シーン8:憧れを追いかけて
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王城内において、最も豪奢な存在が“褐色皇帝”の安息所である『宮殿』だとするならば、翻って最も巨大かつ剛健な存在は『騎士団本部』に他ならない。
外壁から内装まですっかり寂れ、今にも崩れ落ちそうなほど老朽化していてもなお、その粛々とした佇まいから往年の威厳を滲ませる『旧王城』。歴史の重みを感じさせるその姿を西側の小高い丘に望む位置に、褐色に塗り込められたコの字型の建造物が、南北に分かれるかたちで計二棟存在している。
質素な外観を彩るのは、建物の周囲に生い茂る草花のみ。春風にそよぐ若葉の瑞々しい緑色を装飾代わりに纏い、一分の隙もなく威風堂々と建つそれこそが、誇りある騎士たちが集う『騎士団本部』本館であった。
その正面玄関を抜けて、階段を上った南棟二階の一角。そこに“護帝剣”テオドール・ゴッドフリー麾下小隊長、コルトン・ヴェーバーの執務室は置かれている。
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かちゃり、と。混じり気のない漆黒の液体で内側を半分ほど満たしたコーヒーカップを、ゆっくりとソーサーに置く控えめな音が響いた。続いて、小さな嘆息。
「ふむ……」
静寂とコーヒーの香りが満ちる室内は、華美な装いを嫌うこの部屋の主の趣味によって、落ち着いた白茶色に塗られたブナ製家具で占められている。
整然と機能的に配置されたそれらの中央、やや奥寄りのスペースには、やはり質素だが使い勝手の良い執務机が椅子と揃いで一つずつ。そこに腰掛ける温和な顔つきの中年男性は、さきほどからちらちらと壁掛け時計を気にしていた。
短く刈り込んだ赤茶髪。形の良い眉の下、やや皺が寄って垂れ目気味になった両眼の奥には、彼が飲むコーヒーよりも深い黒瑪瑙色の瞳が収まっている。
整理整頓された机の片隅、几帳面に角を揃えて積み上げられた書類の署名欄に流麗な筆記体で記された名は、すべて等しくコルトン・ヴェーバー。
その素性をより具体的に記せば、かつては〈浮雲銃士〉の同僚を勤め、リーンハルトとイーリスが軍に入隊してからずっと彼らの後ろ盾であり続け、そして最近では激戦を終えた直後のレーゲンに治療を施した、あの小隊長氏であった。
そんな男が視線を向ける先、時刻はもうじき午前九時を指そうとしている。
「そろそろ着いていても、良さそうなものだが……」
コルトンが到着を待ちかねているのは、言わずもがなだがリーンハルト・シュレーダーである。彼は本日リーンハルトが行う「決闘」の仲介役、およびその見届け人としての役目を果たすべく待機しているのだ。
(……毎度のことだが、リーンハルトは急に言い出すからな)
ここ一週間の忙しさをコルトンは思い出す。練兵場の貸し切り手続きに始まり、関係各所への連絡と日程の調整。サインすべき書類は嵩んだ。
また一言に「決闘」と表現しても、実態は〈ゲルプ騎士団〉と〈巡回騎士隊〉のそれぞれ小隊長を勤める者同士の立ち合いだ。どうしても話が大きくならざるを得ない。見学を希望する団員たちへ断りを入れるにも苦労した。
なによりクリストフに了解を得るのが一番大変だった。リーンハルトと確執のある彼は、話が伝わった時から拒絶の態度を頑として崩さず、最終的に騎士として先輩にあたるコルトンへの敬意から渋々頷いてくれたに過ぎない。
このように今回の「決闘」は、非常な労力を要してセッティングされたのだ。が、よりによってその当事者が、いまだ到着していないのである。
「……どうも、前途洋々とはいかないらしいな。まったく」
コルトンは少し掠れた声で独り言ち、再びコーヒーカップへと手を伸ばす。傷だらけの指が持ち手に触れようとする寸前、不意に部屋の外でけたたましい物音が響いた。位置関係から察するに、どうやら正面玄関の扉が勢いよく開かれたらしい。
「……来たかな」
呟きに応じるように、どかどかと威勢のいい足音が駆け込んでくる。直後に上がった怒鳴り声に近い誰何の声は、ロビーでくつろいでいた団員たちのものだろう。足は止めずともそれらに律儀に返答する声に、コルトンは聞き覚えがあった。
一秒ごとに音量を倍増させながら、明らかにこの部屋を目指して近付いてくる地鳴りめいた駆け音に、思わずコルトンは「やれやれ」と呟く。そうして、気を取り直した彼がコーヒーカップに口を付け、喉を鳴らして中身を飲み干したと同時。
「――すみません、遅くなりました」
革張りの太鼓を強打するような撃音を鳴らして、執務室のドアが一気に開かれた。コルトンが横目に伺えば、そこには汗みずくのリーンハルトが立っている。時計の方に視線を移せば、約束した待ち合わせ時間のちょうど五分前。
なるほど、一応は間に合ったというべきだろう。とはいえ、しかし。
「ギリギリだったな、リーンハルト」
「……返す言葉も、ありません」
「いや、責めてるわけじゃない。ただ……」
コルトンは滑り込みで駆け込んできたリーンハルトを出迎え、彼の腕の中で目を回しているテアに目を留めると、呆れたような表情を見せた。
「部下から聞いているぞ、なにやらここに来るまで一悶着あったらしいな」
「……面目ないです。その、俺が妙な振る舞いをしたせいで、皆に迷惑を」
「ああ、まあ。それについてはもう済んだことから、気にしなくて構わんよ。ただ、彼女がそんな状態になっている理由くらいは、訊かせてもらおうか?」
コルトンに問われ、リーンハルトは息を整えながら頭を下げた。
「……すみません、コルトンさん。彼女は俺の道案内を買って出てくれたんですが、バスに乗り遅れそうになったので、つい急いでしまって」
「ああ、ああ。なるほど。それだけ聞けば、大体のことは理解できた」
溜息交じりに言ったコルトンは「どうしたものかな」と項を擦り、ややあってからリーンハルトをじろりと睨んだ。厳しい視線を受け、反射的に居住まいを正したリーンハルトに、コルトンは淡々とした口調で言う。
「……色々と言いたいことはあるが、まずは身嗜みを整えてきなさい。髪もボサボサだし、汗もかいているだろう。この後すぐに戦うとは言っても、そんな状態で王城内を歩けば、道中で笑われてしまうぞ」
コルトンの声色は温和な響きを保っていたが、その裏には有無を言わせぬ圧力が滲み出ていた。リーンハルトは一も二もなく頷くと、テアをソファの上に慎重に下ろしてやり、部屋の奥にある更衣室へと消えていく。コルトンはどこか気落ちしたように垂れたその背に向かって声をかけた。
「それと、リーンハルト。入って右側に、箪笥が置いてあるだろう? その三段目の引き出しに≪浄化≫の術式符があるはずだから、汗や汚れの処理にはそれを使いなさい。今からシャワーを浴びている暇はないだろうからな」
「……すみません、ありがとうございます」
「礼服は、……もう使わないだろうしな。着替えていいぞ。こちらで洗濯しておくから、入口近くの籠に入れておきなさい。決闘が終わるころには返せるだろう」
「……重ね重ね、お手数をおかけします」
ドアの閉まる音に、コルトンは再び嘆息。と、そこでか細い声が上がる。ソファに横たえられたテアが、申し訳なさそうに口を開いたのだ。
「……違うんです、ヴェーバー小隊長。シュレーダー大尉が遅れそうになったのは、私が役目を忘れてあれこれと余計な話題を持ち出したせいなんです」
だから、と。彼女は身を起こし、コルトンへ向けて深々と頭を下げた。
「どうか、大尉を責めないであげてください」
「……やれやれ、随分と彼の肩を持つな」
コルトンは肩を竦めて苦笑を零す。そうしてから微笑ましい気分でテアを見やると、扉向こうのリーンハルトには聞こえないように声を潜めて言った。
「まあ、無理もないか。なにせ彼はきみにとって、憧れの“ヒーロー”だからな」
その言葉に対するテアの反応は激烈だった。びくりと身を振るわせた彼女の顔色は一瞬で熟れたトマトのように赤く染まり、それまでの落ち着いた態度が嘘のように動揺し始める。その様子はむしろ年相応であったのだが。
「そ、それは……! えっと、えっと、……そのう。内緒、ですからね?」
「大丈夫、分かってるさ。たしか三年前だったかな。孤児院の皆と首都北部に遠足へ出かけたとき、突然現れた〈骸機獣〉から救ってもらったんだったな」
コルトンの言葉に、ややあってからテアは頷いた。上気した頬の熱を鎮めるように一度大きく深呼吸し、幾分か冷静さを取り戻した口調で返答する。
「……はい。泣き叫ぶ私たちを、先生が必死に守って、逃がしてくれようとして。でも、とうとう追い付かれて、もう駄目だと思ったその瞬間でした」
言って、彼女は思い出す。己が運命を変えた、あの日のことを。
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目前に迫る、異形の怪物。
黒々とした闇を湛えた喉奥から漏れるのは、身も心も凍えるような恐ろしい唸り声と、脳が麻痺するようなひどい金気臭さ。
鈍い光を宿した乱杭歯の隙間から、ぼたぼたと滴り落ちる得体の知れない液体は、獰猛にして無慈悲な食欲から生じたよだれなのか。
そんな、どこか他人事めいた思考が脳裡を過って、すぐさま消えた。
「GuWooo……!」
「ひ、やだ、やだ……! こ、来ないでよぉ……!」
一瞬の逃避から引き戻され突き付けられた現実は、まさしく絶体絶命。もはや逃れる術はなく、抗うための力もない。私たちは壁際に追い詰められ、ただ身を縮こまらせて震えることしかできない、哀れで無力な獲物でしかなかった。
引率の先生が、子供たちを守ろうとして身を挺してくれたのも、ついさきほどまでの話だ。勇気を振り絞って〈骸機獣〉に立ち向かった彼女は、禍々しい爪の一撃によって大きく肩の辺りを裂かれ、今は気を失って大地に横たわっている。
浅く上下する胸の動きが、辛うじて彼女の生存を示してはいた。しかし、それも徐々に弱まりつつある。傷口から止め処なく溢れる鮮血は、一秒ごとに擦り減っていく彼女の命の残り時間を見せつけるようで、堪えがたいほど凄惨であった。
そんな状態にありながら彼女が生きている理由は〈骸機獣〉の手心などではない。奴はただ、獲物を全員動けなくしてから、悠々と虐殺を楽しむつもりなのだ。
「お姉ちゃん、こ、怖いよ……!」
「先生、死んじゃったの……? 血がいっぱい出てる……」
「大丈夫、大丈夫だからね……。きっと助かるから、きっと……」
傍らで啜り泣く幼子の声が耳朶を打つ。せめてもの慰めにと発した言葉は、あまりに空々しく響いた。助かる根拠など、どこにもありはしないのに。
否、もしかするとチャンスはあったのかもしれない。
気絶する間際、先生がこちらを振り向いて、か細い声で「逃げなさい」と言ってくれた。彼女は最後まで私たちを案じ、生還の道を作ろうとしてくれたのだ。
なのに。私はただ震えていただけで、結局その場から、一歩も動けなかった。
私は年長なのだから、先生の代わりに皆を守らなくては。
そう頭では理解していたのに、完全に腰砕けとなってしまった身体は、どれだけ力を込めても言うことを聞いてくれなかった。
こうして愚図で鈍間で臆病な私は、彼女の命懸けの努力を、無為にしたのだ。
そして逃亡の機会を逸した以上、私たちを待ち受ける運命はもはや決まっている。私たちはそう遠からず、あの凶悪な牙によって全身を引き裂かれ、ひとりひとり順番に腸を貪られるのだ。痛みと恐怖に泣き叫びながら……、
「ぅ、ぶ……!」
最悪の想像が、私に猛烈な吐き気を催させた。一気にせり上がってきた胃液が喉を焼く。身を折った私の姿に、幼子たちが心配そうに声をかけてくる。ああ、この子たちの方がよっぽど立派だ。私は自分のことだけで精一杯だというのに。
やがて、時間切れが訪れる。私の所作に触発されたのか、〈骸機獣〉が私を睨んだ。そのままこちらへと近付いてくる。嫌らしい音を立てて舌なめずりをし、おぞましい唸り声をあげ、全身から生やした凶器をぎらつかせて。
……物心つくころには、自分が孤児であることを理解していた。
生活の舞台となったのは、首都内部の北側の一番端っこにある、小さな古びた孤児院。使われなくなった教会を再利用したというその建物は、雨漏りはするし隙間風は通るし虫は湧くしで、当然ながら到底快適とは言い難い環境だった。
けれども私にとっては紛れもなく、賑やかで楽しい思い出のたくさん詰まった大切な場所であり、けっして替えのきかない「帰るべき我が家」でもあった。
もちろん、一緒に暮らす大勢の子供たちは兄弟同然ながらも血は繋がっておらず、優しい先生たちは懸命に寄り添ってくれはするが実の親ではない。
その事実に微塵も寂しさを感じなかったと言えば嘘になるし、夜中に顔も名前も知らない両親を想い、たったひとりで泣いたこともあった。
それでも、私の傍にはいつも大勢の「家族」がいてくれた。だから私は心折れることなく生きてこられたし、いつか皆に恩返しがしたいという素朴な目標を、大真面目に「将来の夢」として抱くことだってできた。
だというのに、幕切れはこれだ。恩返しどころか、私は与えられた役目ひとつ満足にこなせず、誰ひとり守れないまま屍になるのだ。
希望に満ちた未来を目指して歩んできた末路が、結局〈骸機獣〉の餌だなんて、そんなのあんまりじゃないか。なにも悪いことなんてしてないのに。
なにを怨めばいいのか。誰に縋ればいいのか。なんのために生まれてきたのかすらも分からない。これが定められた命の終わりなら、自分の生は無価値も同然だ。
生まれた直後に〈災厄の禍年〉によって両親を失った私は、こんなときに思い浮かべるべき母の顔も、救いを求めるべき父の名前も知らないというのに!
なぜこんなことになったのか。どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか。そんな思いばかりがぐるぐると頭の中を空転する。
哀しみと怒りが綯い交ぜになったような、それでいてどこにも吐き出すことができないような、窮屈で不快で重く冷たく苦い感触が胸の辺りにわだかまる。
ただひたすらに情けなかった。自分の無力が悔しかった。目の前に迫った理不尽が、思考を真っ黒に焼き焦がしていくのが分かった。
そして、不意に悟る。私は今、おそらく生まれて初めて、本当の意味で「絶望」というものを味わっているのだと。
だから。どうしようもない諦観に支配された私は、目を閉じることもできないまま、死神の鎌が振り下ろされる瞬間を呆然と待ち続けるしかなくて――
「――ォオオオオオオオオオオオッ!!」
――そんな救いのない結末を切り裂くように、打ち砕くように、真っ向から否定するように。一陣の突風が吹き荒れ、次いで猛々しい絶叫が轟いた。
「……ぇ、あッ!?」
驚愕に思わず身を竦ませた私の目に、陽光の下でなお眩いエーテル光を纏いながら拳を振るい、異形の怪物を蹴散らす一人の男性が映り込んだ。
長身痩躯の軍服姿。日に焼けた浅黒い肌と灰褐色の髪。削げたように鋭い顔つきと、その右半分を覆う無骨な眼帯。全身から発する凄まじい憎悪と怒気。
そして、怪物を睨んで焔のように爛々と輝く、狂気を宿した鉄色の瞳。
「やらせるものかよッ!! 貴様らに、これ以上はッ!!」
彼は灼熱する怒りを叫びに乗せて発しながら、一瞬にして〈骸機獣〉の五体を叩いて砕き、粉微塵の屑鉄へと変えてしまった。そうして事がすべて済んでから、なにが起きたか分からず硬直する私たちへと、ゆっくり振り向いた。
途端、周囲から幼子たちの悲鳴が上がった。
きっと、皆は怖かったのだろう。もしかすると〈骸機獣〉よりも。
私でさえ彼の立ち姿には最初、言いようのない恐怖を感じた。
全身を真っ黒な返り血に濡らし、修羅の如き憤怒の形相を浮かべた男性は、この世の者とは思えない迫力を伴っていた。私にもう少し堪え性がなければ、きっと悲鳴を上げていただろう。そして彼をいっそう悲しませていたはずだ。
それでも、そうはならなかった。私は気付いたのだ。彼は怪物などではなく、むしろその暴威に立ち向かい、人々を救う側に身を置く者なのだと。
何故ならば、他ならぬ彼の目がそう語っていた。
狂おしいほどの憤激と憎悪に歪んだ鉄色の瞳には、隠しきれない身を裂くような哀しみと、怯える幼子たちへの労わりが確かに宿っていたのだ。
だからその日、自分が見たものは紛れもなく、“英雄”の鮮烈な雄姿だった。
そして、彼はこう言った。黒々とした返り血で汚れた大地に視線を落とし、激しい戦闘の残滓が残る掠れた声で、その事実を苦々しく噛み締めるように。
「……まだ遅い。これじゃあ足りない。俺は間に合ってなんかいない。もっと早く救えたはずだ。誰一人、哀しませず、傷付けずに済んだはずだ」
頭を殴り飛ばされたようなショックが私を襲った。
この結果に彼は満足していないのだ。それどころか自らを責めてさえいる。
それに引き換え、私のざまはなんだ。ただ怯えて縮こまり、我が身可愛さを抱いたまま、藁のように死ぬ寸前だったではないか。
なんの力も備えずなんの覚悟も持たず、ただ安穏と日々を過ごし、茫洋とした未来を眺めていただけの自分を私は恥じた。足りていないのは私だった。
故に私は望んだ。大切な皆を守れる力を。望んだ未来を掴み取るための意志を。襲い掛かる悪意を前にして一歩も退かないだけの勇気を。
彼の生き様を目の当たりにした瞬間から、私の「将来の目標」は変わったのだ。
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「……当時、まだ“シュレーダー隊”を結成したばかりのリーンハルトが、駆け付けてくれたんだっけか。そして彼に救われたきみが、時を経て騎士団員となり、今日こうして彼と再会した。まったく、合縁奇縁とはこのことだろうな」
感慨深げに語るコルトンに、テアは気恥ずかしそうに微笑んだ。
「本当はこれまでにも何度か姿を見かけたんですが、どう会話を切り出せばいいかわからなくて、結局遠巻きに眺めるのが精一杯で……」
「まあ、リーンハルトはああいう性格だしな。それに、以前の彼は近付きがたい雰囲気を放っていただろうし、きみが気後れしたのも無理はないさ。……いや、本当にあいつは昔から……というより今もか……変わらないといえば……」
話しているうちに当時のことを――自らが被った諸々の苦労も含めて――思い出したのだろう、コルトンの表情は段々と曇っていく。怪訝そうに見つめるテアに、コルトンは慌てて「なんでもない」と頭を振った。
(……彼に純粋な敬意と憧れを抱いている彼女に、わざわざ言って聞かせるような類の話じゃない。この渋い記憶は、私の胸の内にしまっておこう)
コルトンはそう自らを戒め、咳払いをひとつ。それから強固な意志をもって表情を平静へと整え、テアに聞き返す。
「……それで? 実際に彼と話してみて、どうだったかな?」
「もちろん、私がずっと思ってた通りの人でした」
即答だった。そうして彼女はリーンハルトに聞かれないよう小さな声で、それでも確信を込めたはっきりとした発音で語り始める。
「不器用で、哀しそうで、けれど一生懸命で。きっと誰よりも傷つきやすくて、なのに誰よりもそれを隠そうとしていて。……戦う姿は怖気を感じるくらいに猛々しいのに、誰か支えてくれる人がいなければ折れてしまうような――」
一息を吐き、
「――そういう脆い自分を自覚しながら、それでも誰かのために命を賭して戦い続ける、本当に優しい人なんだなって。……そんな風に、感じました」
そこまで言ってから、彼女はふと更衣室の方に視線をやり、その奥にいるであろうリーンハルトを透かし見るように目を細めた。
「……今の大尉にはもう、彼を支える人たちが大勢いるんでしょうね」
喜びと寂しさ、そしてかすかな羨望が複雑に入り混じった声だった。焦がれるような彼女の表情に、コルトンは頭を抱えたくなる。
(リーンハルト、お前も罪な男だな……)
どうも彼は自己評価が低すぎるきらいがあり、特に自分に対して向けられる感情に無頓着すぎるのだ。それは常に悪評が付いて回る彼にとっては一種の救いでもあるのだろうが、同時にこういった状況をひどく複雑なものにしかねない危険も孕んでいる。率直に評せば筋金入りの唐変木なのだ、彼は。
(……というか実際、若い団員を中心に隠れファンも多いからな、あの男)
リーンハルトの武骨で不器用な振る舞いは、軍規に厳しい者にとって非常に目障りかつ悩みの種である一方、真正直に「騎士道」を信仰する若い団員にとってはむしろ「見栄を張らない素朴な勇士」に映るらしい。
しかもなまじ〈巡回騎士隊〉としては昔から各地で戦果を挙げているため、彼に命を救われたという声は意外に多い。リーンハルトのやや暴走気味な行動パターンも、助けられた側にとっては迅速果断な騎士に映るのだろう。
そこに来て最近の大戦果である。
一個小隊による“恐嶽砲竜”討伐という功績にはどんどん尾鰭が付き、伝聞だけでリーンハルトを知る団員たちは、彼を「現代の英雄」とまで称している。
まあ、さすがに大半の者は実際に本人と言葉を交わすと、多少なりとも幻滅ないし失望して頭が冷えるようなのだが……、
(彼女にとっては、それすら愛嬌か……)
コルトンは軽い頭痛を感じた。まったく、面倒なことになってきた。ヴォルケあたりは「放っておけばいい」と切り捨てるのだろうな、などと思いつつ、生来の生真面目さからコルトンはテアにその想いのほどを確認することにした。
「……すると、きみがその役目になりたかったのかな?」
藪蛇どころか自ら地雷原に踏み込むような心持ちで問うた言葉に、テアは虚を突かれたように目を見開く。が、数秒もすると落ち着いた微笑を浮かべ、ゆるゆると頸を振った。告げられるのは否定の意思である。
「まさか、そこまで傲慢にはなれませんよ。そんな筋合いもないと思いますし」
コルトンは安堵する。どうやら彼我の距離感について、彼女は冷静な見方をしているらしい。そう判じかけたコルトンを、しかし続く言葉が打ちのめした。
「……ただ、ほんのちょっとだけですけど。私もあの人になにかをしてあげたかったな、とは思います。あの人が救われることなら、なんだって、どんなことでも」
顔を引きつらせたコルトンに、テアは「そうですよね?」と頷く。
「私はあの人に命を救われました。なら、返せるものは命しかありません。私はあの人に誇りを与えてもらいました。なら、返せるものは誇りしかありません。なればこそ私はこの命を懸けて、まことの騎士たる己を体現していくつもりです」
「……その在り方を貫くために、彼の傍には立てなくなったとしても?」
「私如きがあの人の傍に立つなんて、それこそお門違いでしょう。認められたいわけでもないですしね。私の働きが民草を守る一助となり、巡り巡って彼の心の安寧に繋がるならば、それだけで十分です。縁の下の力持ちでいいんですよ、私は」
それに、と。彼女は花が咲くような笑みを浮かべて、こう言った。
「さっき、褒めてもらえたんです。君は強いって、あの人に、リーンハルトさんに。……嬉しかったなあ。本当に、本当に、嬉しかった。一番欲しかった言葉を、一番欲しかった人から貰えたんです。だから、これ以上は贅沢なんですよ」
紛れもなく心底からの言葉だった。何も言えずにいるコルトンに、テアは「話し過ぎましたね」とはにかむと、ぺこりと頭を下げた。
「それではヴェーバー小隊長、そろそろお暇させていただきます。長々と失礼しました。シュレーダー大尉にはよろしくお伝えください。それでは」
そう言って彼女は立ち上がり、さっさと執務室を出て行った。その後ろ姿を見送り、コルトンは本日何度目かになる大きな嘆息を吐き出した。
「……手遅れだな。そのうえ重症だぞ、これは」
コルトンは確信する。彼女がリーンハルトに向けている感情は、恋慕や敬愛などといった甘いものではない。もっと根深く徹底的な、つまりは「献身」を通り越した「挺身」だ。それこそ下手をすれば「我が身を顧みない」類の……。
後でイーリスにそれとなく警告しておくべきか。コルトンがそんなことを考えていると、機を見計らったようにリーンハルトが更衣室から出てきた。
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入室からきっかり五分だった。リーンハルトの身嗜みはすっかり整えられ、外見上は登城時と変わらぬ小綺麗さを取り戻している。
ただし服装は今朝方と同じラフな出で立ちに変わっていた。これから激しい運動を行うのに礼服を着たままでは差支えるからなのだが、もう少しまともな格好をして来れなかったのかと、コルトンは眉間に皺を寄せる。
(まさか、あのナップザックに礼服を詰めてきたのか……?)
入室時にリーンハルトが携えていた品を思い出し、コルトンは軽い眩暈を覚えた。礼儀作法についてはもう一度教え込まねばならないかもしれない。
真剣に思い悩むコルトンに対し、一方のリーンハルトは素知らぬ顔付きであった。どうやらさきほどの会話も聞こえていなかったらしい。
「すみません、お待たせしました。……彼女は?」
「……ああ。ついさっき体調を回復して、出て行ったところだ。去り際、きみによろしくと言っていたよ。随分と心配していたぞ」
「そうですか、なら良かった。後で礼をしなければな。……そういえば彼女、コルトンさんになにか用事があったらしいのですが、それについてはもうお済みに?」
「……なに? 用事だと?」
「いえ。彼女が道案内を買って出てくれたとき、俺と同じ場所に用事があると言っていたので、てっきりそうだと思い込んでいたんですが」
コルトンは数秒だけ考え、素っ気なく言い返す。
「ああ、そうだった。必要な書類を届けに来てくれたんだ」
もちろん嘘だ。書類など受け取っていない。要するに彼女は最初から、リーンハルトと話をするためだけに彼の道行に付き合ったのだろう。
(本格的に深刻さが増してきたな……)
もはや手が付けられない。そう悟ったコルトンは、ひとまずこの問題を棚上げすることにした。とりあえず直近で問題が起こることはないだろうし。
ただ、それでも老婆心から、言っておくことにした。
「リーンハルト、これは忠告だがな」
「……? はい、拝聴させていただきます」
「いいか、発言には常々注意するんだぞ。内容そのものもだが、特に誰に対してなにを言うかは、本当に気を付けたほうがいい。なんの気なしに発した言葉が、思わぬところで予想以上の反響を生むことだってあるんだからな……」
「それは、……もちろん。俺も今は責任を負う立場ですから」
「自覚があるならいい。だが油断するなよ。特に、女性関係にはな」
なんのことやら、とキョトンとするリーンハルトに「なんでもない」とコルトンは手を振った。この分では言って聞かせたところで効果は薄いだろう。むしろ逆効果になるのは目に見えている。余計なことはすまい。
(しかし、まあ。意識の改善は見られることだし……)
少なくとも以前より遥かに、リーンハルトは他者からの目線に対して自覚的になった。彼が今回引き起こした騒動についても、彼なりに見栄えを気にしたための結果であろうから、コルトンとしても責めるつもりはない。
(体面という言葉の意味を理解し、自分がどのような立場にあるのかを考えるようになったのは、間違いなく大きな進歩だ。あとは……単純に、慣れだな)
長い目で見るべきだろう。コルトンはそう納得することにした。彼自身、昔から面倒を見てきた男の精神的成長が嬉しくないといえば、嘘になるのだ。
……さて。話がだいぶ脇道に逸れていたが、そろそろ本題に戻らなければならない。コルトンはリーンハルトをここに呼んだ本来の目的に取り掛かることにした。
「ともかく。これで最低限の準備は整ったが、……ふむ」
「……あの。俺の格好に、なにか問題が?」
「問題点を挙げていけばキリがないから今のところは止めておこう。約束の時間も迫っていることだしな。ただ、礼服に関しては今後も使うんだから、いい加減に仕立て直せ。明らかにきみの体格に合っていなかったぞ」
リーンハルトの出で立ちを上から下までじっくりと眺め、コルトンはしかめっ面でそう言った。さすがの観察眼である。リーンハルトとしては返す言葉もない。と、形のいい眉の下、彼の深い黒瑪瑙色の瞳が不意に細まる。
「リーンハルト、王城に来る前にも走ってきたな?」
「……はい、日課のランニングを。分かるんですか、コルトンさん?」
「エーテルの流れを見れば、その程度はな。直近に激しい運動をしたのとはまた別の、落ち着きつつはあるがかすかに乱れた流れが肺の辺りにある」
コルトンがこともなげに行ったのは、実際には極めて高度かつ精密な空素系の診断行為だ。少なくとも一朝一夕で身に付く類の技術ではなく、また半端な才覚しか持たない者が掴もうとしても、けっして叶わない業である。
「……ふむ、他にも身体のあちこちに歪みや軋みがあるな。きみが普段から使っている、あの術の後遺症だろう。療養だけでは治りきらなかったか」
「俺としては、すっかり回復したつもりなんですが……」
「自分の身体のことは自分が一番わかっている。などというのはな、思い上がった連中の戯言だよ、リーンハルト。そういう手合いに限ってオーバーワークに気付かないまま、自分の力量を過信して戦い続け、取り返しのつかない故障を被るんだ」
偏見と断じるには、あまりにも深い実感の伴った言葉だった。コルトンはそれから数秒ほどリーンハルトの身体を眺め、小さく頷くとこう切り出す。
「まあ、放っておいても自然に回復するだろうが、これからやることを考えるとな。……そうだな、少し整えてやろう。こちらへ来なさい、リーンハルト」
「いえ、さすがにそこまでお手を煩わせてしまうわけには」
「いいから。きみも万全な状態で事に当たりたいだろう」
コルトンに促され、リーンハルトは素直に従った。そうして、執務室の中央でリーンハルトと向かい合ったコルトンは浅く口を開き、滔々と発動詞を唱え始める。
「――“この者に癒しの御手を”――」
ごく短い詠唱に続けて、コルトンはその術を行使した。
「――≪エアホールング≫」
低く、重く、沈み込むような声が室内に響いた。その残滓が大気に掻き消えると同時、リーンハルトの胸を中心に淡いエーテル光が瞬き、すぐに消えた。
「軽く施しただけだが、どうかな?」
「これは……、ありがとうございます。かなり楽になりました。いや、むしろ、ここに来る前より気分がいいくらいです」
「だろうな。今後は誰かに頼んで、定期的にこういった治療を受けたほうがいい。私でなくとも、このくらいのことができる人員はいるだろうしな」
「俺の知る限りで、コルトンさん以上の腕前を持った空素術士はいませんよ」
リーンハルトの評価はけっして大袈裟なものではなかった。
術を受けた瞬間から、恐ろしいほどに身体が軽い。今朝方に行った運動に由来するものはもとより、身体の奥底に隠れ潜んでいた微かな疲労まで根こそぎ洗い流されたような、素晴らしい清々しさが全身に染み渡っている。
リーンハルトにとってなにより驚きなのは、この効果が一小節単位まで圧縮した発動詞によって為されたものであることだ。
そもそも、生体に対して働きかける術は基本的に扱いが難しく、とりわけ治療術の難易度は非常に高い。針の穴を通すような精密性と集中力、なにより人体構造に関する深い知識が伴わなければ、逆に相手の身体を蝕む危険性さえある。
仮に、並みの詠唱術士が今のコルトンと同じことをしたとしても、せいぜい指先にできたごく小さな切り傷を癒せるかどうかが関の山だ。
というより十中八九、術の発動そのものが不可能であろう。
当然ながら〈ゲルプ騎士団〉小隊長の肩書きは伊達や酔狂の類ではない。
現在コルトン・ヴェーバーという男は、治療術の行使において、騎士団全体でも最上位に位置するほどの腕前を誇っているのだ。それどころか国内基準で考えても、彼より優れた治療術士は存在しないとまで評されるほどの傑物である。
その綽名を、人呼んで――
「……〈聖域〉コルトン・ヴェーバー。腕前には些かの翳りもなさそうですね」
「よしてくれ、むずがゆい。私はただ、これ以外に目立った能のない男だよ。皆の役に立つからと学んでいるうち、いつのまにかここまで来ただけだ」
謙遜するコルトンだが、リーンハルトは知っている。この温和な顔つきの中年男性がかつては“災厄の禍年”の最前線に立ち、阿鼻叫喚渦巻く地獄の真っ只中で、百や二百で利かない数の同胞を救ってきたという事実を。
曰く、彼の手の届く範囲には死神すら寄り付けない。流れる血も、溢れる瘴気も、穢れとなるすべては清められ打ち払われる。あらゆる死を遠ざけ、あらゆる痛みを癒し、あらゆる傷を治す。故にその名は――〈聖域〉。
そしてその功績を称えられた彼は“災厄の禍年”終息後、本来は中央軍に所属する一兵卒でありながら〈ゲルプ騎士団〉への編入を認められたという、文字通り現場からの叩き上げによって“騎士”となった男なのだ。
故にリーンハルトにとって、コルトンは単純な恩義のみならず、その在り方そのものに対する深い敬意を抱いて然るべき相手であった。
しかしかといって、その評価をコルトン自身が受け入れているとは言い難いようで、彼の表情には誇らしさより口惜しさの方が遥かに強く滲み出ていた。
「いいか、リーンハルト。私はけっして“英雄”ではない。〈明星の剣〉のような人知を超えた力は私にはない。他人よりほんの少しだけ恵まれた才能を死に物狂いで磨き上げることで、どうにか地獄を生き抜いただけの凡人なんだ」
コルトンは、あくまでも自らをそう定義する。
「それだって、たまたま手の届く範囲にいた幸運な者を、どうにか救うことができただけだ。救えなかった者の方が遥かに多いんだよ。今でも思い出せる。手の施しようがなく今際の際の苦しみを和らげてやることしかできなかった同胞が、それでも私に感謝を告げて息を引き取った時の表情が……、忘れられないんだ」
述懐するコルトンの口ぶりは、ひたすらに重く苦いものだった。
「その悔しさが、今の私を騎士として立たせる礎になっているのかもしれない。しかしだからこそ、私は自らを戒めておきたいんだ。少なくとも〈聖域〉などという、分不相応にもほどがある綽名で呼ばれたくはない」
「……それでも貴方は、俺の理想です。千の異形を相手に退かず、万の悪鬼から味方を守った。俺にとっては、貴方の在り方こそが最高の騎士なんだ」
「気持ちは嬉しいが、買い被りすぎだ。だいたい、ただ命を長らえさせればいいというものではないんだよ、リーンハルト。それはきみとて身に染みているだろう」
痛いところを突かれたとばかり、リーンハルトの顔が顰められる。口惜しげなその表情に、コルトンは困ったように口元を歪めた。
「……それは、分かっています」
やがて、リーンハルトがぽつりと呟いた。
「分かっていますが、しかし。……貴方は俺を、俺の命を救ってくれた。あの惨劇の日、燃え盛る“フェーデル市”の中を、成す術もなく逃げ惑っていた俺を」
「私は騎士だよ。助けを求めている者がいるならば、己が命を懸けてでも全力を尽くす。それが我々の誇りであり、揺るがぬ使命だ。特別なことじゃない」
言ってから、コルトンはとある気付きに眉をひそめた。
(……これではまるで、さきほどの繰り返しだな)
あのテアがリーンハルトを崇拝したように、リーンハルトもまた自分に対し憧れを抱いている。それ自体は悪いことでもないのだろうが、
(……なるほどな。私も偉そうなことは言えんか。一度救った命に対しては、どこまでもその責任が付きまとう。自分なりにその義務は果たしてきたつもりだったが、どうやらまだまだ、やるべきことは残っているらしいな)
要するに、リーンハルトには教えるべき事柄がまだ残っているようだ。とはいえ、それを中途半端で投げ出すつもりはコルトンになかった。所属も選んだ道も違えど、コルトンにとってリーンハルトは弟子にも似た存在なのだから。
(だが、これから始まる戦いについては、また別問題か)
時刻はすでに午前九時を回った。開始時刻まではまだ少しだけ猶予があるが、ひどく几帳面なクリストフのことだ。おそらくもう練兵場に到着し、今か今かと待ち構えているだろう。ならば、これ以上待たせるのは申し訳ない。
(……ただでさえ今回は無理を言ってしまったしな)
やはりクリストフには、改めて正式に謝礼を送らなければならないだろう。もっとも気分如何で手を抜くような男ではない。間違いなく彼は容赦なく、かつ徹底的にリーンハルトを打ちのめし、勝つつもりでいるはずだ。
そんな男と向き合い、拳を交え、その結果としてリーンハルト自身が掴み取らなければならないものがある。彼自身が望んで赴かんとする、正当なる一対一の決闘に、もはやコルトンが嘴を突っ込める隙間は残されていない。
つまり言葉を交わすならば、これが最後のタイミングだ。
「リーンハルト。戦いの前に、ひとつだけ言っておこう」
「……はい、よろしくお願いします」
コルトンは彼の師として、伝えるべきことを伝えようと思った。リーンハルトも気配が変わったことを察し、雑念を排して意識を改める。
「いいか、きみはあくまでも、根本的には凡人だ」
「はい、俺もそう認識しています」
「きみは戦いの天才ではないし、生まれ持った特別な力もない。鍛錬と経験と、君の肉体に付与された空素術によって、一端の戦闘力を得たにすぎない」
「その通りだと思います」
「故にきみと同じだけの努力を重ねてきた才ある相手とぶつかれば、状況や戦術の大きな有利がない限り、きみは確実に敗北するだろう」
「そうなるでしょう。そして奴は、小手先で倒せるような相手じゃない」
行われるのは、分かりきった事実の再確認だ。一見するとリーンハルトの不出来を論うだけの無意味なやり取りである。故に「だからこそ」とコルトンは続ける。
「きみはきみの、これまで積み上げてきたものを信じろ。勝つことに執着するな。敗けないことにしがみ付け。凡人が殻を破って強くなるには、そして護りたいものを護りきるには、それしかないんだ」
コルトンは焔の如く力強い光を黒瑪瑙色の瞳に宿し、言う。
「得たものすべてを余すことなく咀嚼して、消化し、血肉に変えろ。いいか。きみは凡人だ。しかしきみは“騎士”だ。騎士とは折れぬ者、退かぬ者、そして敗けぬ者だ。万難を排し、苦難を打ち破り、民草を護りきるための盾だ」
一息を入れ、
「その在り方を、きみが新しく得た想いと業を以て、貫いてこい」
「はい」
「頑張れよ、リーンハルト」
「はい!」
リーンハルトは頷き、踵を返し、部屋を出て行く。足音高く歩むその背は振り向かない。彼はこれより、己が騎士であることを確かめに行くのだから。
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……そして再び、時刻と場所は午前九時半の練兵場へと戻る。
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