シーン24:天翔ける風が断つものは〈後編〉
-§-
地を蹴る。
敵を追う。
剣を振る。
撃音を伴い延々と繰り返される三拍子は、分解すれば至極単純な動作の積み重ねでしかない。しかしその中で交わされているのは、恐ろしく緻密かつ、想像を絶するほどに高速な駆け引きの集合体だ。
『ヴィルッ!! もっと、……速くッ!! 鋭くッ!! 全力でッ!!』
『了解ッ!! ギアをもう一段階上げます、行ってくださいレーゲンさんッ!!』
レーゲンは叫ぶ。ヴィルが応える。
軋り、歪み、破裂しそうな身体を必死に繋ぎ合わせながら、人機一体の戦士は戦場を駆け抜ける。烈風を纏い、叢雲を呼び、刃鳴散らし、それらすべてを追い越す速度で強引に前へ前へと突き進んで行く。
音の速さはとっくに超過している。しなやかな五体が縦横無尽に跳ねる度、汚れのない白の長髪が烈風に流れてばらばらと踊り狂う。
その様子は傍から見れば激しい舞踏にも似て、しかし――
「……く、ぅ、おおおおぁッ!!」
――風鳴りに混じり、呻きにも似た声が迸った。その声の主、レーゲンの表情は苦し気に歪み、頬には玉のような汗が浮いている。
彼女は今、焦っていた。
『ヴィル、……残り、何分何秒ッ!?』
『一分十五秒ですッ!! もう、半分以上切ってますよッ!!』
レーゲン/ヴィルは見据える。レーゲンが元来持ち合わせる驚異的な動体視力に魔導機人が持つ人外の知覚機能を加えた、文字通りなにもかもを感じ知ることのできる視界の中心に、倒すべき敵の姿を。
すなわち、異形の襲撃者、いまだに健在。
すでに装甲の多くを切り刻まれ、穿ち抜かれ、剥ぎ取られ。そのうえで奴は致命傷を喰らうこともなく、こちらの攻撃を紙一重で回避し続けている。
その理由が単純に肉体性能に頼ったものではなく、純粋な戦闘論理そのものに無駄がないからだということは、これまでの打ち合いから自明だ。
まさに想像を絶する難敵。絶え間なく攻撃を続けながら、レーゲンは過熱しかけた思考で、ヴィルへと問い掛けた。
『圧し切れてない……ッ!! 思考速度は二人分、力も技も互角以上なのに――』
異形の襲撃者に対し、レーゲンが決定的に勝っている要素は、当然ながら≪合一≫によって得た二人分の思考能力に他ならない。
それは敵が一つの事柄を考える間に、こちらは二倍以上の事柄を検討し合うことができるという、身も蓋もなく言えば反則的な優位である。
異形の襲撃者が強引に踏み込んできた時、咄嗟に迎撃として膝蹴りを放つことができたのも、そのアドバンテージがあったからこそだ。
ならばなおのこと、攻め手で後れを取る理由はない。むしろ今頃は相手を斬り伏せ、地に這い蹲らせていても良いはずだ。
だというのに、
『――奴はどうしてここまで耐えられるの……ッ!?』
『……理由は幾つか考えられます』
疑問に答えるヴィルの声は、この期に及んで平静を保っている。彼女が持つ機械としての無機質な計算力は、予想外に粘る敵の真価を既に導き出していた。
『ひとつは純粋に、相手の身体能力が高いこと。特に速度と運動性は、生まれたてとは思えないほどの高水準にあります。もうひとつは、相手が迂闊な反撃を試みず回避に徹していること。加えて、知覚機能が強化されているのでしょうね、きちんと私たちの攻撃を「見て、判断し、予測して」避けています』
冷静なヴィルの口調に、レーゲンは幾許かの落ち着きを取り戻す。
なるほど、それが事実ならば焦っても意味はないどころか、逆効果だ。
精彩を欠いた攻撃は却って敵に判断材料を与えかねず、その積み重ねはより大きな危険を生み出すだろう。それは、
『……敵は明らかに、私たちの動きを学ぶことで急速に成長しています。乾いたスポンジが水を良く吸うように、ただ本能的に人を殺すだけだった〈骸機獣〉が「手段の効率化」を知ることで、一段階上位の存在へ成り上がろうとしているんです』
ヴィルの言葉に、レーゲンは背筋に冷たいものを感じた。
「学び、試行錯誤して、進化する〈骸機獣〉」。そんなものが生まれてしまえば、これからの世界に大きな禍根を残すことは間違いない。
『まずいね、それ。というか実際、段々と攻撃し辛くなってきてるよ。……足運びや身の振り方が、洗練されてきてるんだ』
『驚異的なスピードですね。今この瞬間も試行錯誤を繰り返し、動作の無駄を省いて、徹底した効率化を図っていますよ。このままでは遠からず追い付かれます』
その予測を裏付ける最たる理由を、レーゲンは実際に目の当たりにしていた。
それはこちらを見据えて離さぬ深紅の色彩、執念の籠る一対の瞳だ。
奴はあるタイミングを経てから突然、どれだけ激しく攻撃を送り込もうが、決してこちらの一挙手一投足から視線を外さなくなっている。
『分かるよ――』
レーゲンは、酷く静かに、呟いた。
『――私がそっちを殺したいように、……そっちも私を殺したいんだって』
こちらが本気であるように、向こうもそうなのだろう。
人と魔。隔絶した両者に、まさか、通じ合うものがあるとは。
そう考えたとき、ふと、ヴィルが気遣わし気に思考を送ってきた。
『レーゲンさん、それは……』
彼女にしては珍しい歯切れの悪さに、レーゲンはバツの悪さを覚える。
『ごめん、ヴィル。不快だよね。さっきから私、碌でもないことばっかり考えてるから。殺すだの、殺されるだの、……おまけにそれを当然としてるんだから尚更か。なるべく、無駄なことは考えないようにするよ』
こればかりは避けようもないことだが、≪合一≫時には思考が相手に筒抜けになってしまう。自分が敬遠されるならともかく、共に戦うパートナーであるヴィルを不快にさせたくはない。
戦いの最中だからこそ、そう考えたレーゲンに対し――
『いえ、そういうことではありません』
――ヴィルはあっさりと首を振った。
『レーゲンさんがなにを考えるかは自由ですし、それを否定する権利は私にはありませんよ。お気遣い頂くのは嬉しいですけれどね。それよりも問題は、……敵が私たちの殺害に酷く執着し、こちらの観察を続けていることです』
それは、
『このままだと、タネが割れるかもしれません』
僅かに不安の滲んだ口調でヴィルが口にした危惧は、これまで異形の襲撃者を翻弄し続けてきた「移動方法」に関するものだった。
それは「ほんの些細な閃き」で気が付くような方法でもあり、悪いことに、敵が見せた回避手段の中には一種相通じる要素があった。
つまり敵はすでに「気付きのきっかけ」を得ており、それが確信に変わるまではおそらくもう時間はあまり残されていないだろう。
もちろん、正体が露見したところですぐに対策されるような代物ではなく、むしろ防ぎようもない類の方法ではあるのだが……、
『……あいつが長期戦に持ち込んできたら、厄介だね』
『ええ。こちらの戦法を理解した敵は、必ずやその打破を目論むでしょう。であれば自然、今以上に回避と分析に注力し、戦闘時間が引き伸ばされる可能性があります。そうなる前にカタを付けなければ……』
言い淀むヴィルの後を引き継ぐように、レーゲンは応えた。
『……時間切れで、こっちの敗けか』
『……あまり考えたくはないですがね』
『なら、……勝負を決めに行こうッ!!』
その言葉を皮切りに、レーゲンはより強く剣を握り締めた。
どちらにせよ短期決戦狙いという方針は当初のままだ。時間をかければかけるほど不利になるというのなら、なおさら力を出し惜しみする理由はない。
『ヴィル、……ここからは赤字覚悟だ。無理させるけど、ごめん』
『どうぞどうぞ、最後までお付き合いしますよ。存分に為さってください』
『――ありがとう』
掛け替えのない仲間の声に背を押され、レーゲンは「必殺技」の使用を決意する。そのための隙をこれまで窺っていたが、もはや悠長なことは言っていられなかった。隙がなければ作るまでだ。
(相手がどれだけしぶとくても、これが決まりさえすれば……勝てる!)
すでに残り時間は一分を切っている。
どうせ倒れるならば前のめり、敵を倒してからだ。
それに最悪相討ちでも、エメリーとリウィアは守れる。
『……絶対、エメリーは怒るよなあ』
『生きてたら一緒に謝ってあげますよ』
『あはは。それ聞いて、安心した』
戦闘終了後に己の身体がどうなっているか。そんな心配事を思考から完全に消し飛ばして、レーゲンは仕掛けに入る。奔る白刃が奏でる撃裂音に合わせ、桜色の唇から紡ぎ出すのは――
『――“其は刃”――』
――すべてを呑み込み破砕する、災厄としての風を放つための言葉だった。
-§-
(――敵の動きが、変わった?)
極限まで研ぎ澄まされた知覚能力が、鋭敏にその事実を捉えた。
それは敵の立ち回りが「一気呵成に攻め立てる乱れ打ち」から「緩急を付けて一撃の重さを重視する」へと露骨に変化したことだ。
立ち位置を瞬時に変えながら四方八方より打ち込む、という基本戦術こそ変わっていないが、打ち鳴らされる音の連なりが作るリズムに生じた変調は明白だった。
要するに攻撃のテンポに露骨な「溜め」が混ざるようになったのである。
「――クッ!?」
そこまで理解できていながら、しかし、異形の襲撃者の対応は一手遅れた。半ばパターン化されつつあったリズムが不意に外されたことで、そのギャップによって生まれた僅かな戸惑いが彼の動きを乱したためだ。
「……くぉッ!」
慌てて回避を試みるも、鋭い弧を描いて奔った敵の一撃を完全に回避することは叶わなかった。胸部装甲に横一閃の斬撃痕が浅く刻まれる。ひやりとした感触は一瞬、すぐさま熱を帯びた痛痒が生まれ、異形の襲撃者は歯噛みする。
(――軽傷。継戦能力には微塵も支障がない!)
異形の襲撃者は湧き上がる屈辱を努めて抑え、冷静な自己分析を下す。激情に支配されてしまえば、待つのは敗北だと、身に染みて理解しているからだ。
(この期に及んで、どういうつもりだ……?)
そのうえで分析を試みる。何らかの意図があるのは間違いない。が、こちらの思索を敵は赦してくれなかった。疾風と化した白い影は強引に身を寄せてきながら、二度三度と大振りの斬撃を浴びせかけてくる。
(喰らうわけには、いかん……!)
変化した敵の一撃は、ともすれば「大雑把」と評していいレベルの粗さであり、軌道予測そのものはさきほどより遥かに容易い。しかしその分、速度と威力は明らかに倍増しており、生半可な防御では体勢を崩される危険を孕んでいる。
結果、異形の襲撃者はここにきて防戦一方にならざるを得ない。
(下らないフェイント紛いのことを……ッ!!)
憤りめいた感情が、彼の論理回路を走り抜けた。
命懸けの戦いに「卑怯」という概念は存在せず、裏を掻かれた者が愚かなのだと、今の異形の襲撃者は――彼自身が奇襲に策謀を用いたこともあって――当然理解している。
それでも、曲がりなりにも真っ向から打ち合っていた相手が土壇場で「小手先」の手段に頼ったという思いが、彼の胸中に強い不愉快を生んでいた。
それはもしかすると、ある領域に到達した戦闘者のみが持ち得る、一種の「拘り」に近い感覚であったのかもしれない。
異形の襲撃者はすでに、敵が「時間制限」を背負っていることを察していた。一瞬たりとも途切れない猛撃は、裏を返せば「手を止める余裕がない」ことの証左だ。案外、このまま回避に徹してさえいれば敵は自滅する可能性すらある。
(無粋だ。そんなものは決着とは、勝利とは言わない)
戦いという行為から受け取れるものはすべからく尊い。
試行錯誤から得た経験値は、殺戮機械としての自分を成長させ、その性能をどこまでも引き上げてくれると理解したからだ。
だからこそ、有限である学びの時間を無駄にするような敵の戦い方は、けっして褒められたものではない。鈍重さとは、すなわち大罪なのだ。
(一刻を争う状況で、己をただ戸惑わせるためだけに小細工を弄したのならば、地金を晒すというものだぞ……「英雄の紛い物」めッ!!)
幾百、幾千にも及ぶ打ち合いを経て、異形の襲撃者は相手の動きの癖を掴みつつある。そこから読み取れたのは敵が「幼い」という事実。
そう、斬撃の鋭さと立ち回りの妙にこれまで誤魔化されていたが、よくよく観察してみれば敵の技巧には明白な「荒さ」があった。
(動きが素直で画一的だ。特に一撃目を「突進からの逆袈裟斬り上げ」に頼りがちな部分が目立つ。おそらくは本来の体格が小さく軽いことを補うためだ。踏み込みの加速度と身体の発条を利用し、また敵の死角から攻撃を繰り出すために身に付けた戦い方だろう)
それ自体は決して悪手ではない。むしろ己の得手不得手を弁えた戦術だ。
しかし、この期に及んでそんな「決まりきったやり方」を引き摺るのは、まったくもって頂けない。ましてや前述の通り、攻撃に「溜め」を作ることで確かに斬撃一発分の重みは増したものの、
(理解やすすぎる! 己はもう、貴様が何処から打ち込んでくるかの予測が、かなりの精度で立てられるようになっている……!)
連撃の起点となる初撃を察知できるようになれば、続く攻撃を凌ぐことも容易くなっていくのは当たり前のことだ。
異形の襲撃者はこの時点でレーゲンの攻撃をほぼ完全に捌けるようになっており、さらには反撃を届かせる具体的な筋立てまでも纏めつつあった。
それを現実化するために必要な最後の要素は、あの「正体不明の移動方法」を解き明かし、真正面から打ち破ることのみ。
そしてその秘密に指先が掠るような感覚はすでに何度か得ていた。
(そうとも、己は、そちらの動きに追いつきつつあるんだ……ッ!! 貴様が今、攻めあぐねていることは、太刀筋に滲む焦燥からも分かっている……ッ!!)
故に、いまさら戦法に多少のアレンジをいまさら加えたところで手遅れだ。否、それどころか逆効果であろう。基本動作のパターン化が完了している以上、その対処方を構築するのには、もはやほんの数秒あれば十分に事足りる。
(つまり、もうすぐ奴の攻撃は、己に届かなくなる)
そうなれば、攻め手を失った敵は自暴自棄に出るか、自滅するかの二択しかない。そしてそのどちらも望むものではない。自分が求めるのは「相手を実力で打ち倒す」ことのみで得る勝利なのだから。
(が、もはやそれは望むべくもない、か……?)
よもや、命を削り合う激戦が、こんなつまらない結末を迎えようとは。異形の襲撃者は怒りと失望を喉奥に呑み込み、敵の新たな斬撃軌道を読み取らんと、神経を集中させ――
「……詩、だと?」
――いつの間にか生じていた、もう一つの変化に遅ればせながら気が付いた。
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異形の襲撃者はレーゲンの動きに到達しつつあった。
彼は残り数秒ほどで、もはや移動方法の謎を解き明かさずともすべての攻撃を防げるようになり、千日手に持ち込むことさえ可能となる。
その果てに訪れる結末は「時間切れ」によるレーゲンの敗北である。
ここまでが現状況においての純然たる事実だ。
異形の襲撃者は「勝利」を掴む目前であり、対してレーゲンの行動はほんの僅かな、それこそたった数秒ほどの時間を稼いだに過ぎなかった。
しかし、そのたった数秒こそが――
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異形の襲撃者は見る。冷たい殺意が滲む深い瑠璃色の瞳でこちらを真っ直ぐに射貫きながら、重く鋭い一撃を叩き込んでくる〈明星の剣〉擬きの口元に、微かな動きが起きていることを。
「――“其は刃”、“其は牙”、“其は爪”――」
桜色の唇が紡ぐ言の葉は、紛れもない詠唱。力ある詞によって術を行使するための、発動詞に間違いなかった。
「――”其は断ち割り、抉り取り、切り裂くもの”――」
鋼と鋼の激突が響き渡らせる硬質な音とは対照的に、少女らしい澄んだ柔らかな声色はそれ自体が音楽のような趣を持っている。戦場には似付かわしくない音階に、しかし異形の襲撃者は萎えるどころか、激しい戦慄を覚えていた。
「――“巡り”、“流れ”、“また巡り”――」
(――この詩は、……止めるべきだッ!!)
元より〈骸機獣〉としてエーテルとは相容れない存在であるが故の本能か。あるいは戦闘者として高みに上り詰めつつある精神が鳴らした警鐘か。
直感めいて走り抜けた思考を疑わず、異形の襲撃者は傷付いた身に鞭打って、灰白色の髪を揺らしながら詠唱を続ける敵に挑みかかった。
「ぉおおおおおおおおオオオオオオオオッ!!!!」
「――“見えずとも強く”、“触れざるとも鋭く”、“意志なくとも烈しく”――」
対する敵は、もはやこちらの攻撃など視界に入っていないかの如くに振る舞い、浅く目を伏せながら唇より詩を零し続けている。
その一方で白刃による連撃が生む圧力は些かも衰えず、むしろ発動詞が完成に近づくに従って、いっそうの冴えを見せるようだった。
「――命の取り合いの最中に、わけのわからぬ詩を朗じて悦に浸るなど……ッ!! 戯れるな、人間めが……ッ!!」
逆巻く風に抗いながら、異形の襲撃者は吼える。
自分自身でも理解の及ばない危機感は、剣と風の流れに舞い踊る敵の姿を視界に入れるたび、ますます膨れ上がっていく。
そして、異変はそれだけでない。どういうわけか、いつしか敵への接近そのものが不可能になっているのだ。どれだけ力強く地を蹴り、一歩を踏み込もうとも、
(――馬鹿なッ!? 脚が前に進まないッ!?)
「――“古きを払い、新しきを運び”、“偏に一切合切の区別なく”――」
まるで、なにかに阻まれているかのような感触。それこそ、この吹き荒れる風に身体を押し戻されているような――
「――まさか、貴様」
――そこでついに、異形の襲撃者は敵が用いる力の正体を看破した。
避けたはずの刃に装甲を切り裂かせ、ただの打撃に斬撃としての威力を付与し、立ち位置や剣閃の軌道を瞬時に変じせしめた力の呼び名。それは、戦闘が始まった瞬間からこれまでずっと、敵の周囲に吹き荒れ続けていた、
「……そうか、風かッ!! 貴様が纏うその鬱陶しい風が、貴様を助け己を弄んでいたのだなッ!?」
叫びに対する応えはない。烈風を纏い叢雲を呼ぶ敵は、もはやこちらの動揺も屈辱も意に介さず、己が技を磨き上げることのみに集中しているようだった。
(おのれ……ッ!!)
異形の襲撃者は、あるはずもない腸が煮えくり返る感覚に、顔を歪める。
あれだけ証拠が揃っていながら、何故、もっと早くに思い当たらなかったのか。それは単純に敵の動きのみに神経を尖らせていたためだろう。
避けたはずの刃に代わって装甲を切り裂いたのは、刃が纏う「真空波」だ。二段構えの「不可視の刃」が加害範囲を広げていたのである。ただの打撃に斬撃としての威力を付与し、ダメージそのものを強化していたのも、おそらくは同じ原理だ。
そして、あの正体不明の移動方法のタネは、つまりこういうことだ。
(要点は恐らく足裏にある。言うなれば風のクッション、原理としては人間どもが用いるホバークラフトに近いものを、奴は作り出していたのだ。道理で踏み込みに音がないわけだ。道理で高速かつ滑らかな移動をするわけだ。奴は気流を推進力として、己の立ち位置を縦横無尽に動かしていたのだ……)
分かってしまえば、なんと他愛のないことか。しかしその「小細工」に自分は今まで翻弄されていたのだ。そのうえで「風」を用いた攻撃と移動方法が、敵の戦闘能力を数倍以上に跳ね上げていることは、揺るがし難い事実でもあった。
(風、……風かッ!! 大気変動による単なる自然現象、いくら吹き付けようとも、己の装甲を撫でては掻き消えるだけの儚く脆い存在ッ!! そんなものが、これだけの威力を持つとは……ッ!?)
無知を悔やむ異形の襲撃者だが、全身を強固な装甲に覆われる彼にとっては、家屋を薙ぎ倒し人々を恐怖させるほどの大突風さえ、その身を傷付ける脅威にはなり得ないのだ。無意識のうちに風の力を軽視していたのも無理はない。
なにより〈骸機獣〉という、あらゆる意味で空素術に対する理解とは縁遠い生い立ちこそが、超人的な知覚機能と分析能力を持つ彼の理解力を曇らせていたことも無視できぬ事実であった。
そして、顎を噛み締める異形の襲撃者の眼前で――
「――“渦巻き、散らし、空高くへ巻き上げ砕く”――」
――レーゲン・アーヴェントが「必殺技」と呼ぶ術が、完成する。
「――“万物遍く風の前の塵と化せ”――」
レーゲンが詩を紡ぎ出してからここまでは、たった数秒。異形の襲撃者にもはや、抵抗の手段は残されていなかった。
四肢に纏わり付く風の流れは前進を封じるだけでなく、左右後方への移動さえも阻んでいた。まさしく「風の枷」に絡め捕られた獲物として、無防備に身体を開いたまま、与えられる一撃を喰らうしかない。
「――まだだッ!! まだ、己は――ッ!!」
意気を示す最後の抵抗として迸らせた叫びは――
「――≪シュトゥルム・シュナイデン・シュラアアアアーック≫――ッ!!」
――怒涛を響かせて叩きつけられた嵐の刃に呑み込まれ、いとも簡単に掻き消された。断末魔の悲鳴を上げることさえ、赦さずに。
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それは真空波によって生じる「斬撃の津波」であった。
レーゲンが振り下ろした白の長剣を起点として爆発的に膨れ上がった嵐は、その前方に存在するなにもかもを巻き込んで吹き荒れた。
加害範囲は数十から数百メートルにも及び、周辺一帯に広がる草原の上には、遥か彼方に至るまで巨大な爪痕が刻まれた。
嵐は地上を思う存分に蹂躙した後、根こそぎ巻き上げた草木と土を含み、大地から天へ向けて屹立する緑色の竜巻として空へと抜けていく。
突如として空を穿った圧倒的なる武威は、当然ながら広範囲にその異常事態を知らしめた。“恐嶽砲竜”出現の一報を受けて避難を急いでいた近隣村の住民たちを恐れ戦かせ、誘導を行っていたシュタルク軍人たちをも唖然とさせ。
現場に向かっていた〈ゲルプ騎士団〉の面々も、思わず走鋼馬を停止させて、その途方もない規模の威力に見入ったほどだ。
故にその瞬間、現象の目撃者たちは揃って同じ方向を見つめていた。
言葉を発することもできず息を詰め、やがて消え失せた嵐の先に青く澄み渡った空が現れても、身動ぎひとつせずに。
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嵐が去った後、即座に動き出したのは数人。その中の一人は≪合一≫したレーゲンとヴィルだった。
「――、く……ッ」
自身が放った技の威力に勝利を確信し、そのために周囲へ与えた損害を慮りながら、今にも倒れ込みそうな身体を大地に突き立てた剣で支える。俯き灰白色の髪に覆い隠された顔からは、滝のような汗が流れ落ちていた。
「――はぁッ……! はぁッ……! げほっ、げほっ……ッ!!」
レーゲンの呼吸は酷く荒いもので、肺の奥からえずくような咳を伴っていた。
ただでさえ身体に負担を与える≪合一≫に重ね、戦略級の攻撃術を放ったことが、彼女の心身に凄まじい疲労を生じさせているのだ。
全身から血の気が引くような、これまで経験したことがないほどの虚脱感に襲われる彼女は、意識を保つだけでも精一杯の状態であった。
しかしそれでも、汗まみれの顔面に浮かぶ表情は会心の笑みだ。
「――勝った……ッ!!」
困難を乗り越えた達成感。
仲間たちを守り切った安堵。
赦せぬ敵を排除せしめた開放感。
それらを想えば全身を苛む苦痛も、むしろ清々しいほどであった。故にレーゲンは身体に込めていた力を解き、最後に一つ深呼吸をしてから、仲間たちを振り返ろうとして――
『――レーゲンさんッ!! 危ないッ!!』
「――えっ?」
――その細い喉元を目掛け、風を裂いて突き込まれた凶爪に、呆けた声を上げることしかできなかった。
直後、鈍く湿った撃音が鳴る。
深紅の色彩を弾けさせて、レーゲンの身体が宙を舞う。
彼女の真正面、粉々に砕けた全身から黒々とした機械油を垂れ流しつつ立つのは、深紅の瞳に殺意を燃やす漆黒の姿。
異形の襲撃者は、生きていた。
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嵐に呑み込まれるその寸前、異形の襲撃者が行ったのは「呼吸」だった。それも全身の吸気口を総動員しての、内部機構の破損をも怖れぬ急激な吸気である。
その行為が生んだのは、異形の襲撃者の身体前方に現れた、ほんの僅かな真空地帯だ。体積にしてほんの数リットル分程度。しかしてそれは、異形の襲撃者を生き長らえさせるには十分な、避難地帯であった。
地面へ張り付くように伏せた異形の襲撃者は、四肢を大地に深々と突き立て、全身を削り取り引き剥がそうとする風の暴威に堪えた。
嵐の刃に背中側の装甲をほとんど引き剥がされ、内部機構を抉り出されながら、それでも致命傷を避けたのだ。
敵がそうしたように、自分自身も風を利用して。
命運が繋がったならば、やるべきことはひとつ。
敵と戦い、今度こそ屠る。それだけだ。
それだけが、望むすべてだった。
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「理解った。己は、理解したぞ、とうとう理解した……ッ!!」
もはや、自分がその目に映しているものが、現実なのか幻影なのか。それすらも理解できぬまま、ノイズ塗れの濁った声で譫言のように、異形の襲撃者は訥々と繰り返し続ける。
(奴は、そうだ、奴は……そう、実際に二人分の肉体が一つに溶け合っている。それも、……臓器や関節部の配置は戦闘行動向けに最適化され、生身と機械が拒絶反応を示すこともなく、互いを補い合うように……)
異形の襲撃者は今、粉砕された全身の痛みすら意識から追いやるほどの、深い驚愕と感銘を同時に受けていた。
それは〈骸機獣〉として一度も経験したことのない未知に対する純粋な好奇心であり、識るという行為に付随する「悦び」に他ならず、なによりも――
(……空素系まで、奴には通っている! これがなにを意味するか? それが一個の生物として矛盾なく成り立っている証拠、……というだけではない! あれはまさしく戦闘のみを目的として成り立つ存在の……く、くっく、ははは……。そうとも、己たち〈骸機獣〉の理想形だ!)
――その発見と共感こそが彼の魂無き胸中を、いっそ「恋焦がれる」と評しても良いほどに、揺さぶっていたのだ。
この異形の襲撃者は本より「勝利」を求めて己の進化を目指し、実際に達成した個体である。一方で彼を追い詰め、致死の一撃を叩き込んだのは、方法や理念としては正逆を採りながらも、有機物と無機物の融合という〈骸機獣〉と非常に近しい構造に完成した戦闘者だ。
加えてその存在は、反エーテル的存在である〈骸機獣〉が終ぞ持ち合わせなかった機能、すなわち「エーテルを操る能力」を備えている。万物の法則に逆らい、超常を操り世界を書き換える、人だけが持ち得る権能を。
異形の襲撃者は、ここに悟った。己が目指すべき終着点はあれだ、と。
(定義するならば、――エーテルを操る〈骸機獣〉ッ!!)
蒙を啓かれる感覚とは、まさにこのことだ。
やはりあの時の決断は間違っていなかった。
数々の機能を敢えて不純物として削ぎ落し、生き足掻き勝つために行った進化は、こうして再び新たな道筋を示してくれたのだ。
なんと快いのだろう。
今となっては、驕り昂ぶっていた「かつての自分」はただ愚鈍なだけであったと、心の底から納得できる。
そうとも。未知を識る。経験を積む。試行錯誤をする。
その積み重ねこそが、己が存在意義を洗練させていくのだ。
(己は強く成る。もっと、今以上に、どこまでも強く成れるのだッ!!)
その確信を与えてくれた者こそ、己が相対する「人間」だ。
こうなっては感謝しかない。敵として現れてくれたことすら愛おしい。
強い憎しみが深い愛情に換わるかの如く、異形の襲撃者は、この瞬間に嘘偽りなく魂の根底から「人間」を愛した。
愛し、求め、希い、そしてその上で――
(これで、さらに多くの人間を殺すことができるッ!! より効率的に、より徹底的に、より破壊的にッ!! 地平の果てまでを血と骸で埋め尽くすことがッ!! この惑星に死と滅びを撒き散らすことがッ!!)
――どこまでも、その本質自体は変わらなかった。
個としての明確な自我を得ようとも、識り試す悦びに目覚めようとも、どのような形であれ人間という種を深く愛そうとも。
〈骸機獣〉は依然として、永遠に埋まらぬ断絶を隔てたまま、生きとし生けるもの全ての敵で在り続ける。
すでにその身体が廃棄物同然と化していてもなお。
故に――
「……まだ、まだァッ!!」
――裂帛の気合を発して地を蹴った愛すべき敵対者が、切り裂かれた頬から血を零しながらも、灰白色の髪を躍らせて猛然と迫り来た瞬間――
「来い」
――異形の襲撃者は、爆発寸前の歓喜を言葉に乗せて応じた。
もはや、相手がかの英雄であるかどうかなど、一切合切どうでもいい。
さきほどの一撃で死んでいなかったことも心から嬉しい。
そうとも。そうでなくてはいけない。この相手はどこまでも、往生際の悪いところまで、自分と同じだ。
剣には爪を。
怒りには殺意を。
拒絶には――愛を。
ぶつけるに相応しい手段を以て全身全霊で、相手の全てを己が更なる進化の贄とすべく、命尽き果てるまで打ち合う覚悟を胸に――
「……来い、人間ッ!! 己が死ぬかッ!? お前が死ぬかッ!? 己に魅せてくれッ!! 力を、技を、……可能性をォオオオオオッ!!!!」
――意気満ちた咆哮を高らかに上げ、異形の襲撃者は、決着の瞬間に挑む。
振るうは爪。彼我の距離が詰まるまで、あと、一ミリ秒足らず。
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レーゲン・アーヴェントもまた、生きていた。
彼女は見ていた。凶爪がこちらの喉元を切り裂く寸前、その行く手を阻むように、突然現れた小さな小さな土塊の壁を。
攻撃の軌道を僅かに逸らし、己の命を救ったその≪障壁≫を作り出したのが誰なのか、考えなくても分かり切っている。
(私の仲間が、ギリギリで、届かせてくれた……!!)
故に右頬に深々と刻まれた裂傷から止め処なく鮮血を滴らせながらも、分解寸前の身を奮起させて彼女は剣を振るう。真の意味での決着を付けるため。現世にしがみ付き人に仇為す怪物を、今度こそ地獄の底まで叩き込んでやるため。
『――ヴィルッ!! あと、何秒ッ!!』
『――きっかり七秒ッ!! カウント開始しますッ!!』
目前に迫る死の運命に自ずから吶喊するようにして、レーゲンは地を蹴った。
その行く先に待ち構えるは、見る影もなく全身を崩壊させた異形の襲撃者。
奴がなにを言っているのかは碌に聞き取れなかったが、どうせ碌なことではないのだから、無視する。そもそも理解できるはずもない。
重要なのは――
『――あと、六秒ッ!!』
――こちらが握る刃と殺意が、敵に届くか否かだけ。
振るうは剣。彼我の距離が詰まるまで、あと、一ミリ秒足らず。
-§-
レーゲンが剣を振るい、異形の襲撃者が右拳を突き出す。
戦闘開始時に比べれば遥かに速度と精彩を欠き、その代わりに凝縮された殺意を存分に込めたその一撃は、両者の立ち位置のど真ん中で克ち合い、まったく同じタイミングで砕け散った。
『――あと、五秒ッ!!』
もはやレーゲンには剣の構成を維持するだけの体力がなく、異形の襲撃者にも五体を武器として用いるだけの強度は残されていなかった。
互いに武器を失った戦闘者たちは、しかし当然のように戦闘続行を試みる。
レーゲンは砕けた剣の破片を旋風で巻き上げ、異形の襲撃者は左手を突き出して、二撃目に備えたのだ。
『――あと、四秒ッ!!』
レーゲンの手指が素早く宙をなぞり、その導きに従って旋風に乗った剣の破片が、異形の襲撃者目掛けて殺到する。
対する異形の襲撃者は、武器としては用を為さなくなった右腕を盾代わりに振るい、鋭い刃群を迫る傍から叩き落していく。
その度に右腕が削り取られていき、最終的には肩までが喪失した。
『――あと、三秒ッ!!』
異形の襲撃者が咆哮し、爪先を揃えた左腕を槍として真正面にぶち込んだ。
轟、と唸りを上げて迫る一撃に、レーゲンは再び風を用いて対抗。作り出すのは気流による不可視の盾だ。
当然、真正面からの攻撃を受け止めるほどの強度はなく、異形の襲撃者の左腕は僅かに進行方向をズラされただけ。
それでも、レーゲンが身を躱すには十分な隙が生まれた。
『――あと、二秒ッ!!』
レーゲンは身を屈めながら、右腰から拳銃を引き抜いていた。
黒光りするフォルムは普段から愛用する父譲りの自動拳銃。≪合一≫の際に保険としてこれだけは元の形のまま残しておいたのだ。
照準から射撃までは刹那。ガラ空きとなった異形の襲撃者の胸部中央、破損した装甲の隙間から覗く心臓部へ向けて、レーゲンは容赦のない連射を試みる――
『――あと、一秒ッ!!』
――その寸前に高速で伸びてきたものが、レーゲンの手から拳銃を叩き落とした。太く長い筒状のそれは、異形の襲撃者が備える第三の武器「尾」である。
無理に伸び切った「尾」は、根元から破断し千切れて落ちるが、確かに所有者を守るという役目を果たしはした。
対し、すべての武器を失ったレーゲンは、もはや無手で挑むほかなく――
『――時間切れです、レーゲンさんッ!! ≪合一≫を強制解除しますッ!!』
――そんな最悪のタイミングで、英雄を模した五体をも奪われてしまう。
剥がれるように分離したレーゲンとヴィルの身体を、抗い難い激しい苦痛が襲った。≪合一≫の副作用である。
それでもレーゲンを守ろうとヴィルが必死に伸ばした手は、無情にも異形の襲撃者によって弾かれた。
「レーゲンさんッ!!」
遠ざかっていく空色パーカーの姿に、ヴィルが叫ぶ。
力を失ったまま倒れ込んでいくレーゲンへ、異形の襲撃者は容赦をしない。
すでにその知覚機能は破損し、至近で向き合っている相手の輪郭さえ不明瞭だったが、仮に鮮明にレーゲンの姿を捉えていたとしても行動は変わらないだろう。
〈骸機獣〉とはそういうものなのだから。
「……己の、勝ちだ――ッ!!」
勝鬨を上げながら、異形の襲撃者は残った左腕を突き出した。その一撃は肉を裂き骨を砕いて、レーゲンの五体を単なる肉片へと変えるだろう。
ならばここに冒険を志して旅立った、若き旅行士の命運は潰えるのか――
-§-
≪――火よ 火よ 熱にして乾の象徴たるエーテルよ――≫
-§-
――否、断じて否だ。
そもそもレーゲンは絶望などしていなかった。何故ならば彼女は、制限時間間際の攻防を開始した時にはすでに知っていたからだ。己を救うために駆け付けてくる仲間たちの存在を。
甲高い空素機関の嘶きに混じり、涼やかで優しい歌声が風に乗って、何処からか聞こえてくる。
それは一人の少女が奏でるものだ。エーテルを≪整調≫し、その構成までも思うがままに操る、比類なき天与の才が齎す奇跡である。
「――≪飛焔弾≫――ッ!!」
そして、歌に続いて別の叫び声がもう一人分響く。
それは“火のエーテルに訴えかける空素術士の御業”だ。≪整調≫によって威力を高じた詠唱術が、空を焼いて駆け抜ける。
修羅場に飛び込んだ橙色の炎弾は、異形の襲撃者が振り下ろす左腕を直撃し、一瞬にして消し炭へと変えた。こうなっては当然命を断つ威力も失われ、炭化した左腕はレーゲンの空色パーカーさえ貫けずに、砕け散った。
「――Guぁあ”AAあッ!?」
異形の襲撃者が困惑と驚愕の入り混じった叫びを上げた。
理性が欠落しかけたその声は濁り、砕け折れた左腕を見やる表情には灼熱した憤怒が塗りたくられている。
累積したダメージとそれを無視した限界駆動。なにより、確信し切っていた勝利を奪われた怒りと絶望が、彼の中に残っていた「なにか」を打ち砕いたのだろう。
そうして、崩壊寸前の人型〈骸機獣〉が反射的に首を向けた先、そこに居たのは走鋼馬に跨り黒檀の“共振杖”を突き出した黒髪の空素術士。
他の誰でもない、エメリー・グラナートであった。
反射的に殺意を噴き上がせる異形の襲撃者に対して、エメリーは容赦のない追撃を行う。彼女が素早く懐から取り出すのは、小指の先ほどのエーテル結晶。“三眼狼”を倒した際に手に入れたものだった。
そしてエメリーは再び力を放つ。空中に光の軌跡で五芒星を描き、紡ぎ出すのは彼女が修めるもうひとつの空素術――
「≪エーテル・アロー≫ッ!!」
――描画術が成立し、エーテルが光輝く矢の形状を取る。
間を置かずに放たれた威力は、異形の襲撃者の頭部を正確に打ち抜いた。
シルエットを欠いた漆黒の身体が、打撃音を響かせて派手に吹っ飛んでいく。
「ざまあみなさ……きゃあッ!? ちょ、っと……このッ!?」
「ひゃああああッ!? え、エメリーさんッ!! 危な、あぅッ!!」
お決まりの台詞を発しようとした彼女は、しかし慣れない走鋼馬の操縦を誤って盛大に横転した。後部座席に乗っていたリウィアも巻き添えだ。
間一髪で車体の下敷きになることは避けられたものの、仲間の命を救ったにしては、どうにも格好の付かない顛末である。
もっとも、恰好を気にする余裕など、この場に居合わせる誰の身にもなかった。急いで立ち上がったエメリーは全身にこびり付いた草切れと土塊を払いもせず、眉尻を立てた表情でレーゲンへとこう叫んだ。
「――ほらッ!! なにをボサッとしてんの、馬鹿レーゲンッ!! アンタは頑丈なのが取り得でしょうッ!! さっさと起きて、やると言ったことくらい最後までやり通しなさいッ!!」
-§-
途切れかけた意識に飛び込み、思い切り鼓膜を叩いた、彼女の甲高くヒステリックな喚き声。普段なら「うるさいなあ」と苦笑交じりに言い返すそれも、今のレーゲンにとっては天から降り注ぐ福音に等しい目覚ましだった。
(……いや、うるさいものはうるさいか。あと、また馬鹿って言われた。毎度のことだけどさあ)
苦笑が浮かび、気付く。
そう、自分はどうやらまだ笑えるらしい。
だったら、こんなところで倒れているわけには、いかない。
(……あはは。師匠の、言った通りだった)
思い返すのは、太陽のような微笑みと共に告げられた、あの言葉たち。かつての自分に歩き出す勇気を与えてくれ、これまでの旅路でも幾度となく救われてきた、四つの格言。
「……『何をするにもとりあえず笑え』」
血の気の失せたレーゲンの頬に、弱々しくも確かな笑みが浮かぶ。
「……『笑ってるうちはへこたれない』」
手指が大地を掴む。握り込めば爪が砂を掻き、そのざらつき乾いた痛みが、生の実感を与えてくれる。
「……『へこたれないなら前に進める』」
手で押し、膝で押し、そのまま大地を支えに立ち上がる。震える両脚になけなしの力を込め、一歩を踏み出す。
「……『前に進めばどうにかなるだろ』」
鉛のように重たい瞼を強引に抉じ開け、開いた視界に映り込むのは仲間の姿。
エメリー・グラナート。
リウィア・カントゥス。
ヴィルベルヴィント。
全員が、しっかりとこちらを見ていた。
全員が、それぞれ趣は異なるが笑顔を浮かべていた。
全員が、きっとレーゲンの復帰を信じてくれていたのだ。
(ああ、そうだ……)
暖かく、そしてなにより力強い確信が胸に浮かぶ。
彼女たちこそ、自分が前に進んできたことで得られた最も強い「力」だ。
それはエーテルを操る才や、剣と銃を用いての戦闘技術などより、よっぽど尊く素晴らしいものなのだろう。
だからこそ、自分は言うのだ。
彼女たちに負けないくらいの笑顔を作って、たった一人で戦っていたような傲慢さを恥じつつも、普段通りに自信満々と声高らかに。
「なんとかする、してみせる――」
だから、
「――手伝って、皆……ッ!!」
「「「言われなくてもッ!!」」」
応じる答えが重なり、少女たちの声が四重奏となって空に響き渡った。
吹き荒れた嵐の残滓に溶けたそれは、しかし消えてなくなったのではなく、この場に立つ四人の旅行士の胸へと確かに刻まれる。
荒れ果てた草原の上、対峙する影は四つと一つ。
各々に武器と意志を構えた少女たちは、最後の仕上げとして決着に挑む。
誰も欠けることなく四人揃って踵を並べて、倒さねばならぬ敵へと相対する。
「ぉ、お、おお……――」
若き旅行士たちの眼前、再び起き上がるもはや「不死身の怪物」とでも呼ぶべき相手と、最後の決着を付けるために。
-§-
「――ぉ、GoおおおGaああああアアアアアッ!!!!」
殺意と憤激に捻じれ狂った咆哮が、濁り切った音階として空を揺らす。
両手と尾を根元から喪失し、身体の大部分を破損してなお、異形の襲撃者は戦闘続行を諦めていなかった。
彼にとって「人間の排除」とは本能の最も深い部分に根差した行動原理だ。残る武器がまだ在る以上、戦いを中断する理由などない。ましてや濁り淀んだ論理回路にこびり付いた「勝利」への執着が、中途半端な決着を許容するはずがなかった。
(――勝つッ!! 己は、勝つッ!! 勝たねばならないッ!!)
あるいは、もはやそれだけが異形の襲撃者を定義する最後の縁であったのかもしれない。「勝利」という目標を支えに立たねば、次の瞬間にも彼は心身共に崩壊し完全なる死を迎えていただろう。
その証拠に、すでにその身体は僅かな身動ぎひとつで破片を零し、足元には黒々とした機械油が「血溜り」を作りつつある。
砕け割れた装甲の奥から漏れる赤光は、今にも力尽きそうに弱々しく明滅していた。仮に戦闘を「勝利」で終えたとしても、無事に生き延びられる可能性は低い。
(勝つ、勝つ、勝つ、勝つ、勝つ、勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ――)
……もっとも、己の生き死になどは、今の彼にとって副次的な概念でしかないのだろうが。そしてより正確な心情を付け加えるならば、
(――どんな手段を使ってでも、……勝つッ!!!!)
この時、異形の襲撃者は戦闘者としての意地や拘りを、とっくにかなぐり捨てていた。だからこそ次の瞬間に彼が取った行動は、最小限の労力で最大限の殺戮効率を達成するという、むしろ〈骸機獣〉としてこの上なく正しいものであった。
「――そU、……高所Wo取Reば、Iいッ!!」
そう言い捨てつつ、異形の襲撃者は全力で地を蹴り飛んだ。その際、反動で砕けた両脚には一切頓着しない。むしろ少しでも余分な重量を減らせたことを喜んだ。何故ならば、彼は二度と地上に降りる気はなかったからだ。
羽撃きを行う度、ぐんぐんと地表が遠ざかっていく。本来は空中での姿勢制御と短距離に限っての飛行程度が関の山であった両翼は、持ち上げるべき質量が減ったことで、限定的な自由飛行を可能としていた。
高所を取ったからにはやることは決まっている。敵の手が届かない位置から、一方的な砲撃を行うのだ。それをもって敵を殲滅する。
異形の襲撃者は急ぎ弾丸の再生産を開始する。幸運にも腹腔内の弾薬生成機構、及び、給弾スペースに破損はない。
素材が足りないために弾頭の威力は落ちるが、贅沢は言ってられなかった。
(一人ずつ、順番に殺していけばいい……!!)
そして、眼下で慌てふためく四人に嘲笑めいた視線を投げ掛けながら、異形の襲撃者は一切の躊躇いなく射撃した。
奴らがこれからなにをしようが手遅れだ。大気をぶち破って飛んでいく弾頭は、やがて華々しい真紅の花を四つ咲かせることだろう。
(己は、……勝てるッ!!)
目前に迫る「勝利」の瞬間を、異形の襲撃者は奇妙な恍惚感とほんの僅かな違和感に抱かれながら、待ち侘びた。
己から急激に零れ落ちて行く「なにか」には終ぞ気が付かないままに。
-§-
砲撃音が空を揺らして轟いた時、エメリーの唇は力ある詞を紡ぎ出していた。
「――≪飛焔弾≫――ッ!!」
発せられたのは発動詞を用いた通常の詠唱ではなく、なんと術名のみを朗じる短縮形である。黒檀の”共振杖”の先端に生まれた橙色の火球は、素早く空を駆け抜けると、異形の襲撃者が撃ち放った弾頭に真正面からぶつかっていき――
「……今ッ!!」
――エメリーが指を鳴らすと同時、一気に膨れ上がって弾頭を呑み込むと、次の瞬間盛大な爆発音を轟かせる。空に咲いた朱の色を見上げて、エメリーは蒼褪めた顔に会心の笑みを浮かべた。
「ざまあ、みなさい……ッ!!」
そう言い終えた直後、エメリーは胸を抑えて頽れた。
彼女の肺を襲う激痛は、詠唱術を無理な短縮形で行使した反動だ。
咳込むエメリーへとリウィアが慌てて駆け寄り、身を起こしてやる。リウィアの手の感触を背に感じつつ、エメリーは苦笑交じりに考える。
(……イーリスさんの見様見真似でやってみたけど、想像以上にキツイわねこれ。おまけに、才能の差ってやつをこんなところでまで思い知らされるなんてね)
彼女が≪ブリッツ・ラケーテ≫を五連射したのに比べれば、エメリーは火属性の詠唱術でも下級位の≪飛焔弾≫をリウィアの≪整調≫の助けを借りてようやく一発という、なんともお粗末な結果だ。
それでも「できる」と信じての無茶が土壇場で実を結んだことは、少なからずエメリーの胸に自信を生んでいた。段々、思考が「レーゲン寄り」になっている気がして複雑ではあったが。
(……あ、いや、正確にはレーゲンを助けた時のとで二発か。夢中だったから忘れてたわ。ああ、駄目ね、頭が回らなくなってきてる)
ぐるぐると視界が回り、徐々に端から薄暗くなっていく。そのまま闇へ落ちて行きそうな感覚を覚ましたのは、リウィアの声だった。
「エメリーさん、大丈夫ですか!?」
「げほっ……。へ、平気よ、このくらい……」
「どう見ても平気には見えませんよ……! もう……!」
口の端から血を零すエメリーは、リウィアが眉尻を下げるのを見る。
叱責より感謝が欲しい、などとどこか場違いな思いが浮かぶのは、脳に酸素が回っていない証拠だろうか。
ふらつく身をどうにか立たせながら、エメリーは再度“共振杖”の引き金に指を掛けた。
(そう、まだ私の仕事は終わってない……!)
素早く振った視線の先、そこに立つのはレーゲンを両腕に抱えたヴィルだ。
彼女も多少ふらついてはいるが、こちらに頷いてみせた動作は力強く、その金色の瞳にはこれから行う「反撃行為」への理解がすでに伴っている。
普段は食い気ばかりが目立つ彼女だが、一瞬の判断においては誰より聡い。
故にエメリーは、灼け付くような喉と胸の痛みを無視し、仲間たちへと指示を飛ばした。空高くに坐して見下ろす不愉快な敵を、ぶっ飛ばすための作戦を。
「……リウィア! 貴方は次に≪風の歌≫を! ヴィル! 今から打ち上げるけど、その馬鹿を落とすんじゃないわよ!」
そう言い終えた直後、了承の言葉がハモって返ってきた。
そこに猜疑や不安の色は微塵もない。どうやら二人はこちらを全面的に信頼してくれているらしい。まったくもってお人好しな連中だ。
であればこそ、その信頼を裏切るわけにもいくまい。
さて、残る問題はレーゲンだ。
彼女は控え目に見ても半死半生の状態、このうえ無理をさせて作戦が失敗すれば、間違いなく取り返しのつかないことになる。
それでも、エメリーは作戦の断行を決意した。何故ならば、
(……私はあと一回分の術を使うので精一杯。ヴィルもこのままじゃあエネルギー切れ。レーゲンは放っておいても気絶しそうだし、リウィアには自衛能力がない。敵が二発目を撃ってくる前に対応しなければ、今度こそ私たちは全滅する!)
全員揃って死ぬよりはよっぽどマシだ。その思考が「正しい」のか「間違っている」のかを論ずる余裕も今はない。
そんなエメリーの躊躇いを断ち切ったのは――
「……エメリー」
――誰であろうレーゲンであった。
声にそちらを向ければ、黎明の空より深い瑠璃色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめている。そして彼女は「信頼してる」や「失敗しても恨まない」など、この状況で如何にも言いそうな言葉ではなく――
「任せて」
――その一言のみを口にして、笑った。気負っているわけでも恐れを払拭するためでもなく、まるで近所に散歩しに行ってくるような気楽さで。
それでエメリーの覚悟は決まった。
集中は一瞬。
想像は強固に。
意志を猛らせ。
「――≪障壁≫ッ!!」
喉奥から発したのは、自分が最も得手とする術の名前だ。直後、発動詞を挟まぬがために生じた激痛が、稲妻のような鋭さで全身を駆け巡る。
もはや立っていることすらできず、エメリーは喀血して頽れた。
(……繋いだわよ、アンタまで)
意識が遠のく中で、それでもエメリーが浮かべたのは不敵な笑みだ。
何故なら、彼女の翠玉色の瞳は確かに捉えていた。
勢い良く屹立した十八番の≪障壁≫が、レーゲンを抱えたヴィルの身体を射出機のように、遥か上空へ向けて真っ直ぐ打ち上げた事実を。
ならば、あとはもう、見なくても良い。
(迎えは寄越してあげる。だから思う存分ブチかましてやんなさい、レーゲン)
最後の力を振り絞り、懐からひとつの魔導具を放り投げたエメリーは、そこで気を失った。
-§-
(――馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な)
異形の襲撃者は荒れ狂う思考をもはや制御できずにいた。
人間どもを倒すために撃ち放った弾丸がただの一人すら始末できず、あまつさえちっぽけな火球ひとつに相殺されるなどとは、まさに許し難いことだ。
(人間如きが無駄な抵抗を――ッ!!!!)
先程まで確かに存在していたはずの感情は、いつの間にか掻き消えていた。
しかし、それでこそ正しいのだ。
人間とは本来、己の無力を泣き叫びながら藁のように死んでいくのがお似合いの生き物でしかない。そんな存在との戦いを愉しむなど〈骸機獣〉としては有り得ない思考だ。
(論理回路に生じたエラーを削除、削除、削除――ッ!!)
異形の襲撃者は爪で抉り掻き毟るようにして、自らの感情と思考を引き裂いた。
「勝利」のために不必要なものを残しておく理由がない。
為すべきは殺戮。達するべきは排除。持ち得る計算能力と身体機能は一欠片までもそのために用いるべきだ。
(次弾装填ッ!! 目標捕捉ッ!! 殺す殺す殺す殺す殺す殺す――)
準備が整うまでは十数秒ほど。しかし地を這うだけの人間相手には大した隙でもない。そう確信していた異形の襲撃者は、その真紅の瞳に――
「――ぉおおおおおおッ!!!!」
――灰白色の髪を靡かせ、空色パーカーを逆風に激しくはためかせながら、深い瑠璃色の瞳に煌々と輝く意志を宿し。一直線に空を駆け上がってこちらに迫ってくる人間の姿を、完全なる想定外に忘我しつつ、映したのである。
-§-
「――行ってくださいレーゲンさんッ!!」
ヴィルがそう叫んで身体を投げ飛ばしてくれた時、背後を振り返る余裕はなかった。全身を叩きのめす逆風を感じながら、どんどん力感を失っていく両手に握り締めた短剣を取り落とすまいと、歯を食いしばって必死に耐えていたからだ。
身体が痛い。
呼吸が苦しい。
意識が薄れる。
高空に至った己を苛むそれらを和らげるのは、父と母から受け継いだエーテルの加護と、遥か下の地上から届いてくる涼やかな歌声だ。
≪――風よ 風よ 熱にして湿の象徴たるエーテルよ≫
≪――其は速きもの 其は鋭きもの≫
≪――総てを置き去りときに断ち割るもの≫
≪――其は軽きもの 其は界を隔てるもの≫
≪――総てを空へ至らせしかして放さぬもの≫
≪――其は遊び行くもの 其は漂い偏在するもの≫
≪――総てを満たしまた何処までも辿り着くもの≫
≪――凪いで 荒れ狂い 変動せし黄の正八面体よ≫
≪――原初の風より生まれ 常に世界を揺らし続けたエーテルよ≫
≪――そうあれかし 風の理よ 永久に 永久に≫
それは、旅人の背を押す風の歌だ。
それは、困難を吹き祓い希望を運ぶ風の歌だ。
それは、今日から明日へと進み行く全ての命を肯定する風の歌だ。
レーゲンは≪整調≫の歌のなかでも一番これが好きだ。緩やかでありながら何処までも衰えずに届くような曲調と、旅行く者の明日を励ますような歌詞が、自分の胸を未知への期待に高鳴らせてくれるからだ。
リウィアが喜んで歌ってくれるので、野営の準備をしている時や、食料集めで釣りをしている時などにはつい一曲披露を頼んでしまう。ヴィルも追従して囃し立てたりする。エメリーは「余計なことをさせるな」と怒るが、そのうち彼女も聞き惚れているあたり、決して嫌いではないのだろう。
レーゲンは思う。旅という行為はどこか、風に似ている、と。
進む先になにがあるのだろう。
これから見る景色はどんなものだろう。
仲間たちと共に辿る路はどこへ通じるのだろう。
旅は楽ではない。苦しいことや哀しいことは山ほどある。それでも進足の意志が沸き立つのは、常に留まることのない今日が未来へと確かに繋がっていることを、この上なく感じられるからだ。
風も同じだと、レーゲンは思う。
世界を駆け抜ける風は、目を背けたくなるほど醜いものとも、いつまでも眺めていたいような美しいものとも、平等に行き合うのだろう。
それでも風が旅立ちを恐れず吹くのは、きっと同じ場所で停滞し続けるだけの日々に、満足できないからに違いない。
だからこそ風は形を如何様にも変えて、あらゆる匂いを含み、時には渡り鳥を乗せながら世界の果てを目指すのだ。
そして今、自分は、空を駆けている。
ただ一陣の風と化して、高く高くへと昇っている。
視界の先に広がる蒼は深く濃く染まり、濃紺色の果てまで手が届きそうなほど。
本能が叫ぶ。その先へと行きたい、と。
蒼穹の彼方に浮かぶ星々が手招いているような気さえする。
きっとそこから見るものは、自分が持つ常識を遥かに超え、価値観を根底から揺るがすようなすさまじい世界なのだろう。
しかし、今はその願いは叶わない。
真正面、行く手を阻むように立ち塞がるモノがあるからだ。
それは、五体を欠いてなお失せぬ殺意と害意を撒き散らして浮かぶ、漆黒の姿。
「――ぉ、があぉGoおおおGaああああアアAAAアアッ!!!!」
怖気も立つような悍ましい咆哮を真っ向から浴びせられ、それでもレーゲンが怯むことはない。何故ならそれは、もはや明日を目指す旅行士にとって打破して当然の障害物に過ぎないからだ。
そう、仲間たちの助力を受けて送り出してもらったこの身が――
「お前、なんかに……ッ!!」
――敗けたりなど、するものか。
レーゲンは風を味方に姿勢を整える。
用意するのは「逆袈裟斬り上げ」の構え。
師匠に師事するなかで自分が編み出し、彼女にも褒められた自慢の一撃を繰り出すための、自信と誇りを込めたスタイルだ。
接敵までは目算にして残り一秒。
意気も力も十二分に漲っている。
ならば、あとは振り抜くだけだ。
恐れず。
迷わず。
躊躇わず。
この身に残る全身全霊を乗っけて、思いっきりブチかましてやればいい。さあ、叫べ。その技の名前を、高らかに。今の自分に倒せないものなどありはしない。
「喰らえ、必殺――」
何故ならば、天翔ける風が断つものは、明日へ続く路を塞ぐ絶望なのだから……!!
「――≪ヴィントオオオオオ・シュラアアアアアック≫ッ!!!!」
気勢一声。
一気呵成と放たれた烈風の刃は、最後の足掻きとして牙を剥き出し襲い掛かる異形の襲撃者の頭部へと喰い込み、刹那の間にその身を一刀両断と切り裂いた。
僅かな抵抗さえ赦さず、滑らかに振り抜かれた刃を汚すものはない。
断末魔の悲鳴を空に溶かし、五体を粉微塵と撒き散らしながら、異形の襲撃者は内側から一瞬膨らむようにして爆ぜ飛んだ。
血飛沫さえも風が吹き散らし、その五体は跡形もなく消滅する。
澄んだ風の音が、長きに渡る死闘の決着を、世界に告げた。
短いながらも決死の剣戟を交わし合った宿敵の最期に、レーゲンは一度だけ黙礼を送った。そうしてから、意識を手放した。通り雨の旅行士は、空に溶け込むような無防備さで、真っ逆さまに落ちて行く。
「……やったよ、師匠」
瞼を透かして輝く眩い陽光に、目指す女性の笑顔を見たような感慨を胸に抱きながら。唐突に身体を受け止めた、柔らかく沈み込むようななにかの正体を気にも留めず。レーゲン・アーヴェントは、深い深い眠りの中へと、沈み込んで行った。
-§-
エピローグ「去りゆく昨日に虹を描いて」に続く――
-§-




