シーン3:それぞれの休日、それぞれの行く先
-§-
リーンハルト・シュレーダーの朝は早い。
「……朝、か」
空の端が白み始めたころ、呟きひとつを零すとともにリーンハルトは瞼を開く。のっそりと上体を起こした彼は、眠気の残滓をかすかにも感じさせない澄んだ目つきで薄暗い室内を見回し、壁に掛けられた時計が午前四時ちょうどを指しているのを確認すると、静かに頷いた。
彼はそのまま躊躇いなく右腕でシーツを捲り上げ、冷え切った朝の大気に、よく日に焼けた浅黒い素肌を晒す。薄手のインナーとズボンだけを着込んだ格好だ。
薄闇に溶け込むその体躯の至るところには、大小無数の傷跡が刻み込まれている。古きも新しきも乱雑に含んだその傷群は〈烈刃〉の綽名を頂く騎士として、己が身を顧みない戦いぶりの代償であり、また勲章でもあった。
「…………」
ちらり、と。リーンハルトはさきほどシーツを掴むのに用いた右腕を見やる。見た目には生身と変わらぬ肌色の皮膚を持ったその正体は極めて精巧な義手だ。
さきほどの動作にも違和感はなかった。『新しい右腕』は寸分の狂いもなく動作し、文字通り完全にこちらの意思に従って働いてくれた。無意識を反映するほどに最適化されているのだ。なんなら以前より精密な動きが可能であった。
唯一、接合部となる二の腕辺りを境として、そこから指先まで傷のひとつもないというのが不自然といえば不自然だったが、この点についても使っていくうちに馴染んでくるだろう。〈巡回騎士隊〉として働いていれば、そう遠からず元通り傷だらけになるだろうな、とリーンハルトは思っていた。
さて、いつまでも右腕を眺めているわけにはいかなかった。
周囲、皮膚を突っ張らせるような鋭く乾いた寒さに、リーンハルトはなんら頓着しない。無言のままシーツから身体を慎重に引き抜くと、音を立てぬようにゆっくりと床に降り立つ。その動きには停滞も揺らぎもない。
軍隊生活において早寝早起きは基礎中の基礎だ。入隊からおおよそ五年、身体に叩き込まれた軍人としての生活様式にすっかり慣れたリーンハルトにとって、日の出前の起床はさしたる苦痛ではなかった。
故に足裏が絨毯の感触を踏みしめたとき、リーンハルトの思考から眠気は完全に拭い去られていたのだが、
「……ぅ、うん」
彼の同僚にとっては、そうではなかったようだ。
リーンハルトは見る。自分の身体が抜け出し、空となったはずのベッドに、もうひとつ分の膨らみが残されている事実を。
やや乱れた赤銅色の髪が、シーツの端から覗いている。枕に沈んだその顔はこちら側を向いているが、稲妻の如き鮮烈な光を宿す真鍮色の瞳は、固く閉じられた瞼の奥に封じられている。
イーリス・アーベラインがそこにいた。
「……イーリス?」
リーンハルトが囁き声で問い掛けるが返事はない。起こしてしまったか、と考えていた彼はまずそのことに安堵した。
イーリスの表情は弛緩しており、浅く開いた唇からは規則正しい吐息が漏れ、彼女がいまだ夢の中にいる事実を物語っている。そのためだろうか。平時の彼女が自分や部下たちに見せるような、ともすれば粗暴さにも通じる快活さはなりを潜め、代わりに本来のどこかあどけない印象が際立って見えた。
リーンハルトはふと思う。軍隊に入る前、ごく普通の少女であったころのイーリスは、そういえばこういう顔だったなと。
過去の想起が現在の光景に重なり、しかしリーンハルトは小さく首を振ってそれを振り払う。過去は過去、現在は現在だ。最近になってその差異を懐かしめるようにはなってきたが、それでも胸の奥に走る鈍い痛みは無視できない。
「……くっ」
リーンハルトは苦笑。己が身に施された紋章術が発動時に与えてくる肉体的な痛みには眉ひとつ動かさない自分が、喪われたものを想うだけで生じる心の痛みに対してはこうもナイーブになるとは。
(だが、それが俺という人間なんだろう)
リーンハルトは受け入れる。過去を想い痛む心と、それに揺らぐ自分自身を。何故ならば、それでも良いのだと、他ならぬイーリスが教えてくれたのだから。
リーンハルトは胸に手を当て、小さく吐息。それだけで胸の痛みは和らいだ。
故にリーンハルトは行動を開始する。イーリスの寝顔を眺めているのも悪くないが、それよりも今は朝の支度をしなければならなかった。
まずは乱れたシーツを、イーリスの身体にしっかり掛け直してやる。
昨晩、共にベッドに入った時から彼女は薄着のままだ。人間一人分の体温が傍から消え失せ、シーツの被せ方も中途半端では、風邪をひいてしまう可能性がある。
なるべく部屋の冷気が入り込まないように注意しつつ、またイーリスを目覚めさせないよう、リーンハルトは可能な限り丁寧にその作業を終えた。
次に壁に嵌め込まれた≪室温調整≫の紋章板を操作し、イーリスが目覚めた時に部屋が適度に温まっているようにする。暑すぎてはいけないので調整には注意が必要だが、彼女の好みは分かっているので問題ない。
それから、部屋の隅に用意しておいた着替えとタオルを抱えて洗面所へ行き、手短に身支度を整える。歯を磨き、髭を剃り、顔を洗うだけなので数分で済んだ。
蛇口を捻れば速やかに暖かな湯が出てくるのは、“ゲルプ”に住まううえでの大きな恩恵のひとつだろう。もっともリーンハルト自身は冷水でも構わないうえ、一般的なシュタルク人よろしく入浴もシャワーで済ませるのが常なのだが。
脱いだ肌着は洗濯籠に放り込み、後で纏めて共同洗濯場に持っていく。
洗濯機があれば楽なのだろうが、生憎一人暮らしが長いためにあまり必要としていないのが現状だ。が、頻繁にこの家を訪れるイーリスのことを考えれば、そろそろ購入しておくべきか。後で手頃な価格のものを調べておこう。
そんなことを考えながら、リーンハルトは着替えを開始。といってもズボンは寝間着に使用したものを流用するので、肌着を交換するだけだ。違いといえば無地のシャツを一枚上から着込んだくらいで、結局洗面所を出る前と後で、ほとんどリーンハルトの風体は変わらなかった。
「……さて」
これで朝の支度は完了した。
朝食は摂らない。これから日課のランニングをするためだ。また、今日は休日だが王城に用事があるため、ランニングを終えた足でそのまま登城する予定である。なので行きがけにパンを買うか、王城内の食堂で済ませることになるだろう。
リーンハルトはテーブルにイーリスへの書き置きを残し、必要な荷物を詰めたナップザックを背負うと、やはり音を立てないように玄関を出た。
「行ってくる」
一言だけを、部屋の奥へと投げかけて。
-§-
「……行ったか」
主が立ち去ったことで再び静寂に満たされた室内に、ひとつの呟きとそれに付随したかすかな動きが生まれる。丁寧に被せられたシーツがもぞもぞと動いたかと思うと、その端からイーリスが真鍮色の瞳を覗かせた。
そう、彼女はすでに起きていたのだ。
イーリスは大欠伸をしながら上体を起こし、そのまま床に降り立つ。薄手のシャツの他、下着の上下のみを身に付けただけのあられもない恰好だが、部屋が暖められているおかげで寒がる様子はない。
「ねむ……」
イーリスはぼりぼりと頭を掻きながらテーブルへと歩み寄り、リーンハルトが残していった書き置きを読んで苦笑。メモ用紙の切れ端を利用したそれには、微妙に歪み震えた筆跡で、彼らしい味も素っ気もない内容が記されている。
「王城に行ってくる。冷蔵庫のものは食べてもいい。鍵は締めておいてくれ……」
もうちょっと他に書くことないのかよ。イーリスは眉をひそめて独り言ちると、書き置きを丸めて屑籠に捨てた。そうして冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、ベッドに腰掛けて半分ほどを飲むと、天井を見つめながらぽつりと呟く。
「……結局、最後まで手ぇ出さなかったな、あいつ」
昨晩のことだ。
“恐嶽砲竜”との死闘を終えて、それからの一ヵ月間。退院したリーンハルト以下“シュレーダー隊”の皆を待っていたのは、息もつかせぬとばかり、次から次へと舞い込んでくる雑務の嵐であった。
王城で行われた盛大な祝勝会にて、当代の“褐色皇帝”から直々に褒章を得るなどしつつ、他の〈巡回騎士隊〉や無駄に好奇心旺盛な上官から質問攻めにあったり。
事件の当事者としての事情聴取やら、マスコミ向けへの取材やら、退院手続きや休暇申請など諸々の書類提出に次から次へと追われまくることになったり。
リーンハルトの義手を作るにあたっての立ち合いだとか、その素材となった“ある物品”の使用許可を取るために、七面倒臭い手順を踏まなければならなかったり。
(……マジで“恐嶽砲竜”と戦ってた時の方が、なんぼかマシだったな)
半分冗談で半分本音だ。敵ならば遠慮なく雷撃を撃ち込んで黙らせられるのだが、上官やマスコミや頭の固い管理官相手にはそうもいかない。
いちおう育ちのおかげもあって、イーリスは比較的そういった連中との付き合いは適当に熟せる側だったのだが、リーンハルトや部下たちはそうではなかった。
(特にリーンハルトは駄目だな、コミュニケーションが下手すぎる)
リーンハルトが発する無言の圧力に堪えかね、取材にやってきた若い女性記者が泣き出してしまったのは、なんとも情けない記憶だ。
彼としては単純にコメントを必死に考えていただけで、威圧するつもりなどまったくなかったのだろうが、初対面ならば誤解するのも無理はない。
まあ、そういう部分で彼のサポートをすると決めた以上、イーリスとしては別段文句はなかったのだが、とにかく疲れた。とても疲れた。なにより両親から送られてきた手紙に返事を書くのが一番キツかった。内容はお察しだ。
そうこうしているうち、結局イーリスたちが休暇を得ることができたのは、ほんの三日前のことだった。
その三日間で、二人は個人的な所用を片っ端から済ませていった。
故郷の“フェーデル市”を訪れたり、亡くなった者たちの墓参りをしたり、溜まっていた小説を読んだり、部下たちとの飲み会に参加したり。
後者ふたつに関しては久々に心安らぐひとときであったが、ともかくあっという間に時間は過ぎた。楽しい時間はいつもそうだとイーリスは思う。
そして昨晩。食材やら酒やらを買い込んで、イーリスはリーンハルトの個人邸宅を訪れたのだ。曲がりなりにも騎士である彼は、首都に一軒家を維持する程度の収入を得ている。といっても庭も車庫もないこじんまりとした平屋建てだが、それもまた彼らしい。
そうして最近の出来事を肴に、イーリスが作った料理と少し奮発した酒を楽しんでいるうち、夜もとっぷりと更けた。そうなると後は寝るだけなのだが、
(まあ、なんだ。……今回は“勝負”を仕掛けに来たんだよな、アタシ)
イーリスがリーンハルトの個人邸宅を訪れるのは大して珍しいことではなく、寝泊りした経験もこれまでに幾度となくあった。しかし昨晩に限っては特別な覚悟と用意をして、要するに「一線を越える」腹積もりで彼女はやってきたのだ。
(なんというか、……そろそろ良いよな、って)
すれ違いがあった。遠慮もあった。
過去に受けた心の傷と、それをお互いに受け入れた後にも残ったしこりが、イーリスに「リーンハルトと関係を進める」ことを躊躇わせていた。
しかし一ヵ月前の戦いを機に、なんとなく胸中に突っかかっていたものが解消したと、イーリスは感じていた。その理由はこれまで秘めてきた肚の内を明かしたからだろうし、またリーンハルトを喪いかけた焦りもあるのだろう。
そのうえで、思ったのだ。彼ともっと深く、繋がりたいと。
だから、行動に移した。
シャワーを浴びて、入念に手入れの再確認をして、イーリスは心臓が口から飛び出しそうな気分でベッドに腰掛けているリーンハルトに迫った。具体的には押し倒した。そうして戸惑ったような表情の彼を抱き締め、その分厚い胸板に頬を摺り寄せ、丸一日かけて考えた「殺し文句」を放とうとした瞬間だった。
(……あいつ、アタシのこと、抱き締めてきたんだよな)
彼の体温と匂いに包まれた。それだけで頭が真っ白になった。言おうとした台詞も完全に飛んだ。一発で意気が砕けて、羞恥心が全身を焼き焦がした。
一言でいって、ダメになった。
結局イーリスはそれからどうすることもできず、借りてきた子猫のようにリーンハルトの腕に抱かれたまま、彼と幼い日の頃の思い出話をした。
完全に思考が茹っていたせいで、内容はもうほとんど憶えていない。
ただ、両親と一緒に川へ遊びに行った日のことや、学校に通っていたころに起きた他愛のない事件のこと、誕生日を最後に祝ったときのことなど、とりとめのないあれこれをぽつぽつと語った気はする。
やがて、そうしているうちに睡魔に襲われ、気が付いたら今朝だった。
「アタシは乙女か!!」
思わず叫んでから、声の大きさとその内容にイーリスは身悶えする。傍から見ればさぞかし滑稽な姿だろう。一瞬で頬に熱が上ってきて、色々と堪らなくなったイーリスは「うがあ」と頭を抱えながらベッドに倒れ込んだ。
「……ああ、クソ。二十歳もとっくに超えたってのに。ったく、恋愛小説に出てくるような、目の中に星が飛んでる女学生キャラじゃねぇんだぞ。意気地なしめ」
言って、盛大な溜息が迸り出た。部下たちにはこんな自分の姿は絶対に見せられない。揶揄われるならまだいいが、憐れまれたら最悪だ。確実にキレる。
しかし、ああ、まったく。
「締まらねぇなあ……」
シーツを引き寄せて包まり、顔を覆い隠し、イーリスはしみじみと呟いた。
そして決める。時刻はまだ目覚めるには早く、睡魔も頭の片隅にこびり付いている。ならば貴重な休日だ、このまま二度寝してしまおう。そうして次に起きたらさっさと着替えて、散歩でもしつつ買い物をして、昨晩のように料理を作って。
(……あいつが帰ってくるのを、待ってようかな)
そんなことを考えながら、イーリスは再び眠りに落ちた。
-§-
「――っくし、……む」
誰かが自分の噂でもしているのだろうか。唐突に出たくしゃみに、リーンハルトはそんなことを思った。
“ゲルプ”中心部、すでに王城が目の前に見えている地点での出来事である。
ここまで走ってきたおかげで身体はほどよく温まり、肌からは白い湯気が立ち昇っている。やや汗ばんだ身体に朝の冷気はむしろ気持ちがいいくらいだ。
体力的な消耗はあまり感じない。入院生活で筋肉が衰えるかと危惧していたが、どうやら普段がオーバーワーク気味だったらしく、かえって良い休息になったようだ。総合的には以前よりも力が漲っているようにも思える。
(あまりに身体が軽いので、つい、市街を三週もしてしまった)
ちなみに今は午後七時頃。個人邸宅を出てから、だいたい三時間近く走りっぱなしだった計算になるが、不思議と疲れていない。随分と楽だった。
「……いや。楽になったのは、どちらかというと精神面か」
リーンハルトは独り言ち、微笑する。
イーリスに気持ちを伝えたおかげだろうか、なにか色々と吹っ切れたような気がする。無論、〈骸機獣〉に対する憎悪と戦意は微塵たりとも薄れてはいないのだが、それを発揮するにあたっての「気負い」が和らいだようなのだ。
(喪うことが恐ろしいと、認めたからだろうか)
正確なところは分からない。心理学を本格的に学んでいるわけではないし、感情の機微には昔から疎かった。
そもそも気の持ちようひとつで身体の動きが変わるものだろうか。
(……変わる、んだろうな)
なんとなく確信がある。あの異形の襲撃者からイーリスを救おうとしたとき、精も根も尽き果てたはずの自分を突き動かしたのは、ひとえに「気力」と呼べるようなものではなかっただろうか。
だから、その力が己の内に宿ったのならば。そして、その根源がイーリスや仲間たちの存在であるならば、自分にとってこの上ない喜びだった。
同時にそれらを「二度と喪うまい」とする決意が、より強固に組み上がったという実感もある。なにより、この決意が誰かを守ることに繋がるのならば、
(俺は今度こそ、胸を張って己を「騎士」と名乗れるだろうか)
そこまで考え、ふと力が抜ける。流石に思い上がりが過ぎるというものだ。高望みはけっこうなことだが、まずは現実的な問題をひとつひとつ地道に解決していくのが、兵士としての勤めであろう。
まあ、多少は前向きになれたのだろう。リーンハルトはそう結論しながら、さきほど脳裡を過った「噂」について考える。
「イーリスか、あるいは……」
自分の部下か、それとも軍内の誰かか。
後者ならばあまり良い類のものではないだろう。自分はお世辞にも好かれているとは言い難く、特に上層部受けは極めて悪い。そのくらいの自覚は以前からあったのだ。あまり気にして来なかっただけで。
が、これからはそういうわけにもいかないだろう。小隊単独での“恐嶽砲竜”の討伐という、事実とは少しばかり異なる手柄を得てしまった以上、今後“シュレーダー隊”に向けられる目線は多くの期待と羨望、そして緊張感を孕んだものとなる。
そうなれば当然、隊長である自分にはそれ相応の立ち振る舞いが求められる。一挙手一投足とまではいかずとも、無様な姿を晒しでもすれば、それは部下たちの尊厳をも貶めることになりかねないのだから。
「不出来な俺に、どこまでできるか……」
疑問は尽きず、不安も大きい。それを「面倒なことだ」と思う一方で、これまで着いてきてくれた部下たちに報いたいのも本心だ。
それにいつまでもイーリスに甘えているわけにはいかない。何故ならば、もしも自意識過剰からくる誤解でないのならば、おそらく彼女は昨晩、
(俺を、求めようとしていた……?)
リーンハルトは立ち止まり、悩む。
自慢ではないが、自分はその手の事柄にまったくもって無知だ。小説や歌劇などで描かれるような、いわゆる「男女の駆け引き」の存在そのものは知っているが、どうしてもそれらを自分に当て嵌めることができない。
だから昨晩、本音を言えばイーリスからそういう気配を感じ取ったとき、どうしていいかわからなくなった。
彼女が自分に好意を、それも幼馴染としての友誼や軍人同士としての信頼とはまったく別の、男女の色恋沙汰に類する感情を抱いていることはわかる。それを最近になってようやくはっきりと自覚したような朴念仁でも、流石にあそこまで直接的な行動を起こされれば気付かない方がおかしい。
(結局、俺は彼女の期待に応えられなかったが……)
すまないことをした、と思う。イーリスはきっと、相当の覚悟を決めてやってきただろうに。しかし、こうも思うのだ。まだ、早いのではないかと。
何故なら、
(……俺は、イーリスになにをしてやれるのだろう。そして、俺自身が彼女になにを求めているのだろうか)
そのふたつが確固として定まらないうちに彼女を欲してしまえば、なにか取り返しのつかない破綻が導かれるような予感がある。
加えて昨晩のイーリスはどこか「焦っている」ようでもあった。ならばきっと、それでは駄目だ。勢いだとか場の空気だとか、ましてや獣欲の類に流されるわけにはいかない。彼女の存在を尊く思えばこそ、絶対にだ。
(考えよう、しっかりと)
そのうえで、見極めよう。自分が彼女と、将来どうなりたいのか。
「……きっと、時間はあるさ」
無意識に零れたその声が、思いがけず前向きな色を帯びていたことに、リーンハルトは奇妙な嬉しさを得た。そうして、間近に聳え立つ王城を見上げ、その彼方に広がる蒼く透き通った空に思う。
「父さんも、そうだったのか?」
答えはなかった。死者はなにも言葉をくれない。だが、それでいい。これは自分が考えるべき、そして、イーリスと共に決めていくことなのだから。
リーンハルトは目を伏せ、祈り、視点を下げた。
周囲、王城前の広場には開催したばかりの朝市が広がっており、すでに賑やかな活気が満ちていた。明るい笑い声と商売文句が重なって響き合い、朝日を浴びて輝く色とりどりの野菜や果物が並べられ、肉製品を焼く香ばしい臭いが漂ってくる。
それらすべては人々の営みから生まれたもので、騎士の名を背負う者たちが一命を賭してでも守るべきものだった。
リーンハルトは頷き、眼前を見据える。重厚な威圧感を放つ巨大な正門の両脇には〈ゲルプ騎士団〉の鎧姿が控えている。彼らの視線はこちらに向いていた。
「行くか」
と、そのときリーンハルトの意識の端を、どこかで聞き覚えのある声が掠めた。誰だと思って視線を巡らせれば、楽しそうに朝市を巡り歩く二人の女性が目に入る。リーンハルトは彼女たちの名前を知っていた。
(レーゲン・アーヴェントと、ヴィルベルヴィント、か……)
どこか諦念が滲む笑みを浮かべたレーゲンが、やけに張り切った様子のヴィルに手を引かれるまま、市場屋台を片っ端から連れ回されているらしい。
声を掛けようか。リーンハルトは一瞬だけそう思い、しかし止めた。
今の自分は彼女たちと面識がないことになっているし、なにより楽しそうな様子に水を差すのも躊躇われた。ならば、今はそのタイミングではないのだ。
(……それに、心配する必要もなさそうだしな)
レーゲンと病院の食堂で言葉を交わした時、彼女の顔に浮かんでいた不安と躊躇いが、今ではすっかり拭い去られている事実をリーンハルトは確かめた。
(彼女と共に歩む者たちは、きっと良い仲間なのだろう)
だったら、大丈夫だ。歩みを揃え志を同じくし、怖れや迷いを分かち合うことのできる友が傍にいるのなら、挫けても立ち直ることができるはずだ。
(俺のような男でさえ、そうだったのだから)
そして、元より彼女たちが歩む道と自分が目指す道は、まったく別の方角を向いている。故に今は元気な姿が見られただけで重畳とし、彼女たちの幸運を祈るだけで十分だ。余計な干渉をするべきではない。
「……頑張れ」
どこか自分と似た、しかし根本的には異なる志を抱く空色パーカーの旅行士がこれから辿るであろう旅路をリーンハルトは想い、その無事を願った。
そうして彼は、王城の門をくぐる。
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