シーン16:「かつて」を「これから」に繋げるために
-§-
剛拳が奔り、撃が生じる。
猛脚が唸り、破が生じる。
咆哮が轟き、断が生じる。
地上。戦場と化した草原は、本来の緑豊かな色彩をとっくに喪失していた。
生育していた草花は、渦巻く瘴気に蝕まれて根ごと枯れ落ち、露わになった地表そのものも、あたり一面に撒き散らされた骸と油によって穢し尽くされている。
比して上空。穢れた鈍と黒の二色が支配する殺伐極まった風景を見下ろして、空ばかりが我関せずとばかり、やけに清く蒼く透き通っていた。
徐々に西側へ傾きつつある陽光だけは、相も変わらぬ暖かさで下界を平等に照らし続けているが、その恵みを欲する者は現状において存在しない。
今この場に在るのは、求められているのは、戦いだけだった。
「――ぉおおおおおあああああッ!!」
リーンハルトの雄叫びが、大気を圧して突き破る。
その光景を例えるならば、リーンハルトを「目」とした紫黒色の渦巻きだ。
十重二十重の包囲陣形を用いて波状攻撃を繰り返し、刹那の間隙もなくリーンハルトへ殺到する〈骸機獣〉の軍勢が、自然と大渦模様を形作っているのだ。
絶え間なく打ち鳴らされる破砕音は、渦の中心に近付けば近付くほど激しく大きくなり、そこで繰り広げられる攻防の苛烈さを物語っていた。
しかし、殺意に満ち満ちて雪崩れ込んでいく爪と牙の集合体は、いまだに標的の肌を掠ることすらできていない。
「どうした、幾らでもかかってこい……ッ!!」
〈烈刃〉が眩いエーテル光の軌跡を曳いて振るわれる度、紙切れでも吹き払うかの如く、次々に〈骸機獣〉が消し飛ばされていく。
手、足、首、胴体。そのいずれか――あるいはすべてを――喪失し単なる鉄屑と化した異形どもは、破損部から黒濁した機械油を勢い良く噴き出しつつ、十把一絡げに地面へ叩き付けられて砕け散った。
それらの戦果にリーンハルトはいちいち頓着しない。
敵の姿が視界に入り次第に突っ込んで、そのまま手当たり次第に暴れ回るという流れを、彼はただただ愚直に延々と繰り返し続ける。
リーンハルトは〈骸機獣〉の軍勢を完全に圧倒していた。
「有象無象どもが数を頼めば、俺を圧し潰せるとでも思ったか……ッ!!」
まさに一騎当千の様相。
長身痩躯の荒ぶる修羅は、絶望的な数の差などものともせず、誰の目にも明らかな一方的優位を保ち続けている。貪欲に獲物を求めて躍動するその五体は、激流めいた勢いと速度を伴い、何人たりとも阻むことは敵わない。
攻めるものと抗うもの、構図の上では多勢に無勢を示すそれが、現実にはまったく真逆の立場を作り上げている。
そう。この戦闘においては、孤軍無手であるはずのリーンハルト・シュレーダーこそが狩人なのであり、多種多様な凶器と物量を備えているはずの〈骸機獣〉は非捕食者へと成り果てていた。
「――まだまだァッ!!」
喉奥から絶叫を迸らせ、リーンハルトは力を行使していく。
その動きは疲労の様子を見せるどころか、時間経過と共にいっそう研ぎ澄まされ、苛烈さを増していくようですらあった。
≪紋章術:クリンゲ・ウンティーア≫が放つエーテル光は、陽光の下でなお鮮烈な存在感を示すように力強く輝き、術者の身体機能を強化し続ける。
極限まで鍛え上げられた肉体と、憎悪と憤怒によって立つ意志。そこにエーテルが齎す超常の威力を合わせた彼の戦闘能力は、もはや並大抵の〈骸機獣〉では、どれだけ数を積もうと太刀打ちできない領域まで高まっていたのだ。
……やがて、リーンハルトの排除を諦める〈骸機獣〉がちらほらと現れ始める。
あらゆる生命体に対して害意を抱く異形たちも、流石にここまで戦力の差を見せつけられては、対象を「排除不能な障害」と認識するのが自然であった。
であるならば、その矛先は自然と「簡単に喰えそうな獲物」へと変わる。
元より〈骸機獣〉たちの軍勢は、人の営みを破壊し踏み躙るために生まれてきたのだから、その目的の達成こそ行動原理として最優先に当たるものだ。
――そうとも、こんな出鱈目な男を相手に、時間を浪費する意味はない。
そんな判断から、まず十数体ほどの小型〈骸機獣〉が戦列を離脱した。
屠られていく同胞たちを尻目に、情も情けも持たない異形たちが改めて目指すのは南側、首都“ゲルプ”がある方角だ。
――南へ行けば、喰い切れないほど大勢の人間がいるはずだ。
この戦闘が開始された直後。〈骸機獣〉たちは、南へ向かって一目散に逃げ去っていく人間たちの姿を、遠目に確認していたのだ。
ならば必ず、そちらの方角に人間の拠点があるに違いない。計算というよりは本能に近い思考として、異形の群れは確信する。
そうして、人間の生き血を己が凶器に吸わせる情景を思い浮かべながら、瘴気を振り撒きつつ駆け出した〈骸機獣〉たちの目論見は――
「――撃てェ!!」
――直後に真横から浴びせ掛けられた激しい銃火によって、その呪われた意思と身体共々、微塵に粉砕されることになった。
-§-
ほんの数歩先を走っていた同胞が、横殴りに吹き飛ぶ様を、その“三眼狼”は三つの眼ではっきりと目撃した。突如、空を裂いて飛来した数多の弾雨が同胞の身を穿ち、一瞬にして襤褸切れ同然へと変えたのだ。
「……ッ!?」
“三眼狼”の大きく裂けた口から、疑問と憤りの込もった唸り声が漏れた。
いったい、なにが起きたのか。疑問の氷解は即座だった。
それまで同胞の身体に隠れて見えなかった方向に、こちらへ向けて機銃槍を構える鎧姿の騎士たちが、ずらりと立ち並んでいた。
「――ッ!!」
“三眼狼”はいまさらながらに思い出した。
あの凄まじい戦闘能力を持つ男に気を取られ、今の今まで失念していたが、そもそも敵の数は一体だけではなかった。二十二騎の鎧姿と、小柄な空素術士の女が、奴の背後には控えていたのだ。
そして気が付けば、横を走っていたはずの同胞たちが消えていた。
咄嗟に背後へ視線を振れば、同胞たちは皆が屑鉄同然の姿と化し、機械油を垂れ流しながら地面に横たわっているではないか。
“三眼狼”は慌てて踵を返し、自分だけでも助かろうと逃亡を図るが、その目論見は完全に手遅れだった。
「――次弾、撃てェッ!!」
その声が鋭く響いたのとほぼ同時、銃声が圧を伴う多重奏となって轟くのを“三眼狼”は聞いた。間もなく自身が凄まじい衝撃を受け、砕かれながら宙へと弾き飛ばされたのを、異形の狼は己の身体が砕かれる感覚と共に知る。
末期の視界に映り込んだ透き通った青空に、なんの感慨も抱くこともないまま、“三眼狼”の感覚は永遠に消失した。
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「――首都方面へ向かう〈骸機獣〉群の全個体撃破を確認!」
隊員からの報告を聞き、イーリスは笑みと共に頷いた。
「よぉし、良くやった! このまま引き続き現在の陣形を保持しつつ、離脱しようとする〈骸機獣〉を攻撃だ。一匹たりとも逃すんじゃねぇぞ、野郎ども!」
「「「了解ッ!!」」」
整然と唱和した応答にイーリスの笑みが濃くなる。
士気は上々、足並みに乱れもなし。流石は荒くれ揃いながらも、生え抜きの精鋭〈巡回騎士隊〉の隊員たちだ。こちらの指示を正確に実行し、必ずやり遂げるだけの意志も技量も十二分に備えている。
(……良い部下たちだよ、本当に。勿体ねぇのはアタシにとっても、だな)
心底からの敬意とほんの少しの自虐を込め、イーリスは陣形を確認する。
開戦時にはオープスト村の東側に陣取っていた“シュレーダー隊”は現在、陣形自体はそのままに、布陣をやや南側へとスライドさせていた。
リーンハルトが〈骸機獣〉の大軍を引き付けている間に移動したのだ。
「――報告ッ!! 第二陣が南下を開始ッ!!」
と、その時送られてきた報告が、イーリスの鼓膜を震わせた。見れば、再び十数体ほどの〈骸機獣〉群が動き出している。
「懲りねぇ連中だ、だが――」
イーリスは舌打ちを漏らし、しかし唇を笑みに歪めた。
「――それがこっちの狙い通りだ。総員、射撃開始ッ!!」
イーリスの指令を受け、“シュレーダー隊”は一糸乱れぬ一斉射撃を開始。豪雨のような凄まじい音響を轟かせながら、数百発近い弾丸が一挙に放たれ、草原の上を横切ろうとした〈骸機獣〉へと必殺の威力を以て叩き込まれる。
当然ながら、結果はさきほどとまったく同じ、対象の全滅であった。
「第二陣、全個体撃破を確認!」
撃破報告を受け取った隊員たちは、己の成果を声高に誇示するようなことはせず、ただ黙々と機銃槍への給弾を行い始めた。
この程度はそれこそ鴨を撃つよりも容易い。彼らの技量からしてみれば、成功して当たり前の行為である。いちいち喜んでなどいられないのだ。
なにより一番の努力を強いられているのは誰であろう、大勢を相手取るリーンハルトなのだから、それを忘れて暢気に構えているわけにはいかない。
「副長。連中、上手くハマってくれてますね」
そんななかで、隊員のひとりがイーリスへと声を掛けた。
横切る獲物を取り逃がさぬよう、視線は正面に固定したまま声だけを寄越す格好だが、それを無礼と咎めるような狭量さはイーリスにない。
イーリスは頷き、返答する。
「ああ、今のところはだがな。このまま状況が動かなきゃあ、少なくとも弾切れまでは奴らを足止めできるだろうな」
イーリス自身、そんな展開を欠片も信じていないような声色で告げると、話し相手の隊員もまた苦笑した。
「希望的観測っすね、そりゃあ。いっそ、飽きて帰っちゃくれませんかね?」
「ンな脳味噌が入ってるような連中じゃねぇだろうよ」
「ははは、まったくもって、仰る通りで……」
無駄話はそこで打ち切られることになる。三度の南下行進が発生し、隊員たちがその対処に当たったためだ。射撃が開始され、状況を確認しようと目を凝らしたイーリスの耳朶へ、不意に一つの声が届く。
『――イーリス、そちらはどうなっている?』
声の主はこの場に居ないはずのリーンハルトであった。
遠く離れた地点で戦う彼が、何故イーリスへと言葉を届けられるのか。
その理由に特段の不思議はなく、これは空素術の一種である≪遠隔会話≫と呼ばれるもので、肉声の届かない遠距離との意思疎通を可能とする技術だ。
原理そのものは至極単純。言うなれば、大気中のエーテルを「糸」代わりにした糸電話に近い。空素術士として最低限の適性と、ある程度の訓練さえあればおおよそ誰にでも扱える普遍的な技術であり、各国の軍隊はもちろんとして日常的な連絡伝達においても広く利用されているほどだ。
また、騎士として鍛錬を積んだ者にとっては呼吸と等しく行えて当然の技術でもあり、空素術士が広範に向けて詠唱術を行使する場合も、この≪遠隔会話≫の応用は必然的かつ無意識に行われている。
因みに補助具として送受信機の役割を果たす魔導具も存在し、“シュレーダー隊”は全員がそれを喉元と耳朶に装備していた。
『――こちらは目下、……片端から〈骸機獣〉どもを……ッ! 撃破している……ッ! そちら、……にッ! 異常は、ないか?』
戦闘の激しさを物語るように、リーンハルトの声は荒く、途切れがちだ。
そのうえ、彼の周囲に渦巻く瘴気が≪遠隔会話≫を阻害しているのか、補助具を挟んでも多少のノイズが入り込んでくる。
イーリスはその問題を意識し、なるべくはっきりと発声した。
「こっちはなにも問題なし、予定通りだ」
『――そう、か。なにより、……だッ!!』
「……そっちこそどうなんだよ? 身体は保ちそうか?」
ふと、イーリスの言葉に心配の色が滲む。対し、リーンハルトの返答はいたって率直なもので、
『――問題ない。まだまだ、幾らでもやれる』
「そう、か」
そう言われてしまえば、これ以上食い下がることもできない。
事実、リーンハルトは問題などまったく感じていないのだろう。
イーリスは吐息し、通信終了間際にただ一言だけを、孤軍奮闘する幼馴染へ向けるメッセージとした。
「リーンハルト、……頑張れよ。頼んだぞ」
声援というにはあまりに簡素。そして、受け取った側が寄越した言葉は、
『――ああ、任せろ』
やはり簡素にして力強い断言だった。それを最後に、お互いの≪遠隔会話≫が途切れる。
「……ふぅ」
すでに三度目の射撃は終了していた。イーリスは思わず名残を惜しむように耳元へ指を伸ばしかけ、止める。代わりに一息分の嘆息を零し、感情の発散とした。
今回の作戦内容は、リーンハルトが敵の大勢を引き受け、隊員たちがそこから零れたものを撃破するというかなり単純な方針だ。
必然的にリーンハルトの負担は大きいものになるが、現状の戦力を鑑みたうえで戦線を維持するためには、これ以外の方法は考えられなかった。
敵勢力より遥かに少ない人数で、長時間にわたって敵の侵攻を抑え込まねばならない以上、味方が消耗する要素は限り排除しなければならないのだ。
(最初の突撃だけは、敵の出鼻を挫くために必要不可欠だったがな)
その後、準備が整ったリーンハルトが吶喊するまでの間〈骸機獣〉の侵攻を完璧に抑えてくれた部下たちには、感謝しなければならないだろう。
そしてこの布陣ならば攻撃対象が絞られ、隊員の消耗を体力と弾薬共に抑えられる。また後方から俯瞰することで、状況変化にも対応しやすいのは大きな利点だ。
(……もしも大勢がいっぺんに突っ込んできたり、大回りを狙ってバラけたなら、その時はアタシご自慢の雷撃術の出番だ)
イーリスの得意はもっぱら、威力と射速、なにより攻撃範囲に秀でる雷撃系の詠唱術だ。足を止めての撃ち合いでは軍全体でも上位の腕前がある彼女ならば、数十体程度の〈骸機獣〉は個人で対応可能である。
もっとも、やたらめったらと乱発していては喉が潰れかねない。敵が無尽蔵に湧き出してくる現状、歯痒くはあるが、長期的な視点で見て術の温存は必須だ。
(普段なら全員で一斉突撃しつつ、雷撃系の詠唱術を連発して、敵の早期撃滅を図るのがお決まりのパターンなんだがな……)
実際、これが一番手っ取り早い。
それに、部下たちに上手く追い込ませた敵集団を、雷撃の一発で粉砕するのは非常に楽しい。病みつきになる。こればかりは軍に入って良かったことのひとつだ。
なので、正直今も“共振杖”の引き金に掛けた指がムズムズとしているが、こればかりは我慢のしどころである。
(……好き嫌いで勝てるんなら苦労はねぇ。アタシたちは、あくまでもここを死守しなきゃならねぇのさ)
もし一匹でも〈骸機獣〉を逃がせば、その瞬間に作戦は失敗となる。
少なくとも、オープスト村の住民たちが首都に辿り着くまでの間、彼らの道程をしっかり守り切ってやらねばならない。
そうでなくとも〈骸機獣〉の大群による付近一帯への蹂躙を許せば、首都北部は麦一本生えない不毛の大地と化すだろう。
だからこそ、まずはここを絶対防衛線とするのが第一条件だ。
(そして、もうひとつ……)
勝利のための第二条件。乾坤一擲の大博打を成功させるために、イーリスには二十二人の騎士を、ひとりも欠かさず揃えておく必要があった。
(それが上手くいけば、犠牲を最小限に抑えられる)
故に、イーリスは様々なものを天秤にかけ、リーンハルトに重荷を負わせる判断を下した。すべては戦闘開始前に話し合ったことで、リーンハルトも含めて“シュレーダー隊”の全員が、イーリスの決定を受け入れている。
だからこそ、いまさらになって幼馴染への情を表に出すなど、二律背反も大概だとイーリスは自覚しているのだが、
(……アタシがリーンハルトを、地獄に叩き込んだ事実は変わらない)
彼方、濃密な瘴気で覆い隠された戦場がある。
見通し不可能なその内側で延々と鳴り続けるのは激しい戦闘音だ。
鉄と鉄が擦れ合い、捩じ切れ、砕き潰される破壊に満ちた音階。
ときおりそれらに混じって、身の毛もよだつような悍ましい悲鳴と、裂帛の気合として放たれる雄叫びが聞こえてくる。
リーンハルトが、あそこで、戦っているのだ。
〈骸機獣〉のドス黒い返り血で全身を濡らし、戦闘鎧を損耗させながら、凄絶な形相を顔面に貼り付けた修羅の如くに暴れ回っているのだろう。
イーリスはその光景を想像して、一瞬だけ表情を歪めた。哀切と後悔の入り混じった、酷く苦いものへと。
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――恐い。
イーリスはかつて、リーンハルトにそんな思いを抱いたことがある。
それはふたりが軍に入隊してから、だいたい数ヵ月が経った頃。あの破滅の日以来、初めて再び〈骸機獣〉と向き合った日のことだ。
イーリスは思い出す。
当時新米だったイーリスは、慣れない生活環境と軍隊式の荒っぽい歓迎に身も心も擦り減らしていた。女、それも学校を出たての従軍経験もない若造ということで上官からの扱きはひたすらに厳しく、初めのうちは泣いてばかりいた。
当然ながら、特別待遇などあるはずもない。
せっかく整えていた髪は反吐と泥に塗れて無惨な有様となり、子供の頃から綺麗に揃っていたことが自慢だった歯は入隊三日で欠ける羽目になった。
肌は荒れ、爪は割れ、汗と垢と泥と硝煙の匂いが頭の天辺から爪先まで余すところなく染み付いた。現実として降りかかるそれらに、容赦や手心は皆無だ。
戦闘訓練でめちゃくちゃに叩きのめされた全身が、夜になってから燃えるように痛み、一睡もできず一晩中呻いていたこともある。
胃液を吐き過ぎたせいで喉が腫れてしまったせいで、配給食をまったく呑み込めなくなり、酷い空腹に苛まれたこともある。
長時間の行軍時に、極度の疲労によって生じた不注意から装備品を失い、下着の替えもなく惨めな思いで耐え続けたこともある。
質の悪い上官に些細なことで絡まれ、下劣極まる卑猥な文句を間近に浴びせ掛けられた時は、恐怖と恥辱で気が変になりそうだった。
今なら分かるが、それは例えば「ひどい怪我をする前に依願退職させてやろう」というような、一種の親切心などではない。イーリス個人に対する、物珍しさとやっかみと侮蔑が合わさって始まった、弱い者虐めの類ですらない。
軍隊とは、単純に、そういうものなのだ。
逃げ出したいと思った経験は一度や二度では済まず、両親からも幾度となく帰宅を乞われた。「兵士なんて辞めなさい」という台詞は百回近く言われたはずだ。
ようやく許可された一時帰宅に際して、出迎え早々にこちらの変貌ぶりを見た母親が、玄関先で卒倒したのを今でも憶えている。
そうして実際、自室の鏡に映った姿はみすぼらしいにもほどがある有様で、その夜は久々に柔らかな毛布に包まれた途端に溢れ出した笑い泣きが止まらなかった。
それでもイーリスが踏み止まっていたのは、意地や根性といった類のものではなく、偏に変わり果ててしまった幼馴染のことが心配だったからだ。
あの頃のリーンハルトは笑いもしなければ泣きもせず、話し掛けても曖昧に返事をするだけで、視線は虚ろに宙を泳いでいるばかり。過酷な訓練にも苦悶の声ひとつ上げず、体力の限界を迎えては気絶し、目覚めると何事もなかったかのように動きだす様は生ける屍に等しいものだった。
そんなことをしているうち、イーリスは徐々に自分がなんのために苦しい思いをしているのか、分からなくなってきた。
もしかしたら目の前にいる男は、自分の幼馴染である「リーンハルト・シュレーダー」などではなく、まったくの別人なのではないか。
だって自分がこんなに苦しんでいるのに、この男は励ましの言葉すら掛けてくれない。本物のリーンハルトならば、手を差し伸べてくれるはずなのに。
そんな自己本位極まる思考が半ば本気になりかけた頃、運命の日がやってきた。エーテルをあえて不安定な状態に整調し、人工的に発生させたごく弱い〈骸機獣〉を相手に戦うという、実戦形式の訓練に挑むことになったのである。
軍属の空素術士が生み出したのは、鶏を二回りほど大きくしたような、一見すると玩具のようですらある〈骸機獣〉だった。
“三眼狼”などと比較すれば実に他愛のないそれも、当時のイーリスにとっては恐怖の対象に他ならない。禍々しい嘴と鉤爪、ほんのかすかではあるが確かに漂う瘴気を見て、胸中に不安が膨れ上がるのを感じた。
そんな不安をどうにか和らげようと、イーリスは傍らに佇むリーンハルトへ話し掛けようとして。彼の顔を見た瞬間、正真正銘、心の底から震えあがった。
視線を向けた先、リーンハルトは、笑っていたのだ。
唇を奇妙な形に捻じり上げ、血走った目を爛々と輝かせて。
剥き出しになった歯は食い縛るようで、その奥から漏れる呼気は不規則で。
リーンハルトが、狂ってしまった。イーリスはその時、本気でそう思った。
イーリスが二の句も継げぬまま立ち尽くしているうち、修羅へと変貌した彼は突然走り出した。そして異変に気付いた上官が止めるよりも早く、鶏型の〈骸機獣〉に駆け寄ると、素手でその首を捩じ切ったのだ。
ドス黒い血が噴き出して、辺り一面に飛び散った。
あまりの出来事に他の兵士たちが呆然とする前で、リーンハルトはとっくに息絶えた〈骸機獣〉の身体を何度も何度も引き千切った。
瘴気で肌を焦がし、返り血で全身を真っ黒に染めながら、上官に取り押さえられるまでリーンハルトはと殺じみた行為を続けた。そしてイーリスは、ただただ震えながら、呆然とその光景を見つめ続けることしかできなかった。
……この瞬間がきっと、分水嶺だった。
イーリスが味わった奈落に突き落されるような恐怖は、リーンハルトが発露した狂気的行動に対してではない。このまま彼を放っておけば、本当に取り返しの付かない領域まで堕ちてしまうという予感が、確固たるものへと変わったからだった。
このままだと、間違いなくリーンハルトは死ぬ。
そう遠くない未来において実際に〈骸機獣〉と戦い、このような無謀な戦い方をして、やがて凄惨な死を遂げるだろう。
その過程でどれだけのものが犠牲になるか。もしかすると、彼自身が周囲に災厄を撒き散らす存在へと成り果ててしまうかもしれない。
……イーリスはこの日、ようやく本当の意味での決意を抱いた。リーンハルトに地獄の果てまでも付き添い、あらゆる苦境と危険から守り、そして必ず彼の心を人間の側へと引き戻すのだと。
そうとも、今まで自分がしてきたことはただの飯事でしかない。
彼を隣で見守っていれば、いつかは元に戻ってくれるなどと、綿菓子よりも甘ったるい幻想に身を任せていただけだ。
なんという大馬鹿加減だろう。甘えた小娘がめそめそ泣きながら、無為な時間を過ごしてきただけではないか。挙句の果てにリーンハルトへ責任を押し付けようなどと、どれだけ恥の上塗りをすれば気が済むのか。
イーリスはこれまでの自分を悔い、そして理解した。
自分は、本当の意味で強くならねばならないのだと。
彼を心身共に守り、隣に並び立って、戦えるまでに。
他ならぬ自分自身が、リーンハルトを、救うのだと。
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(……馬鹿だよな、アタシもアイツも、心底からの大馬鹿だった)
もちろん、決意を固めたからといって状況がすぐに好転するわけはない。そんなご都合主義は、夢見る年頃の少女が愛するような御伽噺だけに許される展開だ。
軍隊生活は辛く厳しいままで、リーンハルトは壊れたまま。あの後、真の転機が訪れるまでには、暫くの時間を費やさねばならなかった。
そうなるまでに、自分とリーンハルトは数え切れないほどの過ちを犯し、数え切れないほどの喪失を経験した。ようやくお互いの関係が改善してからも、常に不安の影は付き纏い、手の届かない現実を何度も思い知った。
そもそも二十歳そこそこの若造がふたり揃ったところで、救い守れるものなどタカが知れている。身の程を知るという言葉は正しく、経験によって打ちのめされることで、初めて自分という器の形を把握するということなのだ。
そんな血みどろの足跡を重ねた先に、今、自分たちは立っている。
数多くの失敗を経て、どうにか今日までを生き抜いてきた。
過ぎ去った明日を変えることはできない。未来のことなど想像もつかない。ならば、今日一日を必死に生きるしかないのだ。
故にイーリスは、現在の自分をありのまま見つめ、苦笑する。
「不出来だよなぁ、アタシら」
小声で呟いた言葉は、リーンハルトへ向けたものでもあった。
〈烈刃〉リーンハルト・シュレーダーの戦い方は、結局のところ、彼自身が受けた痛みの応報に他ならない。
暴力に転化した憎悪と激怒を〈骸機獣〉へと直接叩きつけるやり方は、あの頃から終ぞ変わることがなかった。イーリスはリーンハルトの戦い方そのものに、干渉することはできなかったのだ。
(……だけど、それでも良いんだよな、きっと?)
リーンハルトはさきほど、こう言ってくれた。自分にとっての幸せはお前である、と。その上で誰も死なせない、大事なものを二度と奪わせはしない、と。
ならば自分は、リーンハルトという人間が帰って来たことを信じよう。暖かな日々の情景は二度と戻ってこないのだとしても、彼はその記憶をけっして忘れてはいないのだと。
なにより今の彼は、復讐のみならず、誰かを護るためにも戦っている。部下を、国を、民の平穏と明日を。もう二度とあんな悲劇を起こすまいという決意を抱き、一人でも多くの未来を救うために「騎士」足らんと足掻いているのだ。
(……支えるさ、それなら)
彼が求める限り、自分はそれに応えよう。
彼の世界を守り、彼の命を守ろう。
彼が戦うことを、肯定しよう。
優しい言葉よりも悪態を。
穏やかな生活よりも戦いを。
過去に浸るよりも今という現実を。
かつてのふたりはもういない。
だから今の捻じれて狂った彼と自分を、これからもずっと続けていこう。修羅と化した幼馴染が得たものを肯定できるように、胸を張って強く生き続けよう。
そしてそのためにはまず、この国を守り抜く必要がある。当たり前の平穏を壊してはならないのだ。ならば、自分はあえて彼を地獄へと送り出そう。
そこに拭いきれぬ躊躇いはあれど、後悔と絶望はない。何故なら、
「地獄の底まで一緒さ、リーンハルト」
一生かけてでも、彼が目撃する地獄に付き添い続けると決めたのだから。
故にイーリスは、地響きを唸らせながら迫り来る脅威を睨んだ。
地の底から現れ、日の当たる世界へ地獄を運んできた、その巨大な影。
この世界を明日へと繋げるため、自分たちが乗り越えなければならない――
「さあて、とうとうご対面だ……ッ!!」
――“恐嶽砲竜”という最大の障害を。
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捕捉:遠隔会話について。
この世界においては普遍的な技術であり、本文中に描かれた通り、ある程度の素養があれば子供でも使うことができるほど。
ただしその有効範囲は、使用者の技術と周辺の状況によって大きく変動する。
エーテルの“糸”の効果は遮蔽物により大きく減衰し、空素構成が極端に崩れた場所ではほとんど用を成さず、戦闘などで実用するにはそれなりの鍛錬を要する。
具体的には、一般的な空素術士が補助具なしで声を届けられる範囲の平均は、おおよそ5,6メートルほどでしかない。
因みに、この世界の無線技術は「我々の世界のように電波を用いたもの」ではなく、エーテルを利用したものが主流であり、古くには強大な力を持つ空素術士が各地への通信伝達を受け持っていた歴史がある。
一方で機械技術の発達したイグルスタ合州国などでは電波通信がある程度普及し、また遺跡からの超越技術を解析した長距離通信手段も確立しつつある。




