては、十枚重ねてようやく拳銃弾を防げるかどうかの術である。その程度の小細工はまったく意味を為さなかった。
(≪クラフト・シルト≫の発動が間に合うか試すべきだったか……ッ!? 否、どちらにせよ、容易く破られていただろうな……ッ!!)
純粋に、速い。そして、重い。クリストフが知るリーンハルトの拳ではなかった。技のキレが明らかに増していた。信じ難い思いが胸中を支配する。どういうことだ。彼はこの一ヶ月で急激に強くなったというのか。そのきっかけは何か。
(――“恐嶽砲竜”との戦いかッ!!!!)
そうだ。クリストフは知っている。全霊を懸けて流した血と汗は己を裏切らないと。だというのに、失念していた。奴がそうでないと勝手に決めつけていた。
リーンハルト・シュレーダーは、死線を乗り越えてきたのだ。
目が曇っていた。相手の正しい姿を見ていなかった。頑迷と偏見が致命的な失策を生んだのだ。そして己が不明を恥じる余裕は、今のクリストフにはなかった。
(あ、しを……!! 足を、下に……!!)
クリストフは必死に身を捩り、空中にて姿勢を制御する。頭を上に、足を下に。しかし着地にまでは間に合わなかった。どうにか顔面から地面に突っ込むことは避けたものの、強かに背中を打ち付けてしまう。息ができなくなった。
霞む視界の端に、近付いてくるリーンハルトの姿が見えた。
「――ぅ、ぐはっ!!」
クリストフは強引に息を吸って、吐いた。衝撃で麻痺した横隔膜を無理矢理に作動させる。常軌を逸した回復処置は騎士としての強靭な肉体と意志あってこそ可能な荒業だ。そのまま身を転がし勢いを付けて立ち上がる。
同時、リーンハルトが地を蹴った。突っ込んでくる。
「ぜ、はッ!! がふ、……はぁ、はぁッ!!」
呼吸を整える暇もない。クリストフは全身を戒めようとする激痛を無視し、右腕のレイピアを力強く振るった。瞬時にして描かれた五芒星が光り輝き、エーテルの力矢と化して飛んで行く。苦し紛れの一撃は――
(通じ、ないか……!!)
――容易くリーンハルトの右腕に打ち払われた。
それでも姿勢を立て直す隙は生まれた。ガクガクと震える足腰に気合を入れ、可能な限りの力で地を蹴り、リーンハルトと距離を取る。飛び退りながら牽制として≪エーテル・アロー≫をばら撒く。時間稼ぎにもならないのは承知の上だ。
今は、ただ、考える時間が欲しい。
(……ブラフ、だったのか? すべては私を誘い込むための演技だったと? 馬鹿な。あの男にそんな器用な真似ができるはずがない。そもそもあんな真似ができるなら、最初から問答無用で突っ込んでくればよかっただけの話だ!)
理解できない。リーンハルトの思考が、その思惑が。
(クソ、上手く息が吸えない……!!)
全身を苛む激痛が正常な呼吸を阻んでいた。身体が真っ二つに裂けそうだった。今にも崩れ落ちそうな身を保つのは、偏に騎士としての誇りのみである――
(――……誇り?)
脳裏を過った言葉に、ふと、クリストフは疑念を覚えた。急激に頭が冷え、そして思う。自分は何か、とんでもない思い違いを、しているのではないか。
(まさか。いや、しかし。だとするならば、私は――)
クリストフの思考速度は人並外れている。故に小さな疑念を起点として発生した思索は、これまで彼が見聞きした情報を元に素早く整理され、やがてひとつの可能性へと収束していく。そう、本来ならばわざわざ考えるまでもないことだった。
彼は最初から、本心を明け透けに、こちらへと語っていたではないか。
「……リーンハルト、質問がある」
思わずそう口に出すと、リーンハルトは立ち止まった。訝しむような表情がこちらを見返してくる。惚けた顔だ。否、戦いの最中に質問などする自分の方が惚けているのだろう。自覚しつつもクリストフは問うた。己の思い違いを糺すために。
「この決闘の目的は、その義手の運用試験だよな?」
「……ああ、そのつもりだが」
返答には「いまさら何を言っているのだろう」と言わんばかりの表情が付いてきた。なるほど、その点については間違いないらしい。
ならば思い違いについてはここからだ。クリストフは重ねて問う。
「なら、最初に≪クリンゲ・ウンティーア≫を使わなかったのは……」
「術の効力が切れた状況を想定していた。その状態でどこまで耐えられるか、どうやって敵の攻撃を捌くか、それを試したかったんだが……」
「では、戦闘開始から君がひたすら守勢に回っていた理由も……」
「奇襲攻撃に対する防御姿勢のつもりだったが、……もしかして伝わっていなかったのか? 俺はただ単純に、耐え続けていれば必ずお前はこちらの隙を見つけて、勝負を決めに来ると思っていたんだが。そして俺の勝機はそこにしかない、と」
「……つまり。君は、手を抜いていたわけでは、ないんだな」
「クリストフ・ヴァルト相手に手抜きができるほど俺は自惚れちゃいない」
断言だった。それも即座の。故にクリストフは悟る。リーンハルト・シュレーダーの言葉に嘘偽りは一切なく、また彼の行動に不誠実な点は皆無だったのだと。
それでも、駄目押しで問えば、
「そのうえで、勝つつもり、だったんだよな。私に。正々堂々、真っ向から」
「ああ。お前と戦う時は何時だってそうだ。そうでなければ、意味がないから」
要するに、これまでの展開は――
「――私の、早合点の、独り相撲か」
言ってしまえば、それが事実だとすんなり呑み込めた。
-§-
(……クリスは、いったい、どうしたのだろうか)
リーンハルトは困惑していた。
さきほどまで苛烈な猛攻を加えてきた決闘相手が急に意気消沈してしまい、なにやら申し訳なさそうな顔つきでこちらをじっと見つめている。
自分はまたなにかやらかしたのだろうか。もしや、普段から言葉が足りないと指摘されているが、今回もそれが原因で誤解を与えてしまったのだろうか。
だとすれば謝罪しなければならない。リーンハルトはそう決意し、数秒ほど第一声の言葉を考え、結局思いつかなかったのでまずは頭を下げようとし――
「すまなかった、リーンハルト」
――先手を打たれて、硬直した。
「……何故、お前が謝るんだ? なにか、その、間違えたのは俺の方では」
「いいから聞いてくれ。私は君に騎士の何たるかを偉そうに説いていながら、肝心の自分自身がその最も重要な心構えを守れていなかった。だから、謝罪させてくれ。本当に申し訳ないことをした。思い上がった自分が心の底から恥ずかしい」
そう言われても、心当たりがない。ますます困惑の度合いを深めるリーンハルトに、クリストフは続けて言葉を送ってくる。その表情は真摯なもので、
「リーンハルト。君にとって、誇りとは何だ」
「――……俺の、誇り?」
「そうだ。それを教えてくれ」
微妙に話が繋がっていない気がする。そう思いつつ、リーンハルトは考えた。クリストフほどの男がこうまで真剣に問うてくるのだ。ならば腹の底から、堂々と、本気の答えを返さなければならない。そう思えばすぐに答えは見つかった。
故に、言う。迷うことなく、率直に。
「戦うことだ」
「……それは〈骸機獣〉を殺すということか?」
クリストフの眉が顰められる。その態度にリーンハルトは己の言葉足らずを悟った。慌てて首を振って否定の意を示し、付け足すべき言葉を探す。
「違う。いや、違わないんだが……、そうだな」
しどろもどろのこちらを、どうやらクリストフは辛抱強く待ってくれているらしい。リーンハルトはそのことに感謝を覚えつつ、慎重に口を開いた。
「……確かに俺にとっての戦いとは〈骸機獣〉を殺すことだ。かつてもこれからも変わりはないだろう。俺は奴らを赦せないし、赦せるとも思っていない。きっと死ぬまでそうだ。俺はもう一振りの刃として、修羅でさえあれば構わない――」
一息を入れ、
「――そう、思っていた。けれど、違った。俺は、守りたいんだ。理不尽に奪われようとする命や、救いを求めて叫ぶ誰かの心を。その人たちの傍へ駆け付けて、もう大丈夫だと言ってやりたい。そのために、戦い続ける。戦い続けたい」
そうだ。奪われた者のために。奪われようとしている者のために。俺が戦うことで失われずに済むかも知れない、あらゆるもののために。
「それは結局、俺のエゴかもしれない。俺が守りたいのは、俺自身でもあると思う。俺を愛すると言ってくれたイーリスのこともだ。けれどそれが俺の本音なんだ。俺は俺が大切だと思う、すべてのものを守るために、戦って……」
そこで、少しだけ迷う。こんな自分勝手で不出来な男が、その肩書きを名乗っていいものかと。その名を背負うに相応しい姿を示せているのだろうかと。
「……俺は、騎士になりたい」
しかし、想いは止まらなかった。
「俺の大切なものに、堂々と胸を張れるような、本当の騎士になりたい。それが俺の誇りだ。俺が誇りとして抱きたい想いだ」
だから、言い切った。不器用な継ぎ接ぎの科白だとしても、真剣に、懸命に。
対し、返事はない。クリストフは静かに瞼を伏せ、こちらの話をじっと聴いていた。あるいは彼にとって満足の行く答えではなかったかもしれない。それでも仕方ないとリーンハルトは思い、決闘を再開するため拳を構えようとし――
「我が名はクリストフ・ヴァルト。あらゆる不義と邪悪を赦さず、身命を賭してそれらと戦い抜く者なり。騎士の誇りと正義に懸け、いざ尋常なる勝負を願わん」
――告げられたその言葉に、身を固めた。
「……クリス。それ、は」
「何を驚いてるんだ、リーンハルト」
「……騎士の、宣誓だろう。決闘の前に、行う」
一度は不要と断じられたはずの行為。それをクリストフが改めてこの場で行ったことに、リーンハルトは途轍もなく驚いていた。なにより信じられなかった。クリストフが宣誓を行ったことが、ではない。自分が宣誓を受けたことが、だ。
対するクリストフは「当然だ」と言わんばかりの大真面目な顔で、
「懸けるべき誇りと、命を賭して証明すべき正義。騎士と騎士が矛を交える正当なる決闘には、その表明が必要不可欠だ。だから私は言った。君も言え」
「……本当に、良いのか。しかし、俺は、お前が認めるような」
「騎士だ。君にはそう名乗る資格があるんだ、リーンハルト・シュレーダー。誰に恥じることもない。他ならぬ私が認める。……それでは、不満か」
躊躇を断ち切ったのは、やはりクリストフの言葉だった。リーンハルトは胸を撃ち抜かれるような衝撃を感じた。そして、その後にゆっくりと広がる、喜びを。
だから、言う。言うのだ。
誇りを持って、正義を懸けて。
堂々と、恐れず、想いを込めて。
「……我が名はリーンハルト・シュレーダー。理不尽に奪われようとするすべての命を守り、絶望に堕ちんとする心を救い、その行いを阻む邪悪の尽くを叩き潰す者なり。騎士の誇りと正義に懸け、いざ、……尋常なる勝負を、願わん!」
生まれて初めての、騎士の宣誓。待ち望んでいた、そして心の何処かで諦めていたその瞬間を、ついにリーンハルトは叶えたのだ。
「リーンハルト。≪クリンゲ・ウンティーア≫を使え」
不意にクリストフが言った。
「君が私にどのような相手を重ね、仮想敵としているのかは知らないが、少なくともこの場にいるのは私自身だ。これは、私と、君の、決闘だ。ならば、私を倒すことに集中しろ。私と戦うために全力を尽くせ。それが騎士としての礼儀だろう」
リーンハルトは目を見開き、それから深く頷いた。彼は右腕を拝むように眼前へ掲げると、ゆっくりと力を込めるように拳を握り込んでいく。するとその所作だけでリーンハルトの全身を淡い燐光が覆った。以前より術の発動が遥かに速い。
「それも、新しい右腕の機能か。さしずめ、紋章術の発動に必要な分のエーテルを予め貯蓄し、準備時間を大幅に短縮できると言ったところか」
「その通りだ、クリス。流石の慧眼だな。この右腕は今までの俺に足りなかったものを補うための武器だ。……右腕を失っていなければ、俺は現状維持に甘んじていただろう。もう二度と、俺の力不足の所為で、大切な人が泣くのを見たくはない」
その返事に騎士クリストフ・ヴァルトは満足そうに頷き、晴れ晴れとした表情でレイピアを構えた。水が流れるような自然で滑らかな動き。
リーンハルトが何度も目の当たりにしてその度に心の底から憧れた、自分には絶対に真似できないだろう、本当の騎士たる者に相応しい所作だ。
そして。騎士リーンハルト・シュレーダーも拳を構える。無骨で荒々しい、彼らしい戦闘姿勢。彼が誇りと正義を貫くための力を、存分に発揮できるやり方を。
騎士と騎士が向かい合う。緊張感が高まり、……破裂する。
「行くぞ、リーンハルト・シュレーダーッ!!」
「応。来い、クリストフ・ヴァルト……ッ!!」
決闘が、始まった。
-§-




