シーン4:思い合い、擦れ違い
-§-
「――結局あいつら帰ってこないじゃないの!」
すっかり見慣れてしまったであろう、やや直線的な筆跡で残された書き置きを「ぐしゃり」と握り潰し、エメリー・グラナートは朝っぱらから声を張り上げた。彼女はそのまま丸めた書き置きを屑籠へと投げ入れ、苛立たし気に鼻を鳴らす。
そんな様子を傍らで眺めているのは、苦笑いを浮かべたリウィア・カントゥスだ。彼女は顔の右側に一房編んで垂らした髪を弄りながら、取り成すように問う。
「あ、あはは……。実は書き置きを見つけた時点で、なんとなく、こうなるんじゃないかとは思ってました。でも、どうしましょう、エメリーさん?」
「どうもこうもないわよ! まったく、あの能天気馬鹿二人は……!」
眦を吊り上げたエメリーが壁掛け時計を睨めば、すでに時刻は午前七時を回っており、照明器具に頼らずとも窓から差し込む陽射しだけで十分に室内は明るい。故にリウィアの目に映るエメリーの怒り顔はこれ以上ないほど鮮明だった。
「なにが『朝食の時間まで散歩してきます』よ、とっくに過ぎてるじゃない。こっちは着替えも済ませて、あとはもう部屋を出るだけだってのに……」
エメリーの言葉通り、彼女たちはとっくに身支度を終えていた。
エメリーは、もはや完全に普段着と化してしまった〈皇都魔導学院〉の制服である深緑色のベストと同色チェック模様のスカート、その上から数週間前に購入した枯葉色のジャケットを着込んだ“軽装版”とでも呼ぶべき姿だ。
お馴染みの魔導具を大量に詰め込んだポーチと愛用のロングコートは、この部屋に備え付けてある、玄関ドアと同じ施錠システムの鍵付きロッカーに預けている。
これから朝食を摂るにあたって、さすがに用途が『武装』に近い物品をゴテゴテ身に着けたまま食堂に乗り込むのは、心情的に憚られたためだ。
対するリウィアは、白と黒に上下で分けられたワンピース状の衣服に、金糸で文様が縫い込まれた桜色のストールを羽織っただけの、こちらは普段とまったく変化のない姿だ。なお財布などの貴重品に関しては、エメリー共々腰のベルトに括り付けたポーチにしっかりと仕舞ってある。
黒と薄青。それぞれ対照的な色彩を持つ髪にもしっかりと櫛が通され、今の二人はまさに、頭の天辺から足の爪先まで準備万端といった出で立ちだ。
……裏を返せば、それだけ念入りに身嗜みを整えられるだけの時間が経過しても、レーゲンとヴィルは帰ってこなかったということになる。
「ああ、もう! 起きたら相談しなきゃいけないこともあったのに、どこをほっつき歩いてるのかしら? こっちにも段取りってものがあるのに……」
完全にへそを曲げてしまったエメリーを宥めようと、リウィアはしばらく小首を傾げて言葉を探し、やがて「ええと」と前置きをしてから口を開く。
「もしかしたら、帰ってくる途中かもしれませんし……」
「甘いわね、リウィア。門限破りに寛容はないのよ」
が、あっさりと切り捨てられてしまい、リウィアは子犬のように「あうう」と呻く。そんな仕草に肩を竦め、小さく嘆息を零してからエメリーは言う。
「そもそも、レーゲンの散歩にわざわざヴィルが着いていった目的なんて、そんなの食欲を満たそうとする以外に有り得ないでしょう? だとしたら、どうせ昼過ぎになっても帰ってこないわよ。もう首都の彼方此方で露店や市場が開かれてる頃だろうし、あのお人好しが暴走機関車になったヴィルを制御できるはずないもの」
エメリーの言葉にリウィアは想像する。街角から立ち昇る食べ物の匂いに惹かれて喜色を満面に駆け回るヴィルと、それに手を引かれるまま為す術もなく着いていくしかないレーゲンの姿を。そして、おそらくこの光景は現実だろう。
「……ちょっと、笑いごとじゃないんだけど?」
「ふ、ふふ。す、すみません、つい」
じろり、と。思わず零れてしまった笑みをエメリーの半目に咎められ、それでもリウィアは可笑しさを堪えられなかった。その理由は、ヴィルとレーゲンの珍道中を微笑ましく思う気持ちもだが、
「だってエメリーさんが、お二人のことをよく理解してるみたいなので」
「……んなっ!?」
リウィアの何気ない言葉が、予想外に心の急所を突いたのだろう。エメリーは一瞬で頬を朱く染めると、俯いて黙り込んでしまう。途端に室内を静寂が支配し、ある意味では気まずい雰囲気が漂う中で――
(エメリーさんのこういうところ、けっこう可愛いんですよね)
――リウィアはしみじみと、そんなことを考えていた。
-§-
リウィアは思う。かつてと現在における、自分とエメリーの関係性の変化を。
自分がエメリーと出会って間もない頃は、なんとなく「怖い人」というイメージがあり、彼女が大きめの声を出すたびについ怯えてしまっていた。
が、こうして付き合いを重ねて彼女の為人に理解が及ぶようになってからだと、同じ所作に対しても受ける印象が大分様変わりするのだから不思議なものだ。
例えば今も、エメリーが押し黙っている理由は怒りによるものではなく、単純に恥ずかしがっているだけということは明白だ。ならば別に委縮する必要はない。
もっとも、エメリーのそういう少しばかりナイーブな部分については、わりあい早い段階で察せるようになっていたのだが、
(私の方から踏み込むのは、やっぱり、ちょっとだけ怖かったかな……)
なにせ自分にとってのエメリーは、共に旅路を歩む中でいつの間にか「憧れの人」とでも呼ぶべき存在になっていたからだ。
烏の濡れ羽めいて艶やかな黒髪と、透けるような白磁の肌。少しきつめの眦に収まる翠玉色の瞳は本物の宝石にも劣らない輝きを秘めていて、奇麗に通った鼻筋と滑らかな顎の輪郭は見ているだけで惚れ惚れしてしまうほど。
そんな、まるで芸術品のように整った容姿は、しかし彼女の魅力を語るにあたっての本質ではない。彼女が素晴らしいのは外見だけではなく、むしろその内に秘めた気高さと類まれなる意志の強さなのだと、少なくとも自分は確信している。
灼熱の炎にも似た闘志と、どんな苦境でも絶対に諦めようとしない胆力。そして必ずや窮地を乗り越える頭脳のキレと、それを瑕疵なく達成できるだけの磨き抜かれた技術。なにより力ある詞を紡ぐ際に彼女が込める情熱の烈しさ。
どれをとっても自分にはないもので、だからこそ彼女の在り方に強く惹かれるようになるまで、そう時間はかからなかった。
大袈裟ではなく、心の底から痺れてしまったのだ。
対して自分は、控えめに評しても引っ込み思案な性格だ。
それは育ってきた環境が原因でもあろうし、あるいは生来の気質からしてそうなのだろう。なにせ旅行士となったにもかかわらず、いまだに人見知りの癖が治らないのだから、おそらくこれは筋金入りだ。
だからこれまでの日々において、明朗快活なレーゲンや泰然自若としたヴィルが、遠慮なくエメリーと喧々諤々やり合っているのが少しだけ羨ましかった。
(もちろん、喧嘩とかは嫌だけど……)
旅路を共にする仲間たちは、もはや命にも代えがたいほど大事な存在となった。
特にレーゲンとエメリーは、明日への希望を完全に失い絶望と諦観に身を委ねていた自分を救い上げ、この世界は色鮮やかな景色と胸躍るような未知がどこまでも果てしなく広がっているものだと教えてくれた、掛け値なしの恩人たちである。
この点については、エメリー個人に対する憧れとはまったく別問題だ。
だから二人が罵り合っているところは見たくなかったし、本気で仲違いをしそうになったときは必死に止めた。それが野営の準備でも戦闘でも、非力さ故にあまり役には立てない自分にできることだと、ずっと思っていたから。
(結局、それは私の思い込みというか、思い上がりだったけれど)
それを思い知らされたのが、あの地下深くに閉ざされたときの出来事であり、ここ一ヵ月間の資金稼ぎに奔走した日々であった。
-§-
できることはなんでもやろう。
皆で協力して旅を続けるための資金を稼くにあたって、最初に抱いた思いがそれだった。それは、これまで皆に庇われる機会が多かったことへの後ろめたさより、むしろ「自分も頼りにされている」ことに気付いた喜びと自信から生じたものだ。
そんな前向きな想いが、しかし結果的には空回りした。
(……ううん。私、きっと、自惚れてたんだ)
“歌”しか取り柄のなかった自分が、皆に認めてもらえた。褒めてもらえた。旅路の中で重要な役割を果たしているのだと言ってもらえた。その有難さが知らず知らずのうちに「もっと」という承認欲求に変わっていたのだと、今なら分かる。
それに実のところ、あの“異形の襲撃者”との戦いが始まる直前にも、自分は同じ過ちを犯しかけている。役割を求めるあまりに逸ってしまったのだ。
そんな身勝手な思いを、しかしエメリーは汲み取り、巧く諫めてくれた。だがそのとき、納得の裏でほんの少しだけ、自分はこう思っていたのではないか。
(私の“歌”を、もっと役立ててほしいのに、……なんて)
結果的に間を置かずその欲求は果たされ、自分は達成感を得ることができた。だが、その経験が「甘い毒」とでも呼ぶべきものになってしまったのだろう。
それまでは、仲間たちから向けられる感謝と皆の笑顔だけで十分に満足できていたのが、いつの間にか物足りなくなっていた。
要するに、欲が出てきたのだ。だから旅の資金稼ぎをすると決まったとき、本音を言えばむしろ嬉しかった。
これでもっと皆の役に立てる。
もっと皆を喜ばせることができる。
そして、もっと皆に褒めてもらえる。
(……本当に馬鹿だったな、私)
まったくもって、本末転倒という他ない。
そして、そんな傲慢さが招いた因果は、当然の如く応報した。体力の限界、仕事の適性。それらをしっかり考えないまま、あれもこれもと手を伸ばした挙句に疲労が嵩んで倒れてしまい、却って皆に迷惑をかけてしまったのだ。
ホテルのベッドで意識を取り戻した後、心配そうに見つめてくるレーゲンたちの視線を受けて、自分はようやく自らの過ちに気付いた。
それから、凄まじい自己嫌悪と後悔に襲われた。
皆に要らぬ心配をさせてしまったこと。なにより実際的な問題として、せっかく集めた資金の一部を診療代に費やさせてしまったことが、ひどく後ろめたかった。
(しかも、体力が戻るまで私はなにもできなくて、寝ているだけで……)
無力感はそうした日々を過ごすうちにどんどん強くなっていき、数日をかけてようやく起き上がれるまで体調が回復したとき、とうとう抑えきれなくなった。
(だから、私は……)
自分は皆の期待を裏切った。今度こそ本当に足手纏いになってしまった。そんな想いが一気に膨れ上がり、気付けばひたすら謝罪の言葉を口にしていた。
失敗が恥ずかしくて、皆に失望されるのが怖くて、慰められるのが情けなくて、なによりこの期に及んで自分本位な自分が腹立たしくて。
ぐちゃぐちゃの気持ちをどうすることもできず、自分は幼い子供のように泣きながら、愚にもつかない言葉を次から次へと思いつくままに垂れ流した。
それでも、レーゲンとヴィルは優しかったのだが、
(エメリーさんだけは、違ったんですよね)
ただただ泣きじゃくるだけの自分へ、不意に彼女はこう言った。「言いたいことはそれだけ?」と、見たことのない冷たい視線と聞いたことのない凍えた声を合わせた、いつになく厳しい顔つきで。
そして、呆然と黙り込むこちらへ向けて、さらにこう重ねたのだ。
-§-
「なら、そのあたりで止めておきなさい。悪いけど、聞くに堪えないわ。自意識過剰と自己憐憫に塗れた、愚にもつかない言い訳なんてものを延々と重ねられても時間の無駄だし、私からしてみれば単純に不愉快なだけだから」
-§-
(最初はちょっと、信じられなかったっけ)
初めは「聞き間違いだ」と思った。
今にして思えば愚かなことだが、やはりそのときの自分には甘えがあったのだろう。普段から比較的自分にだけは優しいエメリーが、まさかそんな厳しい言葉を投げてくるなどと、まったく想像だにしていなかったのだから。
そこからはもう、てんやわんやだった。
(エメリーさんが私たちを正座させて、顔を真っ赤にして怒り始めて……)
レーゲンとヴィルとで三人並んで、怒りまくるエメリーの説教を聞くことになった。そうして最初のうちはなにがなんだか分からず、ただ茫然と怒鳴られているだけだったが、そのうち妙なことに段々と腹が立ってきたのだ。
(悪いのは分を弁えなかった私なのに、どうして一緒にレーゲンさんやヴィルさんまで怒られなきゃいけないんだろう、って……)
そして、もうひとつ。
努力の方向性を間違えたのは事実だが、皆のために頑張ろうと思った気持ちそのものまで否定されては堪らないと、そんな思いが燻ぶり始めていたのだ。
(だって、それを否定されてしまったら。皆のために頑張ろうとする想いが間違っていたのなら。あのとき私を認めてくれたのは、私にやる気を出させるためだけに考えた、その場しのぎの嘘だったのかなって……)
大切に想っていたはずの仲間に、共に積み上げてきた絆を蔑ろにされた。とんでもない誤解があったものだが、一種の卑屈さに思考を支配されていた当時の自分は、エメリーの言葉を本気でそう捉えてしまった。
だから、つい、口を滑らせた。
(……「エメリーさんにとって私は、術を強化するために連れ歩いていただけの、都合の良いお荷物でしかなかったんですね」って)
言い訳のしようもない暴言だ。絶対に言うべきでない一言だった。が、一度出た言葉は取り消せない。燃え盛る炎に大量の燃料が投下されたも同然だ。不味いと思ったときにはもう遅く、とうとう大喧嘩が始まった。
(釈明する暇もなかったっけ……)
エメリーが放ったビンタが開戦の合図となった。
その瞬間に生じたなにもかもを、今でも鮮明に憶えている。
凍りついた部屋の空気を打ち鳴らした一発の破裂音。こちらの頬を強かに張った熱く鋭い痛み。驚愕に目を剥いたレーゲンとヴィルの表情。そして翠玉色の瞳いっぱいに涙を浮かべ、眉根をきつく詰めて歯を食いしばった、エメリーの泣き顔。
困惑と怯懦は瞬時に哀しみへと入れ替わった。
訳の分からない衝動に突き動かされるまま、自分はエメリーに食ってかかり、こちらも泣きながら思いつく限りの言葉を捲し立てた。
(その時に言ったこと、……もう、ほとんど憶えてないな)
実際、言葉の意味など、なにも考えていなかった。
ただ、何かを言わなければならないという想いだけが先行し、罵りと謝罪と疑問と嘆きをごちゃ混ぜにしたものを、濁流のような勢いで吐き出しただけだった。
……結局、最終的にレーゲンとヴィルが慌てて仲裁に入ってくれて、陽が沈む頃にはエメリーと仲直りすることができた。二人とも涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔のまま、髪も衣服も乱れ切った状態で、それでもどうにかお互いを赦し合ったのだ。
(本当に、ひどい一日だったなあ……)
終わってみれば、笑い話にもならない。思い出すだけで顔から火が出るほど恥ずかしい。頭が冷えてみれば彼女の説教は至極真っ当なもので、つまり「もっと仲間を信頼しろ」と、それだけのことだったのだから。
けれどきっと、とても大事な時間だった。今は、素直にそう思う事ができる。だってそうしていなければ、自分は今も皆に「依存」していただろうから。
(褒められたいから頑張って、助けになりたいから無理をする……)
それも、ある程度までは自然な欲求かもしれない。
だが、その思いが行き過ぎて目的にまでなってしまっていたならば、お互いの関係性は歪んで腐っていくだけだ。そして、やがては致命的に破綻するだろう。
また「尽くす」という言葉は一見すると尊いが、自らを省みずまた他人に押し付けた場合、それは極めて危険な「依存」に変わる。この違いは決定的だ。
(だってそれは、結局のところ、仲間を信じていないってことだから)
本当の信頼とは、お互いに向け合い、お互いに受け取り合うものなのだ。それを不足していると考え、過剰な献身によって得ようとするのは、間違っても健全な仲間関係とは呼べない。
自分はきっと、そうなりかけていた。その間違いを糺してもらえたのだから、エメリーには感謝してもしきれないほどなのだ。
(……まあ、実は無理をしていたのはエメリーさんもだったんですけど、ね)
昨晩の事件は非常に印象深いものだ。忘れようにも忘れられないだろう。なにより前回の説教とは打って変わって、今度は自分がエメリーを慰める番になったのだから、なにか作為的なものすら感じてしまったほどだ。
(エメリーさんが泣き止んだ後も、夜遅くまでいろんな話をしたなあ)
そういった諸々の出来事が原因かは分からないが、
(エメリーさんが、前よりも身近に感じるようになって……)
だからこうして、目の前で顔を真っ赤にして俯いている彼女を眺めていると、ついつい口の端が緩んでしまう。そしてなんとも現金なことではあるが、そんな彼女と二人きりの時間を過ごせるのが無性に嬉しくなってしまうのだ。
(だから、レーゲンさんとヴィルさんには、ちょっぴり感謝してみたりして……)
もちろん、エメリーには内緒だが。
-§-
一方、リウィアが耽っている思考の内容はつゆ知らず、エメリーはどうにか頬の熱を収めようと四苦八苦していた。
(……まったく! リウィアったら、急に変なこと言い出すんだから!)
完全に不意打ちだった。
想定外の方向から突かれてつい平静を失ってしまったが、もちろん、普段ならこの程度の突っ込みでここまで動揺などしない。クサい台詞に面食らうのはレーゲン相手だといつものことだし、揶揄われてペースを乱すのもヴィルで慣れている。
(慣れるほど繰り返されてるってのは、よく考えるとすごく癪だけど)
それについては今はいい。良くはないが、後回しだ。当人たちもいないのだし。
が、今回においては相手がリウィアだ。しかも彼女には昨晩、思い出すだけで死にたくなるような、なんとも情けない醜態を晒してしまってもいる。
(本当になんというか、あのときの私、正気を失ってたとしか思えないわね……)
過去最低最悪クラスの無様だ。まさか皆が見ている前で大泣きする羽目になるとは。レーゲンたちもさぞかし驚いたことだろう。当然だ。当の自分自身が一番驚いている。というか現実だとは思えないし思いたくない。
(録音とかされてたら、軽く死ねるわね)
彼女に蓄音機としての機能があるかは分からないが、あとでヴィルを問い詰めておかねばなるまい。濡れ衣だったらそのときはそのときだ。憤死モノの大恥を後世に残されるわけにはいかない。グラナートの家名に懸けてでも……、
(……ああ。ちょっと、落ち着きましょう、私)
思考が暴走しかけている。これではいけない。いついかなる時も冷静沈着であるべき空素術士として、けっして褒められない態度だ。
エメリーは深呼吸を試みた。大きく息を吸って、吐いて、それを三度ほど繰り返す。そうしていると徐々に身体を満たす熱が失せ、思考が平静に戻っていく。
(……よし)
まったく。朝っぱらから自分はいったい、なにをしているのだろうか。そこはかとない虚脱感を感じつつ、エメリーは最後に大きく溜息を吐いた。
いい加減に立ち直るべきだ。これからさっさと朝食を摂って、残った所要を済ませて、今後の行く先を考えなければならないのだから。ただでさえ旅路に遅れが生じている現状、無駄な時間を過ごしている暇はない。
ようやくエメリーが顔を上げると、リウィアがなにやらニヤニヤしていた。
「……ちょっと、どうしたのリウィア?」
「ふぇっ!? へぁ、や、なんっ、なんでもないです!!」
何の気なしに問いかけると、リウィアは面白いほどに大きく肩を跳ねさせた。否、正確には床から数センチばかり飛び上がっていたほどだ。怪訝に首を傾げるエメリーの前で、リウィアは上擦った声で弁解を開始する。
「ち、違うんですよ? べ、別にエメリーさんが恥ずかしがってる様子をじっくり眺めてたとか、そういうんじゃなくて。その、えっと、朝日に照らされてる顔が奇麗だなあとか。ああいや、違くて、そうじゃなくて。別に、あの、うう……」
語るに落ちるとはこのことか。わたわたと手を振りながら、目を思いっきり泳がせて言い募るリウィアに、エメリーは冷めた半目を向けた。
「落ち着きなさい」
「へうぅ……」
ぷすん、と。空気が抜けた風船のように萎れたリウィアを前に、エメリーは眉をひそめて、人差し指でこめかみを叩く。
(……この子、前からこんなだったかしら?)
いや、よくよく思い返してみれば、こんなだったかも知れない。
以前からこちらに向ける感情も視線も、なんというか過剰な勢いを孕んでいた気配はあった。それはかつて窮地を救った恩に基づく、幼子の無邪気な憧れに近いものだとばかり思っていたが、どうやら少しばかり違うらしい。
(別にそれが嫌だとか、そういうわけじゃないけれど)
正直に言って「よくわからない」のだ。
まあ、少なくとも好意の一種には違いなさそうなので、とりあえずもう少し様子を見ようとは思う。妙なことをしてきたりはしないだろうし。
(……そういえば。〈皇都魔導学院〉にも、そういう感じの子、いたっけね)
いわゆる高嶺の花というものはどんな場所にもいるようで、男女問わずに人望と好意を一身に引き受けていた生徒をエメリーは知っている。そして、そんな存在に群がる連中には、だいぶ熱狂的な者が数人ほど居たりもして。
無論、エメリーにとっては他人事である。
なにせあの学院において自分に向けられていた感情は、嫌悪や恐怖、あるいは敵意や拒絶がほとんどで、間違っても好意など持たれていなかったのは明白である。
(……ちょっとした恩というか、まあそれに付随する感謝くらいは、もしかしたら少しだけあったかもしれないけど)
そのことについて、今は語る時ではないので割愛する。ただそのきっかけとなった事件が、自分の目を『外の世界』に向けさせたのは確かだった。
ともかく。エメリー・グラナートという人間は、一言で評して「とっつきにくい」のだと、それくらいの自覚はあるのだ。これは冷静な客観視によるもので、もちろん改善できれば重畳だが、今のところはそのきっかけもない。
が、どういうわけかリウィアはそんな自分に懐いている、らしい。
(まあ、レーゲンやヴィルに比べたら、穏当に接してたとは思うけれど……)
それだって、少し前に本格的な説教をしたことでご破算になったと思っていた。
-§-
実のところ、リウィアに対する不安は以前からあったのだ。
もちろんそれは彼女が単純に旅慣れしていないことや、そもそも有事の際に対応できるような自衛手段に乏しいことであって、不信や疑念の類ではない。
が、人格面についてはむしろ問題がない分、彼女を守ってやらなければならないという責任感は常に抱えていたし、それが重荷に感じられたことが一度もなかったとは言えない。こればかりは実際的な問題なので仕方のないことだ。
しかし共に旅路を重ねていくうち、リウィアの“歌”がもたらす凄まじい威力とそれを可能とするだけの桁外れな才能に加え、意外なほどの芯の強さや心根の優しさを知るようになり、やがて自分は彼女を心から信頼するようになった。
なにより決定的だったのは、一ヶ月前の“恐嶽砲竜”との死闘だ。
次から次へと襲い掛かる窮地の最中で、自分はリウィアが持つ強さを改めて目の当たりにし、また彼女に多くを助けられることで「これから旅を続けるうえで、なくてはならない存在だ」と痛感させられもした。
(その判断には、今も間違いはないと思ってる。けど……)
どうやら、いつの間にか歯車が狂っていたらしい。その事実に気付いたのは、資金集めを開始してから半月ほど経った頃だった。
(……リウィアがこれまで以上に、積極的に仕事に加わるようになったのよね)
始めはそんな彼女の変化を、好意的に受け止めていた。
恥ずかしい話だが、当時の自分は泥臭い労働に対する抵抗感が勝っており、日に日に募る苛立ちによって仲間の様子に気を配る余裕を失っていたのだ。
故に、リウィアがあれこれと世話を焼いてくれるのを、むしろ「相変わらず気が利くから助かるわね」と暢気に考えていたほどだった。
(だけど、……それじゃ駄目だったのよ)
きっかけはヴィルの一言だった。
ある日の仕事を終えてホテルに帰る途中、不意に近寄ってきた彼女が何気ない口調で「リウィアさん、最近ちょっと無理してませんかね」と、囁いてきたのだ。
(正直、目が覚めた想いだったわね……)
ヴィルは続けて「様子はこちらの方でも見ておきますが、どうも私が口で言っても効果がないようなので、もしもコトが起きた時はお願いします」と付け加え、こちらが半信半疑ながら頷いたところでひとまず会話は終わった。
その時は「まさか」という思いの方が強かったが、翌日になってリウィアの様子を具に観察してみると、確かに以前にはなかった必死さのようなものが感じられ、
(これは一度ちゃんと話をしないと不味いかな、と考えているうちに……)
その日の帰り道で、とうとうリウィアが倒れてしまったのだ。
-§-
(……あの時ばかりは自分の愚かさにつくづく嫌気が差したわね)
彼女が無理をしていることを、ヴィルから指摘されるまで気付けなかった。
それだけでも大失態だというのに、ようやくリウィアが回復した日、彼女が涙ながらに訴え始めた言葉を聞いた際には文字通り頭を殴られるような衝撃を受けた。
そう。自分はそこでようやく、リウィアが仕事に対して異常なほど積極的だった理由を知り、また彼女が抱えていた欲求にも直面したのである。
(まさか、リウィアがここまで重大な「勘違い」に陥っていたなんて、ね)
自分はそのとき、リウィアにどう対応すべきかを迷った。
レーゲンやヴィルのように、優しく諭して慰めるのは容易い。それでも時間はかかるだろうが、リウィアが受けた心の傷を癒すだけなら十分であろう。
だが、それは折れたテーブルの足をテープで固定するようなもので、根本的な対処には至らないと薄々ながらも分かりかけていた。
もしここでリウィアを赦してしまえば、彼女はきっと「勘違い」を抱えたまま進むことになるだろう。そうなれば、またいずれ同じような問題が持ち上がったとき、今度こそ決定的な決裂を生みかねない。
それに、一番大きな理由としては、
(リウィアに憑りついた承認欲求と劣等感は、……かつての私自身が囚われていたものに、すごく似ていたから)
まるで過去の自分がそこに居るようだった。
もちろん、根底にある想いは正反対だ。自分は「自分のため」で彼女は「他人のため」。なのに表出したのは「認められたい」というまったく同じ欲求。
生まれも育ちも、性格も心情も、なにより与えられた才覚に至っては天と地ほど差があるのに、どうしてここまで似たような悩みを抱えてしまうのか。
(でも、だからこそ、その間違いを私が糺さなきゃいけないと思って……)
これから「仲間」として旅を続けるならば、絶対に避けて通るわけにはいかないと、関係性が壊れることも覚悟で怒鳴りつけたのだ。生憎、その結果は散々なもので、そこでも自分は醜態を晒したものだったが、
(……さすがに、今度こそ嫌われるかな、って)
説教をしながら、正直、そんなことばかり考えていた。
だから、リウィアから予想だにしていない言葉をぶつけられたときには、怒りや哀しみよりも先に驚きで頭が真っ白になってしまったほどだ。その時、反射的に手を上げてしまったことについては、いまだに強い後悔がある。
(あの時の私、きっと、酷い顔してたんでしょうね)
理性によって感情を御するべき空素術師が、よりにもよって激情に任せて仲間に暴力を振るうなど、絶対にあってはならない愚行だ。
そもそも最初に残酷な言葉を投げつけたのはこちらなのに、それを打ち返されてショックを受けるなど、まったくもって馬鹿丸出しではないか。
だいいち説教の内容にしても、結局はリウィアに投影した「かつての自分」をこき下ろすのに終始しただけで、お世辞にも褒められたものではなかった。
(なにより、そんな不安をリウィアに抱かせてしまっていた自分の至らなさが、堪らなく情けなかったわね……)
日頃から散々偉そうなことを言っておきながら、リウィアの心情を慮ることができていなかったのだ。一行の参謀役としては間違いなく失格だ。働きづめの日々に精神的な余裕を失っていたなどと、そんなことは言い訳にもならない。
(レーゲンたちを責める資格なんて、本当はなかったのに、ね)
そもそも、リウィアの異変に最初に気付いたのは彼女たちなのだから、監督不行き届きを責められるべきは本来こちら側なのだ。
にも拘わらず甘んじて叱責を受け、収集が付かなくなった時には素早くフォローに回ってくれたのだから、こればかりはいくら感謝してもし足りない。
特にヴィルはおそらくこうなることも覚悟の上で、それでもこちらに判断を委ねてくれたのだから、今後はきっと足を向けては寝られないだろう。
(……その結果は、怒鳴り合いの大喧嘩だったけど。ほんと、コミュニケーションに致命的な欠陥があるんじゃないかしら、私。口下手ってレベルじゃないわよね)
そうして紆余曲折あった末、どうにか仲直りできたときは心底安堵したものだが、以前よりもリウィアとの距離は開くだろうと考えていた。が、予想に反して彼女はむしろ、以前よりも距離を詰めてくるようになったのだ。
(というか、なんか、……随分と気安くなったわね)
さきほどもそうだ。レーゲンやヴィルに妙な影響を受けたのかは定かでないが、ともかく彼女の雰囲気は以前よりも大分「気楽」になった。
より正確にいうなら「肩の力が抜けた」とするべきか。過剰にオドオドせず、張り切りすぎることもなく、丁度いい塩梅に落ち着いた印象だ。
(お互いに言いたいことを言い合って、屈託がなくなったのかしら?)
その結果がこんなならば少々頭が痛いところだが、こちらとしてはコミュニケーションに齟齬や軋轢がなくなるのはむしろ望ましい。レーゲンほど明け透けでなくとも、遠慮なく意見をぶつけられるのは有難いことだ。
ならばこれも、前向きに受け入れるべき変化なのかもしれない。なにより、リウィアが自分の気持ちを正直に表に出してくれるようになったのは、間違いなく喜ばしいことなのだから。
「……っと、いけない」
そんなことを考えているうち、半刻ほどが過ぎてしまっていた。このままでは朝食を食いっぱぐれてしまう。朝食もそこそこお高めな宿泊代の内訳だ。無駄にするわけにはいかなかった。
「リウィア、とりあえず朝食にしましょう」
「へ、あ、はい……! そ、そうですね!」
エメリーが声をかけると、リウィアは少しばかりシャンとした。直後、腹の虫が二人分同時に鳴り響く。一瞬の沈黙を挟み、どちらともなく笑い声が起きた。
「……あいつの言葉じゃないけど、腹が減っては戦はできないからね」
「ですね。ちゃんと食べて、しっかり準備して、それからまた旅に出ましょう」
意見の一致は得られているようだった。エメリーは肩を竦め、苦笑し、リウィアの手を取る。ほんの一瞬だけ竦んだ細い指は、しかしすぐに握り返してきた。
「行きましょうか」
「はい、行きましょう」
リウィアの手を引いて、エメリーは部屋を出る。柔らかで温かい手の平の感触が、どことなくくすぐったく、また不思議と愉快だった。
-§-
捕捉:旅行士四人の字の巧拙について
レーゲン:読めなくはないのだが、やや直線的で硬い筆跡
エメリー:真面目に書くと奇麗だが、急いでる時は極端に荒く雑になる
リウィア:ちょっと丸っこいが、基本的には丁寧に書かれている
ヴィル:ワープロで打ち込んだように、いっさい乱れがなく正確無比




