シーン18:その力は誰がために
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(――クッソ焦ったァ!!)
卓越した詠唱術により、降り注ぐ莫大量の死を退けたイーリスではあったが、その胸中は恐怖と焦燥に荒れ狂っていた。
それもそのはず、今しがた“恐嶽砲竜”が実行した一斉射撃は、イーリスの段取りからは完全に逸脱したものであったからだ。
(不意打ちも良いとこだ、クソッタレが!! まさか、アタシの顔を見るなりぶっ放してくるなんてな……!!)
砲撃の予兆を察知し、咄嗟に有効な術の詠唱を開始していなければ、すべてが終わっていた。綱渡りの一歩目から足を踏み外し、危うく綱を掴むことでどうにか落下死を免れたような、まったく紙一重の危機回避である。
いまさらながらに「よく間に合ったものだ」とイーリスは思いかけ、
(――違う、間に合わせたんだ)
否定する。
そう、自分は断じて幸運や偶然に縋ったわけではない。これまで積み重ねてきた修練を信じ、そのうえで「できる」という確信したからこそ声を放ったのだ。
物理的に解剖すれば単なる空気振動でしかない詞に、熱力学法則をも凌駕する超常の力を宿らせる最大の要因は、可能性を掴み取らんとする「人間の意志」だ。故に空素術が世界を書き換える時、その力の手綱を握るのは常に術者の側でなくてはならない。
(……祈り、念じ、信じよ。さすれば詞に力は宿り、奇跡は必然として顕現す)
詠唱術士ならば、誰もが胸に刻んでおかねばならない訓示だ。
生死のかかった土壇場において、心が揺れれば意志の火は掻き消える。臆し、諦め、捨鉢の声で訴えかけてもエーテルは応えてくれない。
故にこそ、強く固く一途に信じるのだ。己が意志を込めて紡ぐ「詞」には、間違いなく世界を書き換える権能があるのだ、と。
イーリスはその掟を遵守し、だからこそ危機を乗り越えられた。結論してしまえばそれだけのことだ。しかし、その「それだけのこと」を確実に達成できるかどうかが、戦場においてはなにより重要なのである。
なので、とりあえずこの場は善し。とは言え……、
(そもそもの原因は、多分アタシだな、こりゃ)
急速に頭が冷えていく中で、イーリスはひとつの予測に行き当たった。すなわち、“恐嶽砲竜”を怒らせたのは、おそらく自分が開戦の景気付けとして用いた≪ブリッツ・ラケーテ≫の一撃であろうと。
(分からないはずだったんだがな。わざわざ奴の知覚可能範囲の外側、超長射程からの狙撃としてぶっ放したってのによ……)
並みの〈骸機獣〉ならば十数体ほど纏めて軽々と消し飛ばす威力を持つ雷撃も、規格外の化物を相手には最初から有効打など期待しておらず、せいぜい足止め目的の牽制と部下たちの士気高揚が叶えば、それで十分に役目を果たす程度の先制攻撃のつもりであった。
そして、その目論見自体は無事に成功したと言っていいのだろうが、
「……化物の化物加減を舐めてたかね、まさか一発で見抜かれるとは」
あの小さな頭部には存外、脳味噌がぎっしり詰まっているのかもしれない。
だいたい、数十メートル以上の高々度から見下ろせば人間など豆粒にも等しいだろうに、よく個人を見分けられるものだ。
なんなら、奴の目玉をくり貫いて望遠鏡の素材にでも使ってやれば、さぞかし優れた性能を発揮するだろう……。
詮無い思考が次々に浮かんでは消えていく。
緊張の糸が緩んだ証だろうか、これではいけないと集中を再開しかけたイーリスの喉奥から、不意に胃液が込み上がった。極限まで張り詰めた緊張が一挙に解かれた反動だった。
「……ぅ、がふ、ゲホッ!?」
堪らずイーリスは咳き込んだ。詠唱術で酷使した喉が生暖かい液体の感触に刺激され、灼けるような痛みを引き起こす。
「くそ、……うぇっ」
イーリスは口腔を蹂躙する苦い酸味を地面に吐き捨てると、急いで腰部雑嚢から水筒を引き抜き、顔を顰めながら口を付けた。
すると、よく冷えた液体が唇を通って流れ込み、ほのかな甘みが口腔を満たす。この味は抗炎症と解熱鎮痛の作用を持つ薬草から抽出した成分が由来だ。
もっとも、今はそれをゆっくり味わっている暇はない。
一息のうちに嚥下すれば、喉を滑り落ちる清涼感がこびり付いていた不快感をこそぎ落とし、熱感を伴う痛みを癒していくのが感じられた。
詠唱術士にとって、喉は最大の武器であると共に生命線である。
故にこういった薬液類は、少しでも継戦能力を引き上げるための立派な装備であり、中央軍の空素術士部隊では、冗談でもなんでもなく薬用喉飴が正式装備として採用されているほどだ。
「……ふぅっ」
治療と呼ぶには簡素に過ぎる行為を手短に終わらせ、イーリスは改めて意志と体勢を構える。見上げる視線の先、暴威の体現者たる“恐嶽砲竜”は何故か追撃を加えてくる様子もなく、まるで茫然自失の如くに動きを止めていた。
それを千載一遇の好機と捉えるには容易いが、イーリスはあえて攻撃を見送った。ハンドサインを以て示す部下たちへの指令は「待機」。
イーリスは“恐嶽砲竜”が動かない理由を知っていた。
(ありゃあ、放熱状態だな)
つまり“恐嶽砲竜”は、一斉射撃によって体内に籠った莫大な熱気を、外へと排出している最中なのだ。よくよく目を凝らせば、無防備に解放された黒鋼の装甲版の各部から、陽炎が立ち上っている様子が見て取れる。
(殴ろうと思えば殴れるが、無駄だな。装甲の隙間をチマチマ撃ったところで、致命傷には程遠い。余計に怒らせるだけだ)
そうなれば今度こそ「最大威力」の殲滅攻撃が飛んでくるだろう。ならば今はそれを誘発すべき時ではない。無意味にリスクを冒すのは愚行である。
故にイーリスは静観の構えを取り、この隙にと体力の回復を図ったのだ。
また「禍を転じて福と為す」とはよく言ったもので、意図したかたちとは異なるにしろ、この暇が取り敢えずの時間稼ぎになるのも確かだ。
(……明らかに舐められてるってのは、イラつくがな)
敵対意志を示したこちらに対し、悠々と無防備を晒す“恐嶽砲竜”の態度は腹立たしいものの、相手にはそれが許されるだけの圧倒的な戦力差があることも事実。イーリスは苛立ちを舌打ちひとつで捨て去り、思考を切り替える。
ともかく、これである程度の時間的猶予はできた。ならば、この間に部隊員の状態確認を済ませておくのがよいだろう。
「――野郎ども、無事かッ!?」
「「「まったくもって、問題ありませんぜッ!!」」」
背後へ飛ばした問いには、二十二人分の意気の満ちた言葉が一斉に返った。
実際に振り返って確認する限りでも、損耗の様子は見受けられない。衝撃の余波で多少ふらついている者は多いが、少なくとも両の足で立つだけの気力は健在だ。
なにより、死を垣間見ていながら恐慌状態に陥るわけでも、浮足立って勝手な射撃や逃亡を起こさないのはまったく素晴らしい統率である。
(やれやれ。どいつもこいつも頑丈な連中だ、アタシみたいにバリアーを張ってるわけでもねぇってのに……)
呆れ半分、賞賛半分でイーリスは思った。
……余談ではあるが、他の隊員たちと比べて軽装なうえに頭部装甲さえ身に付けていないイーリスの防御力は、彼女自身が展開する≪エレクトリ・シュッツ≫という継続発動式の空素術によって賄われている。
効力は読んで字の如く、電磁的斥力を利用した不可視の防壁だ。
有効範囲はイーリスの肌上三センチ程度までに限られるが、一度発動すれば意識的に中断しない限りわずかなエーテル消費だけで数時間は効果が持続し、至近距離で手榴弾が爆発した程度ならば十分に防ぎ切れるほどの性能を誇っている。
鍛えてはいるとはいえ、体格の問題から戦闘鎧のフル装備を負担とするイーリスが、必要に迫られて身に付けた技術のひとつであった。
閑話休題。
ともかく、磨き上げた雷撃術のおかげで、どうにか部下を守り切ることができた。イーリスは一旦の安堵を得、しかし直後にそれを打ち消した。
まだ行程の一歩目を踏み出したばかりだ。油断をしていい状況ではない。
綱を渡り切るには、これから数多くの試練を乗り越えなければならないのだ。
(あと二、三度なら……、そっくり同じことはできそうだが、な)
無論、必要とあれば何度だって“恐嶽砲竜”の一斉射撃を防ぎ、部下たちを守る覚悟はある。しかし、永遠にというわけにはいかないだろう。
イーリスが攻撃を凌げた理由は、偏にこれまで蓄積された記録の賜物だ。
軍のデータベースには、今まで出現が報告された〈骸機獣〉についての情報が余すことなく蓄えられており、現場に出る者としては――優先順位が高いものを選んで――それらをなるべく頭に叩き込んでおくことは必須だ。
翻って“恐嶽砲竜”はその脅威度の高さ故に、記録も最大限綿密に残されていた。参照される情報としては、攻撃の予兆動作や内臓武装の詳細、各部位の強度測定値、行動基準や思考パターンの予測など多岐に渡る。
だからこそ、奴の全身から砲塔がせり出してきた時、イーリスは即座に対応することができたのだ。今回も先人たちの血と汗の結晶に助けられたと言っても過言ではないだろう。
そしてさらに、イーリスが頼みとする「策」もまた――
「奴が……アレを使った時が、勝負時だな……」
――まさに「蓄積された記録」から導き出されたものなのだ。
「伸るか反るか。上手く行きゃあ全員生還の目もある。しくじれば全員揃って消し炭だ。我ながら馬鹿げた作戦だが……これ以外に、有効な手立てはねぇ」
イーリスの目が細まる。
その鋭い錐のような視線は、さきほどから“恐嶽砲竜”に突き刺さったままだ。
彼女は標的の一挙手一投足でさえも見逃すまいと、額を伝う汗を拭う間も惜しんで、じっくりとその瞬間を待ち続ける。
“恐嶽砲竜”が、その大顎を開く瞬間を。
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一方、地表から迸った眩い雷華が絶望を穿ち砕く様を、やや離れた地点から目撃していた者がいた。〈骸機獣〉の群れを引き付けながら今もなお戦い続ける、リーンハルト・シュレーダーである。
「イーリスたちは、無事か」
彼の頭上を漂う濃灰色の煙霧は、雷と鋼の激突相殺によって生じた残滓だ。
もはや人を殺傷せしめるには至らないその微細な破片が、やがて重力に引かれて一帯へと小雨のように降り注ぐ。
ぱらぱらと頭髪や肩を叩く感触に、〈骸機獣〉を打ち倒しつつリーンハルトは思う。自分の心配は、どうやら無用の長物だったらしい、と。
――さきほど“恐嶽砲竜”の様子に攻撃の予兆を感じ取ったリーンハルトは、当初の作戦を放棄して、イーリスたちを救いに駆け出そうとしていた。
それは論理的な判断というより、反射的に沸き上がった衝動だった。脳裡を過ったのは焼け落ちた“フェーデル市”の光景。かつて味わった悲劇、取り返しのつかない喪失を、今度こそは防がなければならない……。
そんな、恐怖にも似た感情がリーンハルトの身体を突き動かす寸前、しかしひとつの声が届いたのだ。
『――大丈夫だ。アタシを信じろ、リーンハルト』
イーリスの声だった。
それは彼女が発動詞の詠唱を開始する寸前、リーンハルトへと≪遠隔会話≫にて送り届けた短いメッセージである。
焦燥と恐怖に揺らぎながらも決然と響いたその声を受け、リーンハルトは己の衝動を捻じ伏せた。そうして、地を蹴りかけていた両脚を収めた代わりに、すぐ傍まで接近していた〈骸機獣〉へと拳を叩き込んだ――
(そう、今のように)
頭蓋を砕かれ倒れていく〈骸機獣〉を見下ろしながら、改めてリーンハルトは思う。自分が今向き合うべき仕事はこちらなのだと。それを失念し衝動に身を任せようとした自分を、イーリスが止めてくれた。
(……なにもかも、お見通しか)
恥じ入るよりも先、深い感謝が胸を満たすのをリーンハルトは感じた。
彼女自身も酷い重圧に襲われているだろうに、イーリスはこちらがどう動くかを常に気にかけていたのだ。
ましてや、真正面から“恐嶽砲竜”の脅威に晒されている状況で……。
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思えば、今までもそうだった。
なにかにつけて暴走しがちな自分の傍で、彼女は常に周囲の状況に気を配り、目を光らせてくれている。また、お世辞にも人付き合いが上手くない自分に代わり、他部隊との折衝や連携に関しても基本的に前に出るのは彼女だ。
――俺は、不出来だ。
適性を鑑みるならば、自分は軍人として間違いなく落第だろう。
いや、多くの者が言うように「不適格者」と評しても過言ではない。
すべてを奪われたあの日以来、自分は荒れ狂う抜身の刃も同然だ。一旦憎悪に火が付けば堪えることさえ難しく、仇敵を前にすれば殆ど抑制が効かないのだから。
そんな「手遅れ」な男が、投げ打たせてしまったのだ。イーリス・アーベラインという、幸多からんことを望まれたはずの少女の人生を。
――しかし俺は、彼女の献身に応えなかった。応えようともしなかったんだ。
生き甲斐という色彩を失った世界では、他者の風貌さえ碌に認識できなかった。
意味合いだけが虚ろに響く言葉と、周囲の大雑把な変化だけを捉えて生きていたかつての自分にとっては、共に長い時間を過ごしてきた幼馴染でさえもが薄ぼんやりとした幻影のように感じられていたのだ。
だから、泥に塗れ、反吐を吐き、苦痛も屈辱も必死に堪え続ける彼女の姿は、曇りガラスを通したように現実感の伴わないもので。
何故、彼女がそんな所にいるのか。何故、彼女がそんなことをしているのか。
視覚から得た情報を、半ば停止した思考は処理できずに素通りさせた。目の前でイーリスが泣いているのに、それが現実であると思えなかったのだ。
――言い訳としては、間違いなく最悪の部類だろうがな。
そんな状態の自分に唯一、生の実感を与えてくれたのは、皮肉にも憎しみの対象であるはずの〈骸機獣〉だけだった。
その異形を砕き、引き裂き、叩き殺す瞬間にだけ現実感が戻ってきた。
生温い奴らの機械油を全身に浴び、屑鉄と化した屍体を踏み躙る時、初めて「生きている」と思えたくらいだ。
……今では、そんな行動がどれだけ愚かだったか身に染みて理解している。理解した上で、自分の本質はもう元には戻れない。そのためにどれだけの代償を支払おうとも、〈骸機獣〉を殺さずにはいられないのだ。
身近なところで例を上げれば、細かい作業ができなくなった。
度重なる疲労骨折で歪んだ指先は、もう針に糸を通すことさえできない。衣類を繕おうとしても、力加減が分からずに引き裂いてしまう。故に、父親の跡を継ぐという幼い夢は、遠い彼方に焼け落ちた光景となった。
それ自体は、もう良い。とっくに諦め、受け入れた。
所詮、修羅として堕ちた男になにかを作り出せるはずもない。誰かに「その人だけの価値」を与えるなどと、人間らしい暖かな仕事ができるわけはないのだ。
過去は、なにも、なにひとつとして帰ってはこないのだ。
――なのに、地獄は今もそこにある。
起きていても眠っていても、網膜に焼き付いた惨劇が常に視界をチラつく。
苦痛に満ちた人々の断末魔が耳奥にこびり付き、不意に鉄錆臭さが鼻腔に蟠る。
発作的に襲うフラッシュバックには昼も夜もなく、食事の最中でさえ時折、足元に千切れ焦げた誰かの腕や足が転がっている幻覚を見る。
忘れようとはした、……のかもしれない。今となっては朧気だ。気が付いた時には〈骸機獣〉への殺意が心中を埋め尽くしていた。
そしてなにより、父と母の無惨な最期を、赦せる気がしない。
すべてをなかったことにはできないのなら、地獄を抱えながら歩むしかない。暖かな思い出に片端からドス黒い血を塗り付け、破り捨てながらでも、底知れぬ奈落に堕ちていくだけだ。復讐を、応報を、この身が動く限りは続けるしかない。
そうだ、独りで良かった。
ただ独りで戦い続け、怨嗟に狂った果てに死ねば良かったのだ。
可能な限りの〈骸機獣〉を道連れに、この身が擦り切れるまで戦い続け、何処とも知れぬ場所に骨を埋めるのがお似合いだったはずだ。
……だというのに、
――結局、俺はイーリスを、地獄の道連れへと引き摺り込んでしまった。
この期に及んで、自分は、イーリスを喪いたくなかった。
たったひとつ残った人間性の縁を手放したくない。なにもかも焼失した想い出の残り香に傍にいて欲しい。そんな執着が振り払えなかった。
自分は正真正銘、心の底から、彼女の存在を「救い」であり「幸福」だと実感している。おそらく、否、間違いなく。彼女が喪われたと同時に「タガ」が外れ、自分は本当に壊れるだろうと、自覚があるくらいには。
(彼女が一番辛かった時、手を差し伸べなかった癖に、だ)
度し難い愚劣さだ。自分本位も甚だしい。
彼女の両親にどれだけ恨まれているかも、知らないわけはないだろうに。大切な一人娘を地獄の道連れへ引き摺り込み、何度も死ぬような目に遭わせている男だ。殺されないだけマシというもの、彼女の両親は十分に堪えてくれている。
さきほどだって、彼女が「幸せに生きろ」と言った時、本来ならば「俺のことなど忘れろ」と言うべきだったのだ。しかし自分は、彼女の優しさに甘えた。あまつさえ、差し出されたその手を握り返してしまった。
後悔は尽きない。自己嫌悪には限りがない。そもそも、騎士などという肩書を受けることさえ烏滸がましいのだ。
舵の壊れた狂人如きが、なにを人並みに戻ったつもりなのか。
彼女だけでない。自分に付き従い信頼してくれる“シュレーダー隊”の皆に対しても、自分如きがなにをしてやれるというのか。
(俺は、戦うことしかできない。憎しみを〈骸機獣〉どもに叩きつけ、奴らにとっての地獄を生み出すことしかできない。ただひたすらに壊し、殺すだけだ。なにかを癒し、与え、育むことなど……)
この身はまさしく、呪いの塊だ。自ら生み出した憎悪を喰らい、さらに濃く濁った憎悪を噴き出す殺戮機械と成り果てた。
ならばなんのことはない、もはや〈骸機獣〉のそれと変わりないではないか。
刻み込まれた殺戮衝動に従い、眼前の敵を滅ぼさんとするだけの有様など、奴らと同じ全身凶器の化け物も同然であろう。
ならばせめて、兵士としての役割くらいは全うしなければ、もはや自分には生きている価値がない。
(〈骸機獣〉から、人々を救う……)
その思いが復讐なのか、善意なのか。本心なのか、憎悪を振り撒く建前なのか。実際のところ、それすら分からない。
ただ、誰かの生活や幸福が、あの異形どもに奪われるのだけは赦せなかった。
友人や家族と交わし合う笑顔が、暖かな日々の営みが、血臭に塗れて凌辱される光景を想像するだけで腸が煮え立ち螺子狂いそうになる。
だからこそ、あの悲劇を防げるのなら、なんだってしようと思えた。
なればこそ、地獄へ引き摺り込んだイーリスと部下たちに対して責任を果たすためには、この身に与えられた役目を完遂するのは決定事項だ。
イーリスと部下たちは成果を出している。この戦場における己が役目を理解し、立派に勤め上げている。向き合うことさえ恐ろしいだろう“恐嶽砲竜”を相手取り、必死の状況で堪え続けているのだ。
(なのに、俺が役目を果たさなくてどうする)
向けられた信頼にさえ応えられないようでは、人の形をしているだけの泥人形も同じだ。そして、皆への信頼を想うならば、この場に留まらなければならない。無尽蔵に湧き出し続ける〈骸機獣〉を、まだしばらくは引き付けておく必要がある。
少なくとも、イーリスの策が完成するまでは……。
と、そんな思考がリーンハルトの脳裏を瞬く間に流れていった時、彼を取り囲んでいた〈骸機獣〉群の動きに劇的な変化が生じた。
それまでリーンハルトへと一心不乱に襲い掛かっていた異形たちが、突然踵を返し、一斉に南側へと狂騒的逃走を開始したのである。
間近な獲物であるはずのリーンハルトを避け、見向きもせずにだ。
(……これは)
足音による怒涛の多重奏に包まれながら、リーンハルトはこの変化について思考し、即座に解答に至る。
(“恐嶽砲竜”の攻撃が原因、か)
つまり、あの圧倒的な暴威を目の当たりにした〈骸機獣〉どもは、巻き添えを喰うことを恐れてこの場から逃げ出そうとしているのだ。
状況理解が済んだならば、取るべき行動は決まっている。
「させるか……ッ!!」
リーンハルトは今度こそ足音高く、力の限りに地を蹴った。
走り去る〈骸機獣〉群を一挙に飛び越え、その進行方向へと着地。
そうして振り返り見れば、地響きを立て土埃を巻き上げながら接近する軍勢は、津波の如き様相を呈するが――
「それが、どうした」
――リーンハルトに恐れはない。
如何に総数が多かろうとも、個々は打てば砕ける有象無象の集合体だ。
≪クリンゲ・ウンティーア≫の効力はいまだ有効に働いている。
エーテルの過供給によって引き起こされる灼痛にはとっくに慣れていた。
戦闘続行になんら支障はない。
もっとも、真正面からの迎撃は愚策だ。首都へ向けてひたすら驀進する異形の軍勢は、もはやリーンハルト個人に係ることはないだろう。今の奴らにとっては「走り続けること」そのものが、勝利条件に直結するのだから。
〈骸機獣〉が周囲のエーテルを汚染し、瘴気へと変質させることは周知の事実だ。また、その瘴気を取り込むことで活力を増強させることと、もうひとつ。
〈骸機獣〉は、瘴気の満ちる所に発生する。
それこそが〈骸機獣〉の最も厭らしい性質だ。
一定数以上の〈骸機獣〉が群れ集えば、倍々ゲーム的にその数は増していく。
発生、即、撃滅。各国共通で徹底される不文律は、〈骸機獣〉の爆発的発生を――〈災厄の禍年〉の再来を――抑止するためでもあるのだ。
そして今、異形の軍勢は「走る〈骸機獣〉生産工場」と化しつつある。
その生産能力は目視にてざっと計算するだけでも、全体が数メートル進む頃には十数体近い〈骸機獣〉が発生するほどの脅威的ペースであることが窺えた。
ならば仮にこの半数を取りこぼした場合、首都到達の直前にまで至れば、軍勢の規模は現状の百倍近くにまで膨れ上がっている可能性が高い。
故に、リーンハルトは決意する。
(奴らを、一匹たりとも通すわけにはいかない)
南側にいる“シュレーダー隊”の役割は、あくまでも“恐嶽砲竜”の足止めだ。この〈骸機獣〉群の接近を知れば対処を行うだろうが、向こうの負担が増すことは避けられない。そうなれば最悪、処理限界を飽和し総崩れとなり、末路は全滅だ。
(――そんなことを、させるものか……ッ!!)
決意を五体に漲らせ、リーンハルトは動く。無論、面の勢力に点の力を加えたところで全体の阻止は不可能だ。ならば、どうするか。
(単純だ、面で防げば良い……!)
リーンハルトが両の腕に溢れんばかりの力を込める。彼が纏う戦闘鎧の下、極限まで鍛え上げられた胸部から指先までの筋肉が、紋章術の文様に覆われていてなお目立つほどに隆起する。エーテル光の輝きはますます強まり、術の効力が最高潮まで高められたことを示した。
そして、頭上に坐す太陽にもまして眩い両腕を、リーンハルトは――
「――おぉッ!!」
――雄々しい気勢と共に、目の前の大地へと突き刺した!
「ぉ、ぉおおおおお……ッ!!」
リーンハルトが、……吠える!!
「ぉ、おおおおおおおおあああああああ――ッ!!!!」
心魂を振り絞るような凄まじい絶叫に続いたのは、微かな断裂音だった。
大地へ深く埋もれたリーンハルトの両拳が徐々に持ち上がり、その二ヵ所を起点とした罅割れは加速度的に広がっていく。
やがて、引っ掛かるような一瞬の静止を経て、大地は捲れ上がった!!
生じた断裂は左右正面大規模へと至り、すでに瘴気によって荒れ果てていた草原は、ますますもって激しく崩壊する。荒々しく砕けた大地は凹凸も激しく、足を一歩踏み出すにも難儀する有様と成り果てた。
「「「――……ッ!!??」」」
そんな場所に勢い任せに突っ込んだ〈骸機獣〉たちが転倒を免れないのは、至極当然の成り行きであった。
なまじ勢いが付いていたせいで方向転換も間に合わず、まず先頭を走る一団が大地の亀裂に足を取られた。
これに驚いたのは後続である。先を行く同胞たちが、突然行く手を阻む「障害物」と化したのだから無理もない。
が、いまさら走り出した勢いは止められなかった。
その後に巻き起こったのは、盛大な玉突き事故だ。
〈骸機獣〉たちは全速力で「障害物」に正面衝突し、己の速度と重量の反動で身を砕かれていく。後から押し寄せる後続集団も同じ運命を辿った。
咄嗟に脇に逸れて被害から逃れようとした個体も、背後から突っ込んでくる同胞と「障害物」の間に挟み込まれ、そのまま金属質の悲鳴と共に圧し潰された。
この激突破壊の合奏はおおよそ数十秒近く続き、やがて不意に止んだ。
静寂に満ちた大地の上、リーンハルトの眼前に〈骸機獣〉の残骸が、まるで聳え立つ城壁のように積み上がっている。
大量の〈骸機獣〉が砕けて混ざり合うことで形成された「巨大堤防」だ。
こうなっては先に進むこともできず、生き残りは右往左往とするばかりで――
「ここが、終着点だ」
――その間に、リーンハルトは粉砕混合された〈骸機獣〉の残骸を駆け上がり、頂上へ辿り着いていた。
「貴様らに、行く場所はない」
いまだ往生際も悪くかすかに蠢く残骸どもを足蹴にしながら、彼は地獄を宿した視線で獲物を睥睨すると、そこから一息に飛び降りる。そうして地表を目指す最中、残虐な笑みに歪んだ口元から、何度目かの死刑宣告を行った。
「還るべきは、地獄だ。二度と這い上がれないほどに深く、昏い、奈落の底だ。貴様らの居場所はそこにしかないと、……その身に刻み込んで教えてやるぞッ!! 〈骸機獣〉どもッ!!」
叫びが迸り終えた時、すでにリーンハルトの拳は十体近い異形を屑鉄へと変えていた。昂る心は身体を抑え付けられず、しかし躊躇する意味もない。思いのままに力を振るい、叩きつける激情を以て、人に仇為す異形を叩いて砕く。
「俺は……、」
そう、地獄の中から生まれ出で、鍛え上げられた〈烈刃〉とは――
「俺は、貴様らの名前の意味が、貴様ら自身に向いたものであるようにしてやるッ!! 怯え、震え、嘆き、泣き叫びながら死んでいく定めだけを与えてやるぞ、〈骸機獣〉ゥウウウウウッ!!」
――不退転にして不可逆の、血濡れた刃が一振りなのだから。
リーンハルトは荒れ狂う激情に心を委ねながら、しかし一方で仲間たちに想いを馳せていた。〈骸機獣〉の残骸壁を隔ててもなお目立つ“恐嶽砲竜”の威容と、その足元で不断の努力を続けているだろう“シュレーダー隊”へと。
(……頼むぞ)
異形たちに対するそれとは性質を根底から違える穏やかな祈りを、リーンハルトは彼の信頼する部下たちへと向けた。
それこそが彼に残された最後の人間性、胸の内に守られた小さな灯だ。
リーンハルト・シュレーダーという男は、その灯を守るためならば、どのようなことでもやるつもりだった。
(死なせない。イーリスも、俺の部下たちも、誰ひとりとして)
そのために、戦い続ける。
そのために、この戦場を生き延びる。
そのために、〈骸機獣〉を一体残らず叩き潰す。
死んでしまえば後悔も未練も無為と化す。そんな残酷を抱いて逝くのは自分だけで良い。イーリスの「策」をいまさら信用しないわけではないが、もしも万が一に最悪の形で失敗が生じたならば、
(その時は、俺が盾となろう)
リーンハルトは覚悟している。己の大切なものを、人間性の縁を、掛け替えのない暖かさの全てを守り抜くことを。血に塗れ、生き方を歪め、その果てに例え自分自身が砕け散ろうとも。
「今度こそ、俺は、護る……ッ!!」
その決意を完遂するまで、〈烈刃〉は折れない。
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