シーン6:いざ、王城へ
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陽射しが強くなってきたな。
雲一つない晴天を見上げ、その透き通った蒼さに目を細めながら、リーンハルト・シュレーダーはそんなことを考えた。
(……そういえば、今日はこのまま本格的に晴れが続くんだったか)
新聞に記載されていた天気予報では、一日中文句なしの快晴だと伝えていた。現に今、天頂へと近付きつつある真っ黄色な太陽は、いっそう皓々とその輝きを増している。長く見つめていれば、目を潰しかねないほどの眩しさだ。
ときおり吹く風は依然として乾いているが、陽光に恵まれてすでにほのかな暖気を孕んでおり、今朝方の鋭く斬りつけるような寒さは大分和らいでいた。
これならばシャツとズボンだけの薄着でも行動に差し障りはないだろう。むしろこれから行うことを鑑みれば、上半身裸でも暑いくらいなのだが。
「ふむ……」
リーンハルトは小さな吐息をひとつ。そうしてから、つと視線を落とし、己が立つ場所がどこであるかを改めて確かめる。
彼の眼前、大きく開けた円形状の空間がある。
広さは端から端までおおよそ40メートル程度。
足元には短く刈り込まれた天然芝が、奇麗な緑色の絨毯めいて隙間なく敷き詰められ、その場で一歩を踏むたびにサクサクと快い音を鳴らす。
その周囲を丸く滑らかに囲むのは、高い位置に設けられた観覧席だ。これは一般的な競技場にあるものと似た形状だが、規模はやや抑えめで座席数も多くはない。
堆く盛り上がった混凝土製の基礎の表面には、≪硬化≫の紋章術を彫り込まれた煉瓦が、防護壁代わりに貼り付けられている。一枚板を使わないのは、煉瓦ならば仮に流れ弾を受けて破損しても、その部分だけを取り換えれば済むからだ。
一方、覆いの存在しないがら空きの頭上では空が天井の代わりを果たしており、外観の全体的な印象としては巨大なすり鉢といったところであろう。
ここは王城内にいくつか設けられた『練兵場』のひとつだ。
その用途は読んで字のごとく、王城に勤める誇り高き騎士団員たちが、日々弛まぬ鍛錬に血を滾らせ汗を流し意気を振り絞るための施設である。
それは本日もやはり例外ではなく、この一帯には朝早くから猛々しい鬨の声と烈しい剣戟の音が、天を揺らし地を唸らせ響いていたのだが――
「……渡り鳥でも見つけたか? それとも、単純に呆けているだけなのか」
――時刻が午前九時半に近付きつつある現在。広々とした空間を満たしているのは、無秩序な騒々しさとは程遠い、張り詰めた一対一の戦意であった。
「どちらにせよ、決闘相手を前にしておきながら、のんびり空を眺めているとは。随分と余裕がありそうだな、ええ? リーンハルト・シュレーダー……!」
名前を呼ばれたリーンハルトが視線を向けた先、一人の青年が佇んでいる。
その外見を一言で評するなら、いかにも騎士然とした眉目秀麗な若者だ。
齢の頃は二十代前半。麦穂に似た色彩の金髪を眉の上で切り揃え、やや眇められた眦に収まる薄い水色の瞳には、性根の生真面目さが如実に滲み出ている。
高く突き出た鼻筋は真っ直ぐ通り、薄い唇は固く引き結ばれ、引き締まった頬の血色は豊か。ピンと伸びた背筋と如才ない佇まいからは、向き合う相手へのあからさまな敵意を全面に発揮していてなお、隠し切れない育ちの良さが表れていた。
なにからなにまでリーンハルトとは正反対の印象を持つ彼が身に付けているのは、白兵戦用に誂えられた軽装の戦闘鎧だ。走鋼馬との運用を前提とした重装鎧と比較して、装甲面が少ない分防御力は劣るが運動性に優れている。
両手を包むのは、複雑な文様が刻まれた白手袋。右腰には針のような細身の剣、いわゆるレイピアを佩いており、他に装備らしきものは見受けられない。
全体的に華奢な印象の立ち姿は、上から下まで見事なまでの白尽くめであった。清廉なまでに瑕疵なき白磁の鎧は〈ゲルプ騎士団〉に籍を置く者の証である。
そんな様子を無言で見つめるリーンハルトに対し、金髪の青年は不愉快げな素振りを隠そうともせず、刺々しい口調で言葉を続けた。
「さきほどから黙って見ていれば、キョロキョロと落ち着きのない……。それがこれから決闘に挑む男の態度だとするなら、私も舐められたものだな……!」
「……気を悪くさせたなら、すまなかった、クリス。最近ここにはあまり来る機会がなかったから、つい懐かしくなってしまって。呆けたつもりはなかったんだが」
「フン、口ではどうとでも言える。それと、軽々しく名前を呼ばないでもらおうか。ましてや君に、私を愛称で呼ぶことを許した憶えもない……!」
「……駄目と言われたことも、なかったと思うんだが」
「屁理屈を捏ねるな! いくら君と私が同期といえども、今の私は騎士団員側だ。それもスカウトによる選抜組、いわば有象無象とは一線を画す精鋭ということになる。中央軍にいたころと同じように気安く振舞われては迷惑なんだよ」
「そうか、……そうだったな。悪かった」
素直に謝意を示したリーンハルトに、しかしそれでも金髪の青年、クリストフは辛辣な態度を崩そうとはしなかった。
「それに〈巡回騎士隊〉の隊長を務める君の階級は中尉だが、対して〈ゲルプ騎士団〉の小隊長を任されている私の階級は大尉扱いだ。軍の規律と儀礼に照らし合わせるなら、きちんとクリストフ・ヴァルト大尉殿、と呼んでもらいたいものだな」
「小隊長」および「大尉」をわざとらしく強調したその発音は、傲岸そのものな響きを伴っており、対するリーンハルトはかすかに眉をひそめる。その表情変化を目敏く捉えたクリストフは、ここで初めて喜色を浮かべた。
「ほう、まさか君がこの手の扱いで怒るとはな! これは珍しいものを見た!」
嘲りと、わずかな驚きを含んだ声に、しかしリーンハルトは首を振った。
「いや、別にそういうわけじゃないんだが……」
「……ほう? なら、どういうわけだ。それとも負け惜しみか?」
「それも違う。ただ、過ちを一つ訂正しなければならないと思っただけだ」
「……君に過ちを説かれる筋合いなど、こちらにはないぞ、シュレーダー中尉」
訝しげに問うたクリストフに、リーンハルトはあっさりと言った。
「俺の今の階級は、大尉だ」
「……なっ、なん、……だと?」
愕然。そう呼ぶ以外にはない表情で、がくりと顎を落としたクリストフに向かって、リーンハルトはなんら気にした風もなく淡々と事実を告げていく。
「この前、昇進したんだ。一ヶ月前の事件を解決した功績らしい」
「……ば、馬鹿な。わ、私は聴いていないぞ、そんな報告は!?」
「祝勝会の場で発表されたことだから、あの場に居なかったお前が知らなかったとしても無理はない。お前は確かあの日、市街警邏の任務に就いていたんだっけか」
実際にリーンハルトの言う通り、祝勝会の場にクリストフの姿はなかった。“褐色皇帝”も参列する式典を、小隊長クラスの騎士団員が欠席するようなことは極めて珍しく、それこそ異例とも呼べるほどの事態であったが、
「皆が浮かれている時だからこそ、首都の治安はより厳重に保たれていなければならない。……お前はそう言っていたな、クリス。そして実際にお前は部下を引き連れ、他の騎士団員たち共々、夜を徹して警備に当たってくれた。感謝してもしきれないが、改めて礼を言わせてくれ。……ありがとう」
そう言って深々と頭を下げるリーンハルトを、クリストフは目を白黒させながら眺めた。なお、彼の本音としては単純に、リーンハルトを祝う場に顔を出したくなかっただけなのだが、それについてはいまさら語るまい。
「だが、それはそれとして階級について言うならば、悪いがお前の認識は間違っている。それにお前がどう思っているかは知らないが、俺はお前のことを友人だと考えている。……だからこれまで通り、クリス呼びでも構わないか?」
その問いかけに、これまで呆然とリーンハルトの話を聞いているだけだったクリストフは一気に頬を紅潮させ、文句でも叫ぶように大きく息を吸い込んだが、
「……勝手にしろっ!」
結局、そこから発せられたのは皮肉や罵倒の類ではなく、ただ苦々しげにそう吐き捨てるだけに留まった。
そのまま彼は歯軋りでもしそうな顔つきでリーンハルトをしばらく睨んでいたが、ろくに反応を返さない相手に痺れを切らしたか、やがて盛大に溜息を零した。
「……ああ、くそ。君はいつもそうだ。相手の都合も心情も考えず、自分勝手に他人を巻き込んでは、騒動ばかり引き起こす。この決闘にしても君は最初、正式な手続きを踏まず強引に申し込んでこようとしたらしいじゃないか。しかも――」
クリストフは苛立たしげな嘆息をひとつ零し、鋭い視線をリーンハルトへ向ける。正確には彼の右腕、先だっての戦いで失った生身の“代わり”へと。
「――その理由がよりによって、その『新しい腕の具合を試したい』とはな」
「手間をかけさせてしまったのは、本当にすまないと思っている。だが、こればかりは絶対に必要なことで、頼めるような相手もお前以外にはいなかった」
「ふん、態度ばかりは殊勝だな。……そういうところが一番気に食わない」
クリストフの眉根に深い皺が刻まれる。明らかな苛立ちと憤りがその表情には表れていた。彼は「だいたい」と前置いてからさらに言う。
「義手の馴らし運動程度なら、こんな仰々しい真似なんかせずに、大勢いる君の部下にでも相手を頼めばそれで十分だろうに。それをわざわざ騎士団の小隊長クラスを駆り出すからには、よほどの理由があると見ていいんだろうな?」
吐き捨てるような台詞に、リーンハルトは「ああ」と首を振る。
「生半可な相手じゃ駄目なんだ。俺の部下の実力が不足してるとは思わないが、少なくとも本気の俺と真っ向から打ち合えるくらいでないと……」
「なるほど、だから私を呼びつけたわけか。……随分と小馬鹿にしてくれるな。私はろくにリハビリも済ませていない君と同レベルだと?」
「いや、クリスの戦闘技術は俺より遥かに上だ。だからこそ、お前も本気でやってほしい。殺すくらいのつもりで構わない。そうでなければ意味がない」
そう呟いたリーンハルトの表情に、ほんの一瞬だけ翳りが差した。
もしリーンハルトの内面をよく知る者ならば、彼の胸中を過る感情の名前が「後悔」であると気付いたかもしれない。それが一ヶ月前、あの“異形の襲撃者”を相手に打ち合うことすらできず、一撃で無力化された事実から生まれたことも。
が、クリストフにしてみれば、そんな事情をわざわざ慮る理由などない。
元々気乗りしない「決闘」を、ただでさえ多忙な中、なかば強引に押し付けられたのだ。ましてや相手は以前から一方的に忌み嫌っている男である。
これで気分よく引き受けろというのが土台無理な話で、それでもクリストフがここに来たのは、この決闘を仲介したとある小隊長氏の顔を立てるためでしかない。
なにより、さきほどリーンハルトが発したセリフも気に食わなかった。
民草の守護者たる騎士団員に対し「殺すつもりで」などと臆面もなく言ってのけるその無分別。冗談で言っていないのが分かるだけ余計に不愉快さは増す。
よって、クリストフの返答は必然的に、ひどく冷淡なものとなる。
「……ならばお望み通りにしてやろう。せいぜい後悔しないことだな」
嫌気をたっぷり含んだ声がそう告げると同時、クリストフは素早くレイピアを抜き放つ。否、リーンハルトが気付いた時、すでに細身の剣は抜き放たれていた。
目にも止まらぬ一瞬の早業である。閃光が奔るように鋭く機敏で、かつ自然に水が流れるような滑らかな所作にやや遅れて、風を切り裂く甲高い音が鳴る。
その際、肩の付け根から指の先に至るまで、無駄な力は一切込められていない。彼が同じ動きをこれまで何百、何千回と繰り返してきたことは容易に窺えた。
そしてクリストフは把持の感覚を確かめるように、二度三度と軽く剣先を虚空に振るった後、真正面へと突き付けた。すなわち、リーンハルトを指すように。
そして、言い放つ。
「私も忙しいんだ、さっさと要件を済ませるぞ!」
「ああ、よろしく頼む」
リーンハルトが応じ、拳を構える。彼の鉄色の瞳に戦意が宿った。
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……ここで少しばかり時系列を巻き戻し、事の発端について語らせて頂こう。
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時刻は、午前七時二十五分。
入城審査を終えて正門をくぐり、直後に設置されている巨大なエントランスホールを通過してから、奥へ奥へとひたすら真っ直ぐ進んだ地点。
十人以上が横並びになっても軽々通れるほどに広々とした連絡路の上、街路樹の間に規則正しく敷かれた石畳を歩きながら、リーンハルトは独り言ちた。
「――結局、職員用の食堂を利用させてもらうことになったか」
王城内の彼方此方には、そこで働く政府職員向けの食堂が十数箇所ほど置かれており、その中のひとつをリーンハルトが利用したかたちだ。
ちなみに彼が食べたのは、薄く切ったライ麦パンに野菜やハムなど数種類の具材を挟んで地層状にした、シュタルク共和国ではごく一般的な朝食である。
肉体労働の極致点である兵士が摂るメニューにしては、随分と量が少ない気もするが、いま腹が膨れすぎていては後々都合が悪い。
(下手をすれば、吐き戻しかねんからな)
なにせ数時間後にはかなり激しい「運動」が待ち構えているからだ。
もちろん多少のことで胃袋がひっくり返るような軟な鍛え方はしていないが、胃腸にたっぷり中身が詰まった状態では逆に無理が利かない場合もある。
故にリーンハルトは元々空腹に強いこともあり、栄養補給に必要な最低限を胃に収めるに止め、さっさと目的地へ向けて歩を進めているのであった。
ちなみにその服装は、すでに個人邸宅を出た時のラフな格好から、シュタルク軍における尉官用の礼服へと変わっている。
暗灰色を基調とした礼服は、右肩から胸にかけて飾り紐が施されている以外、目立った装飾品のない質実剛健な出来である。これはリーンハルトが個人邸宅を出る際、ナップザックに詰めて持ってきた、彼自身の所有物なのだが、
(少しばかり、……いや、かなり窮屈だな)
喉仏が締まるような嫌な感覚に、リーンハルトはかすかに眉根を詰めた。
平均より遥かに上背のある彼に対し、標準体型に合わせて作られた礼服は襟や腰の辺りに余裕がなく、また彼が普段あまり袖を通さないせいで布地も硬いままだ。
いちおう袖と裾の丈だけは合わせてあるので、みっともない寸詰まりになることは避けられているが、やはりどことなく「突っ張った」感じが目立っている。
つまり、ひどく着心地が悪いのだ。
おかげでリーンハルトは、マネキンが歩いているようなぎくしゃくとした動きをするしかなく、通りがかる政府職員たちに胡乱な目を向けられる羽目になる。彼がそれらの視線に会釈を返せば、相手はやや怯えた表情で足早に去っていく。
このような場面が、すでに十回以上は繰り返されていた。
(……どうしたものだろうな、これは)
リーンハルトは小さく唸る。
(祝賀会に出席したときは、あまり歩き回るような機会もなくひたすら椅子に座っていたし、なにより緊張していたから服のことなど気にしていなかったが……)
こんなことならば、どうせもう礼服で王城を訪ねるような機会などないのだからと横着せず、事前に身体に合う品をきちんと仕立ててもらうべきであったか。
(曲がりなりにも俺は、仕立て屋の息子なんだがな。それがこんな有様では、笑い話にもならない。父さんが知ったら、怒るか哀しむか、それとも呆れるか……)
リーンハルトは内心で、雲の上にいる父に詫びた。
……もっとも、服装に対する無頓着ぶりは昔から変わらないリーンハルトの悪癖であり、イーリスは当然として両親からも遠回しに度々注意を受けていた。それが最近ようやく問題意識へと変わったのは、まあ、ある種の成長と呼ぶべきだろう。
(それに、普段の任務に就いている間は、まず礼服など着ないからな)
リーンハルトの所属は〈巡回騎士隊〉であり、必然的に彼の職場は野外に限定される。野営が日常の任務に、わざわざ礼服を持っていくような素人はまずいない。汚れや破損が避けられないだろうし、なにより無駄な荷物になるからだ。
また、そもそもリーンハルト自身が王城とは縁遠い人種であるし、仮に登城の機会があった場合でも野戦服か戦闘鎧でこれまでは済ませてきた。が、今回に関してはそういうわけにもいかない。なにせ、これから会うのは、
(……〈ゲルプ騎士団〉に籍を置く人なのだから)
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現代の“ゲルプ”王城が持つ主な役割は、大きく分けて三つある。
まずは当代“褐色皇帝”の居城としての役割。これは古来より変わらない、ある意味で「正当な」王城の存在理由であろう。王城の最深部、もっとも厳重に護られた豪奢な造りの宮殿に、現在も栄光ある皇帝陛下とその親族たちが暮らしている。
次にシュタルク共和国の国家運営における中枢としての役割。平たく言えば立法・行政・司法の三権をそれぞれ司る最高機関の設置場所がこの王城である。
すなわち王城とは国会議事堂であり、内閣であり、最高裁判所なのだ。もちろん各々の施設は独立化されており、お互いの力関係には均衡が保たれている。
また、それらの施設に出入りする大統領や各大臣および官僚などの政府職員は、基本的に王城外に設立された官邸や自宅から通勤するかたちをとっている。
……なお、余談であるが首都の全人口は百五十万人ほどであり、うち一般行政職などもすべて合わせた政府関係者の総数はおおよそ三万人である。
そして三つ目が〈ゲルプ騎士団〉の詰所としての役割だ。
以前に描写した通り現在の〈ゲルプ騎士団〉は大統領直轄の独立組織として機能しており、首都の治安維持および警察行為を担当する他、王城そのものの防衛と各設備の保全・修復・管理、そしてそこに勤める人員の管理を担っている。
具体的には二百人ほどの実動員と、彼らに対して「従士:騎士たちの衣食住および武装などの整備を行う」や「修道士:騎士団全体の会計管理を行う」の他、医療関係者なども含めた四千人ほどの補佐役を合わせた計四千二百人の構成となる。
そんな彼らは基本的に王城内の居住区画に住み、文字通り「城勤めの騎士たち」として武芸鍛錬や家事諸々など、忙しい日々を送っているのだ。
ちなみに、シュタルク共和国中央軍の本部は元から王城内の施設には含まれておらず、首都南側の土地一帯をほぼ占有するかたちで設置されている。
これは遥かな昔、まだシュタルク共和国がゲルプ帝国を名乗っていた頃。すなわち、人類同士の争いが盛んだった時代の名残で、お互いに領土を奪い合う関係であった南方諸国の動向に睨みを効かせるための配置だ。
なお、この国が帝制から共和制に移行する際に独立を果たした国家も含めて、かつて敵対していた国々と現在のシュタルクは同盟関係を結んでおり、十八年前の災禍においても情報や物資を融通し合う協力体制が早期に確立していた。
……ともかくそのような立地条件のため、中央軍に所属する兵士と王城に勤務する人員の間には、断絶とはいかぬまでも微妙な隔たりが存在している。
要するに、あくまでも兵士の側に身を置くリーンハルトは「騎士」の肩書きを与えられていながら、王城の直接的な関係者には含まれないことになる。
早い話が、今のリーンハルト・シュレーダー大尉は、客人の立場にあるのだ。
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「――っ、いかん」
そのときリーンハルトは、自分が無意識のうちに襟元を緩めかけていたことに気付き、慌てて腕を下す。危ないところだ。すでに指先はボタンを外しかけていた。
(……これでは駄目だな。今の俺は“シュレーダー隊”の代表なんだ。それに恥じないだけの、相応の心構えと身嗜みが、必然的に求められているんだぞ)
自分が犯した不手際や不始末は、そのまま“シュレーダー隊”の評価を貶めることにつながり、ひいては〈巡回騎士隊〉そのものが白眼視されるきっかけとなりかねない。改めてリーンハルトは、強く自分を戒めた。
(ここは、……そう、言うなれば敵地だ。常に全神経を尖らせ、周囲に気を配り、一分の隙もなく振舞わなければならない鉄火場だ。油断は捨てろ。肚を括れ)
無論、彼にとって騎士団員や政府職員が「敵」というわけではないのだが、だからこそ一挙手一投足には常に気を配らなければならない。無様を晒せば即死。そんな覚悟でリーンハルトは全身に意気を漲らせたのだが――
「……な、なあ。あれ、あの軍人、騎士団員に通報したほうが良くないか?」
「そ、そ、そうかな。そうかも。だって、こう、……殺気が凄いしな」
「……ひっ!? め、目が! い、今、目が合っちまったよぉ」
――明らかに逆効果であった。
なにせ、素で厳つい外見のリーンハルトが切羽詰まった表情を浮かべ、まるで獲物を求めるように隻眼をギラつかせながら練り歩いているのだ。何も知らない政府職員たちからしてみれば、気が散るどころの騒ぎではない。
結果として彼が通りがかる度、そこかしこで押し殺した悲鳴が上がり、コーヒーカップや書類の束が取り落とされ、気の弱い女性職員が腰を抜かして崩れ落ちた。
一方、騒動の元凶となっているリーンハルトはと言えば、
(……なんだか、やけに騒がしいな)
まさしく台風の目の如く、自らが混乱を撒き散らす側になっていることなどつゆ知らず、ひたすら目的地だけを目指してずんずん歩を進めていくのであった。
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そして、数分後。彼は政府職員から通報を受け、泡を喰って駆け付けてきた騎士団員たちと対面し、非常に複雑な表情で平謝りすることになる。
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