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通り雨の旅行士《トラベラー》  作者: 赤黒伊猫
序章:草原騒乱四重奏
2/41

シーン1:〈天輪〉の空より



 -§-



 麗らかな陽気が上空から大地へと下り、圧された大気は風として、周辺一帯を覆い尽くす広々とした草原の上へ落ちた。


 緑の絨毯が波打つ。途端、ざぁ、とざわめき。

 撫でられた草群れが擦れ合い、葉擦れの音を響かせる。

 ひとつひとつはほんの微かな囁き。しかし豊かに生い茂る葉たちが一斉に動けば、重なり合った囁きはそのまま合唱となって賑やかだ。


 もう一陣、風が吹く。再び、ざわめき。

 間隙に一瞬だけ立ち消え、すぐにまた生まれる。

 誰もいない草原の上で延々と繰り返すリズムは、取り立てて変化のない平穏な一日を象徴しているかのようだった。


 季節は春。水色の絵具を、薄く、どこまでも果てなく塗り広げたような空がある。透き通った色彩の上には点々と白く柔らかな大小の綿雲が浮かび、天高く坐した太陽が煌々(こうこう)と眩い陽光を眼下の世界へ降り注がせている。


 その日差しの中を、不意に突っ切った素早い影がある。

 晴天よりも鮮やかな藍色の翼を持つ、一羽の若鳥だ。


 群れからはぐれたのだろうか、それとも自由気ままに旅をしているのか。

 若鳥はまだ小さな両翼を懸命に伸ばして風を掴み、どこか頼りなさげに姿勢を崩しつつも、ひたすら真っ直ぐに飛んでいく。


 高く、そして遠くへ。胡麻粒(ごまつぶ)よりも小さな瞳で行く先を見据えながら、羽撃(はばた)きを諦めずに進んで行く。この若鳥は今、世界に挑んでいるのだ。


 やがては空の彼方へと溶け込んでいく小さな翼。そのさらに上空を、悠々と渡っていく巨大な影がひとつ。

 一見すると空を飛ぶ鯨にも見えるそのシルエットの正体は一隻の飛行船だ。

 馬鹿でかい風船のような気嚢(きのう)に充満されたガスによって浮かぶ巨体を、駆動部に内臓された空素機関(エーテル・エンジン)が生む大馬力を用い、プロペラで発生させた()()()()()()でもって推進させる航空機の一種である。


 工学技術と空素力学の粋を集めたその船体部真横、大きく描かれているのは“剣を掴み翼を広げた褐色鷲と矢車菊”の意匠。

 かつて“褐色皇帝”の名の下、この大陸において随一の強大な勢力と繁栄を誇ったゲルプ帝国――現在はシュタルク共和国を名乗る――の国章だ。


 飛行船は空素機関(エーテル・エンジン)独特の甲高い駆動音を響かせながら南へと向かう。すでに低めの高度まで降りてきているのは、もうじきにシュタルク共和国の首都である“ゲルプ”へと到着するからだ。


 飛び立つ時に積載していた食料品や資材類といった貨物は、すでになにもかも目的地に降ろした後。往路よりも大分身軽になった船を操る乗組員の格好は、全員が灰色を基調とした軍服姿だ。


 現在この空行く船は、課せられた輸送任務を終え、帰路に就く最中であった。



 -§-



「えー、左舷観測員より、操舵手へ報告――」


 大鯨の下腹、尻から頭へとかけて張り付いた長大なゴンドラ部の前方先端で、一人の兵士が間延びした声を上げた。

 軍服の肩に縫い留められた徽章が示す階級は曹長。中年の域をやや過ぎたと見える彼は、双眼鏡でぐるりと外の景色を見回したうえで、


「――まったくもって、なに一つ、異常なし。(くさ)(ぱら)が広がっているだけだ。以上、報告終わり」


 と、如何にも辟易したように結んだ。


 腕を下ろせば首掛けされた双眼鏡が胸元へ垂れ下がる。

 項を擦る紐の感触に中年曹長は顔を顰めつつ、制服襟元にピン留めされた無線機のスイッチを切って、大欠伸をひとつ。代わり映えのない景色と緊張感のない任務に、すっかり飽きがきているようだった。


「やれやれ……、と」


 中年曹長は首を鳴らしながら、すぐ隣でいまだ熱心に双眼鏡を覗き込んでいる若い兵士の方をちらと振り向く。

 なにも見るものなどないだろうに、どうしてそうまで神経を尖らせられるのだろうか。中年曹長は年々皺の増えつつある顔を、皮肉気な――安堵と退屈も多分に混じった――笑みに歪め、若い兵士へ言う。


「……おい、そんなに張り切っててもしょうがねぇぞ。気張り過ぎんな、()()()


 その言葉に、若い兵士は一瞬だが、若干むっとした表情を浮かべた。年齢を笠に着た物言いが気に障ったのだろう。それでもあからさまに態度に出さないのは、相手の階級が曲がりなりにも遥かに上級であるためだ。


 若い兵士はしかし、不快感を完全に仕舞い込めたわけではないようで、口調に若干の揶揄を含ませた上で言い返す。


「お気遣い有難う御座います、曹長殿。しかし僭越ながら申し上げますと、これはあくまで軍務ですから、真面目にやるに越したことはないと存じ上げます。それに、一見平和であるように思えても……」

「であるように、じゃなくてよ。実際、どこからどう見ても平和だろ」


 慇懃無礼な反論を途中で遮り、中年曹長は肩を竦めた。


「真横で無意味に張り切ってる奴がいると、こっちも無意味に疲れるんだよ。なんならこう命令してやろう、地上監視業務は一旦中断せよ。これで良いか? ん?」


 そうまで言われて従わないわけにはいかない。若い兵士は不承不承という様子で双眼鏡を下ろすが、その表情には不満げな色が滲んでいる。それを見た中年曹長は、再び持ち上がってきた欠伸をきっかけに口を開いた。


「あーぁ……、っと。あのな、一つ教えといてやる、若いの。必要もねぇのに無理するってのは、ハッキリ言えば無駄だ。エネルギーの無駄遣いってやつだよ。質素倹約、節制を肯とする我々シュタルク軍人としては、むしろ慎むべき行為じゃないのかね?」


 すると若い兵士は、今度は渋面を隠さずに応じた。


「僭越ながら軍務規定にはこうもあります。謹厳実直(きんげんじっちょく)たるべし、と。ならば如何なる状況でも、己が務めを果たすために全力を尽くすのが、シュタルク軍人としてあるべき姿ではないでしょうか?」


 真っ向から正論を撃ち返され、中年曹長は苦笑いを浮かべた。


「……可愛くねぇ奴だなあ、お前」

「兵士に可愛げなど無用かと」


 そっけなく返す若い兵士。

 上官に対して有り得べからざるこの無礼な態度は、実際のところ、二人が「年齢の離れた友人」とでも呼ぶべき関係であるために許されているようなものだ。

 偶然にも配属先がよく重なることから自然と交流が生まれ、陸に降りれば仕事の愚痴やら相談事やらを交えて一緒に酒を飲むようになった彼らは、今ではお互いにかなり気安い間柄となっていた。


 ただそうでなくとも、このすっかり草臥れた中年曹長の勤務態度は平時から謹厳実直とは言い難く、息子ほどにも年の離れた他の若い兵士たちからも、良く言えば親しみをもって、悪く言えば侮られて接されているのだが……。


「どいつもこいつも真面目だねぇ」


 尤も、彼自身はそんな状況を気にした風もない。中年曹長は窓の外を流れていく、突き抜けたように青い空を眺めながら、ふと訊ねた。


「そういやお前さん、歳は幾つだったっけ?」

「年齢は、今年で二十一歳になりました」

「軍学校出たてだっけな、そんなもんか。ならあれだ、恋人とか居んのか?」

「生憎ですがね、そんな機会があればこんな仕事には就いていません」

「……本当に可愛くねぇな、お前」


 露骨に皮肉な態度を決め込んだ若い兵士に、とうとう中年曹長も揶揄する気を失った。その上で彼は思う。恐らくこの若人は、自分に与えられた任務内容に不満があるのだろう、と。


 なにせ、せっかく軍学校で学んだ知識や技術を実践する機会には恵まれず、やることと言えば来る日も来る日も退屈な物資輸送ばかり。

 しかも規則を折り目正しく叩き込まれ、本人もなまじ真面目一辺倒に育ったものだから、当て付け気味にサボるという考えは端からない。

 であるならば不本意な任務に没頭する以外になく、それがまたストレスを生むという、要するに不毛な悪循環に陥っているのだ。


(まあ、気持ちは分からんでもないがな。俺みてぇにとっくに一線を退いたロートルならともかく、若い連中は体力も気力も有り余ってしょうがないんだろうし)


 中年曹長は鼻息をひとつ。


 自分などはこうして閑職に近い立場に置かれたところで、却って気が楽なのだが、なまじプライドと意欲のある人間なら堪えられないに違いない。ある意味では贅沢な悩みだが、それも若者の特権だ。


 やれやれと大仰に首を振り、中年曹長はどこか遠い目をして言う。


「俺が若い頃なんかは、もっと適当な輩が多かったもんだがね。どうしてこう最近のお坊ちゃんやお嬢ちゃんたちは、愛想も融通も利かないのか。お前ら、軍学校でなに教わってきた? ん?」

「……あの? 戦技と軍務に関する知識以外に、なにがあるというのですか?」


 だろうな、と中年曹長は内心で呟いた。


 今の若い世代は基本的に促成栽培で育つ。無駄な遊びは切り捨て、とにかく必要な実技と知識を詰め込む方式だ。

 それを即戦力化優先の実用的な教育と捉えるか、今の世情に余裕がないことを示す無理な助長と捉えるかはともかく。


(……まあ、本当に余裕がなかった俺らの頃と比べりゃあ、マシかね)


 それこそ()()()()()()さえ受けられず、兵士として使えるようになった瞬間から戦場に叩き込まれたような自分たちの世代よりは遥かに良いのだろうと、中年曹長は苦笑した。


 そこで彼はふと思い付く。折角だから何も知らない後輩に、面白い「遊び」の知識を教えてやろうかと考えたのだ。そうと決まれば善は急げ。にやり、と下卑た笑みを見せつけながら言ってやる。


「そりゃあ、あれよ。可愛い女の引っ掛け方だとか、強い酒飲んでも二日酔いせずに済む方法とか、カードでイカサマするやり方とか、菓子や煙草を上手く配給物資から抜き取る裏技とかよ……」


 指折り数えながら宣った中年曹長に、若い兵士は絶句したようだった。驚愕と軽蔑の入り混じった表情を向けられ、中年曹長はバツが悪くなる。


「……冗談に決まってんだろ」

「で、ですよね。いくらなんでも、そんな」

「そうとも。ンなモンは実戦の中で自然と覚えてくもんだ」


 その言葉に、若い兵士は再び言葉を失った。中年曹長は内心で「クソ真面目野郎が」と嘆く。昔の知り合いなら、誰もが薄笑いで同意を返してきたものだが、時代は変わったということか。


 溜息を零した中年曹長に、若い兵士は怪訝な表情で首を傾げた。


「いや、実戦の最中ならそれこそ、そんな余裕はないのでは……?」


 まあ、その指摘は尤もだ。


「そうとも。だから戦ってない時にやるんだよ、そういうのは。文字通り余暇の過ごし方ってやつだな。別に二十四時間ぶっ続けで銃を握ってるわけでもねぇんだ」

「……曹長殿が現役だった頃は、随分厳しい状況だったと聞き及んでいますが?」


 言われて、中年曹長は思い出す。

 今から数十年以上前には、それこそ他国との戦争が続いていた時代もあったし、自分自身にとっては()()()()の破滅と混沌こそが青春であり現役だった。

 そして若い兵士が言及したのは、その破滅と混沌に満ちた青春の方であろう。


 なにもかも苦い記憶。地獄と一口に言い表すにも躊躇するような光景を想起しつつ、その血反吐と泥水と数多の骸に埋め尽くされた中から、一つ一つ()()()()()()を中年曹長は拾いつつ、言う。


「だからこそ、だ。少しでも状況が落ち着いた時に気を紛らわせなきゃあ、頭がどうかしちまうよ。年がら年中塹壕に籠って、大量の()()()()を相手に銃を撃って。爆音、悲鳴、砂埃に血飛沫、病気だの空腹だの寒さだの、虱だの南京虫だの、いつ死ぬかも分からねぇ日々に首まで漬かってりゃ自然とそうなる」


 そうなれなかった奴の末路は二種類。狂うか、死ぬか、だ。

 前線に送られてきた新任士官が、腐って蛆が湧いた山積みの死体が発する激臭に耐えきれず、盛大に吐しゃ物を撒き散らしたのを中年曹長はよく覚えている。


(しかもあの野郎、俺の弁当にぶっかけやがったもんだから思わずぶん殴っちまって、あわや軍法会議だったぜ……。三日も経たずに当事者が死んじまったから、結局お咎めナシになったがな)


 つまり、大事なのは太々しさと無神経さだ。


 尤も、心に余裕があろうがなかろうが死ぬ時は死ぬ。結局のところ全ては運に過ぎないのだと、それらを実際に見てきた中年曹長は考えている。


「だから、楽しめる時はなるべく楽しむし、暇な時は暇そうにしてりゃいいんだよ。今日みたいな日はそれこそ、あの野原で寝転がってりゃいいんだ。それをなんで好き好んで、こんな風船の中で突っ立ってんだか。大体、こんなデカブツ今更浮かべて示威行為以上の意味があるか? 誰に見せるってんだ? とっくに仇敵()()()()()()()()は解体されてるってのによ」


 吐き捨てるような強い語調に、若い兵士は多少なりとも動揺したようだった。


「陸路は……危険も多いですし、致し方ないかと」

「そういうことを言ってんじゃねぇんだよ」


 と、流石にそこまでいけば意味もない愚痴だ。それを若者相手にぶつけるのもお門違いだと、中年曹長は自制。決まりの悪さを隠すように頬を掻きながら「まあ」と前置いて、


「俺たちの頃は、それこそ敵の倒し方だの身の守り方だの、とにかく荒っぽいことばかり叩き込まれたぜ。そういう時代だったし、必要に迫られてたからな。()()()()はまさにその絶頂期ってやつだ。どいつもこいつも、ふと目を離した隙にバタバタ死んでいった。明日は我が身と、俺自身もガタガタ震えてたもんさ……」


 実感の籠ったその言葉に、若い兵士は神妙な顔つきを浮かべた。


()()()()、ですか。あの〈災厄の禍年(カラミティ)〉と呼ばれた……」



 -§-



 〈災厄の禍年(カラミティ)〉。それは、約一年間に渡って世界中を恐怖と混乱に陥れた、破滅と崩壊の時代を指す呼び名だ。


 突如として中央大陸より湧き出した“敵”の軍勢に対し、初めて人類が真の意味で手を取り合い足並みを揃えた、ある意味では記念すべき時代。そして同時に、当時を過ごした人々にとっては生涯忘れ得ぬ最悪の記憶(トラウマ)を生んだ、忌むべき時代。


 いまだ世界中に数多くの癒えぬ爪痕を残すその出来事は、しかし若い世代にとっては伝聞と記録によってのみ触れるものでしかない。


 若い兵士にとってもそれは同じだ。


 幼心にもなんとなく、絶望感に満ちた両親の表情や、街々を襲う戦火と恐慌、半狂乱の内に故郷を棄て逃げ出す人々といった記憶は残っているが、全ては霞が掛かったようにぼんやりとしたものでしかない。


 それ故に、もしかしたら前線を経験した人間から当時の話が聴けるのかと、若い兵士は好奇心と知識欲に目を輝かせるが――


「……まあ、こんな事話してもしょうがねぇ。やめだ」


 ――中年曹長は苦し気な表情を浮かべ、話を打ち切ってしまう。


 思わず続きを求めようとした若い兵士を、中年曹長の冷めた視線が射抜く。

 拒絶を意味する強い目で見据えられ、二の句が継げずに黙り込んだ若い兵士へと、中年曹長はそれまで打って変わった静かな口調で語る。


「話しても分からねぇよ。あればっかりは経験しなきゃ分からねぇ。そして、世の中には知らねぇ方が良いこともある。だいたい、知ってどうする? 彼方此方でドンパチやる時代はもう終わったんだ。今じゃあこの国は復興も進んで、すっかり平和を取り戻している。万々歳だ。それで良いじゃねぇか」


 と、取り付く島もない。


「そりゃあ、未だに混乱の収まらない地域はあるが、いちいち首を突っ込んでたらキリがない。自分の家計をなんとかやりくりしてる時に、他人の食い扶持の面倒まで見てられねぇしな。まあ、例の物好きな()()()どもなら別だろうが……」

「しかし、不測の事態に備えることは重要ですし、その為には知識が……」


 食い下がろうとする若い兵士の言葉を、中年曹長は皮肉気たっぷりの笑みでもって封じた。


「ンなモン役に立たねぇよ。死ぬか生きるかの時に必要なのは、敵に鉛玉をぶち込む度胸だけだ。が、そんな諸々はこれからの時代じゃ無用になりつつある。今、俺たちがやってることも、言ってみりゃ配達屋の真似事だぜ? 決まった航路を行っては返し、サイン貰って頭下げて荷物降ろして頭下げてまた飛んで……」


 そこで唐突に、中年曹長はあっけらかんとした口調になる。


「……だが、まあ、輸送任務だって重要な役目だ。それこそ戦時中なら補給線の構築ってのは死活問題だったわけだしな。その点、ウチの軍隊は昔から兵站管理だけはしっかりしてたが」


 おかげで〈災厄の禍年(カラミティ)〉でも、弾切れの心配だけはしなくて済んだしな。冗談とも本気ともつかない表情でそう呟き、中年曹長は続きを語っていく。


「平和になっても、飯やら毛布やらは、必要な所に必要なだけ行き届いてなきゃならねぇ。荒事なんてのはそれこそ、精鋭〈ゲルプ騎士団〉に任せときゃいいんだ。どうせ俺たち雑兵は物の数じゃねぇ。だったらよ、今から覚えとくべきだ」

「……何を、ですか」


 戸惑う若い兵士に、中年曹長は肩を竦めた。


「今後の身の立て方に役立つアレコレを、だよ。特に可愛げってのは大事だぜ? 愛嬌があってはっきりした返事ができて、課された仕事をそこそこやれたら、人間ってのは細々でも食っていけるもんさ」


 そこまで聞いて、若い兵士はようやく気が付いた。


 この先達は言葉こそ荒く野卑だが、彼なりに教訓を伝えようとしてくれているのだ。これからの世界、軍人だけをやって食っていけるかどうかは分からない。身の振り方を考えておくべきだ、と。


「……軍務に戻ります」


 しかしその事実を素直に受け止めるには、まだ彼は文字通りに若すぎたし、軍という職場に対する期待と熱意を失ってもいなかった。

 よって若い兵士は再び双眼鏡を熱心に覗き込み始める。それこそが今、彼が為すべき「軍務」であるが故に。


 その冴えた横顔へ、今度はもう中年曹長は声を掛けようとはしない。無理矢理に道理を押し付けても逆効果であると知っているからだ。

 彼は口寂しさを誤魔化そうと、黙って懐から煙草を出そうとするが、船内が禁煙であることを思い出して諦める。


「やれやれ……」


 舌打ちを漏らして中年曹長は天を仰いだ。

 視線の先、クリーム色に塗り込められた飛行船の天井がある。もしも≪透視≫が使えたならば、その向こうに晴れ渡る空を覗き見ることもできるのだろうが、生憎自分に超常を操る才能はない。


()()()()に嫌われちまってるのか、そっち方面はからっきしだからな、俺ぁ)


 中年曹長は吐息。


「……空素術士(エーテル・ドライバー)やれてりゃあ、もう少し良い稼ぎがあったかもしれねぇが」


 この世界のあらゆるものに宿り、その本質を構成するとされる空素(エーテル)。それを用いて()()()()()()()()()()()に現象を引き起こし、時には超常の力さえも顕現させる者を空素術士(エーテル・ドライバー)と呼ぶ。


 古来より工業に、政治に、争いに、人類史の発展と後退に多大な影響を与えてきた彼らは、当然ながら〈災厄の禍年(カラミティ)〉においても多大な貢献を為している。


(当時の俺にその力があったなら、今頃は……)


 そこまで考え、中年曹長は「馬鹿馬鹿しい」と思いを振り払った。


 全ては空想、ありもしない高望みを未来に求めているだけだ。ましてや、遠く過ぎ去った過去に当て嵌めることほど無意味なことはない。それはあまりにも虚しい「もしも」への未練だ。


「……ケッ、これこそエーテルと人手の無駄遣いだぜ」


 天に唾するが如く、中年曹長は自嘲をゴンドラの天井目掛けて吐きつけた。


 曲がりなりにもこの飛行船は商売道具だが、所有物ではない。あくまで国家が保有する装備のひとつに、自分は乗り合わせているだけだ。

 操縦桿を握るでも、進路を決定するでもなく、ただ双眼鏡を覗き込んでは平穏泰然とする草原を眺めるだけ……。


(滑稽だな。そう思わねぇか? お空の向こうの()()()()もよ)


 中年曹長は目を眇め、遥か空の彼方へと思いを馳せた。恐らくは今も薄ぼんやりと輪郭を滲ませながらも浮かんでいるだろう、あの()()()に対して。


 そして事実、それはそこにある。


 〈天輪(ストラトス・リング)〉。


 世界各地に合わせて十三個。成層圏に位置するとされるこの物体について率直に言い表すならば、その形状は正しく、途方もなく巨大な()()()だ。


 研究者の測量によれば直径は十キロメートルにも及ぶと目され、その出自、材質、利用目的といった全てが不明。まさしく謎の飛行物体だ。

 誰が造り出したのか、何時から存在しているのかすらも定かではないその巨大な輪は、地表へ落ちて来るでも何処かへ飛び去るでもなく、ただただ天高く居座り続けている。


(そうやって俺たちを見下してるのかい、()使()()()()()よ? 地上の諍いやら煩いごとやら、高い所からぼんやり眺めるのはいい気分だろうな、ええ?)


 そんな益体もない考えを弄ぶ中年曹長の意識を、傍らの若い兵士が発した言葉が覚ました。


「あ、あれは……?」

「どうした」


 問われ、若い兵士は戸惑う表情のまま応じる。


「小規模な集落、いえ、村を発見しました。曹長殿、あれは?」

「ふん? 村ねぇ……」


 言いつつ、中年曹長も双眼鏡を覗き込んだ。

 すると、なるほど。草原の上に立ち昇る白煙を、幾筋も認めることができる。言うまでもなく煮炊きの煙だ。

 発生源を辿れば、煉瓦と木組みで作られた家屋が二十から三十件ほど、草原の上で寄り添うように立ち並んでいた。


「ああ、オープスト村だな。なんだ、お前は見たことなかったか」

「……ご存じで?」

「首都に小麦や食肉、あと乳やその加工物や、果物やら色々卸してるぜ。知っとけよ、そこは。お前が普段食ってる糧食にも、あそこで作ったモンが使われてるんだぜ? ソーセージとか、ハムとか、チーズとかさ」


 呆れ交じりに言われ、若い兵士は赤面した。己の無知を指摘された羞恥心があるのだろう。少し気の毒になった中年曹長は「これから覚えりゃいい」と笑った。


「これは有意義な方の知識さ。俺たちにとっちゃ商売相手だし、飯やなにやらの出所だしな。因みに、ああいう村は昔からこの国には結構多い。帝国時代の名残、滅ぼされずに残った風景だな。首都の生産機能だけで国全体の食い扶持を賄えるわけはねぇから、そういう細々とした取引や売買で国の隙間を繋いでるのさ」

「隙間、ですか」


 若い兵士の鸚鵡返しに、中年曹長は頷いた。


「大昔みたいに鎧着た騎士が馬走らせて皇帝陛下の命令伝えて、あっちこっち支配してた頃とはとっくに変わってるからな。これからは地方自治が主になるはずだ。武力や威光でなんでも抑え付けられるってのは、大昔の概念だぜ……」


 そこまで話して、中年曹長は若い兵士が感心したような表情を浮かべているのに気が付いた。どことなく居心地が悪くなった彼は咳払いを一つ挟むと、早口に話を切り上げた。


「それなりに生きてりゃ、このくらいは誰だって分かるようになるもんだ。お前なんか、俺よりよっぽど頭の出来も受けた教育も良いんだから、こんなことで関心してんじゃねぇよ、若いの」

「いや、それは……」

「これからはお前らが国を回してくんだ。俺らみたいなロートルとは違ってな。ま、精々励めよ。……ほら、説教は終わりだ。軍務やれ軍務。大好きな双眼鏡でも覗いてろ」


 一方的に言い切って、中年曹長は双眼鏡を覗き込んだ。

 なにかを言おうとしている若い兵士の視線をシャットアウトし、丸く切り取られた視界で上空より見下ろす村の風景は、実際に何度か訪れたことがあるにしても中々新鮮であった。


 周囲は木と弦で作られた頑丈な柵が所々に小さな出入口を設けた上で張り巡らされ、南側、首都へ向けて延びる街道の部分だけが正門として大きく開いている。

 村の北から東にかけては、鬱蒼とした木々の連なりが広がっている。古くからあの村に自然の恵みを育んできた、野生の色濃い深く豊かな森だ。


 家々の表には洗濯物が干され、穏やかな日差しと風を受けながら揺れている。

 所々には柵で囲った内側に畜舎(ちくしゃ)が置かれ、牛や豚、羊、馬といった家畜類が気ままに飼料を食んでいた。

 見張りのつもりなのか、数匹のむく犬が柵の外側で寝そべりながら大欠伸。村外れには畑と、果樹の植わる一帯があった。


 村の中心部に視点を移せば、そこに鎮座する組み上げ式の井戸の周囲、世間話に興じる住民たちの姿を見出せる。

 話題は夏に向けて本格化する農作業や、付近の都市との交易物の品目や、首都に納める税の確認や、害獣対策に関する相談事等、生活に関わる事項が主だろうか。

 その周りでは大人たちの思案はどこ吹く風とばかり、楽しそうに遊び回る子供たちの姿。さすがにここまで声は聞こえてこないが、その表情と仕草を見れば十分に一帯の賑やかさは伝わってくる。


 その他、各々が任せられた仕事に就く者もあちこちに見受けられる。

 家畜の世話や畑の見回り、壊れた柵や家具の修理、皮製品や日用品の加工、収穫してきた果実の選別、一月後に迫った祭りの準備等々。

 家々からの煮炊きの煙は収まりつつあった。昼飯の支度を終えた婦人らが、じきに彼らを呼びに来れば、そこで作業は一旦小休止となるのだろう……。


 長閑(のどか)と、そう一言で表して間違いのない光景だった。


「平和なもんだな……」


 無意識に、他人事のような台詞が口から漏れていた。中年曹長は肩を竦める。


(なんのことはねぇ、俺も高い所から見下ろして好き勝手言ってるじゃねぇか)


 そう考えるとあの〈天輪〉が空の遥か彼方に浮かび続けている理由も、案外暇潰しかなにかが目的なだけなのかもしれない。

 あの銀の輪っかは空高くから人々の暮らしを眺め、人の生き死に、文明の発展や崩壊といった下界に於ける諸々の変化を楽しみ愛でているのではないか……。


 そんな戯言めいた思いを頭の片隅に押しやりつつ、恐らく今日はこのまま何事も起こらないのだろうと、中年曹長は半ば確信めいて感じていた。


 しかし、状況の変化とは常に唐突に――例えば俄雨(にわかあめ)が降り出すように――起きるものだ。もしもそこに違いがあるとすれば、()()()()()()()()()だけである。


 今回の場合、前兆は人の姿をしていた。最初に気が付いたのは若い兵士の方である。彼は視点を村の西、草原の上を行く()()()()に合わせた。


「ん……? あそこ、人が……」


 双眼鏡の絞りを弄り、ピントを合わせて確認する。彼はレンズの先に見えたままの光景を言葉とした。


「四人……? こんなところに? 村を目指しているのか……?」



 -§-



余談:兵士の名前はそれぞれ「ティーロ・マルトリッツ上等兵」と「ヨーゼフ・カント曹長」。

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