シーン2:反省多き日々の振り返り
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時間的にもホテルのエントランスは閑散としていた。
受付に居たフロントスタッフに、自分たちの部屋番号とこれから外出する旨を告げ、レーゲンとヴィルは連れ立ってホテルの外へ出る。
東の空に低く坐した太陽の輝きは儚く、吹く風は少しばかり冷たい。
それでも風のエーテルに愛されたレーゲンと、そもそも気温に体調を左右されないヴィルは平然としたまま、“ゲルプ”の街並みへ繰り出した。
「……とは言っても、まだお店はどこもやってないね」
レーゲンは周囲の風景を見回しながら呟いた。
……シュタルク共和国が擁する首都“ゲルプ”は、このグランディウス大陸南西部における最大級の都市だ。内包する都市機能は多岐にわたり、医療や教育、その他公共サービスの分野に関しては世界的にもトップクラスの水準を誇っている。
とりわけ金融および商業関係では控えめに評しても「桁外れ」の能力があり、年間でやり取りされる貨幣の総額はシュタルク共和国内全体の六割強を占めるほど。
まさに国家経済の中心と呼ぶに相応しいこの都市は、謂わばその力強い脈動によって広大な国土の隅々まで「カネとモノ」という名の血液を行き渡らせる役目を古来より担い続けてきた、衰えを知らぬ巨人の心臓なのだ。
加えて、元々は城塞都市として造られた名残から、都市全体の防護も万全だ。
旧国名にも通じてその都市名を象徴する褐色瓦の屋根を持つ建造物は整然と立ち並び、広大な街並みを三重に区分けして堅固に取り囲む防壁には一部の隙も無い。
防壁の上部に等間隔で配置された監視塔には、精鋭〈ゲルプ騎士団〉の団員が昼も夜も交代で詰め掛け、都市の内外に鋭く睨みを利かせている。
無論のこと、それぞれの防壁には極めて強力な防護術が施されており、また都市内の空素構成を清浄に保つための「結界」が、常人の目には見えないながらも天を覆うようにして張り巡らされてもいる。
この比類なき治安維持能力こそ、かつて“ゲルプ”が<災厄の禍年>の脅威に晒されてなお人類守護の一大拠点になり得た最大の理由であり、復興に至るまで数々の危機を乗り越え国体を維持し続けることができた「希望」という力の源泉だった。
……とはいえ如何に強靭無比な心臓とて、供給される栄養の絶対量が不足すれば力を減ずるもの。災禍の後遺症はいまだ深刻であり、蹂躙された国土の完全なる復活までは、まだまだ長い時間がかかる見通しである。
さて。そんな市街の構造は用途別に幾つかの区画に分かれているが、現在レーゲンたちが居るのは最も外側の防壁に守られた、北門付近の新市街である。
主に旅客や商人を対象とした商業区を兼ね、繁忙期には道幅一杯にまで人が溢れかえるこの一帯も、さすがに日の出直後とあっては人通りもまばら。
そして当たり前のことだが、ほとんどの飲食店は開店前であった。
「ヴィル、アテが外れた? 今からでもホテルに戻る?」
「いえいえ、流石にいきなり食べ歩きを始めるつもりはありませんよ。物事には順序というものがありますから、タイミング的に無理なものは仕方ないです」
つまり順序を経て、タイミングさえ合えば、やはり食べ歩きをするつもりで自分に着いてきたのか。レーゲンはそう思いつつも敢えて言及は避けた。どうせ藪蛇になるのが目に見えていたからだ。
「まあ、腹ごなしも兼ねて適当にうろつくとしましょう。今日は平日ですからそのうち朝市も開くでしょうし、下見をしておくのも悪くありません」
突いてもいない藪から蛇が出た。
レーゲンは思わず苦笑する。この調子では買い食いは避けられないだろう。虎視眈々と食べ物の気配を探るヴィルを引き連れ、エメリーへの言い訳を考えながら、レーゲンは静寂に満ちた都市の風景を練り歩いていく。
綺麗に舗装された石畳の路面を踏めば靴裏が快い音を鳴らす。
規則正しいテンポの二重奏。冷たく湿った空気を打って、軽やかに響いたその音は、人気のない街並みに少しばかりの賑やかさを生む。
土の地面に慣れたレーゲンにとっては新鮮で、かつ愉しい感覚だった。
視界を少し上向きにして辺りをぐるりと見回せば、朝靄の中に建物の影が輪郭として朧げに浮かび上がり、故郷の森とは全く違う人工的な趣に圧倒される。
かといって石の冷たさばかりが目立つのではなく、どことなく血の通ったような温かみのある雰囲気も感じられ、レーゲンはそれを嬉しく思った。
今は静まり返っているとしても、この街には確かに人の営みがあり、命が育まれ守られる環境が整っているのだという実感があった。
ときおり、市街を警邏中の鎧姿――市街警邏用に軽量化された走鋼馬に跨る〈ゲルプ騎士団〉の団員たちだ――と行き会っては誰何の視線を向けられるも、特に疚しいこともないので堂々と歩く。
(もう顔が知られてるのか、あまり警戒はされないしね)
その理由は間違いなくこの前の一件によるものだろう。軍内部でも自分たちの情報は共有されているはずだ。また、なんだかんだと一ヵ月近くも滞在しているので、ちょっとした顔見知り程度の関係になった人も多い。
(馴染み過ぎちゃうと、離れるのが辛くなるかもだけど)
そう考えると急に周囲の風景が妙に懐かしく感じられ、慌ててレーゲンは頭を振った。故郷からここまで旅をしてきた期間よりも、下手をすれば首都に滞在している方が長いほどなのだから、なおさらに入れ込み過ぎてしまいかねない。
「おや、どうしましたかレーゲンさん?」
そして流石にヴィルは目敏い。レーゲンは頷いて、応じる。
「あはは、ちょっとね。これで見納めなんだなあ、って思うとね。つい」
「わかります、わかりますよ。私にとっても思い出深い場所ですからねえ」
「ヴィル、本当に色々食べてたもんね。楽しかった?」
「そりゃあもう。ただ、食べ物以外でも学ぶべきことは多かったですよ。なにしろ、記憶領域の五割ほどはここでの出来事に埋められてますんで、私」
その言葉にレーゲンはハッとする。
「そう、だったね。ヴィルって、私たちと会う前は……」
「ええ、ずーっと眠ってましたからね。一人だけで、薄暗い遺跡の奥で。そうなる前のことも憶えてませんし、そもそも自分の名前すらなかったくらいですから」
聞き様によってはあまりにも寂しい話だ。だというのに、ヴィルは寂しさなど微塵も感じさせない、あっけらかんとした表情で言う。
「リウィアさんの言葉を借りるようですが。だからこそ、今は目に映るあらゆることが新鮮で刺激的で、とっても楽しいですよ。レーゲンさんたちに会えて、こうして一緒に旅をできてよかったなあ、って。私自身、心からそう思っています」
真正面からぶつけられた感謝に、レーゲンはどう返答すべきかを迷った。
が、それも一瞬。言うべき言葉はすぐに形になる。向けられた感情を嬉しく思うのならば、それをそのまま返せばいいのだから。
「……そうだね。私もヴィルと一緒に旅ができて、嬉しいよ」
「こちらこそ。いやはや、まったくもって有難いことですねえ」
ヴィルのそんな飄々とした口調に、レーゲンは思わず笑みを零した。
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そんなやりとりを挟みながら、レーゲンとヴィルは、ひとまず彼方に聳える王城を目指すことにした。大した理由はなく、そちらに行けば人も増えて寂しくなさそうだと、そんなことを思ったからだ。
「それに、王城の近くでは大きな朝市が開かれますからね。あそこで売られるブレッツェルが美味しいんですよ。この前食べてから、もう病みつきでして……」
「ああ、一度買ってきてくれたっけ。最初は「また無駄遣いして」とか怒ってたエメリーが、食べた途端に無言になったのは面白かった」
「食べる速度も私の次に早かったような気がしますね」
「あれ、本当に美味しかったからね」
「そう、そうなんですよ。いやあ、思い出すだけでよだれが出てくる気分です。外はカリッと、中はモチモチ、芳醇なバターの香りが――」
そのままブレッツェルの味の感想を楽しそうに語り始めたヴィルに相槌を打ちながら、レーゲンは彼方に聳え立つ王城の威容に目を凝らした。
“ゲルプ”中心部に位置し、四方全てから良く目立つ褐色の尖塔を備えた威風堂々たるその姿は、この街に来て一ヶ月近く経つレーゲンたちの目をいまだに飽きさせることがない。ふと気が付けばそちらに視線が向き、なんとなく引き付けられてしまうような、一種の『カリスマ』のようなものがあるのだ。
それはこの国が積み重ねた歴史の重みが現れているのか、はたまたこの国を守る騎士たちの勇猛にして誇り高い戦いぶりを知っているためか。“シュレーダー隊”の隊員たちは今頃なにをしているだろう、とレーゲンは想いを馳せた。
「……それにしても、仕事に仕事を重ねて仕事続きの日々でしたねぇ」
道中。不意にそう切り出したヴィルに、レーゲンは「そうだね」と応じた。
「ほんと、大変だったよね……」
レーゲンは頬を掻きつつ、もう片方の指を折り数えながら、この一ヶ月でこなした依頼内容を述べていく。
「色々やったよね。下水道に湧き出した小型〈骸機獣〉の討伐とか、遺跡発掘人の作業手伝いとか、軍の補給品輸送とか、老朽化した家屋の解体とか、浄水施設の清掃とか、燻製用の魚釣りとか、野菜の収穫とか、用水路の点検とか、新聞配達の代理とか……。あと、あれだ、犬の散歩。すごく大きくてふさふさのやつ」
後半に行くにつれ、徐々に単なる雑用にしか思えない内容が増えてきたが、そもそも旅行士の役割とは臆面もなく称せば『何でも屋』に近い。
言うなれば、その力量と適性が及ぶ限りはあらゆることを行い日銭を稼いで糊口を濯ぐ、文字通りの即席汎用人足なのだ。
そして幸いなことに、日々凄まじい速度で新陳代謝を繰り返すこの“ゲルプ”内において、人足の求めは常に数多ある。それは旅行士に対しても例外ではなく、滞在中に仕事の種が尽きるようなことは一度もなかった。
要するに、身を粉にして働けば働くだけ、幾らでも稼ぐことができるのだ。
「多分、一年分くらい働いたよね……」
これまでの日々を想起し、レーゲンとヴィルは揃って溜息を吐いた。
確かに得る物が多い日々だった。給金はもちろんのこと、方々で依頼達成の御礼として野菜や菓子などを受け取ることもあったし、なにより未体験の仕事を通じてそれまで知らなかった物事を経験として蓄えられたのは大いに有意義だろう。
が、その一方で数多くの反省点を突き付けられたのも事実だ。特に苦い想い出となったのは、仕事の割り振りミスに起因して発生した、仲間内での喧嘩だった。
その中心人物は、なんとリウィアである。元より人助けが趣味に等しく肉体労働に抵抗のないレーゲンや、食事さえ支給されれば他のすべては些事と言い切るヴィルはともかく、体力で劣る彼女は目に見えて辛そうだったのだが……、
「それでも無理して、頑張っちゃうんだよね、リウィアはさ」
例えば、こんなことがあった。
「次は何をしたらいいですか、って。自分の仕事が終わると飛んできて、そう訊いてくるから、とりあえず簡単な指示を出すとすごく嬉しそうにするんだよね」
「皆さんの役に立てているという実感そのものが、堪らなく嬉しかったんじゃないでしょうかね。ああ、いや、他人事みたいに言うのよくないですね」
「うん。……そういう風にさせちゃったの、私たちが悪いんだし」
その時のことを思い返し、レーゲンは眉根を詰める。
「大丈夫? って訊いても、絶対に『休む』って自分からは言わないんだよ、リウィア。だから強引に休憩させようとすると哀しそうでさ。しかもちょっと目を離すと、いつの間にか別の仕事をしてるんだよね……」
先の事件をきっかけに少しばかり自信を身に付けた彼女は、とにかく率先して動こうとした。少しでも手が出せそうな箇所へはいち早く飛びつき、レーゲンが驚くほど精力的に働いてくれたのだ。
そして元々地頭は良い方なので、目立ったミスこそ起こさなかったのだが……。
「一回だけ無理が祟って、倒れちゃったんだよね」
その時のことはよく憶えている。仕事を終えた帰り道、突然顔色を悪くしたリウィアが、まるで棒切れを倒すように卒倒したのだ。
「いやあ、慌てた慌てた。ヴィルと私で担ぎ上げてホテルまで運んだよね。それでエメリーが血相変えてお医者さんを呼んできたんだった」
いちおうリウィアの容態はさほど深刻ではなく、数日間の休養だけで元通り回復したので、それについては良かったのだが。
「エメリーがさ、ものすっごい怒り方したんだよね……」
これまでの旅路で初の『エメリーからリウィアに対する説教』が起きた。
ついでにレーゲンとヴィルも監督不行き届きで叱られた。それはもう叱られた。三人揃って正座をさせられ、憤怒の形相で怒鳴るエメリー相手にひたすら頭を下げ続けたのは、今となっては苦笑するしかない想い出のひとつだ。
「あの時のリウィア、すごくびっくりしてたよね」
「ええ。エメリーさんがリウィアさんに対してあそこまで怒気を露わにするなんて、あの瞬間まで一度もなかったことですからね」
しかし、本当に大変なのはそこからだった。なんと二人が言い合いを始め、壮絶な大喧嘩にまで発展してしまったのだ。
収拾が付かなくなり最終的にレーゲンとヴィルがそれを仲裁する役割になるという、なんとも珍しい事態が発生したのだが、こちらに関しては笑いごとでは済まされない状況であった。
「エメリーもリウィアも、見たことない表情してたよね……」
「いや、あの時ばかりは本当に驚きましたよ。まさかリウィアさんがここまで言うなんて、と。前代未聞というか、驚天動地というか……」
「なんとか収まったから良かったけど、……焦ったよ。たぶん、それまでで一番」
「二人とも、物凄い剣幕でしたからね。普段が普段だけに、なおさらでした」
ともかく。知らず知らずのうちに、リウィアが無理をしなくてはならないような空気感が生じていたことについては、心底から反省すべきだろう。
加えて、なによりも。
「リウィアがあそこまで思い詰めてたこと、気付けなかったのは駄目だよね」
リウィアは元々、自分よりも他人の都合を優先する傾向があった。これに関してはレーゲンも人のことを言えない自覚はあるが、なまじ心身ともに頑強なレーゲンよりも、リウィアの限界点は明確に低いのだ。
そこに気付かず彼女の善意に甘えたうえ、そのフォローもできていなかったのだから、こればかりは胸に刻んでおかねばならない教訓だ。信頼して頼ることと、我慢を強いることは、まったく別の問題なのだ。
「まあ、そこからはリウィアも自分の許容量を弁えた感じになったから、ある意味では良い転機だったのかも知れないけど……」
唯一の救いはその大喧嘩以来、リウィアにどことなく肩の力が抜けたような雰囲気が生まれたことだろう。この問題を放置していれば、いずれ取り返しの付かない事態が起きていた可能性があるだけに、勿怪の幸いと呼ぶべきか。
「ただ、リウィアの問題については、それで解決したんだけど」
「エメリーさんには、その、気の毒なことになりましたよね……」
そう。実際に一番「我慢」をしていたのは、誰であろうエメリーであったのだ。
曲がりなりにも〈皇都魔導学院〉という名門に通い、そもそも根っからプライドの高い彼女にとっては、若き日々を泥臭く地味な仕事に費やすのは、それだけで非常なストレスになったようだった。
「エメリー、さ。責任感は強いから仕事は真面目にやるし、プライドが高いから作業中に不平不満も言わないんだけどさ。三日目あたりから凄かったよね。宿に帰ってからもずっとピリピリしてるから、リウィアくらいしか近付けなくて……」
レーゲンが言葉を切り、ヴィルがその先を引き継いだ。
「それでも、ある一定期間を過ぎてからは慣れたのか諦めたのか、これまで通りの様子に戻りましたけどね。根本的にタフですから、彼女。一回腹を括りさえすれば大体どんなことも平然とやりますし、むしろ早く仕事漬けの日々を終わらせたくて、段々積極的になって行ったというか……」
一連の資金稼ぎが今後のために必要不可欠な行程だと、彼女自身が重々承知していたのは確かだ。しかしやはりと言うべきか、内心に焦りがあったのだろう。
常から旅路を急いでいたエメリーである。なまじ明確な達成目標を定めていた分、長期間に渡る「寄り道」の日々は、さぞかし苦痛だったはずだ。
ましてや空素術士としての御業を、汚物処理だの収穫の手伝いだの大工仕事だのに用いられたことも、彼女の誇りを甚く傷付けていただろう。
そして。積もり積もったそれらが、とうとう昨晩になって爆発した。
「やっと旅の資金が溜まってさ。装備類の補填も完了して、さあこれで一ヶ月前に元通り。旅を再開できるぞーって、皆で喜んだんだけど……」
嘆息。
「エメリーが泣いちゃったんだよね」
そう。エメリーが突然、人目も憚らず滂沱の涙を流し始めたのだ。
「あれ、めちゃくちゃびっくりした」
「私もです。リウィアさんは茫然としてましたね」
他人に涙の一滴を見せることさえ恥と思うようなエメリーが、声を上げて幼子のように泣き出したとき、レーゲンたちはどうすることもできなかった。それほどまでに彼女が見せた姿は皆にとって衝撃的だった。
「……よっぽど、辛かったんですねえ。お労しや」
「……今までで一番、エメリーを気の毒だと思ったよ」
それからエメリーが泣き止むまでには一時間近くかかり、その後は羞恥心と屈辱感で顔を真っ赤にした彼女をどうにか宥め賺して落ち着けて、ようやく建設的な相談を始めたときにはすでに日付が変わっていた。
もっとも、幸か不幸かそんなことがあったせいで全員の眼が冴えていたため、話し合い自体はどうにか短時間で纏まったのだが、結局皆揃って夜更かしをする羽目になってしまったのだった。
今にして思えば、リウィアが倒れた一件でエメリーが皆に行った説教は、エメリー自身にも向いていたのだろう。そしてそのうえで、彼女は最後の最後まで「我慢」をし続けたのだから、プライドと責任感に関しては筋金入りと評すべきだ。
ちなみにトラブルを乗り越えてからの二人は以前よりも打ち解けたらしく、特にリウィアとエメリーが冗談を交わし合うような光景が多く見られるようになったのは、これまでになかった大きな変化のひとつだ。
もっとも、そういった諸々の問題を経て一行の絆が深まった、と素直に喜ばないくらいの分別はレーゲンにもある。下手をすれば空中分解の危機であったのだし、その発端を招いた責任はレーゲンに求められなくもない。
「なんというか、さ」
レーゲンは肩を落とし、呟きを零した。
「人間関係って難しいよね。皆で一緒に大きな危機を乗り越えたからって、急になにもかも分かり合えるようになったりとかはしないんだって、身に染みて分かったよ。病院の中庭で皆に赦してもらえて、ちょっと自惚れてたなあ、私」
少しばかり落ち込んだ雰囲気のレーゲンに、ヴィルは「まあ、そんなものですよ」と肩を竦めた。
「軋轢というのは、むしろ普段通りの生活の中でこそ生まれるものですからね。絶体絶命の危機的状況では、お互いに強固な連帯を心掛けなければ命に関わりますから、少しばかりの粗や欠点は必然的に無視されます」
しかし、とヴィルは言葉を区切り、
「いざ平和な時間を共に過ごしてみると、出るわ出るわ不平不満の数々。そうでなくとも、鉄火場では確かに存在していた筈の以心伝心は何処にか消え去り、やがて相互認識には小さなズレが生じ始める。それが積み重なれば大喧嘩、と……」
そこでヴィルは一歩を踏み出し、レーゲンの前に立つ。そうして真正面から視線を合わせ、どこか試すような笑みを浮かべて、こう言った。
「……おやおや? 考えてみるとこれって、今までにも私たちがやらかしてきたことですねえ。そもそも私の認識では、レーゲンさんとエメリーさんはしょっちゅう喧嘩してましたよ。それも、よっぽど些細なことを原因として」
その言葉にレーゲンは気付く。ヴィルはつまり、こう言いたいのだ。
「……実は、私たちの関係ってそんなに変わってないってこと?」
ヴィルは、頷かなかった。その肯定とも否定ともつかない曖昧な笑みを見て、レーゲンは言葉を言い換える。
「違う、逆か。私たちの関係性が強く深いものに進展したからこそ、その振れ幅も大きくなっていて、そこに私がギャップを感じて戸惑ってるだけなんだ……」
「その通りです、レーゲンさん。よくぞお気付きになられました」
今度こそヴィルは大きく頷いた。
「有体に言えば、それだけお互いの信頼関係が強まってる証拠ですよ。要は他のメンバーに対する期待が強くなりすぎて、そこから外れた時の反動が大袈裟になってるんです。でもそのうえで、なんだかんだで繋がりを保ててるんですから、皆さんはちゃんと仲間になってます。出会った頃なんかよりもずっと、ね」
レーゲンは率直に「参った」と思った。
妙な気恥ずかしさが顔に熱を生む。思わず俯きそうになるのをどうにか堪え、はにかみながら胸に浮かんだ言葉を口にする。
「……ヴィルってさ、私たちのことよく見てるよね」
対して、きっと誰より仲間想いの魔導機人は、どこか優し気な表情を浮かべてこう返答した。
「それはもう。見ていて飽きませんからね、皆さんのことは」
そして、その次の瞬間には普段通りの飄々とした表情に切り替えると、
「……まあ、そんなわけで。不肖ヴィルベルヴィント、貴方様に名前を頂いたこの魔導機人を、これからもどうぞ宜しくお願い申し上げます」
そう言葉を結んで、綺麗にお辞儀をして見せたのだった。直後にレーゲンが送った返答に関しては、その内容をわざわざ記すのも無粋であろう。
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さて、そんなやり取りを重ねながら歩いているうち、二人はいつの間にか王城付近まで到達していた。
「おお……ぅ」
レーゲンが感嘆交じりの声を上げる。すぐ近くで見る王城の姿は、もはや首を限界まで傾げなければ見上げられないほど強大かつ剛健であった。
「大きいなあ……」
「大きいですねえ……」
大きいのは高さだけではない。王城の周囲を取り囲む分厚い城壁も、見渡す限りどこまでも続いているのではないかと思うほどに長大である。下手をすればホテルからここまで歩いてきた距離よりも長いのではないか。
「実際、王城内部は想像を絶するほど広大で、それこそ“都市の中にもうひとつ都市がある”とまで称されるくらいですからねえ」
余談だが、この表現はけっして誇張されたものではない。
現代においてシュタルク共和国の中枢と位置付けられる王城は、純粋な「城」としての機能以外にも、数多くの極めて重要な役割を担う施設と化している。
これは遥かな昔、王城が単純に「皇帝の威光を表す象徴」であった旧い時代から年月を重ねるにつれて、様々な用途が必要に応じて後付けされてきたためだ。
そうして数百回単位での増改築が繰り返された結果、必然的に王城の内部構造は極端に複雑化し、敷地面積も築城時と比べて数十倍の規模に拡張されている。
「首都“ゲルプ”を取り巻く城壁が三重構造になっているのも、王城が拡張するに従って都市そのものが狭くなってしまったので、やむなく外へ外へと生活圏を広げていった結果である。……と言い伝えられているくらいですからね」
「へええ……。そういうのって改めて聞くと、なんかもう、途方もないね……」
まったくもって世界は広い。レーゲンは心底そう思った。
すでに太陽は高く昇り、空には鮮やかな青色が描かれつつある。周囲を行き交う人影も増え、彼らが作り出す雑踏は徐々に明確な活気を伴い始めていた。
“ゲルプ”の日常が今から本格的に開始するのだ。
レーゲンが腕時計を見れば、すでに時刻は午前六時を回っていた。結局、雑談と散歩だけで半時を費やしてしまったらしい。
いちおう、急ぎ足でホテルまで戻れば十分朝食には間に合うので、そこまで焦ることはないように思われたが――
「あの、レーゲンさん、レーゲンさん。もう少し待ちませんか、もうすぐ朝市が開かれるみたいなんですよ。ほらほら、住民の皆さんが野菜やハムやチーズを並べているのが見えるでしょう。美味しそうですねえ。少しばかりお土産に買っていきましょうよ、ねえねえ」
――果たして、完全に食欲に火が付いてしまったこの食欲魔人を朝食の時間に間に合うように、無事に連れて帰れるかどうか。
(無理じゃない?)
レーゲンとしては、まったく自信がなかった。
「あ、ほら見てくださいレーゲンさん! あの屋台がぶら下げてる見事なソーセージ! オープスト村産のですよ、一度食べたから分かるんです。間違いありません。あれは絶品でしたねえ。是非とも買って行きましょう、この機を逃したらもう手に入らないかも知れません。あ、もうすぐお店を開けるみたいですよ、並びましょう並びましょう。大丈夫です、いざとなれば私がレーゲンさんを担いで走りますんで、さあさあさあ……」
立て板に水。否、この場合は滝と評すべきか。
凄まじい勢いで流れ出る言葉の奔流に、レーゲンは二の句も継げぬまま、ヴィルの剛力に引き摺られていく。
脳裡に浮かぶのはエメリーの怒り顔。レーゲンはそれがおそらく現実の光景になると、この時点で半ば確信を得ていた。
「なんだかなあ……」
ほんの少しだけ、小指の爪の先ほどの大きさの分だけ、レーゲンはさきほどヴィルに送った言葉を取り消したくなった。
そんなどこか間の抜けたやり取りを他所に。王城内部からは訓練に励む騎士たちが放つ、威勢の良い掛け声が俄かに響き始めていた……。
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ちなみに、結局二人は間に合いませんでした。
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