シーン12:地の獄に希望を掲げて
-§-
(――ああ。もう、駄目なんだ)
視界一杯。怒涛の勢いで雪崩落ちてくる大量の瓦礫と土砂を見上げ、リウィア・カントゥスは己の運命を悟った。すなわち、逃れ得ぬ死という最悪の結末を。
だって、もう、どうすることもできないではないか。
自分の細腕を力いっぱい突き上げたところで、一瞬で枯れ木のように圧し折られるだけだ。全速力で地上を目指しても、今からでは間に合うはずがない。
声の限りに叫んだとしても無意味だろう。自分が唯一の得意とする≪整調≫の歌には、この窮地を打開するような力はないからだ。
だいいち、周囲を満たす鼓膜が破れそうなほどの大音響の前では、自分の声など微風のようなものだ。そうでなくとも、暴れ回る撃音と裂音と壊音に散々に打ちのめされたこの身は、今にも砕けて折れてしまいそうなのだから。
(私は、やっぱり……)
役立たず。そんな言葉が、強調線付きで脳裡を過った。
ただでさえ皆の足手纏いであった自分は、結局なにも成せないまま死んでいくのか。瓦礫や土砂ではなく、無力感に圧し潰されそうになったリウィアの耳に、しかし鋭い一声が崩壊の多重奏を切り裂いて飛び込んだ。
「――“冷にして乾なりしエーテルへ”――」
雑音だらけの状況であろうと、聞き間違えることは絶対にあり得ない。切羽詰まった様子ながら、凛と気勢の張ったその声の持ち主は、紛れもなく――
「エメリー、さん……!?」
――氷雪と凍土に満たされし北雪国が生んだ不屈の空素術士、エメリー・グラナートのものだった。
「――“我は求め訴えたり”――」
「――“土よその密と硬とを以て”――」
「――“我らを守る壁となれ”――」
鉄火場に際して幾度となく一行の危機を救ってきた彼女は、此度も血の滲む研鑽によって身に付けた詠唱術を以て、絶望的な逆境を覆さんと挑む!
「――≪障壁≫ッ!!」
リウィアの視界の端に緑色のエーテル光が瞬いた直後、遺跡内の床を裂き割って分厚い土壁が立ち上がった! 彼女の十八番の≪障壁≫である!
しかも、今回生成される≪障壁≫の数は、一枚だけに止まらない。
「……せ、ぁあッ!!」
エメリーが円を描くようにぐるりと振り回した“共振杖”の動きに従い、一行の周囲を丸く囲うように≪障壁≫の群れが連続して立ち上がる!
それらは互いの隙間を埋め合うように変形しつつ、内側へ向かって緩やかに歪曲し、やがて頂点を結んで伏せた椀のような形状に閉じた。そうして瞬く間に出来上がるのは半球状の密室だ。言うなれば≪障壁≫による即席のシェルターである。
術の完成を見届けたエメリーは、さらに付け加えて宣言した。
「――“冷”、“乾”、“固まれ”――」
紡がれたのは――それぞれ属性指定と効果選択の意味を持つ――短縮形の発動詞だ。エメリーはそこからさらに息を吸い込み、肺が膨らむほどに溜めてから、
「――≪硬化≫、≪硬化≫、≪硬化≫、≪硬化≫、≪硬化≫ァ!!」
“共振杖”の引き金を素早く連続で弾きつつ、幾度も重ねて詠唱術を行使した! するとシェルター内を照らす〈太陽提燈〉の光よりも、なおいっそう眩い緑色のエーテル光が複数回にわたって輝く。
エメリーは皆を守る砦の強度を限界まで引き上げようと試みているのだ。
しかし無理な重ね掛けの代償は、即座にエメリーの様子に現れた。彼女の頬は熟れたリンゴのように紅潮し、喉元には太い青筋が浮き出し始める。両の目は血走り、額からは滝のような汗が流れ落ちる。
そもそも詠唱術とは、術者の体内を巡るエーテルを呼気に乗せて外へと送り出し、大気中のエーテルと反応させることで現象を引き起こす術式だ。
つまり発動詞とは、言うなれば「空素術の数式」とでも呼ぶべきものであり、詠唱はそれを音階と拍子へ変換したものになる。
そこで調律機と出力機の役割を果たすのは、それぞれ術者の声帯と肺臓だ。それらを酷使すれば、疲労や損傷が生じてくるのは当然のこと。
故に詠唱術を連続で、あるいは長時間にわたって行使するのは、術者の肉体へと多大な負担を強いる行為に他ならないのだ。
「…………ッ!!」
詠唱を続けるエメリーの表情は、明らかに激しい苦痛を示していた。それでも彼女は満足せず、喉と肺の痛みを忍てまで声を迸らせ――
「――≪硬化≫、こぅ、ぁ、……げほっ!! げほっ!!」
――とうとう無理が祟り、声を嗄らして咳込んでしまった。
胸を抑えて頽れたエメリーは、しかし最後の意地を見せる。ぜいぜいと口の端から泡立った涎を垂れ流し、顔を潰れた果実のように歪めながら、彼女はもう一度だけ引き金を弾いたのだ。翠玉色の瞳に烈しい意志の火を燃やしながら、
「――こ、ぅ……、≪硬化≫ァ……!!」
ついに詠唱を遂げたエメリーは、力を使い果たしてその場に倒れ込んでしまう。
直後、完成したシェルターの向こう側で恐ろしい勢いの轟音が響き、≪障壁≫が激しく軋み揺さぶられた。崩落した遺跡の構成物が、シェルターに次々と叩き付けられているのだ。
そして、十回近くにも及んだ術の行使により、本来≪障壁≫が持つ強度を遥かに超えて硬化されたシェルターは……とうとう耐え切った! 地表ごと崩れ落ちた遺跡の莫大質量を支え切り、一行の命を救ったのである!
-§-
「……生き、てる?」
頭上を覆う≪障壁≫を見上げながら、リウィアはぽつりと呟いた。
すでに振動は収まっていた。重々しい静寂と安寧を内包するシェルターは、小動もせずその形状を維持し続けている。リウィアはしばし茫然と立ち竦み、反響した自分の震え声を聴いたことで、自身の生存をようやく理解した。
直後、リウィアの胸に安心よりも先に込み上げてきたのは、焦げ付くような不安感だった。それに突き動かされるように彼女は動き出す。すぐ近くに蹲っていたエメリーの容態を確かめるために。
「エメリーさんッ!!」
リウィアは声を震わせながら、エメリーの身体を抱き起す。
「……ッ!! エメリーさん、しっかりしてください!」
思わずリウィアが涙声になるほど、エメリーはひどい状態だった。
顔は血の気を失って蒼白となり、額からは止め処なく汗が滴り落ちている。大きく見開いた目は焦点が合わず虚ろ。全身は発条仕掛けの玩具めいて震え続け、中途半端に開いた口は酸素を求めるように、激しく喘いでいる。
過呼吸に陥っているのは一目瞭然だった。
が、限界を無視した連続詠唱の代償としては、これでもまだ比較的軽症であろう。下手をすれば肺が裂けるか喉が潰れていてもおかしくはなかったのだから。
(どうにかしないと……!! 慌ててる暇なんてない、冷静に……!!)
リウィアは動揺を堪えながら、以前に読んだ医学書の内容を必死に思い出していく。とにかくまずは落ち着かせ、ゆっくりと息を吐かせることが必要だったはず。手繰り寄せた記憶を頼りに、リウィアは応急処置を開始した。
「……エメリーさん、私の声が聞こえますか? 聞こえていたら、落ち着いて、ゆっくり息を吐いてください。大丈夫、大丈夫ですから。ゆっくり、そう少し止めてから、ゆっくり吐いて――」
リウィアは声を掛けながら、エメリーの胸や背中を丹念に擦ってやる。
その看護が功を奏してか、幸いにも数分ほどでエメリーはどうにか平静を取り戻した。いまだ青白い顔色に苦笑を浮かべ、リウィアに手渡された水筒から慎重に水を嚥下すると、どこか懐かしむような眼差しで口を開く。
「……まだ私が子供だった頃、詠唱術の無茶な自主練した時に、やらかして以来だわ。……ありがとね。助かったわ、リウィア」
「そんな……!! 私なんて、なにも……!!」
エメリーが回復したことで張り詰めていたものが解けたのか、泣きべそをかきつつ何度も首を振るリウィアへ、エメリーは「卑下しないの」と微笑んだ。
「……馬鹿ね。私が“恐嶽砲竜”の炎を操れたのは、貴方の歌のおかげなのよ? 貴方は役割を立派に果たしてるんだから、もっと自信を持ちなさい。ね?」
髪を撫でられながら諭され、リウィアは項垂れるように頷いた。
「……それに。私より重傷な奴が、他にいるでしょう?」
言いながら、エメリーはやや離れた位置へと視線を移す。そこでうつ伏せになっているのは、残るふたりの仲間。レーゲンとヴィルだ。傍らには迷子の少女が所在なさげに蹲り、倒れたふたりの旅行士へと、気遣わしげな視線を注いでいる。
「そうだ、レーゲンさん!? ヴィルさん!?」
リウィアの心を途轍もない自己嫌悪が突き刺した。
いくら余裕を失っていたとはいえ、エメリーに指摘されてようやく彼女たちのことを思い出すなんて、なんて情けないのだろう。
「ま、死んじゃいないだろうけどね。……ほら、リウィア。ぼーっとしてないで、肩、貸してくれる?」
「あ、ぅ……、はい……!」
羞恥と自責で腰砕けになりかけたリウィアへ、エメリーは努めて冷静な態度で指示を出した。今は細かいことに拘るよりも、まずは行動すべき状況である。
リウィアに支えられたエメリーは、レーゲンたちの元へと歩み寄る。すると、足音に反応したレーゲンが首を傾け、エメリーたちの方を見た。
「……流石、……ッ、土弄りさせたらエメリーは天才だね、ホント」
冗談めかした口ぶりとは裏腹、レーゲンの声は震え、今にも立ち消えそうなほどに張りがない。〈太陽提燈〉に照らされたその顔は、まるで死人のように血色を損ない、口元には乾きかけの生々しい赤色がこびり付いている。
「死にそうな顔して、馬鹿言ってんじゃないわよ。ほら、診てあげるから……」
エメリーは傍らにしゃがみ込んで、傷の具合を確かめようとするが――
「――ッう、ぎ、ぁ……!」
「――、ごめん」
――ほんの少し身体に手を触れただけで、レーゲンは呻き声を漏らした。
瓦礫の直撃を受けたのは背中だが、その衝撃は彼女の全身にダメージを及ぼしたのだろう。そうでなくとも、ただでさえレーゲンは小柄な体格だ。この様子では内臓にまで重篤な影響が及んでいるかもしれない。
「……咄嗟に、風でバリア作ったんだけど、さ。やっぱ、駄目だね。さすがにあの重量じゃ、弾けなかった。潰されなかっただけ、マシだけど」
「馬鹿なこと言ってんじゃないわよ、ったく……」
エメリーは一旦躊躇した後、再びレーゲンの衣服に手を掛けた。治療をするにしても、患部を実際に見ないことにはどうしようもないからだ。
「……服、捲るわよ」
応答は小さい頷きだけだった。
決心したエメリーはポーチ類を留めるベルトを緩め、いまや塵に塗れてくすんでしまった空色のパーカーを、ゆっくりと捲り上げていく。その際、レーゲンは歯を食いしばって耐えていた。エメリーに負い目を作りたくないのだろう。
そして、露わになったレーゲンの背には、紫色に変色した痛々しい打撲傷が刻まれていた。傷の表面はぶよぶよと膨れ上がり、彼女の健康的な肌色に対して、まるで呪いでも掛けられたような凄惨な様相を呈している。
「――っ、酷い……!」
リウィアが口を覆って絶句する。
(……大分、不味いわね)
エメリーの目にも、レーゲンの負傷は極めて深刻であると見受けられた。というよりも、普通なら死んでいてもおかしくはないような状態である。
それでもレーゲンが辛うじて生存している理由は、彼女自身の並外れた頑健さと、その体内を巡る濃厚な水属性のエーテルによる影響だった。
エメリーが以前に聞いた話では、レーゲンは母親から受け継いだ体質のおかげで、生まれつき病や傷の治りが異常に早いらしい。
それは物理的な打撃に対する抵抗力の他、〈骸機獣〉が発する瘴気にさえも耐性を発揮するほどだ。エメリーやレーゲン自身が「頑丈」と称するのは伊達や酔狂の類ではなく、正真正銘レーゲン・アーヴェントという少女は「死に難い」のだ。
「……だ、大丈夫。放っておけば、そのうち、治るからさ」
そしてその言葉通り、しばらく安静にさえしていればこの負傷も問題なく治癒するのだろう。実際にレーゲンの骨折が一日寝ていただけで治ったのを、過去にエメリーは目の当たりにしていた。
しかしその事実を踏まえても、エメリーは「大丈夫」という言葉に頷くことはできない。黙り込んでしまったエメリーに、レーゲンは眉を下げて言った。
「……エメリー、私のポーチにさ、打ち身に効く軟膏が入ってるんだ。それ、塗ってくれないかな? 少しはマシになると思う」
「……軟膏ね、分かった」
その指示に従い、エメリーはレーゲンが身に付けていたポーチを開く。するとその小さな外見からは想像もつかないほどの、雑多にして大量の品々がポーチの中には詰め込まれていた。
「もう少し整理しなさいよ! 良く収まるわね、これに?」
「整理してるから、収まってるんだよ……」
そんなやり取りを踏まえ、エメリーは件の軟膏とやらを取り出した。
「臭いし、変な色だし、べたべたするわね……」
とはいえ躊躇っている場合ではない。
エメリーは奇妙な匂いと色合いを持つペーストを指先に適量絞り出し、レーゲンの傷へ慎重に塗ってやる。
ここまでの重症にも効くのかは定かでないが、なにもしないよりは良いと思ったのだし、なにより苦しむレーゲンを放ってはおけなかった。
(私が治療系の術を使えれば……)
苦い思いを飲み込みながら、エメリーは手を動かしていく。
普段使いの治療用魔導具は、旅路の最中でとっくに使い切ってしまっており、高級品かつ貴重品でもあるそれらを補充する機会もなかった。
よって、傷の治療には通常の市販薬を用いるか、そもそも怪我をしないように立ち回るようにしてきた。それは一歩間違えれば死に直結する綱渡りの旅路である。
詠唱術にしろ描画術にしろ、エメリーはこの不得手を克服できるような技術を身に着けずにいたことを、いまさらながらに後悔した。
「……そしたら、包帯ね」
「私、手伝います!」
そこからはリウィアも加わってレーゲンの応急治療は進んでいく。脂汗を流しながら痛みに耐えるレーゲンの様子に、それまで一行のやりとりを戸惑いながら見守っていた迷子の少女が、とうとう顔をくしゃくしゃに歪めて泣きだした。
「私のせいで……! ごめんなさい、お姉ちゃん……! ごめんなさい……!」
自分を助けに来た者たちが傷付き苦しんでいる姿に、幼いながらに抱え込んでいた罪悪感がとうとう噴き出したのだろう。
元はと言えば森になど入ったからいけないのだと、自分を責める少女はさらに、物言わぬ人形と化したヴィルへも顔を向けてより悲壮な声で言った。
「そっちのお姉ちゃんは、……死んじゃったの? 私のせいで……?」
「えっと、……大丈夫よ? ヴィルはただ、寝てるだけだから」
エメリーがなんとか取り成そうとするが、魔導機人の休止状態などに理解が及ぶはずもない少女は、ますます泣きじゃくるばかりだ。リウィアが慰めようと声を掛けても効果はない。
どうしたものかと困り果てるエメリーは、また別の問題についても頭を悩ませなければならなかった。
「さて、どうやって地上まで出るか、よね」
今のところ≪障壁≫が崩れる心配はなさそうだが、このままここに留まっているわけにはいかない。食料も出発時に必要最低限を用意してきただけなので残りは心許なく、酸素が何時まで保つかという不安もある。
(こんな穴倉の中で干乾びるなんて、考えたくもないわね……)
飢え死にか、窒息か。どちらの末路にしても冗談ではない。
そもそも救助の見込みなどあるはずもないので、どうにかして自力で脱出する必要があるのだが、さてその手段が問題だ。
押し寄せる不安を振り払いつつ、エメリーは脱出手段の模索を開始する。
足掻けるだけ足掻くと決めたのだ。こんなところで諦めて堪るものかと、レーゲンに包帯を巻きながら、意思を奮い立たせて懸命に思考を回転させていく。
「――……gaaaaa、」
その時、一行の耳朶を微かに揺さぶるものがあった。遥か遠くより伝わった残響の正体は、聞き違えようもない、あの“恐嶽砲竜”の悍ましい咆哮だ。
「今の鳴き声って。嘘でしょう。あいつ、生きてたの……!?」
エメリーの顔が引き攣る。あの怪物も諸共に遺跡の崩落に巻き込まれたはずなのだが、向こうはどうやら自力で脱出を果たしたらしい。
「なんて馬鹿力と生命力よ……!! バケモノめ……!!」
エメリーは嫌悪と畏怖を存分に込めて吐き捨てた。
これで脱出した後のことも考えなければならなくなった。
あの“恐嶽砲竜”が生きている限り危機は去らず、当然ながら旅を続けるどころではない。目的地である首都“ゲルプ”に被害が出ればなお悪いし、差し迫った問題としてはオープスト村が心配だ。
(……迷子を送り届けるにしても、その帰る先がなくなってました、なんて最悪すぎるわ。どうにかしなきゃ。でも、どうやって?)
エメリーが思考に沈む中、責任を感じて泣き続けている少女へふと、包帯を巻かれ終わったレーゲンが語りかけた。
「……そういえば、さ。君、名前はなんていうんだっけ?」
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「……え?」
「名前、まだ聞いてなかったの、思い出したからさ。ちなみに、私はレーゲン。いまさらだけど、よろしくね……」
突然の自己紹介に戸惑いつつも、レーゲンの見せた笑みに応じ、少女は恐る恐るといった風に自身の名前を口にした。
「……ローゼ」
少女の答えにレーゲンの顔が明るくなった。
「薔薇、かぁ! 可愛くて良い名前じゃん、私なんて雨だよ? 母さんが付けてくれたんだけどさ、どう? 女っぽくないでしょ?」
向けられた言葉をどう受け取って良いのか分からず、迷子の少女、ローゼはキョトンとした顔になる。今の状況にはまったくそぐわない、のほほんとした会話に、思わずエメリーが眉を顰めて口を挟んだ。
「アンタね、そんなことを今やってる場合じゃないでしょうに……」
するとレーゲンは――今もまだ絶え間なく襲う、灼けるような痛みに耐えながら――あえて飄々とした態度で返答する。わざとらしく口を尖らせて、からかうように半目など作りながら、
「だって、何時までも“迷子の少女”みたいな認識してても、しょうがないじゃん。名前があるんならさ、そっちを呼んであげるべきだよ。エメリーだって“嫌味眼鏡”とか“しかめっ面ロングコート”とか呼ばれたら、嫌でしょ?」
「……アンタ、今度から“能天気白髪頭”か“夕立ドチビ女”って呼んで欲しい?」
「人の身体的特徴を論うのは良くないと思うなあ」
「アンタねえ!!」
思わず普段の調子で叫んだエメリーに「まあまあ」と笑ってから、レーゲンは次にリウィアへと水を向けた。
「リウィアの名前もさ、良いよね。こう、可愛くて」
「え、え……? そう、ですか……?」
「うん、初めて自己紹介してもらった時から思ってるけど、似合ってるよ」
突然の賞賛にリウィアは戸惑いながらも、頬を赤く染めて微笑んだ。
「あ、ありがとうございます……。でも、レーゲンさんも、恰好良くて良いと思いますよ? それにほら、エメリーさんも、素敵ですし」
「……私のは、愛称だけどね。フルネームは“エミリーヤ・イヴァノヴナ・グラナート”よ。まあ、エメリーも別に悪いとは思わないけどさ」
そこにレーゲンが口を挟む。
「その、長いやつ、セーヴェル人っぽいよね」
「最初から私はセーヴェル人よ、シュタルクの野生児。それにアンタのネーミングセンスよりは良いと思うわよ、ヴィルベルヴィントって要するに“旋風”じゃない」
「いやあ、私の父さんは雲だし、母さんの苗字も確か雨を由来とする菊花語だから、統一感出すならこうかなって……」
「筋金入りの自然現象一家ね、アンタら……」
他愛のない、和やかな会話が続く。
一行の置かれた状況は控え目に評しても絶体絶命に違いないのだが、そんな中でレーゲンは明るく振る舞った。そんな雰囲気に、ついローゼも涙を忘れてくすりと笑う。それを目敏く捉えたレーゲンが、呟いた。
「やっと笑ってくれた」
「……え?」
ローゼが見返せば、レーゲンは喜色満面に笑っている。
「ごめんね、今までずっと「ごめんなさい」ばかり言わせちゃって。でも、やっぱりその方が良いよ。笑ってる方がずっと良い。幸運ってのもさ、前向きな人ほど多くやって来るらしいしね」
「そう、なの?」
「もちろん! ……私も実はね、昔はどちらかと言えば後ろ向きな感じだったんだけど、鬱々してると気が滅入るし色々上手くいかなくってさ」
レーゲンは真っ直ぐにローゼの瞳を見つめ返し、語っていく。
深い瑠璃色の瞳に焼き付いた、あの雄々しく優しい姿を思い出しながら。
太陽のように輝く笑みと暖かな日差しに似た金の髪を持つ、誇るべき師の姿を。
「……でも、ある人に教わったんだ――」
『何をするにもとりあえず笑え』
『笑ってるうちはへこたれない』
『へこたれないなら前に進める』
『前に進めばどうにかなるだろ』
「――ってね。よく考えるとさ、かなり無茶でしょ?」
だけどさ、と。
「本当にどうにかなってるんだ、笑って進んだら。もちろん、いつも上手く行くわけじゃないよ。失敗することも多い。でも、少なくとも間違えたままそこに留まっているより、よっぽど沢山のものを得られたし、色んな人にも会えた」
言いつつ、レーゲンは仲間たちを順番に指差した。故郷の村を出て挑んだ旅路の過程で得てきた、掛け替えのない友人たちを。
「エメリーも、リウィアも、今は寝てるけどヴィルも。皆、出会いのきっかけは色々だけど、今はこうして一緒に旅をしてる。それは全部、私がその時したかったことを最後まで貫いたからだって、信じてるんだ」
そうして、レーゲンは問うた。
「ローゼは、これから何がしたい?」
「したい、こと……?」
「うん。ここを出て家に帰ったら、したいことがあるでしょ? それはなに?」
問われ、ローゼは考えた。今の今まで不安と絶望によって、頭の隅に追いやられていた望みを思い出す。普段と変わらない日常。もう二度と帰れないかもしれないと感じていた、あの風景。それらを思い描き、口に出す。
「……お父さんとお母さんに、ただいまって言いたい」
そして、一度口を衝いた望みは、堰を切って次々と溢れ出した。
「お父さんに抱きしめて欲しい。お母さんのご飯が食べたい。また友達と一緒に遊びたい。サクランボ摘みがしたい。読みかけの本を読みたい。お婆ちゃんのお墓参りにも行きたい。家族で首都に買い物に行くって約束したし、大人になったら先生になりたいし、まだ、まだ、他にもたくさん……! たくさん、わたし、やりたいことが……!」
その言葉と共に、一度は収まった涙が、溢れて流れ出す。
胸に抱える数々の希望が、今はあまりに儚く、遠い情景でしかない。それを改めて突き付けられたようで、ローゼはひどく哀しくなった。したいことのすべては、もう一切が叶わないのだと。
そんな少女の絶望を――
「じゃあ、そうしよう!」
――レーゲン・アーヴェントは、否定する。
「良いじゃん! それ、全部やろう! そんなにやりたいことがあるなら、きっと大丈夫だよ。なにひとつ諦める必要なんてない。ここを出て、あの図体がデカいのをやっつけて、それからひとつずつ叶えていこうよ」
レーゲンが語るのは、あくまでも理想だ。叶えば良いなという希望であり、ともすれば絶望の前に無惨に叩き潰される、夢想に近い高望みだ。
しかし、しかしだ。
希望をもってはいけないなどと、いったいどこの誰が決めたのだろうか? 困難と逆境には膝を屈し、なにもかもを諦めなければならないと、そんなルールがこの世界にあるのだろうか?
レーゲンは真っ向から断言する。そんなものはありはしないのだ、と。
故に、この若き旅行士は言う。
衒いもなく希望を語り、臆することなく絶望に挑む。
すべては前に進んでいくため。そうして望みを叶えるため。
だからこそ、まずは、笑うのだ。
「お姉ちゃんたちが、なんとかする。だから笑ってよ、ローゼ」
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「……なんとかする、って言ってもさ」
レーゲンの宣言を聞き、エメリーは嘆息を零した。
「現実問題としてアンタは立ち上がれないし、ヴィルは動けないし、私たちはここを出る手段がないのよ? その解決策もなく無責任なことを言うなら、アンタは最悪の詐欺師だわ」
だいたい、と挟んでからさらに続け、
「あの“恐嶽砲竜”を、どうやって倒すつもり? 私たちの戦闘能力じゃあ、逆立ちしたって勝てそうにないわよ。私の全力も通じないような相手に、短剣と拳銃と頑丈さと筋金入りの向こう見ず精神くらいしか持たないアンタが、どうやって立ち向かうって言うのよ」
そう言って肩を竦めたエメリーの表情には、しかし、挑戦的な笑みがあった。
エメリーは知っている。レーゲンが自信満々になにかを言うとき、そこに希望が絶えた例はないのだと。
道がなければ強引に切り開き、壁が立ち塞がるなら無理やり抉じ開ける。
何時だって「どうにかなる」と信じて突き進んできたこの能天気のお人好しが、一切合切を諦めてしまったことなど、今まで一度もなかったのだから。
そして、レーゲンは応じた。笑みを崩さず頷き、
「策ならあるよ、ちょっとばかし無茶だけど」
「聞きましょう、その策とやらを」
「“奥の手”を使う」
端的な言葉に、それを聴いたエメリーとリウィアが目を見開いた。なんのことか分からないローゼを差し置いて、エメリーが首を振る。まるっきり失望したとばかりに目を伏せ、ピクリとも動かないヴィルを指差すと、告げる。
「……アンタね、それをするために必要なヴィルがこの状態で、どうするってのよ? 言っておくけど、私たち全員の食糧を次ぎ込んでも、一旦こうなったヴィルを起こすには足りないわよ?」
休止状態に入ったヴィルの再起動には、膨大なエネルギーが必要となる。
以前その必要に迫られた際は、特殊な状況を利用して解決を図ったが、今回に限ってそれは望むべくもない。
であれば、レーゲンたちの持ち合わせた食糧をすべて結集しても、とてもではないが必要なカロリー量には届かないだろう。
そんな反論に対し、レーゲンが不敵な笑みと共に指差したのは、誰であろうエメリーだった。正確には、彼女が腰に括り付けたポーチのひとつである。
「エネルギーなら、多分、それが使えると思う」
その指摘に対するエメリーの反応は素早かった。
「まさか……!」
彼女は雷にでも撃たれたように震えると、慌ただしい動きでポーチに手を突っ込み、勢い良くある物体を取り出した。それは虹色の不可思議な光を湛える、握り拳ほどの球形である。
視線を向けたリウィアが、その名を口走った。
「エーテル結晶!! “鉄棺熊”を倒した時の!!」
「その大きさなら、十分じゃない? エメリー?」
レーゲンの提案に、エメリーは数秒ほどの逡巡を得た。
このエーテル結晶を手放すということはつまり、今回のアガリのすべてを放棄するということになる。
消費した魔導具も、その他諸々の苦労に対する見返りも、得るはずであったなにもかもが泡と消える。
万事上手くいったとしても、導かれる結末は「死ぬような思いをした挙句にタダ働き」という、なんとも割に合わないものに成り果てる。
エメリーは少しだけ悩み、……答えを出した。
「……しくじったら、アンタ、一生私の小間使いにするからね」
「あはは。命あっての物種、それで良いならむしろ破格だよ」
「フン。いつものことだけど、減らず口だけは一丁前ね」
悪態を吐き捨て、苛立たし気に息を吐き、そのうえでエメリーは――
「……けど、上等だわ。良いでしょう、その提案に乗るわ。どのみち地上に出られなきゃ、なんの意味もないもの。だったら精々、あの駄竜にも手痛くツケを支払わせてやりましょう」
――握り締めたエーテル結晶を、迷うことなくヴィルの口に押し込んだ。
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「――起動エネルギー確保、当機は再起動します――」
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