シーン2:始まりの風が草原に吹く
-§-
陽光を受けて青々と輝く草原の上を、東を目指して真っ直ぐ進む一行がある。
数は四人。さくりさくりと軽快な音を立てながら草群れを踏み行く者たちは、服装こそ各々で特徴豊かに違えていれど、性別は一貫して全員が女性。しかもそのほとんどが、まだ幼い少女と評すべき年齢であった。
そんな一行の先頭に立つひとりが、ふと、誰かに呼ばれたような表情で空を見上げる。彼女は右手を庇に陽射しを遮り、黒に近いほど深い瑠璃色の瞳で、青空の彼方に浮かぶ銀の輪を見つけて微笑むと、
「うーん、いい天気だ! エーテルも澄んでて〈天輪〉も良く見えるし、これ以上ないってくらいの旅日和だよね!」
うん、と頷きをひとつしてから、再び彼女は歩き出す。
小柄な体格には華奢というより、むしろ活発さを内包した印象がある。
服装は空色のパーカーにカーキ色の長ズボンといった活動的なもの。左腕、肘までが鞣革と黒鋼で拵えられた手甲によって防護されている。
腰のベルトには実用的な形状のポーチが付属し、その他、腰後ろには鞘に収まった剣が括り付けられている。長さは一メートルにも満たない、片手での取り回しを主とした短剣だ。装飾の類は皆無の無骨で実用的な品である。
春風に踊る髪は白に近い灰色。うなじの後ろ、明るい色のリボンで尻尾のように長く括った後ろ髪が、持ち主の上機嫌を表すように揺れている。
歳の頃、十代前半と思しい顔つきには若々しく健康的な生気が満ち、飾り気のない服装も相まって一見すると少年のような風情があった。
名を、レーゲン・アーヴェント。意気揚々と進むその背中へ、不意に少しばかり険を含んだ声がかかる。
「ねぇ、レーゲン。楽しそうなのは結構なんだけど、ちょっといいかしら?」
レーゲンが振り返れば、砂色の分厚いロングコートを纏った少女がそこにいる。
むっつりとへの字を結んで胸の前で腕を組み、不機嫌を露わにする彼女の名は、エメリー・グラナート。レーゲンにとっては、とある奇妙な偶然から得た旅の道連れ、あるいは仲間とも呼ぶべき少女だ。
エメリーは緩く癖のある黒髪を肩上で切り揃え、前髪の左側を鼈甲製のヘアピンで留めている。白磁の肌に鼻筋の通る整った顔立ち。歳の頃はレーゲンとほぼ等しく見えるが、身長はこちらが頭一つ分高い。
ロングコートの下には、女学生風の深緑色のベストと同色チェック模様のスカートが覗くが、それらはゴテゴテと括り付けられたベルトやポーチ類によって大部分が覆い隠されている。黒のストッキングを履いた両脚も、膝下からは無骨な軍用ブーツに包まれていた。
一見してなんともチグハグな格好だが、それらはエメリーが「必要である」と考えた上で身に付けた装備品の数々だ。他者の邪推や偏見など意にも介さぬ、彼女ならではのスタイルである。
そんな彼女の風体でなにより印象的なのは、黒縁フレームの眼鏡の下で強い意思の光を放つ、一対の翠玉色の瞳だ。どこか神経質そうな気配のある表情も相まって、睨みつけられたレーゲンは思わず一歩たじろぐ。
「……なに、どしたの? エメリー? なんか怒ってる?」
「怒ってないわ、まだ。ただ、ひとつ聞きたいことがあるんだけど」
有無を言わせぬ口調に、レーゲンは嫌な予感を覚えた。
対するエメリーはコートの裾を靡かせながら、足早にレーゲンへと迫る。一歩ごとにガチャガチャと、硬い物同士が擦れ合う音が鳴り、レーゲンは威圧されるような気配を感じた。
やがてレーゲンの目の前に立ったエメリーは、旅の同行者のとぼけた顔を睨み付けつつ、疑念がありありと滲む口調で問い質す。
「道、本当にこっちで合ってるの? アンタはずんずん先に行くけど、私たちこの辺りの地図持ってないでしょう。なのに方角も確かめずに進んで大丈夫なの?」
対して、レーゲンは数秒考えた後、衒いのない笑顔で応じた。
「うん。昨日行商のおじさんに聞いた通りなら、この先に村があるはずだよ」
「……まさかアンタ、あの適当な道案内を判断基準にしたの?」
「そうだけど、……なんか不味かった?」
あっさりそう言ったレーゲンに、エメリーは渋柿でも口に詰め込まれたような渋面を浮かべた。頭痛を堪えるように眉間を抑えながら、歯の間から言葉を絞り出す。はっきりと苛立ちを含んだ声が生まれる。
「不味いに決まってるでしょう! あの人はともかく、私たちには土地勘なんてないのよ!? それでもし道が間違ってたらどうするつもりなのよ……!?」
「そしたら……、また野宿かな。エメリーも、そろそろ慣れたでしょ?」
なんでもないとばかり笑うレーゲンに、エメリーがとうとう怒鳴り声を上げた。
「馬鹿言いなさい! 私はアンタみたいな無頓着で無神経の野生児じゃないの! いくら≪浄化≫の詠唱術があるにしても、草木に紛れて寝起きするような生活が毎日続いたら堪ったもんじゃないわ! だいたい、お風呂もベッドもないのよ!?」
「そうでしょう!?」と同意を求めつつ彼女が背後に振り向けば、残るふたりの同行者が揃って曖昧な困り笑いを返す。エメリーはそれに勢いを得てさらに言う。
「ほら見なさい、みんなアンタに迷惑してるのよ!」
「わ、私はその、色々と新鮮だから、そんなに苦じゃないですよ……?」
遠慮がちに発せられた擁護の声も耳に入らず、眦を吊り上げて口角泡を飛ばすエメリーに、レーゲンは「うひゃあ」と両手を翳して苦笑い。
「大丈夫だよ! 大方、方向は間違ってないはずだし……。それに、ほら!」
と、なおも言い募ろうとしかけたエメリーを制し、レーゲンは東の空を指差して見せた。
「あの辺り、煙が立ってるでしょ? 村があるんだよ」
そう言われても半信半疑なエメリーだったが、レーゲンに引き摺られてまたしばらく歩くうち、木組みで作られた柵が並び立っている光景を目にすることができた。それはまさしく彼女たちが目指していたオープスト村に違いなかった。
「ほらね!」
と、ドヤ顔をするレーゲンはエメリーの半目も気にせず、持ち前の優れた視力で柵の付近に立つ人影を発見。
「きっとあの村の人だよ。挨拶に行こう!」
「あ、ちょっと! 待ちなさいよ!」
そうして言うが早いが、呼び止めるエメリーを置いて、さっさと村の方へ駆け出して行った。
-§-
その日、オープスト村の外周を見回っていた住民の青年は、草原の彼方から現れた何者かの姿に気付いた。しかも一人ではない。人影は複数人連れ立って、こちらへ向かってくる。
青年は咄嗟に手に握った木槍を確かめた。
万が一にも襲撃者の類ならば一大事だ。手製の木槍は武器としては頼りないにもほどがあるが、威嚇程度の用は為せる。野良犬程度なら追い払えるだろう。
が、逆に言えばそれだけだ。相手が剣や銃で武装した暴力の徒であれば、なんの役にも立たない。青年は手の平に汗が滲むのを感じた。
最悪の場合は、柵の中に逃げ込んで入口を閉ざしてしまえばいい。
そんなことを考えつつ、青年が目を凝らして確かめるに、数は四人。見慣れない風体だ。若干の警戒を心に抱きつつ、住民の青年は相手の素性を予想し始めた。
まず、行商人の類ではないことは現時点で確定している。
彼らにとって必需品の馬や驢馬を連れておらず、商品を積んだ荷台もなく、そもそも彼らは昨日村にやってきたばかりだ。
取引を終えた直後に用もないのにわざわざ戻って来はしないだろうし、そんな予定があるとは誰からも聞いていなかった。
また、少なくとも〈巡回騎士隊〉――つまり首都“ゲルプ”からパトロール目的で定期的にやって来る軍人たち――でもなさそうだ。
四人が現れたのは首都と異なる方角であるし、あの鋼の馬に跨った物々しい鎧姿も、例のやたらと目立つ国章を描いた旗も見受けられなかった。
ならば、いったい何者だろう?
ここで青年は、向かってくるのが全員女性であることに気付いた。しかも、かなり若い。先頭の人物に至っては、まだ幼い少女と表現しても過言ではないほどだ。
……もしや最近流行りの旅行士だろうか?
旅行士。国や街々を方々渡り歩いては、その場その場で依頼や雑用などをこなして糊口を濯ぐ、国家には縛られない放浪者たちの総称である。
時には雇われ傭兵、時には公共事業の人足、時には遺跡発掘人、時には手紙や交易品の配達人。その在り方はまさしく“なんでも屋”に近い。
かつて〈災厄の禍年〉から世界を救った勇者たちが行った、大陸横断の旅を真似し始めた者たちが開祖らしいが、個人の思惑や信条はどうあれ積極的に信用できる相手ではないというのが凡その見方だ。
なにせ、基本的な性質としての連中は、野盗紛いの無頼漢である。
いちおう国が腕利きを雇って直々に依頼をするケースもあるようで、その場合はそれなりの社会的立場を得たりもするらしいが、そんなものは一握りの例外である。実際、食い詰めた旅行士が狼藉を働いたという噂は数えきれない。
それでも考えてみれば、確かに一定の需要はあるのだろう。
未だに混乱が収まらず、情報や物資のやり取りが寸断された地域も多くある現状、あくまで自己責任としてそれらの運び手になり得る旅行士は、国家にとって都合の良い存在なのかもしれない。それこそ、使い捨ての利く浮き駒のように……。
彼がそう考えている間にも、彼女たちはどんどん近付いてくる。やはり、オープスト村を目指していることは間違いないようだ。
まさか白昼堂々、正面から村を襲って略奪に殺戮というわけでもないだろうが、旅行士ならばなんらかの武力を保有している可能性は高い。外見が女子供であっても、油断をするのは危険であろう。
……村長に報告をするべきだろうか?
青年がそう考えた時、ふと、先頭を歩いていた一人と彼の目が合った。
灰白色に空色パーカーの小柄な少女だ。黎明の空にも似て、深い瑠璃色を湛える両の瞳。そこに宿った明るい意思の煌きが、明確にこちらの姿を捉えているのが遠目にも分かった。
その少女がにっこりと、見ているだけで毒気を抜かれるような、なんとも朗らかな笑みを浮かべたのだ。
「……おいおい」
青年は一瞬戸惑い、直後に苦笑。
少女の笑顔は、彼が思わず警戒心を解いてしまうほど、ひどく無防備なものだった。あの少女がもしも悪人だったならば、この世に善人などいないのではないか。たいした根拠はないが、素直にそう思えてしまうほどに。
なにせ、少なくともなにか善からぬことを企んでいる人物ならば、ああまで嬉しそうに大きく手を振ったりはしないだろうから。
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「あ、ほらほら! 向こうも手、振り返してくれてるよ!」
レーゲンは喜色満面となって、勢いよく仲間たちを振り向く。
左足を軸に飛び跳ねるように半回転。合わせて彼女の後ろ髪が綺麗に弧を描く。
体幹の強さと足腰のしなやかさを感じさせる、滑らかで機敏な動きだった。
「あれはきっと、歓迎されてるってことだよね! いやあ、陽の高いうちに村も見つけられたし、良い兆しだよ! 万事快調、前途洋々!」
彼女はそう言ってから再び半回転すると、今度は手振りに加えて実際に飛び跳ね始める。自分の存在をアピールしているのだ。
対し、住民の青年が浮かべているのは呆れたような苦笑であるのだが、それには気が付いていない様子。あるいは気にしていないのか。
もっとも、レーゲン以外の面々の反応は様々だ。気恥ずかしげに俯いて困ったような笑みを浮かべる者や、特に関心を払わずぼんやりと空を眺めている者もいる。
中でも特に苛烈な行動を起こしたのは、エメリーだった。
彼女は眉根に深い皺を刻んだまま、無防備に飛び跳ね続けるレーゲンへと、肩を怒らせながら近付いていく。
そうして尻尾のように揺れる彼女の後ろ髪を掴み、電灯の紐でも引くかのように無造作な手付きで、下側へ思い切り引っ張ったのだ。
「みげゃ!?」
尻尾を踏まれた猫のような悲鳴が上がった。
丁度、飛び跳ねようとしていたタイミングで髪を引かれたので、レーゲンの首と顎が妙な方向にガクついた。
当然ながら彼女はバランスを崩し、そのまま真っ逆さまに背中から草原に落っこちていく。後ろでハラハラと様子を見守っていたひとりが思わず小さく悲鳴を上げ、目を瞑る。
直後、衝撃音と呻き声。千切れた草切れが舞う。
「ごげっ!? ぬ、ぐぉおおお……」
首を抑えて転げ回るレーゲンを、レンズの奥から冷め切った目で見下ろしつつ、エメリーが口を開いた。
「……あまり恥ずかしいことしないでくれる? 私たちまで、アンタみたいなお気楽不用心馬鹿だと思われたら困るのよ」
淡々と告げられたその言葉には、海よりも深そうな呆れの感情が込められていた。今までにも幾度となくこの手の台詞を口にしてきたのだろうと容易に想像がつくほどに。
一方、痛みに悶えていたレーゲンは数秒ほどで回復した。中々の頑丈さである。彼女は素早く上半身を起こし、草原の上で胡坐をかくと、非難がましい半目をエメリーへ向けた。
「……あのさ、エメリー。そっちこそ、やって良いことと悪いことがあるって、両親に習わなかった?」
対し、エメリーは悪びれもせず鼻息を漏らした。
「生憎だけど私は自習派だし、そもそも親に叱られるような子供じゃなかったから、今までそんな機会はなかったわ。まあだからといって、野山を枕に眠るどこぞの田舎娘みたいな、みっともない真似をしないだけの分別はあるけどね」
と、応じた態度は傲岸そのものだ。これ見よがしに「やれやれ」と肩を上げる仕草までついている。
どうやら、連日続いた野宿生活がよっぽど腹に据えかねていたらしい。その経緯としては不可抗力な面もあるのだが、道を選んだのがレーゲンである以上、責任の所在は彼女にあるとエメリーは判断していた。
罵倒されたレーゲンはしばし無言だった。が、やがて辟易したように肩を竦めると、何事もなかったように立ち上がる。そうして「まったく」とばかり頭を振り、衣服についた草を払いながら、ぽつりと一言。
「……着の身着のまま家出してきた不良娘に言われたくないな、それ」
突き刺すような皮肉でもって反撃に転じたのだ。
「なんですってぇ!?」
エメリーにとってそれは、あまり指摘されたくない事実であった。彼女は瞬間的に怒りの形相を浮かべると、ますます声を張り上げてレーゲンへ食って掛かる。
「アンタが人のこと言えたクチじゃないでしょう!? どこだか、地図に名前も載ってないような山奥からのそのそ出て来たド田舎娘が、碌な社会常識も持たずにほっつき歩いてるんだから!! 親の顔が見てみたいわね!!」
激しい舌鋒にレーゲンも負けてはいない。エメリーほどあからさまに激昂した様子ではないにしろ、彼女の剣幕を前に一歩も退かずに言い返す。
「言うほど山奥じゃないし、ちゃんと名前もあるってば。それとも、知らなかった? なんだっけ、セーヴェルの……ナントカ学校出てる割にはあんまり詳しくないんだね、こっち側の地理。エメリーの社会常識もそんなにアテにならないんじゃない? お里が知れるよ」
それまでの明朗快活な態度とは打って変わり、レーゲンの言葉にはじっとりとした毒気が多分に込められていた。こうなるともはや、言葉尻を捕えての言い争いが勃発するほかない。
「〈皇都魔導学院〉よ!! アンタじゃ逆立ちしたってぜったいに入れないような超名門!! 私の家系だって、古くは〈クラースヌィ皇帝家〉の流れを汲む由緒正しい〈グラナート家〉!! それを馬鹿にするアンタはどこの馬の骨よ!!」
「その由緒正しい家を飛び出したなら、やっぱり不良じゃん。それに私の父さんは元々は軍の銃士隊やってたし。母さんは〈菊花皇国〉の……なんだっけ? まあ、わりと良い家柄の出らしいから、馬の骨ってのはちょっと違うかな。少なくとも、エメリーにどうこう言われる筋合いはないよね」
両者の間に、火花が散った。
「言わせておけばアンタねぇ!!」
「エメリーが一人で盛り上がってるだけじゃんか」
まさに売り言葉に買い言葉。年頃を同じくする少女たちは徐々にヒートアップしていく。頬を紅潮させたエメリーは言うに及ばず、比較的冷静に見えるレーゲンも内心ではさきほどの蛮行に対する怒りを燻らせている。
やがてふたりの声は大きくなっていき、とうとう――
「そっちが煽るからでしょう!? なによ、珍しく生意気じゃないのレーゲン。そんなにその尻尾引っ張られたのが気に食わないわけ!?」
――それが正しく引き金となり――
「……ああ、もう。良い機会だから、この際言いたいこと言ってやる! エメリーのド陰険!」
――堪忍袋の緒を切らしたレーゲンが口火を切り、長閑な草原の上で聞くに堪えない言い争いが巻き起こることになる。
「ド、ドインケンですって!?」
「そこにド陰湿も付け加えてやる! プライド高いし捻くれてるし、なにかあるとすぐ睨んでくるし! 普段大人ぶってるその割にすぐ怒鳴るし! 合理主義とか言ってるけど、エメリーのは性悪か頑固って言うんだよ! それに私だって今までけっこう、エメリーの態度を我慢してるんだぞ!」
突然浴びせ掛けられたレーゲンからの反論に、数舜だけエメリーは呆然としていたが、すぐに勢いを取り戻すといっそう強い口調で応じた。
「ア、アンタが毎回妙なトラブルを起こすからいけないんでしょうが!! そっちこそ単純バカの単細胞の、考えなしのお人好し!! 損得勘定もまともにできないガキそのものの癖して、勝手に突っ走っては好き放題に暴れて、そのフォローを毎回させられるんだからこっちも堪ったもんじゃないわ!!」
終いにはなんともお粗末な罵倒文句の撃ち合いに転じていく。
「うっさい意地悪眼鏡!!」
「なによこの能天気チビ!!」
「大して背ぇ変わんないじゃんか!!」
「中身が違うのよ一緒にしないでくれる!?」
「ああそう確かにエメリーみたいに私は腹黒じゃないよ!!」
「腹黒で結構だわアンタみたいなスカスカよりよっぽどマシよ!!」
……実際のところ、このふたりが共に旅をした期間は大して長くない。それどころか、出会ったのも共に行動をし始めたのも、つい数週間ほど前のことであった。
故にお互いの性格をある程度は理解しつつも、衒いもなく友人と呼び合うにはまだまだぎこちなく、仲間として認め合うにもまだどこか距離がある関係だ。
もちろん今までの旅路における様々な窮地や奮闘を経て、ある程度の信頼関係は構築されつつあるのだが、時々はこのような激しい口論も起きてしまっていた。
「そんなんだから友達少ないんだ!」
「馬鹿の相手するよりマシよ夕立女!!」
「ああっ、言ったなぁ!? 人の名前を馬鹿にすんな!!」
「初対面時に私のこと「手榴弾女」って呼んだこと忘れてないわよ!?」
「ただの聞き間違いで言い間違いをいまさらになって引き合いに出すところがド陰険なんだよ!!」
まあ、ここまで遠慮のない舌戦ができるあたり、ある意味では「打ち解けている」と言えなくもないのだろうが……。
閑話休題。
それから数分後、文句も出尽くしたのかレーゲンとエメリーはぜいぜいと肩を怒らせつつ、黙って睨み合う段階に入っていた。
そんなふたりからはやや離れた位置、腰まで届く若草色の髪を背に流す長身の女性が「どうしたものか」と言わんばかりの表情でぼんやりと立ち尽くしている。
「お腹空きましたねぇ」
訂正、どうやら仲間内の争いを前にしても大した関心はないらしい。むしろ「またか」とばかりに慣れ切った様子で、慌てる素振りさえ見せていない。
「……おや、あの雲の形、なんだかドーナツに見えますねえ。隣のはブレッツェルでしょうか。いいですねえ。久しぶりに食べたいですねえ」
能天気な独り言を呟いている彼女の名前はヴィルという。
外見的に最年長と思しい彼女は、豊かな肢体を首元から足先まで覆う漆黒のボディスーツの上から、明るいオレンジ色のジャケットを羽織っている。身に付けているものといえばそれだけで、一行の中では際立ってシンプルな服装である。
ジャケットの裾を両手でばさばさと仰ぎながら、金色の瞳でぼんやりと雲が流れる様を追っていた彼女は、しかし一応このまま無為に時間が過ぎるのを看過するつもりもないらしい。「ふむ」とひとつ頷くと、背後を振り向き口を開く。
「あー、リウィアさん?」
「ひ、ひゃい!?」
ヴィルの声が飛んだ先には、どこか儚げな雰囲気を纏う薄青髪の少女がいる。
リウィア・カントゥス。さきほどからオロオロとしているばかりだった彼女は、不意に名前を呼ばれてびくりと肩を跳ねさせたが、それは怯えではなく単純に驚いただけらしい。
実際、その華奢な体格にはどこか小動物的な印象が強い。
彼女の服装は一行の中でも特に柔らかいシルエットの、白と黒に上下ではっきり色分けされたワンピースに近いものだ。
肩には金糸で文様を縫い付けられた薄紅色のストールを羽織っており、他方で腰に下げたポーチと足首までを覆うブーツは革製の丈夫な造りである。
それ以外では髪が一房、顔の右側で編み込まれて顎下辺りまで垂れ下がっており、それを結ぶ白色の小さなリボンがワンポイントの役割を果たしていた。
「な、なんでしょうか、ヴィルさん? ……あ、いや、というか、どうしましょう? あのふたりの喧嘩、止めないと」
心配そうにふらふらと視線を巡らせるリウィアに対し、ヴィルは気が抜けたような笑みをへらりと零してから言葉を続けた。
「ええ、止めないとだめですね。しかし、このままじゃどうにも埒が明かなさそうなんで。すみませんが、仲裁を頼めますか? いつもみたいに」
するとリウィアは数度目を瞬いてから、己に課せられた役目を受け止めた。彼女は眉尻を下げた笑みを浮かべて首肯。綺麗に肩口で切り揃えられた柔らかな髪が、動きに合わせてさらりと揺れた。
「……あ、はい。そうですね、ヴィルさん。せっかく皆で旅をしているのに、このままレーゲンさんたちが仲違いしちゃったら、嫌ですしね」
そう言ってから、リウィアは決意に表情を引き締め――ただでさえ幼めの顔立ちがそうしたところで、緊張感は欠片もないのだが――いまだに睨めっこを続ける仲間たちの下へとゆっくり歩み寄っていく。
そして草を踏む音を聞いて、レーゲンとエメリーも仲間の接近に気付いた。すると途端に彼女たちの顔からは怒気が失せ、代わりに気まずそうな表情が見合う。
そのままふたりはチラチラと、徐々に近付いてくるリウィアを横目で見ながら、小声で素早く言葉を交わした。
「……エメリー」
「……なによ」
「……止そうか、そろそろ。リウィアに悪いし」
「……そうね、この辺にしときましょう。時間の無駄だわ、流石に」
合意が取れたふたりは肩を落として息を吐いた。事実上の停戦協定である。
言いたいだけ言って流石に頭が冷えて来たということもあるが、なにより彼女たちにとってリウィアという少女は、ある事情から最優先で保護すべき立場にある。その点に於いてレーゲンとエメリーの間には強い共通認識があった。
そんな存在を前にしておきながら、不毛な言い争いをこれ以上続けるのは気が引けるものだし、またそれ以上に――
「あの、レーゲンさん! エメリーさん! け、喧嘩は駄目ですよ……!」
――目に涙を浮かべてまで必死に訴えかけようとする仲間を無視し、それでも角を突き合わせていられるような度胸はなかったのだ。
「わ、私、本当はおふたりが凄く優しい人だって知ってます。だから、その、そんな風に酷いことを怒鳴り合ってるのは見たくないです。それって私の我儘かも知れないけど、やっぱり……友達同士、仲良くしたいですし、あの……えっと……」
終わりの方は尻すぼみになりかけていたが、リウィアはなんとか末尾まで言葉を絞り出した。
「……お願い、します」
さて、そこまで言われて黙っているわけにはいかない。レーゲンとエメリーは頷き合うと、揃ってリウィアに向き直って頭を下げた。そうして声を合わせ、
「「ごめんなさい、もうしません」」
対するリウィアは笑みを浮かべかけ、しかし口元を引き結んで首を横に振った。そのうえで声は小さいが、ハッキリと言う。謝罪は自分が聴きたいわけではないのだと示すために。
「えっと……それは私じゃなくて、お互いにしてください」
否応もなし。レーゲンとエメリーは数秒ほど、無言のまま見つめ合って躊躇していたが、結局はほぼ同時に折れた。
「……エメリー? えっと、言いすぎた、ごめん」
「……元はと言えば私が原因だし。別に、謝らなくて良いわよ」
素直に頭を下げ合うのもどことなく気恥ずかしく、なんとも歯切れの悪いやり取りとなったが、リウィアにはそれで十分だったのだろう。心底安心したように息を吐き出し、目尻を指で拭うと微笑んだ。
「良かった……」
それが彼女の嘘偽りない本心であると理解している以上、レーゲンもエメリーもわざわざ「茶番だ」などと混ぜ返すようなことはしない。
そもそもこうなった原因が自分たちにあることは重々自覚しており、臍の辺りで渦を巻く羞恥心と後悔には努めて無視を決め込んだ。
それに別段、心底からお互いを嫌い合っているというわけでもないのだ。
今回の大喧嘩も言ってみれば、慣れない共同生活で積み重なった軋轢が、ふと気が抜けた瞬間に噴き出てしまったというだけのこと。
ならば、互いに非を認めて許し合うという結果は、決して悪いものでもない。
そんな彼女たちの様子を少し離れた場所から傍観しつつ、ヴィルは暢気に「いやあ、リウィアさんに任せると早いですねえ」などと宣っている。これにはレーゲンも思わず苦笑いをするしかなかった。
「ヴィルは変わらないよね、そういうトコ。面倒臭がりというか、ある意味合理的というか」
するとヴィル――正確には「ヴィルベルヴィント」を縮めた名だ――は、やはり飄々とした態度と笑みを崩さないままに応える。
「そりゃ、私の信条は省エネですからねぇ。必要もないのに怒ったり泣いたり叫んだりすると、お腹が空くだけ損ですし。そういう意味ではやっぱり、仲睦まじいのが一番ですよ、皆さん」
「はは……。ヴィルのそういうの、私はけっこう好きなんだよね。話しててなんというか、気楽だし」
「それは有難い、嫌われるより何倍も良いですねぇ」
などとやりとりをしているレーゲンの表情は普段と変わらぬ自然なもの。これまでの怒りはすっかり霧散したようだ。そこへおずおずと歩み寄り、気まずそうに声を掛けたのはエメリーである。
「それにしても、さ。珍しくアンタ、けっこうな怒り方してたけど、……そんなに髪、痛かった?」
謝罪を口にしたことで、いまさらながらに罪悪感が湧いてきたのだろう。
ましてや大人げなく先に手を上げたうえ、曲がりなりにも女性の髪を痛めるような真似をしたという負い目もあり、謝意を表しながらそう訊ねたエメリーへとレーゲンは笑い返した。大丈夫、今はもう気にしていない、と。
「あはは、実はそうでもないよ。知っての通り、私って頑丈だしね」
ただ、と一言挟んで、彼女は続けた。
「まあ、その……この髪はちょっとした願掛けというか、一方的な約束でさ。大事にしてるんだ。だから乱暴に扱われて、つい頭に血が昇っちゃって……」
「そう、なんだ」
「……うん、もっかい言っとく。勢い任せに色々言ってごめんね、エメリー。私も偉そうなこと言えないな」
「あ、いや、それは……別に良いんだけどさ……」
思わぬ返答にエメリーは戸惑う。今までレーゲンからそんな話を聞いたことがなかったからだ。しかしふと、以前耳にした「レーゲンが旅に出た理由」を思い返し、そこから一つの気付きを得た。
「……もしかして、アンタの師匠絡み?」
レーゲンは、照れたようにはにかんだ。それが答えだった。
「……ごめん」
蚊が鳴くような小さい声だが、エメリーは改めて謝罪を口にした。
人には誰しも侵されざる「聖域」があり、そこに土足で上がり込むような所業は許されるものではない。そんな信条を抱くエメリーとしては、知らず知らずとはいえ犯してしまった己の不作法を、なあなあで済ませておきたくなかったのだ。
「え、なに? なにか言った?」
「……ごめんって言ったの! それで良いでしょ!? これで貸し借りなし!! はい、終わり!!」
とは言え、面と向かって二度も口にできるほど彼女は素直な性質でもなく。キョトンとしたレーゲンを差し置いて踵を返し、村の方へ向かって早足に歩き出す。
「ああ、もう、さっさと行くわよ! 日が暮れちゃうわ、こんな調子じゃ!」
頬を赤くしたエメリーが憮然と言い放ったことを契機に、ようやく一行は歩みを再開した。
レーゲンが苦笑しつつ頬を掻きながら歩き出し、ヴィルがその後を着いて行く。リウィアは置いて行かれまいと慌てて駆けだすが、その表情にはどこか嬉しそうな笑みがあった。
「エメリーさん」
エメリーは小走りに横に並んできたリウィアへ首を向ける。
リウィアの瞳は左右でそれぞれ色が異なる珍しいものだ。紫と紅、水晶のように透き通った色彩を見返しながら、エメリーは苦笑した。
「ごめんね、無駄な時間使わせて。早く行きましょ。お昼に差し掛かってるし、とりあえずあの村で休憩と食事でもした方が良いかな。……あんな醜態見られておいて、入り込むのも気が引けるけど」
眉根を詰めて唸るエメリーに、リウィアはくすりと笑いかけ――
「――ッ!!」
――その双眸が、不意に大きく見開かれた。彼女の表情に表れる感情は、緊の一文字。
「皆さん、気を付けてくださいッ!」
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「――エメリー、ヴィル!!」
「わかってるわよ! ヴィルはそっち!」
「ほいほい。あ、リウィアさんはそこ、動かないでくださいね」
すべては瞬時。リウィアの警句が飛ぶや否や、その意味を問うまでもなく、レーゲンたちは弾かれたように立ち位置を変えた。
怯えも油断もない。切迫した状況に対し、流れるように彼女らは動く。数秒と経たず組み上がるのは、リウィアを中点とした正三角形の陣形だ。それぞれの頂点にレーゲン、エメリー、ヴィルが立ち並び、鋭い視線を周囲に走らせる。
さきほどまでの稚気染みた雰囲気は、とっくに消し飛んでいた。それは修羅場を経験した者に特有の迅速で的確な切り替えである。ただひとり、中心に守られたリウィアだけは、その所作に明らかな強張りを見せていたが。
「ここで遭遇戦かぁ……これは、予想外」
左手、背の側にある短剣の柄を握ったままでレーゲンが呟いた。
軽く膝を曲げた姿勢。どの方向へも即座に飛び退けるよう、その小柄な全身には適度な力が均等に込められている。
8の字を描くようにゆっくりと視界を巡らせ、正面方向全体への警戒を厳にしながら、彼女は背後へと呼びかけた。
「ヴィル、何体?」
「五。いえ、六体……」
短い問に対して、ヴィルの返答は即座だった。
「――あ、失礼。反応増えました。全部で八体で確定です」
訂正までのコンマ一秒にも満たない刹那。彼女が持つ金色の瞳、いつの間にか淡い光を放っているその表面を、微小な幾何学模様が滝のように流れていった。
「八体も? ずいぶん多いわね」
「エメリー、ヴィルの見立ては正確だよ。私も多分、そのくらいだと思う」
「それについては疑ってないわよ。だけど、こんな風通しのいい草原にそれだけの数が湧き出るなんて、明らかに異常事態でしょ」
「まあね。森や洞窟の奥深くとかならともかく……」
言葉を交わし合う彼女らの周囲に、実際に何者かの姿は見いだせない。だだっ広い草原は見かけ上、平穏そのものである。しかし四人の旅行士は警戒を解かない。
何故ならば、彼女たちにはハッキリと感じられているからだ。自分たちへと向けて、食い殺さんばかりの殺意を突き付けてくる、極めて危険な“敵”の存在が。
「……で、どうする? 逃げる?」
レーゲンの提案に、エメリーは首を振った。
「逃げられないでしょ。こんな開けた場所じゃ、走っても追い付かれるわよ。それに、多分……、もう囲まれてる」
その言葉に、リウィアが強く反応する。彼女は口元を抑え、顔を蒼褪めさせた。
「ご、ごめんなさい……!! 私がもっと、早く気が付いてれば……!!」
「ちょい待ち。それはリウィアのせいじゃないよ」
そこに口を挟んだのはレーゲンだ。彼女は気負った風もなく、
「私たちの誰も気付かなかったんだからさ、その責任をリウィアだけにおっ被せちゃダメだよね。だいたい責任を云々するなら、直前まで言い争いしてたのがそもそも悪いよ。油断してたってことだし。ね、エメリー?」
「……うっさいわね、それは今、言うことじゃないでしょうに」
口を尖らせて返答するエメリーに、レーゲンは肩を竦めて笑った。
「そうそう、いまさら気にしても意味ないんだよ、そういうの。だからリウィアも気にしなくていいんだよ。反省会なら後でやればいいし、そのためにはまず……この場を切り抜けなくちゃね」
ちら、と。レーゲンは一瞬だけ、背側のリウィアに目線を送った。不敵に、なんの衒いもなく笑うレーゲンの横顔を見て、リウィアの顔色にやや赤みが戻った。
一方でエメリーは半目になり、背中越しにレーゲンへと言葉を飛ばす。
「……ダシにしたわね」
「そこはほら、友達同士助け合わなくちゃ」
「アンタと友達になった覚えはないわ。全部成り行きで、不本意な連れ合いよ」
「旅は道連れ世は情け、って言うらしいじゃん」
「ああそう。私はね、今自分が無性に情けなくてしょうがないわ……!」
そんな軽口を叩き合いつつも、彼女たちが周囲へ向ける警戒は一瞬たりとも緩んでいない。今だ“敵”は姿を見せず、しかし確実に自分たちに狙いを定め、牙を突き立てる瞬間を虎視眈々と探っているのだから。
「とは言え、どうしましょうかねぇ。もし包囲を抜けられたとして、今から村に入れてもらえるかは……」
「疑問ね。向こうも余所者かつ厄介者なんて、抱え込みたくないでしょう」
「ですねぇ。というか、あの程度の防柵じゃ、籠る意味がないですし」
ヴィルとエメリーの会話を聞いて、レーゲンがはっとした表情を見せた。
「そうだよ、あっちに被害が出ちゃまずいよ! おーい!!」
「ちょ、アンタ!?」
エメリーが静止しようとするのにも構わず、レーゲンは大声を張り上げた。何事かとこちらを眺めている住民の青年へ向けて、警句を叫ぶ。
「今すぐ村の中に逃げ込んで!! そしたら入口を締めて、しばらく出てきちゃ駄目だよ!! これからちょっと、危ない奴らと戦うから!!」
突然の物騒な単語に青年は戸惑った様子を見せるが、結局はレーゲンの表情から本気を悟ったらしい。彼は頷くと駆け足で村の中に逃げ込んで行き、その後数秒も経たずに入口が閉じられた。
これで良し、と頷くレーゲンにエメリーがため息交じりの声を放つ。
「お人好し、これで本当に逃げ場なくなったわよ」
「元から迎え撃つつもりだったでしょ?」
「……そうだけどさ」
「なら良いじゃん」
「……アンタのそういうところが、私、本当に大っ嫌い」
そう吐き捨てたエメリーの右手には、いつの間にか棒状の器具が握られていた。
材質は艶のある黒檀。長さはおおよそ三十センチほど、先端には無色のガラス体が鉤爪状の金具で固定され、握り易いように軽く歪曲した持ち手には引き金のような機構が備わっている。
彼女が用いる詠唱術、その中でも〈極北星式〉と分類される技術の発動を補助し強化する為の制御器、通称“共振杖”と呼ばれるものだ。
「本当、アンタと一緒にいると碌なことがないわ! もうすぐ首都に着くってタイミングで、これ? ツイてないにもほどがあるでしょう……!」
苛立ちを隠さぬ悪態。しかしそれでも彼女の戦意と思考に影響はない。
戦場に臨んで心の平静を乱すような者は詠唱士として三流以下だ。
集中。それこそがまず第一に求められる。それこそが、絶対に失ってはならない命綱であり、最大の武器なのだ。
事実、彼女の左手はロングコートの下、腰や胸のポーチ類に伸びている。
収められているのは多種多様の魔導具類。
どこに何がどれだけ入っているか、どのような場合に何を用いるべきか、エメリーは常に把握していた。故にわざわざ目で確認せずとも適切な選択が可能だ。
だからこそ、周囲に気を配ることができる。こうした荒事に際して、一行の参謀役を任ずる彼女は、少し考えてからリウィアへと言葉を飛ばす。
「リウィア、ここの空素構成は、現在どんな感じかしら? 私には特に、汚染の気配は感じられなかったんだけど……」
「は、はい!」
一瞬遅れての返事。彼女はまだ、この手の修羅場にはレーゲンやエメリーほどには慣れていないのだ。それでも彼女は懸命に意識を集中し、周囲に流れるエーテルの状態を把握。エメリーへと告げる。
「……私も、さっきまでは本当になにも感じられませんでした。急激に構成が崩れた、としか言いようがないです。すみません。多分、どこからか、風に乗って流れてきたんだと思います」
訥々と述べるリウィアの口調は申し訳なさそうではあったが、迷いはない。ことエーテルを視るに当たって、四人の中で最も優れた能力を持っているのはリウィアだ。それを知るからこそ、エメリーは納得して頷いた。
「文字通りの奇襲ってわけか。まあ、良いわ。そうなると恐らく、発生源は別にある。それを取り除かない限り、またこういう事態が起こるでしょうね」
「そっか。だとしたら、どうにかしないと――」
「先に言っとくけど、レーゲン。私は原因究明なんてやるつもりはないからね。今回もアンタのそのお節介病に付き合わされたら堪らないわ」
即座に釘を刺されたレーゲンは口を噤み、苦笑した。どうやら思考パターンと行動原理は完全に理解されているようだった。
「ただでさえ余計な寄り道が多い旅なのに、このうえ妙なトラブルまで抱え込みたくないの。だいたい、まずはこの場を切り抜けるのが先、なんでしょ?」
「……あはは、言われちゃった。うん、今は目の前のことに集中、だよね」
「へえ、アンタにしては物分かりがいいじゃない。その調子で普段からお願いしたいところだけど……」
そこで、全員の表情に鋭い険色が走る。向けられる害意が明確に強まったのを、皆が感じ取ったのだ。
「……流石に痺れを切らした、か。仕掛けてくるわよ、そろそろ」
エメリーの言葉に各々が武器と意思を構えた。交わす言葉は最低限。戦いの始まりに向けての最終確認。ヴィルが警句を飛ばす。
「気を付けて下さい。恐らく脅威度はそれほどでもないと思いますが、用心を」
「遮蔽物ないし、乱戦になったらちょっと不味いね。エメリー、どうする?」
レーゲンに問われ、エメリーは間を置かずに応えた。
「全員共通でリウィアの守護を最優先。こっち側の四体は私が担当するわ。可能なら機を見て援護するけど、あんまり期待しないで」
「……前半は了解だけど、後半はちょっときつくない? 一人で大丈夫?」
「囲まれた時点で誰かが壁役をやらないと駄目でしょ。まあ、どうにかするわ。その分、そっち側はレーゲンとヴィル、アンタたちに任せる。一匹でも討ち漏らしたらお終いだから、しっかりやりなさいよ」
「わかった。背中の守り、頼りにしてるよ」
「はいはい、なんでもしますよー」
気負った風もない返答に、エメリーは満足げに笑った。
色々と普段から文句のある連中だが、戦闘面では信頼の置ける相手だ。
それはこれまでに乗り越えてきた幾度かの修羅場から自明であるし、なにより自分自身がこのような所で惨めな敗北を晒すとは考えていない。
それは油断や“敵”への侮りではなく、今まで積み上げてきた鍛錬と、自分の実力を信じるが故の揺れない心だ。
恐怖と害意を知るからこそ抱ける勇気。
エメリー・グラナートという少女の内には確固としてそれがあった。
だから唯一の不安要素は、本人には申し訳ないが、リウィアだ。
どちらかと言えば彼女の性格そのものが荒事向きではないし、自衛の訓練もほとんど積んでいない彼女は、襲われれば特に危険だ。
なにか声をかけるべきか。そう考えた矢先、レーゲンが口を開いていた。
「リウィア」
「は、はい!」
「大丈夫。危なくなったらすぐカバーするから、安心してて良いよ。私もヴィルもエメリーも、指一本触れさせないから」
無責任な。そう言い返そうとして、止めた。少なくとも彼女は嘘はつかない。何時だって自分の言葉を真実にするために、全力で物事にあたる奴なのだから。
「それに、エーテルの整調はリウィアにしか出来ないことだからね。適材適所だよ、全員がやるべきことをちゃんとやれば良いんだ。だから、リウィアも頑張って! その分――」
レーゲンが素早く剣を抜いた。現れたのはやや肉厚の片刃、磨き抜かれた鋼色が陽光を照り返し、鈍い光を放つ。逆手に握ったその武器を構え、彼女は堂々と宣言した。
「――私たちも頑張る! ね?」
「はい、お任せします……ッ! だから、任せて下さいッ!」
リウィアの表情にもう恐れはなかった。エメリーは肩を竦める。本当に人を乗せるのが上手い奴だ。将来は詐欺師でもやれば良い。尤も、レーゲンの場合は本気で人助けを目的としそうだが。
「……本当に、腹の立つ奴。っと――」
考え事はそこまでだった。エメリーにも、ハッキリと肌に圧力を感じる程に気配が濃くなる。
“敵”が来るのだ。
「来ますッ!」
リウィアが鋭く発したのと同時。彼女たちの周囲、それまで影一つなかった草原の上に異形が湧き上がった。
鬼火のように爛々と光る眼。
大きく引き裂けた口元から覗く、鋭利な乱杭歯。
錆と、油と、血の匂いが混ざり合った生臭い呼気。
獣でもなく、機械でもなく、ましてや生物だとは到底思えないようなその姿。
狂暴と害意を具象化したような、その異形。
レーゲンが鋭く叫んだ。
「出たな……〈骸機獣〉!」
かつて世界を襲い、その名の通り“恐怖”を撒き散らした存在の名を。
-§-
補足1:空素。この世界の大気に満ち、またあらゆる物質に影響を及ぼす物体。常人の目には見えず、その認識と操作を可能とするのは、空素術士としての才能を持つ者に限られる。通常は無色透明の気体として存在し、なんら化学反応的な作用は示さないが、一定の条件下で結晶化および液体化する。単体で非常に高いエネルギー変換効率を持ち、またほぼ無尽蔵に存在しているため、この世界においては「石油」や「石炭」よりも遥かにメジャーな燃料源である。
捕捉2:詠唱士。エーテルに対して言葉によるアプローチを試みる者。特定の単語、音律、抑揚、拍子といった要素をテンプレート的に構築する場合や、即興歌の如くに言葉を奏でるなど個人の才覚、手法によって幾つかの分類が為される。
捕捉3:極北星式。詠唱士が用いる詠唱術の分類の一つ。かつてクラースヌィ連邦が開発した赤星式の強化発展形であり、テンプレート化した簡素な発動詞による空素術の発動を、“共振杖”等の制御器を用いることで威力を増幅させて放つ方式。発動詞の追加や組み換えによって、術の威力や性質の調整および改変がわりあい容易に可能だが、それには当然ながら十分な素養と鍛錬が必須である。