シーン5:これからの話をしよう
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「……さすがに混み合ってきてるわね。もう少し、早めに出ればよかったかしら」
天井照明の穏やかな光に照らされる廊下を歩きながら、エメリーが呟く。
周囲には話し声や靴音の入り混じった賑々しさが満ちつつあり、ようやく部屋を出た若き旅行士二人連れの他にも、廊下を行き交う人影が多く見受けられる。すでに他の利用客たちも起床し、各々で行動を開始しているようだった。
その中には、襟付き白スーツの上下でかっちりと身を固めて、慌ただしく働いている従業員たちの姿もいくらか混じっているのだが、
「なんというか、しっかりした服装をしている人が多いですよね」
隣を歩くリウィアの言う通り、利用客の出で立ちは基本的にスーツ姿が大半だ。一部にはシャツにジーンズなどラフな姿もちらほら目につくが、全体からすればごく少数である。少なくとも旅行士的な風体をした者はまず存在しない。
それもそのはず。エメリーたちが宿泊しているこの場所は、企業間での商談を生業とする人々を主客層に想定した、いわゆるビジネスホテルに類する施設なのだ。
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〈災厄の禍年〉の終息から十八年。いまだ地上には生々しい傷跡が数多く残っており、交易路および交通網の分断も各所で発生しているが、一方で潰滅的な被害を免れた地域においては、すでに活発な取引が復活していた。
特に首都“ゲルプ”を中心とする一帯では、各主要都市間の結びつきも依然として強固に保たれたままであり、それらを行き来する商人の数も多い。
つまり、このホテルはそういった人々が一時の寝床として利用するための場所であって、旅行士が長期間滞在するようなことは本来なら珍しいのだ。
にも拘らず、エメリーたちがここを滞在拠点として定めた理由はいくつかある。
第一に、前述の通り旅行士の利用客が少ないこと。
そもそも旅行士とは根本的に無頼の徒であり、レーゲンたち一党のような「お人好し集団」は極めて稀な例外である。もちろん野盗紛いの下劣漢がすべてではないにしろ、言ってみれば脛に疵持つ荒くれ者の方が遥かに多いのだ。
そんな連中が集まる場所では、必然的にトラブルの発生率は高くなる。
加えてそこに、ただでさえ悪目立ちするであろう「女性四人だけの集団」が入り込めば、お互いに気の休まる暇がなくなるのは明白であった。
無論、精鋭〈ゲルプ騎士団〉が目を光らす首都で乱暴狼藉を働くような命知らずはそうそう居るまいが、無用な騒動の芽をわざわざ作ることもないのだから。
第二に、第一の理由と合わせて身の周りの安全が保障されていること。
レーゲンたちが首都に滞在する目的は旅の資金稼ぎと装備類の補充である。つまりそれらを安全に保管しておける環境は絶対に必要な要素であった。
翻ってこのホテルは施錠システムが厳重であり、盗難の可能性は低く、またわざわざ旅行士にちょっかいをかけてくるような輩もいない。
なにより生活環境、とりわけ衛生面での設備が充実していることは不測の事態にも対処がしやすく、事実として疲労に倒れたリウィアが一人だけで部屋にいても危険がなかったのは、そういった場合への備えが功を奏したかたちであろう。
他にも、交通の便が良いので依頼を受けに行きやすいことや、食事や洗濯などのサービス面が料金に対して充実していることなど細かい理由はある。が、やはり最終的には「リスク回避」を最優先事項として、このホテルが選ばれたのだ。
ちなみに。安ければどこでも構わないと言うレーゲンや、食事の質を優先すべきだと宣うヴィルの意見を尽く封殺し、宿泊費などの計算も含めて諸々の段取りを整えたのはやはりというべきか、エメリーであった。
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ともかく、そういった経緯からエメリーたちはこのホテルに宿泊し続けていたのだが、事情を知らぬ者たちから注がれる好奇の視線というものは避けがたく、
「やっぱり、その。けっこう、見られてますね。私たち……」
通りがかる利用客たちは、露骨に視線を合わせてきたりはしないものの、訝しげな一瞥をくれていく者がほとんどである。さすがに従業員たちは慣れたもので、その手の不躾は行わないのだが、人見知りのリウィアとしては気になるのだろう。
「……うぅ、ん」
「ちょっと、大丈夫?」
徐々に挙動不審になりつつあるリウィアを見かねて、エメリーが声をかけた。
「こういうの、まだ気後れするかしら?」
「えへへ、実はちょっとだけ……」
衆目から意識が逸れることで緊張が少し解れたのだろう、ホッとしたような表情になるリウィアを見て、エメリーもまた安堵を得た。
「でしょうね。まあ、私はこういう雰囲気は慣れてるけど」
と、そこでエメリーの眉根がかすかに寄った。浮かぶ表情は「しまった」と言わんばかりのもの。首を傾げるリウィアに、エメリーはすまなそうに言う。
「……ごめん、今のちょっと鼻持ちならない感じだったわね」
「え? いえ、別に気になりませんでしたけど、どうしてですか?」
「だって、……家柄や出自を自慢してるように聞こえなかった?」
「……あ、そういえばエメリーさんって、お金持ちのお嬢様でしたっけ。それもすごく良い学校に通ってたんですよね」
ぽん、と手を叩いてみせたリウィアに、エメリーは口を尖らせる。
「そういえば、って……。もしかして、忘れてたの?」
「もちろん冗談です。貴族の家系なんですよね、ちゃんと憶えてますよ」
「……もしかして、意趣返しのつもり? やっぱり、気にしてた?」
「大丈夫です、そんなことないですよ」
リウィアはころころと笑った。
「というかエメリーさん、やっぱり軽く見られるのも、それはそれで嫌なんじゃないですか。だったら変に気にしないで、普段通り堂々としてた方が良いと思いますよ? 私は気にしませんから、……ね?」
エメリーは一瞬だけ言葉に詰まり、ややあってから口の端を歪めた。
「……言うようになったわね、本当に」
「ふふ。ええ、いつまでもオドオドしてられませんし」
「ふうん、いい心がけじゃない。まあ、さっきはアタフタしてたけど」
「あ、あれは、そのう……。えっと……」
エメリーの切り返しを受け、途端にリウィアはしどろもどろになる。それに「まだまだ詰めが甘いわね」と言いつつ、エメリーは快さげに微笑んだ。
「ま、こういう言い合いができるようになったのは嬉しいわ。喧嘩でもなんでも、一度くらいはしてみるものね。毎回やってたら気が持たないけど」
「……それについては同感ですね。私もけっこう、苦労しましたし」
「言っとくけど、レーゲンとのあれはじゃれ合いみたいなものよ?」
「それを収めるのに、いつも私が駆り出されてたんですけど?」
「そうね、いつもありがとう。助かってるわ」
「……そこでお礼言うの、ズルいです」
リウィアの頬が淡く染まり、それを見たエメリーが目を細める。
この程度の掛け合いは、もはや悪意も緊張感もなく交わせるようになっている二人だが、最終的に一枚上手なのは今のところエメリーの側だった。
「ん、んんっ! と、とにかく、です!」
話題を戻すために行ったであろうリウィアの咳払いは随分とわざとらしく、エメリーの苦笑を誘った。それに構わずリウィアは言う。
「とにかく、明日にはもうチェックアウトするんですよね?」
「そうね。さすがに長居しすぎたし、これ以上は費用も馬鹿にならないわ」
エメリーは声を潜め、リウィアにだけ聞こえるように言った。
「……例の口止め料が思ったより多かったおかげで、宿泊代だけは確保できてたけど、それもいい加減に底を突くところだったしね」
……これは彼女たちが与り知らぬ情報だが、エメリーたちに渡された報奨金の額は、彼女たちが故郷に帰ることを想定し道中の旅費なども含めたものであった。
具体的にはシュタルク共和国の平均的な国民一人が、おおよそ半年間は遊んで暮らせるほどの、控えめに言ってもかなりの高額である。
が、当然そんな裏事情など知る由もない旅行士たちは、予想よりも随分と多い金額を訝しみつつもそのすべてを首都滞在費に次ぎ込んでしまい、結果としてある意味贅沢なホテル暮らしの日々を送ることになった。
なお当然ながら、軍の側からしてみれば完全に想定外の出来事である。なにせ彼らの本音としては、事件の真実を知る当事者たちを、早々に首都から追い払うつもりで身銭を切ったのだから。
知らぬが仏とは、まさにこのことだろう。
「まあ、盗難や襲撃の恐れもない安心安全快適な生活環境を得られたのは、勿怪の幸いというべきかしらね。野宿の苦しみから逃れられて清々したわ、本当に」
閑話休題。エメリーの言葉には、心底からの深い感慨がこもっていた。
「まあ、結果的に働きづめだったから、休暇って気分にはならなかったけどね」
「でも、却って良かったかもしれませんよ? 身体も鈍りませんでしたし」
「……へえ、過労でぶっ倒れた子が言うと重みが違うわね」
「……ふふ、昨晩大泣きしてた人に言われちゃいました」
以前からは考えられないようなやり取りだが、今の彼女らにとってこの程度の応酬は、軽いジャブの打ち合いのようなものだ。その証拠に、少し前に経験した修羅場を話題にしておきながら、両者の表情に目立った険はなかった。
「でも、本当にびっくりしたんですよ? 昨晩のエメリーさん急に泣き出しちゃったから、私みたいに思い詰めてたのかなって、心配でしたし……」
そう言ったリウィアの瞳には、真剣にエメリーを慮る気配があった。対し、エメリーはわずかに頬を朱く染めながら言い返す。
「あ、あれは別に、そういうのじゃないからね? 昨晩も言ったと思うけど、むしろ解放感というか、達成感というか……。つまり、そういう諸々の反動が極端に出ただけで、特に悪い意味はないんだからね?」
「なら、良いんですけど。……でも、もし私が倒れた一件で責任を感じさせちゃってたのなら、やっぱりそれについては申し訳ないって思います」
リウィアはつと、視線を落とした。
「だってあの日からエメリーさん、それまで以上に仕事を頑張るようになりましたし。私の診療代に資金の一部を消費しちゃったのも、事実ですし。……こういうの、わざわざ蒸し返すのもよくないって、それは分かってるんですけど」
言いながら段々と俯き、合わせて声を小さくしていくリウィアの様子に、エメリーは嘆息をひとつ零した。
「そうやってすぐ落ち込む癖は、まだまだ治りそうにないわね」
そうしてからリウィアの肩に手を置き、
「ねえ、リウィア?」
「……はい、なんでしゅむぶっ」
振り向いたリウィアの頬に、エメリーの人差し指が突き刺さった。
「……む、ぇ!?」
リウィアは呆気にとられ、妙な形に唇を窄めたまま硬直する。
「貴方ってこういう悪戯に、面白いくらい引っ掛かってくれるのよね」
「……に、にゃにふるんでふかあ!」
「うふふ、ごめんなさいね。だって――」
と、エメリーがリウィアの頬から外した指で指す方向には、食堂の入り口がある。話しているうちに到着していたのだ。
「――これからせっかく一緒に食事をするのに、相方がそんな辛気臭い顔をしてたら困るもの。だからほら、まずは料理を選んで席に着きましょう? ……話の続きはお腹を満たしてからでも遅くないんだから、ね?」
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朝食はビュッフェ形式だった。
そこそこ混み合う食堂内を相方とはぐれぬよう慎重に移動しつつ、エメリーとリウィアはそれぞれ好みの料理を選んで盛り付け、手近な席へ着く。
エメリーはパンケーキとサラダにヨーグルト、カットフルーツを数種類。リウィアは焼き立てのパンとオムレツとザワークラウト、ソーセージの盛り合わせ。その他、大皿に副菜を三種類ほど取って二人で共有することにした。
「「――いただきます」」
食前のお祈りを手短に済ませ、さっそく二人はフォークを手に取った。
そうして食事が始まってしまえば自然と口数も少なくなり、ときおりお互いに料理の感想を語り合うほかには、しばらく食器が立てる音だけが響くようになる。
エメリーは実家で仕込まれた教えもあって元より食事中にはあまり会話をしない性質であったし、リウィアもエメリーに合わせて食べることだけに集中したので、結果的にすべての料理が片付くまであまり時間はかからなかった。
「値段の割には、まあまあだったわね」
「でも、ソーセージは美味しかったですよ」
「そこは同意するけど、全体的に及第点ってところかしら」
奇麗に空になった皿を前に、エメリーは熱い湯気の立つ紅茶を、リウィアはほどよく冷えた牛乳をそれぞれ飲みながら、そんなことを言い合った。
「……その、エメリーさんって」
「なに?」
「実はけっこう味にうるさいですよね。ヴィルさんほどじゃないですけど」
「……アイツはそもそも質より量でしょ。比較されると業腹だわ」
「ふふ。ヴィルさん、なんでも美味しそうに食べますしね」
「貴方って、他人の評価はとことん甘いというか、好意的よね……」
「……えっと、なら、エメリーさんに対してもそうですよ?」
「背中が痒くなるようなことを言うのは止して、お願いだから」
「はぁい。……ふふふ」
腹が満ちれば気が安らぐのが人の性である。二人の間に流れる雰囲気は、食事の前とは打って変わって、至極和やかなものになっていた。
「……さて、と。それでさっきの話の続きだけど」
「っ、はい」
そこで不意にエメリーが切り出した。リウィアが表情をやや硬くする。
「別に緊張しなくていいのよ、説教するわけじゃないんだから」
エメリーは苦笑し、言葉を続けていく。
「……まず最初に言っておくと、あの一件について、もう私の方から言うことはないわ。お互いに言うべきことは全部言って、しっかり謝罪も済ませて、満足なかたちで決着したと思ってるから。これは私の嘘偽りない本音よ。……いいわね?」
念を押し、リウィアが頷いたのを見届け、エメリーは口元を緩めた。
「だから昨晩のあれは、そうね、ちょっとした発作みたいなものよ。認めるのは癪だけど、私もまだまだ子供ってことね。まあ、大人だって突然泣きたくなる日もあるでしょうし、そういう場合は変に意地を張らない方がスッキリすると思うわ」
「えっと。じゃあ、エメリーさんもスッキリしたんですか?」
「おかげさまでね。泣き止むまで手間をかけさせたのは悪かったけど、そこはほら、もうお互い様でしょう? だからこの話は終わり」
ふ、と小さく吐息をして、エメリーは肩を竦める。
「そしてお金の件はあくまでも必要経費。だって私たちは一緒に旅をしている、謂わば運命共同体だもの。だから、仮にあの日倒れたのがレーゲンだったとしても、私は同じように医者を呼んで治療を受けさせていたわ。貴方だけが特別じゃない」
「それは、……分かりました。そう、ですよね。仲間を助けるためにお金を払って、それを“負担”って考えるのは、……絶対に、おかしいですもんね」
「そういうこと。なんだ、ちゃんと理解してるじゃない」
エメリーが笑うと、リウィアも笑った。
「はい。だって、その『勘違い』は、エメリーさんが糺してくれましたから」
「そう考えてくれるのなら、思いっきり叱り飛ばした甲斐があったわね」
それに、と。エメリーは前置いてから、
「あの程度の診療代なんて、私が普段使ってる魔導具の値段からしてみたら、雀の涙みたいなものよ。薬代も簡単な依頼を一度受けたら回収できたし、誤差よ誤差。……というか、なんならヴィルの食事代の方が嵩んでたくらいだし、ね」
言いながら急激に瞳を暗く淀ませていくエメリーの様子に、なんとなく居た堪れなくなったリウィアはフォローを試みようとする。
「で、でもヴィルさん、すごく一生懸命働いてくれてたじゃないですか」
「……そうね。それこそ馬力は桁外れだし、普段は惚けたふりをしてるくせに判断力も優れてるから、なんだかんだと分野を問わず頼りになったのは認めるわ。単純作業の繰り返しでも、最後まで手を抜かず丁寧にやってくれたし」
だけど、と。溜息交じりに、エメリーは呟いた。
「……アイツ、こっそりヘソクリを溜め込んでたのよ。自分のおやつを買うために、報酬の金額を誤魔化してね。もう少し早く気付けてたら良かったんだけど」
告げられた事実に、リウィアは苦笑するしかなかった。
「……あ、あはは。なんというか、ヴィルさんらしいですね」
「アイツは本当に、良くも悪くもブレなさすぎなのよ。まあ、大した金額じゃなかったからいいけど、あと数字が一桁多かったら全額取り上げてたわね」
低く沈んだ声には、エメリーの本気がまざまざと滲んでいた。リウィアはどう反応していいかわからず、曖昧に首を傾げる仕草を返答代わりにする。
「……まあ。最終的に稼いだ金額はヴィルがダントツだったし、ちょろまかされたのも小銭が数枚程度だったから、ほとんど影響はなかったんだけどさ。それに、連日連夜不眠不休で働いてくれたのも事実だから、責めるに責められないのよ」
魔導機人であるヴィルは、基本的に疲労やストレスとは無縁の存在である。
「食べれる限りはいくらでも働けます」とは彼女の言だが、これは冗談や誇張ではなく、実際に彼女はエネルギーが補給され続ける限りいつまでも活動が可能だ。
そのうえで、ヴィルが報酬金を中抜きした動機について、エメリーはおおよその察しを付けていた。結局、ヴィル自身は最後まで口を割らなかったのだが、
「……なんとなく理由も分かるしね。要するにアイツ、非常食を買うためのお金を、ある程度は手元に置いておきたかったんでしょう」
「あっ! ヴィルさん、お腹が空くと動けなくなっちゃうから……!」
言われて、リウィアも気付いたようだった。エメリーは頷き、続ける。
「ヴィルも不安だったのかもね。ただでさえ燃費が悪いのに、ここ最近はずっと極端なハイペースで働き続けてたから、エネルギー配分も難しかっただろうし。急に空腹で倒れないように、食料補給の手段は確保しておきたかったんでしょう」
「でも、それなら最初にそう言ってくれてたら、エメリーさんだって……」
リウィアの執り成しに、エメリーは軽く頭を振った。否定の方向。
「ヴィルの方からは、言い出し辛かったんでしょうね。資金稼ぎを始めた頃の私、今思えばすごく苛々してたから。余計な出費計算をさせないようにって、アイツなりに気を遣ってくれたんだと思うわ。……やり方は御粗末だけどね」
また、たまにヴィルが「息抜きしましょう」などと言いつつ皆に買ってきた菓子類についても、おそらくその代金の出所は彼女自身のヘソクリからだったはずだ。
(……本当に私って、お人好しな連中に助けられてばかりね。自分の視野狭窄ぶりがつくづく嫌になるけど、いまさら落ち込んだところで意味もないし、まったく)
故にエメリーはヴィルの行為について、曲がりなりにも気遣われていたことへの負い目もあり、ひとまず不問とすることにしたのだ。
もちろん、二度目はないとしっかり言い含めたうえで、だが。
「だいたい、そもそもの話だけど……」
エメリーは嘆息を挟み、言った。
「……稼いだ資金の大半は、私の装備を補充するために使っちゃったからね。特に魔導具は基本的にどれもこれもすごく値が張るから、実のところ首都の滞在がここまで長引いた一番大きな原因は、言ってみれば私ってことになるのよ」
「そ、そんなことないですよ! だって、エメリーさんは……!」
慌てて声を上げたリウィアを、しかしエメリーは手で制した。
「大丈夫、別に悪いとは思ってないもの。だって魔導具は私たちの旅を支える生命線だからね。品質も数量も最初に定めたラインから妥協する気は絶対になかったわ。それに、もしも必要な分が一ヵ月で揃わなかったら、私は二ヶ月でも三ヵ月でも首都に留まるつもりだったし。これだけはレーゲンが相手でも譲らないわよ」
だから、と。エメリーは不敵な笑みを口の端に浮かべ、身体を捩って腰の辺りをリウィアに見せつける。そこには愛用の“共振杖”を収めたホルスターの他に、もう一つ、新しく細長い形状のポーチが追加されていた。
「この空素筆が手に入ったのは僥倖だわ」
言いつつ、エメリーはポーチから空素筆を取り出してみせる。黒地に金の細工が施されたそれは、外見上は高級な誂えの万年筆とほぼ変わらない。照明を受けて艶めかしい光沢を放つその品を、エメリーはうっとりとした表情で眺めた。
「……うふふ。この洗練された形状。隙の無い外見。芸術品なら旧クラースヌィ時代の名作が世界一だと思うけど、やっぱりこういう実用目的の商品だとシュタルク製のオーダーメイドに敵わないわね。悔しいけど。なんというか機能美があるのよね。利便性と性能を追求して、徹底的に無駄を省いた結果、自然と生まれてくる無骨な魅力というのか。イグルスタ製じゃこうはいかないわ。あれは頑丈で使いやすいけど、とにかく雑というか、工業製品臭さが抜けてないというか。どうしても大量生産大量廃棄が前提の安っぽさがあるのよね。嫌いじゃないけど。菊花国のも悪くないんだけど、あっちは雰囲気が独特すぎるというか、派手と地味が両極端なのよね。私にはまだちょっと分からない世界観で――」
呆気に取られた表情のリウィアに気が付き、エメリーはようやく口を噤んだ。そうして数秒の沈黙を挟んでから、何事もなかったかのように話を再開する。
「実を言うとね。私が首都を目指していた最大の理由が、これを手に入れることだったのよ。リウィア、私が描画術もよく使うのは知ってるでしょ?」
「えっと、そうですね。私は空素術にはあまり詳しくないですけど、エメリーさんが奇麗に図形や記号を描くの、いつもすごく恰好良いなあって思います」
「……ありがと。まあ、それでね?」
咳払いをひとつ挟み、エメリーは言う。
「これまでは描画術を使うのに、毎回なんらかの触媒を用意しなくちゃいけなかったんだけど、鉱石や結晶は質によって術の精度や威力に誤差が出るし、一度きりの使い捨てだったから連発ができないって欠点があったのよね」
エメリーの旅路にとって、それは常に頭の痛い問題であった。
知っての通り、エメリーが持つ空素術士としての才能は、贔屓目に評しても「二流半」が精々である。故に三つの異なる術式を強引に組み合わせた、端的に言って「邪道」に近い戦法を組み上げ、数々の窮地を乗り越えてきたのだが……。
「鉱石や結晶は希少品なうえに手に入るかどうかは運任せだし、魔導具に至ってはこういう大都市でないと補充すらできないでしょう? しかも後者は高額だから、使いどころを考えないとすぐ金欠になるわ」
それは、どういうことか。
「……要するに私、その時々で発揮できる戦力値に、ムラがありすぎるのよ」
つまり装備が十分に整った状態でなければエメリーは真価を発揮できず、また一度でもなりふり構わず全力で戦ってしまえば、それ以降は極端にパワーダウンしてしまう。この問題は一ヶ月前の戦いにおいても顕著であった。
「だけど、これからは違うんですよね?」
「ええ、その通りよ。皆にかけた負担に恥じないだけの働きはするつもり」
リウィアの問いに、エメリーは力強く頷いた。
「空素筆が手に入った以上、今後は安定して描画術を使えるようになる。そうなれば魔道具も節約できるし、なにより戦略に幅が出るわ。……少なくとも、小型の“骸機獣”程度に苦戦するような無様は、二度と晒すつもりはないから――」
それはまさしく、エメリーなりの決意表明であった。
もう二度と装備の不足を理由に仲間たちを危険な目には遭わせない。どんな窮地も、いかなる苦境も、智と勇と策を以て乗り越えてみせる。そうしてあらゆる万難を排し、一党の旅路を拓き、必ずや目的を達成する……。
「――そのために、リウィア。貴方にも力を貸してもらうわよ。これからの私たちが、目指す場所へと辿り着けるように、ね」
確固たる意志の焔を翠玉色の瞳に宿し、遥か遠き氷雪国の永久凍土と猛吹雪が生んだ若き灼熱の空素術士は、そう言い切った。
そして、そんな彼女が心から信頼する、“歌”の担い手である少女は――
「……はい! これからもよろしくお願いします、エメリーさん!」
――満面の笑みを浮かべて、大きく頷いたのであった。もう二度と、己が得た力と意志の意味を過つことなく、正しく成し遂げていくのだと胸に刻みながら。
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「……と、ちょっと長居し過ぎたかしらね」
エメリーはそこでちら、と食堂内の壁掛け時計を見やる。
示される時刻は八時半。どうやら一時間近く居座っていたらしい。
気付けば食堂の利用客も増えており、周囲は騒がしくなりつつある。近くを通りかかる給仕から注がれる視線も、そろそろ痛くなってきた。
「不味いわね、いい加減に出ましょうか」
「そうですね、怒られちゃいそうですし」
二人はすっかり冷めてしまった――あるいは温くなってしまった――それぞれの飲み物を一息に飲み干すと、テーブルの端に心付けを残して席を立った。
「さて、これからどうしましょうか」
心地よい満腹感を得て食堂を出た二人は、整然と磨き上げられた廊下をゆっくりと歩きながら、今後の予定を話し合う。
「うーん。……レーゲンさんたち、もう部屋に戻ってきてると思いますか?」
「断言するけどないわね。ちょうど今頃、ヴィルの食欲はピークを迎えてるだろうし、レーゲンも諦めてそれに付き合ってるでしょうから」
言わずもがなではあるが、エメリーのこの予測は、ほぼ正鵠を射ていた。
「それじゃあ、探しに行きましょうか? 話し合うこともあるんですよね?」
リウィアの提案に、エメリーは目を伏せて数秒ほど唸り、やがて首を振った。
「……時間の無駄になるだろうから、止めておきましょう。首都は広いから、絶対にどこかで入れ違いになるわ。特にヴィルはこれが最後の機会だからって、東西南北全域の料理店を片っ端から駆け回っていそうだし」
言わずもがなであるが、以下略。
「そうなると、……どうしましょう?」
「そうね。いくらなんでも夕方までには帰ってくるだろうし、最悪、話し合いに関しては今夜になっても構わないから……」
そこでエメリーは悪戯っぽい笑みを浮かべ、リウィアに告げた。
「……なら、せっかくだし、私たちもアイツらに倣うとしましょうか」
その言葉を聞き、リウィアの瞳が期待に輝いた。
「え、それってもしかして……!」
「ええ。考えてみたら資金稼ぎに慌ただしくて、観光らしいことはなにもしてなかったし、最後の一日くらいは羽を伸ばすのもアリよね」
そしてエメリーは言った。いつになく朗らかな口調で、肩の力を抜き。
「二人っきりでデートしましょう。もちろん、付き合ってくれるわよね?」
対するリウィアが、ほとんど間を置かずに何と答えたか。
それについては、わざわざ記すまでもないだろう。
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捕捉:エメリーの空素筆について
エメリーが首都“ゲルプ”を目指していた最大の理由であり、今後の彼女にとっては絶対になくてはならない戦力増強アイテム。専門店で購入した高級品である。
崩壊前のフェーデル市に工房を構えていたとある名工の一番弟子が、師匠の遺した設計図を基に完成させたモデルの、一般流通版が素体となっている。そこに予算が許す限りでエメリー好みのカスタマイズを加えられた一点モノのため凄まじく高価。具体的には使い捨ての魔導具と比較して値段の桁がひとつ分多い。
ちなみにエメリーは元々、自前の空素筆を所有していたのだが、とある事情により紛失してしまっていた。よって新しく手に入れたこれは絶対に失くさないことを固く誓っており、他者に貸し出すつもりは一切ない。




