シーン1:新しい朝に目覚めて
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カーテンの隙間から差し込んだ淡い陽光が、微睡むレーゲン・アーヴェントの意識に朝の訪れを報せた。
「……ぅむ、ん?」
山間部の豊かな森に囲まれた村で、自然の営みと密接に生まれ育ったレーゲンは、元来から寝起きが抜群によい。故にその瞼を刺激した眩しさは単なるきっかけに過ぎず、彼女は本日も極めて滑らかに眠りから覚めることができた。
「うひ、冷た……」
枕元を手探りし、就寝前に外しておいた腕時計を掴み取ったレーゲンは、氷のように冷え切った鉄の感触に思わず声を漏らす。父から貰ったシュタルク共和国製の逸品、もう二度とは手に入らない“フェーデル市”の職人作のものだ。
寸分の狂いもないテンポで秒針が躍る文字盤を薄目で確認すれば、提示された時刻は午前五時を少しばかり過ぎている。
普段よりも僅かに遅い起床時間だった。
「寝坊、だあ……」
レーゲンは乱れた掛け布団の中でもぞもぞと身動ぎし、ややあってから、のっそりと上体を起こす。そのまま大きく伸びをすれば大きな欠伸が生まれた。
「ふわ……ぁ」
顔にかかる灰白色の髪を手櫛で払いつつ、寝ぼけ眼で周囲を見回せば、薄影に沈み込んだ寝室の様子があった。品の好い調度品に占められた室内には、北と南にそれぞれベッドが二つずつ。
レーゲンは思い出す。ここは首都に建つホテルの一室。そして自分たちはそこに身を寄せる旅客である、と。
(けっこう、長居することになっちゃったよなあ)
レーゲンは小さく吐息。なにせ、
(……オープスト村での騒動が終息してから、もう一ヶ月も経つんだから)
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レーゲンの退院後、皆が真っ先に取り掛かったのは資金繰りであった。
迷子探しから始まった激動の一日を駆け抜け、数々の修羅場を乗り越えた末に事件解決に多大な貢献を行ったレーゲンたちは、しかし非常に複雑な諸々の事情のせいで、報酬らしきものを表立って受け取ることができなかった。
むしろ、度重なる死闘の中で装備を大量に消費してしまったため、収支としては血の色よりも濃い大赤字である。特にエメリーは備蓄の魔導具をほぼすべて使ってしまったので、事態はより深刻であった。
なんにせよ、先立つものは必要だ。特に魔導具類は基本的にひどく値が張る。
緘口令と引き換えに軍から渡された報奨金は、レーゲンたちがしばらく“ゲルプ”に滞在するだけなら十分な額であったにしろ、本格的に旅支度を整えようと考えた場合には不足していた。具体的には数字の桁がふたつくらい違う。
故にレーゲンたちはこの一ヵ月ほど、皆で手分けして旅行士向けの依頼を受け、ひたすら資金稼ぎを行っていたのだ。
そして、ついに昨日。消費した装備類の補填と、生活必需品の補給と、旅行費用の補充がすべて完了した。同時に、今後の旅程や行動方針についての相談も済み、再び旅立つための準備がようやく整ったのである。
つまり、今日は首都で過ごす最後の一日ということになる……。
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周囲から微かに聞こえる寝息は、まだ眠りについている仲間たちのもの。それを耳に入れながら、レーゲンは頬を掻く。
(……ほんと、皆には迷惑かけちゃったよなあ)
結局のところ、この現状を招いた責任の大半は自分にあるのだ。
それについての話は皆との間ですでに決着が付いているので、いまさら蒸し返しても不興を買うだけだろうが、やはり反省の念は拭い難いものがあった。
(あんまりウジウジしてても、らしくないかもだけどさ)
そんなことを考えつつ、なんとなく隣のベッドに視線をやれば、緩く癖の付いた黒髪が掛け布団の端から覗いているのが見えた。
共に旅する仲間の一人である、エメリー・グラナートだ。鼻の辺りまで布団を引き上げた彼女は、どうやらぐっすりと眠っているようで、起きる気配はない。
「エメリーは朝弱いからなあ」
加えて昨晩は色々と話し込んでしまったので、床に就いたのも遅い時間だった。自分の寝坊もそれが原因だろうとレーゲンは考えつつ、そこでふと、エメリーがなにやらブツブツと呟いていることに気付く。
耳を澄ませば、
「――の、ばかレーゲン……。あんた、いいかげんに……」
「いや、寝言でまで私に悪態吐かなくたって良いじゃんか」
いったいどんな夢を見ているのやら。
レーゲンが苦笑しつつ身を乗り出してみれば、エメリーは随分と苦しそうな寝顔をしていた。その整った顔立ちには、まるで間違って酢を飲んだ人のような深い苦悶の表情が刻まれ、かすかに開いた唇からは「かんがえなし」だの「のうてんき」だの、如何にも彼女が言いそうな類の文句が延々と漏れ続けている。
「好き勝手言ってくれちゃって……」
レーゲンは苦笑を深めると共に肩を竦めた。
確かにさきほどの言い草は面白くないが、普段から苦労を掛けてしまっているのは紛れもない事実なので、寝言くらいは好きにさせてやるのが筋だろうとも思う。
それになんだかんだで、彼女には日頃から様々な状況で助けられている。
資金稼ぎのため手当たり次第に受けた依頼でも、エメリーはその分野を問わず大いに活躍してくれた。特に彼女お得意の詠唱術は、廃屋の解体処理に絶大な効果を発揮した。もっとも、エメリー本人は明らかに不服そうであったが。
ともかく、そういった諸々を含めての感謝はあるのだ。恩として計上するなら、すでに返し切れないくらいの量が貯まっているだろう。
「言っても素直に受け取ってくれないけどね」
そんな背景もあってレーゲンとしては、悪態のひとつやふたつ程度は甘んじて受ける心積もりだった。そもそも寝言に腹を立てるのはあまりに馬鹿らしい。
まあ、とは言え、これが起きている時だったなら話は別だ。
流石に面と向かって罵倒されたなら、レーゲンにも反撃としての皮肉の一つや二つは用意がある。この辺りはお互いに関係性のバランスというものだろう。
それに、だ。それはそれとして、感情面での帳尻合わせは必要だ。
差し当たってレーゲンは、エメリーの頬を突っつくことで溜飲を下げることにした。彼女の白く滑らかな頬は張りがあり、よく弾んで指先を押し返してくる。
「おお、これは……」
なかなか面白い。レーゲンはついつい夢中になってしまう。
「む、むぅ……」
やがて、エメリーが呻きながら掛け布団の中に逃げ込んだのを見届け、レーゲンは床に降り立つ。追撃するのは流石に後が怖いので止めておいた。
気持ちを切り替え、向かう先は洗面所だ。
四人用の部屋は元々それなりの広さがあるが、ベッドの他に各人の荷物が置かれると、流石に手狭になる。レーゲンはそれらに蹴躓いて物音を立てないよう、細心の注意を払いながら薄暗い室内を進んだ。
途中、安らかな寝息を立てているリウィアの横顔を眺めたり、すでに目覚めていたヴィルと挨拶を交わしたりもしつつ。
「おはよう、ヴィル」
「おはようございます、レーゲンさん。よく眠れましたか?」
小声で返事をした彼女は、昨晩と同じく壁に浅く背を預けて寄り掛かった姿勢を、維持したままだった。
魔導機人である彼女は基本的に睡眠を必要としないため、体表感知器のみをオンにした待機状態――ヴィル曰く『省エネモード』――で夜間の警戒を買って出ることが多い。そうして一党に危機が迫れば即座に再起動し、皆の安全を確保するため真っ先に行動するのだ。
もっとも、野宿ならともかくホテルに宿泊している状況で『寝ずの番』というのも妙な話である。なにより“ゲルプ”の治安は非常に良く、施錠した室内に居れば夜間の危険などそうあるものではない。
そう告げてもヴィルは「癖なので」とベッドを使うことを固辞した。
「皆さんの寝顔を眺めているのも中々面白いものでして」とはヴィルの言だが、レーゲンはそれを半分冗談で半分本気だと考えている。『夢を見ない』というヴィルはもしかすると、人間の眠る姿に興味を抱いているのかもしれない。
因みにエメリーは露骨に嫌がっていた。ヴィルに対する気遣いも当然あるかもしれないが、単純に寝顔を見られるのが恥ずかしいのだろう。
その点ではレーゲンとリウィアも同意見だが、いまさらになって気にするほどのことでもなかった。旅の中でとっくにお互いの裸も見ているし、夜間にトイレに立った者の護衛をした経験も一度や二度ではない。
(まあ、エメリーは嫌がるけど)
そこについては茶化すつもりはない。不可抗力の事態はともかく、個人のプライバシーは尊重して然るべきだ。自分だってトイレを覗かれたら嫌だし。
(……やっぱり私、エメリーが言うほど「野生児」じゃないよなあ)
そんなことを考えつつ、レーゲンはヴィルの問い掛けに頷いた。
「おかげさまで快眠だよ。いつも見守ってくれてて、ありがとね」
「いえいえ、なんのなんの。それと、さっきエメリーさんにしてた悪戯は黙っておきますんで、どうぞご安心ください。口が裂けてもバラさないと約束しましょう」
ヴィルはなんとも楽しげな笑みを浮かべた。レーゲンは思わず頬を掻く。
「あはは、見られてたかあ。ごめん、お願い。でも、案外スリルがあって面白いから、ヴィルも今度やってみなよ」
「そうですねえ、機会があれば試してみましょう。起こした時のことを考えると、少しおっかないですが」
などと他愛のないやり取りを挟みつつ、レーゲンは洗面所に足を踏み入れた。
扉を開くと自動でほのかな灯りが灯る。人の接近を感知して作動する≪点灯≫の紋章術による仕掛けだ。
シュタルク共和国では電力よりエーテルを用いた技術の方が一般的かつ安価に用いられており、このように簡易な空素術に関しては、人間から自然に漏れ出す僅かなエーテルだけで起動可能な技術が確立している。
寝室と扉で区切られた空間内には洗面台の他に、簡易的なバスタブとシャワー、それに水洗トイレが備え付けられていた。レーゲンはそこで手短に身嗜みを整える。顔を洗い、歯を磨き、髪をいつもの尻尾状に纏めて終わりだ。
化粧はしない。野宿を当然とする旅行士という立場と、なにより彼女自身の若さがそういった行為と距離を置いていた。
それは人によっては制限であり、裏を返せば特権でもあろう。
レーゲン・アーヴェント十五歳。いまだ色を知らぬ年頃であった。
因みに、衛生意識の高い“ゲルプ”では上下水道がほぼ完全に普及しており、市民の暮らしぶりは非常に清潔だ。
その水源は首都内部に引き込んだ河川を用い、生活排水は浄水施設を通し完全に浄化したうえで、再び自然に還る方式を取っている。
森林と河川に育まれたシュタルク人の生活様式は、それらを尊重し共存することを古来から尊んでいた。
閑話休題。
用事を済ませたレーゲンは再び寝室へと舞い戻り、ホテル側が用意した寝間着を脱いで、旅装束に着替え始める。
身に付けるのはトレードマークの空色パーカーと装備各種。黒鋼と鞣革の手甲を左腕に取り付け、短剣と拳銃を装着すれば、これで用意は万全となった。
「さて、と」
時刻を確認すれば午前五時半。このホテルの食堂はあと半時もすれば開くが、仲間たちが目覚めるまではもう少しかかるだろう。朝食を摂るのは大体いつも七時頃なので、それまで暇をつぶす必要がある。二度寝は癖になるので厳禁だ。
さて、なにをしようか。レーゲンは考える。
拳銃の整備は荷物の点検共々昨晩に済ませており、特に異常はなかった。
そもそもここしばらくは撃つ機会もなかったので、煤汚れも溜っていない。
万全を期すなら試射をしておきたいが、当然ながら室内でぶっ放すわけにはいかないし、朝っぱらから銃声が響けば市街警邏中の〈ゲルプ騎士団〉がすっ飛んでくるだろう。そうなれば問答無用でお縄だ。洒落にならない。
「散歩でもしてこようかな……」
口に出してみると、なかなか良い考えだと思えた。
なにせ昨日まで資金稼ぎに忙殺されていたおかげで、せっかく首都に来たというのに観光らしいことが何もできていないのだ。行ってみたい所や見てみたい物なども山ほどあったのだが、ついぞその機会には恵まれなかったことになる。
加えて、明朝には出立する予定である。そうなると自由に行動できるタイミングは、おそらく今から皆が起きてくるまでの間しかない……。
(よし、今のうちに気になってた場所を見てこよう)
どうせ昼頃には仲間たち全員で回るのだろうが、久々の単独行もたまには良いだろう。最終的にレーゲンはそう結論し、玄関へ向かおうとする。
と、そこにヴィルが声をかけてきた。
「おや、外出ですか?」
「ん、ヴィルも一緒に来たい?」
「ええ、御迷惑でなければで構わないのですが」
その申し出にレーゲンは「ふむ」と首を傾げる。
といっても、別に問題はない。友人であるヴィルが同行を望んでいるならば、別に断わる理由はないのだから。それに思い返してみると、彼女と二人きりで時間を過ごすような機会が、意外とこれまで少なかったことにも気付く。
(いやまあ、≪合一≫したらある意味二人きりになるけど、戦闘中の緊迫した会話をカウントするのはなんか違う気がするしなあ……)
というか、さすがにあの殺伐とした雰囲気を基準にしたくはない。
(仲間に加わったのも、そういえば一番最後だしなあ)
もちろんマイペースながらに人当たりの良いヴィルが馴染むのは早かったし、そもそも彼女自身が皆との会話を積極的に行うタイプであったので、コミュニケーションの機会そのものは他の誰よりも多かったくらいだ。
しかし一対一での付き合いとなると、これがなかなか難しい。
なにせ諸々の危険を避ける意味でも、レーゲンたちはメンバー全員で行動することが多く、特定の誰かと二人きりという状況は案外少なかったのだ。
特にここ一ヶ月間は色々と忙しかったせいで、仲間たちと腰を据えて話し合えるタイミングはいつも就寝の直前になってしまい……、
(みんな疲れててすぐに寝ちゃうから、話どころじゃなかったんだよね)
ともかく、そういった経緯を前提にして考えると、これは中々貴重な機会に違いない。レーゲンが快諾の意を告げると、ヴィルは嬉しそうに微笑んだ。
「おお、有難う御座います!」
「言っとくけど、買い食いとかは駄目だからね」
「……ええ、もちろん。それはもう、心得てますとも」
レーゲンが釘を刺すとヴィルはあからさまに目を泳がせた。
まあ、同行の理由が食い気によるものだとしても、レーゲンとしては構わなかった。個人のお小遣いで果物や菓子を買うくらいは許容範囲だろう。
エメリーにバレたら小言が飛ぶので、大っぴらにはやれないが。
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レーゲンは目に付く位置に『ヴィルと朝食の時間まで散歩してきます』と書き置きを残し、ヴィルと連れ立って玄関へ向かう。
「……そういえば、空素筆があるの、忘れてたな」
「メモ用紙よりも、そっちを使ったほうがよかったですかね?」
「う、ん。……いや、あれはしばらく経つと文字が消えちゃうから、書き置きにはやっぱり紙の方がいいよ。エメリーたちがいつ起きるか分からないし」
客室備えの部屋履きを普段使いの旅行靴に履き替えながら、二人はそんなことを話し合う。
空素筆とはその名の通り、持ち主の体内を流れるエーテルをごく少量だけ抽出し、インク代わりに使用する筆記用具の一種だ。
紙は当然として木材や鉄材、ガラスの表面、あるいは空気中にすら青白い光の軌跡で文字を残せる便利な道具なのだが、前述したような欠点があるためインク式ペンの需要はいまだに大きい。
また、そこそこ値が張ることに加えて製造技術の問題から取り扱い店舗の数も少なく、エーテルをまったく知覚できない人にとっては無用の長物と化すことから、一般市民が使用することはあまりない。
では、主にどのような人種が使うかと言えば、それはもちろん――
「それに、勝手に使ったらエメリーが怒るよ」
――空素術士。それも描画術士に属する者たちである。
彼らにとって空素筆は必需品、あるいは生命線といっても過言ではない代物で、他人に使わせるようなことは例えそれが親兄弟であろうが絶対にあり得ない。それを重々承知しているからこそ、レーゲンはエメリーに遠慮したのである。
「あとさ、せっかく手に入れたばかりの新品だしね、あれ。私が使って変な癖を付けたりしたら、たぶん赦してもらえないよ。……めちゃくちゃ高かったし」
「空素筆の筆先に使うエーテル鉱石は、純度が高いぶん非常にデリケートですからねえ。壊したりしたら、烈火の如く怒るでしょうね、エメリーさん」
「あはは、想像したくもないや……」
言いながら、レーゲンとヴィルは部屋を出た。
施錠は扉に備え付けられた紋章術の刻まれたパネルに触れることで成立する。これは個人ごとに異なる空素系を識別し、チェックイン時に登録された者以外は開錠できない仕組みだ。
「本当、私たちの暮らしって空素術に支えられてるんだなあ」
ホテルの廊下を歩きながら何の気なしにレーゲンがそう呟けば、ヴィルが「ですねえ」と応じる。
「大都市はどこもそうらしいですねえ。エーテル由来の技術は強固で応用性に富み、なによりコストが安いですから。なにせエーテルは大気中にほぼ無尽蔵に漂ってるので、それを取り込んだり利用する手段さえ確立できれば、これ以上に使い勝手の良いエネルギー源なんてありませんし」
この世界の人類史は、まさにエーテルによって発展してきたも同義だった。
「…………?」
その時、不意にレーゲンは僅かな疑問を覚えた。
そもそもエーテルとはなんだろうか。
あまりに当たり前に――それこそ空気も同然に――存在している物質なので、普通に生きている限りでは意識することすらなかったが、よくよく考えてみると不思議でもある。エネルギー源として都合が良さすぎやしないだろうか。
「あのさ、ヴィル?」
「はい、なんでしょうか?」
「ちょっと考えたんだけどさ――」
勿体付けるように一呼吸をおいて、
「――もしエーテルがなくなったら、この世界ってどうなるんだろうね?」
それは幼い子供が必ず一度は口にし、親によって一笑に付される問いであった。
案の定ヴィルも「そうですねえ」と、一旦は首を傾げる素振りをしたものの、即座に決まりきった答えを口にする。
「それは『もし、空気がなくなったら』と同じような問い掛けですね。考えるだけ無意味というか、そんな状況になったら世界の終わりというか、とにかく想像もつきませんよ。いや、想像すらしたくないというか……」
ヴィルは「おお、怖い怖い」と呟き、わざとらしく身を震わせた。あまり真剣な態度ではなかったが、レーゲンが気を悪くすることはない。彼女自身も、それが子供っぽい疑問であると自覚していたのだ。
「ああ、これは失礼しました。流石に不真面目が過ぎましたね」
レーゲンの表情に気付いたヴィルが苦笑する。
「……まあ、真面目に考えると人間社会は大混乱に陥るでしょうね。一応、代替用としてイグルスタ合州国ではエーテルに依存しない技術を研究しているようですが、それもあまりアテにはなりません。いちおう、電波通信だとか火力発電といった『科学技術』に由来する代物が実用寸前まで漕ぎ着けてるようですが、すでに普及した空素通信や空素機関の需要を上回ることはなさそうです」
そういった技術は主に超越技術として出土したもので、その発生理由を巡っては研究者の間でも意見が分かれている。
学説として主流なのは『エーテルが発見されていなかった、あるいはその利用方法が確立していなかった時代に、それらは用いられていた』というものだ。
が、空素術の歴史を鑑みるとその学説にも色々と矛盾があるので、結局のところ、いわゆるオカルティズム的な扱いであるのは否めない。
まあ、とは言っても。
「実際に銃火器や火薬といった物品が存在していますし、原始的な趣こそあれ実用に際しての信頼性は高いので、まったく無用の長物とは言い切れませんがね。私自身も発電機能を搭載していますし、高圧電流を攻撃に使いますから、もしエーテルが存在しない世界みたいなものがあったとすれば、そこでは主要なエネルギー源として使われていたんじゃないでしょうか」
エーテルが存在しない世界。
鸚鵡返しにその言葉を口にしたレーゲンは、なんとも摩訶不思議な違和感を得た。無理に例えるならば、名前も顔も知らない他人に向けて使われてもない言語で手紙を出すような、まったく手応えのない想像である。
エーテルとはこの世界を構成するに等しい物質だ。工業、農業、畜産業、医療、運送、通信、建築、都市運営、政治、軍事、物理学、化学、地質学、天文学……、その他あらゆる分野と密接に関わる概念だ。
ならば、エーテルがこの世界から突然に喪われたとして、果たして人間はまともに生きていくことができるのだろうか?
レーゲンはしばらく無言で首を捻っていたが、そのうち思索を諦めた。
元々そこまで学問に明るいわけでもないのだ。ヴィルに分からないことが自分に分かるとも思えない。
うん、と頷いてからレーゲンは議論を打ち切るための言葉を放った。
「……なんにしても、エーテルに感謝しないとね」
「ですねえ。エーテル様々ですよ、美味しいご飯が食べられるのも」
ヴィルらしい物言いを受けてレーゲンは笑った。そして、その後しばらく、この場で交わした議論を思い出すことはなかった。
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