シーン11:劫火に示せ、己が意志と力の証明を
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こちらを向いた“恐嶽砲竜”の大顎。
その喉奥に満ちる暗黒の中で小さく瞬いた灯火が次の瞬間には大きく膨れ上がり、唸りを上げる轟炎と化して押し寄せる様を、エメリー・グラナートは見た。
「――ッ!!」
視界すべてが紅蓮の一色に支配された時、エメリーは無我夢中で、腰のポーチへ右手を突き入れていた。
目当てはポーチ内のエーテル鉱石。指先がまばらな固い感触に触れた時、すでにその数が残り少なくなっていることに彼女は気付くが、今は消費を惜しむ余裕などあろうはずもない。
(落ち着け、落ち着け、落ち着け――)
恐怖に震え強張る指を必死で操り、ポーチ内を転がり回る小さな粒をようやく捕まえて、一息に引き抜く。すぐにでも発動が叶うよう、行使すべき術の図形を何度も何度も繰り返し、脳裡に描きながら。
が、遅かった。
その時すでに“恐嶽砲竜”の火炎放射は目の前にまで迫っていた。〈太陽提燈〉が放つ光など容易く掻き消してしまうような、目も眩むほど鮮烈な赤い輝きが、レンズの向こう側にある空間を埋め尽くしている。
(――ダメ、か……)
試みようとした防護術の発動が間に合わないのは、もはや確実だった。
有効な描画術が完成するよりも早く、この身は津波のように押し寄せる灼熱の劫火に抱き締められ、一瞬にして焼き焦がされるだろう。その末路は、服も髪も肌も、等しく炭化させた黒い塊と成り果てる以外にはない。
「ああ、クソ――」
悪態に続いて零れた涙は、頬を伝う前に蒸発した。火勢が齎す凄まじい熱量は、些細な感傷の証すら容赦なく奪い去る。肌がひり付き、舌が乾き、鼻の奥に焦げるような感覚が襲う。目を開けていることさえ辛かった。
死ぬのか。そんな思いが脳裏を過った途端、過去のあらゆる記憶が大切なものから取るに足らないものまで乱雑に想起され、洪水のように駆け巡った。
まさか一日に二度も走馬燈を見る羽目になろうとは。諦念のため薄れゆく意識に、そんな益体もない考えが過る。絶命までの数瞬が、何十倍にも間延びして感じられるようだった。
鈍化した視界に、エメリーは仲間たちの最期の姿を焼き付けようとする。
レーゲンは炎に背を向け、迷子の少女を全身で庇うように覆い隠していた。
リウィアは口を半開きにしたまま、一点を見つめて呆然と立ち尽くしていた。
そして、ヴィルは――
「《武装選択:電磁斥力場――起動》ッ!!」
――ただひとり、若草色の髪を靡かせながら、迫る劫火へ吶喊していた!
鋭い叫び声が響き渡るや否や、ヴィルの身体を中心に、不可視の力場が微かな放電音と共に発せられる。すると、それまでエメリーの全身を包んでいた焦げ付くような熱気が、急激に薄らいだ。
見ればヴィルが突き出した両腕の先、まさに見えない壁に阻まれるようにして、炎が押し止められているではないか。半円状に広がった電磁斥力場が、その威力を全開で発揮しているのである。
「ぐぅ、ぎ、ぎ……ッ!!」
「ヴィルッ!!」
エメリーは瞬時に意気を取り戻し、自分たちを守る背中へと呼びかけた。
またしても彼女に命を救われた。感謝と申し訳なさ、無力感から生じる口惜しさが湧き上がるが、それらに心を囚われるのは後だとエメリーは決意する。ヴィルが命懸けで稼いでくれた時間を無駄にするわけにはいかない。
(私の、やるべきことは――)
故に、エメリーは気力を振り絞り、動いた。
自身もまた一歩を踏み出し、ヴィルと肩を並べながら、エーテル鉱石を手挟んだ指先で素早く空中に光の軌跡を描いていく。
瞬く間に生まれるのは三重の真円だ。エメリーはその力の成立を宣言する。
「≪サークル・シールド:トゥリー≫ッ!!」
直後、エメリーの指先で浮かぶ三重の真円が輝く! そうして生まれたエーテルの防壁が、押し寄せる火勢を阻んだ!
描画術の中でも≪エーテル・アロー≫と並び基礎的な技法とされる≪サークル・シールド≫は、大気中のエーテルを盾に変じる空素術だ。
剣や矢などの質量を持つ打撃力に対しては微弱な抵抗を作る程度の力しかないが、炎弾や雷撃などの純粋な運動エネルギーの産物ならば、ほぼ完全に防ぎ切ることができるのがこの術の強みである。
今回エメリーはそれを、三枚重ねて用いた。
すると、如何なる豪雨も分厚い鉄板を貫くことは不可能なように、火勢は≪サークル・シールド≫の表面を撫でただけで散らされていく。
必然、ヴィルにかかる負担も遥かに軽減され、ようやく彼女は普段のへらへらとした笑みを取り戻した。
「……いやあ、助かりました。有難う御座います、エメリーさん」
「それは、私が言うべき、台詞よ……!!」
まだ死の体感から生じた強張りが抜け切らず、エメリーの言葉は途切れ途切れになる。それでも、一先ずは危機を脱したのだと、エメリーは安堵と共にヴィルの横顔を見やり――
「……ヴィル、アンタ!?」
――驚愕に目を見開き、叫んだ。
ヴィルの瞳に灯る金色の光が光度を減じ、弱弱しく明滅していたのだ。そして己の状態に気が付いている彼女は、眉尻を下げ困ったような顔で言う。
「いやあ、はは……。どうにも、腹が空いてはなんとやら、と……」
残酷な事実を前に、エメリーの背筋を寒気が駆け上がった。
ヴィルのエネルギーが底を突く寸前なのだ。彼女が突き出した腕は力なく下がりかけ、その膝は今にも崩れ落ちそうにガクガクと震えている。
見れば、電磁斥力場の輪郭も徐々に弱々しくなっていくようで、それが効力を失いつつあるのは明らかだった。
「ヴィルさん、しっかりしてください!」
忘我から復帰したリウィアが慌てて駆け寄り、ヴィルの身体を支えた。
しかし、遠からず訪れる限界を迎えたならばそれも無駄な行為となるだろう。
あくまで無機物の集合体であるヴィルベルヴィントという存在の活動上限は、気力や根気で左右することのできないものなのだから。
「ヴィル、もう十分よ! 休んでなさい!」
エメリーの言葉に、ヴィルは億劫そうにゆるゆると首を振った。
「ははは。なにを、言ってるんですか……。ここで私が電磁斥力場を解いたら、皆さん蒸し焼きになってしまいますよ……」
その指摘にエメリーは罅割れかけた唇を噛んだ。
≪サークル・シールド≫の形状は平面に作用する盾でしかなく、正面からの炎を十全に防ぐことは可能でも、熱に関してはどうしようもない。
現在エメリーたちは、電磁斥力場による半円状の安全圏に辛うじて守られているに過ぎず、依然として絶体絶命の状態であることに変わりなかった。
また、火が燃える時には当然ながら周囲の酸素が消費される。
いまだ一心不乱に炎を吐き出し続ける“恐嶽砲竜”は、一度捉えた獲物を排除するまで、延々とその攻撃を続けるだろう。
事実、電磁斥力場の外は現在、凄まじい勢いで真空状態に近づいていた。
つまりこのままでは、炎や熱にやられるより早く、酸欠で死ぬ羽目になる。
「そういうわけで、まあ、考えたんですけどね?」
八方塞がりの状況に置かれ、次に取るべき行動を選びあぐねるエメリーへと、ヴィルは語り掛ける。彼女は悲壮感などまったく伴わない飄々とした笑みを作り、明日の朝食のメニューを提案するような口調で――
「私がこう、電磁斥力場張ったままあいつに突っ込んで口を塞いでやれば、とりあえず皆さんだけはなんとかなるかなあ、と……」
――自らを犠牲にする作戦案を、平然と口にした。
「ふざけたこと言わないでよッ!!」
当然、エメリーはそんな行動を承服できるはずはなく、悲鳴じみて叫んだ。
「なにか他に手段を考えるわ、なにか……ッ!!」
「いやあ……、エメリーさんを信じてないわけじゃないんですが、流石にちょっとばかり時間が足りませんよ……」
「うっさい、うっさいッ!! 黙ってなさい、馬鹿ッ!!」
エメリーは身に付けたポーチの中を片っ端から探り、この状況を打開可能な魔導具がないかを必死に考えた。
しかし大半はすでに道中で使い切っており、残されているものは僅かしかない。そしてその中に、この苦境を乗り切れるような魔導具は、もう……。
「エメリーさん……」
「――ああ、もうッ!! 畜生ッ!!」
リウィアが一縷の望みを託して問うが、エメリーの返事は絶望感に満ちた悪態だった。手立てはない。それが不可避の現実だった。
「……さあ、皆さん。早く、逃げる用意をしてください。もう、あまり、保ちそうにありませんから」
ヴィルが、微笑を浮かべながら言う。彼女はすでに、自分の運命を受け入れているようだった。
(どう、すれば……?)
エメリーは空転する思考を持て余して、ただ茫然と立ち尽くす。
制限時間は残り少なく、選択の余地は残されていない。
ヴィルを残して撤退するか、それとも全員ここで焼け死ぬか。
選べるのは、ふたつのうち、ひとつだけ。そのどちらかしかない。
ヴィルは仲間だ。絶対に置いていけないと感情が叫ぶ。しかし、ここで全滅してしまえばなにもかもが無に帰すのだと、理性もまた声を荒げる。
そもそも。エメリーは思考の隅で考える。そもそも自分たちは、迷子の少女を救うために、ここまでやってきたのではなかったか。ならばその前提を貫くために、無事な者だけでも脱出を試みるのが、正しい判断ではないだろうか?
(……わたし、は)
ぐらり、と。エメリーは足元が揺らぐような感覚に襲われた。
泣きそうな顔で、いやいやと首を振るリウィア。状況がほとんど理解できず、ただ恐ろしいことが起きている気配に怯える迷子の少女。金色の瞳に決断を迫る意志を浮かべたヴィル。周囲すべてを包み込む、血の色よりも紅い焔の壁。
考える。考えている。考えていて、それでも打開策が見つからない。どうにかしなければならないのに、どうにもならない。その事実だけが分かってしまう。
視界に入ってくる情報を脳が処理しきれず、エメリーの風景はぐるぐると回転して見えた。自分の意志が捻じれていくような気持ちの悪さ。心の奥にあるなんらかの「芯」が、今にも千切れて折れそうな恐怖感。
どうすればいいのだろう。どうすれば、どう――
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「――そんなの、冗談じゃない」
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その瞬間。それまで黙っていたレーゲンが、声を上げた。
轟々と大気を焦がす焼音に対しては遥かに小さく、しかし、誰の耳にも届くような確固たる決意が満ちた声。皆が咄嗟に振り返れば、迷子の少女をひしと抱き締めたレーゲンがいる。
衆目を集めた彼女は、そして、再び口を開いた。
「誰も死ぬ必要なんかない。皆揃って、切り抜けるんだ」
「……どうやってよッ!? アンタ、現状が理解ってないのッ!?」
思わず喚いたエメリーを、深い藍色の瞳が真っ直ぐ見返した。
諦観や絶望といった感情が、微塵も存在しない視線。そのあまりの力強さに射抜かれて、エメリーは胸を衝かれたようになる。そして気付く。レーゲンはこの期に及んで、ここにいる全員が助かる方法を考え続けていたのだ、と。
そうして彼女は、彼女なりの熟考のうえに辿り着いた「全員を救うためのたったひとつの冴えたやり方」を、それが実行可能な唯一の人物へと伝えた。
「つまり、“恐嶽砲竜”の炎をどうにかすれば良いんだよね?」
「どうにか、って……!! どうにもならないでしょう、あんなの!?」
「どうにかできるんだよ、エメリーなら」
「……は?」
告げられた言葉の意味が呑み込めず、エメリーは呆けた声を漏らした。それに失望も焦りも見せず、レーゲンは改めて――完全にそれが可能なのだという確信を込めた声色で――告げた。
「“火のエーテルに訴えかける空素術士の御業”……だっけ? それって、エメリーの得意分野じゃん。むしろ、エメリー以外には誰にもできないんだよ、私たち全員を救うこの方法はさ」
「アンタ、なにを言って……ッ」
思いもよらぬ物言いによって、混迷に陥りかけたエメリーは、そこで不意に理解する。レーゲンが語る内容の真意を、だ。
なるほど、確かにその手段が本当に可能ならば、この場の全員が助かるかもしれない。否、それはもはや唯一の希望と言っても良いだろう。
しかし、同時にその手段は賭けを通り越していっそ無謀か、なんなら奇跡と呼ぶ方が正しい所業を提案するものでもあった。
自分にそんな大それたことができるのだろうか? まして、失敗すれば仲間たちの命が失われかねないというのに?
胃の腑を引き絞るような不安に苛まれ、エメリーは堪らず俯いてしまう。そして、それがとうとう明確な弱音として、口から零れかけた時。
「……エメリーはさ、諦めが悪いのが取り柄でしょ?」
不意にそんな言葉と共に両肩に手を置かれ、エメリーは慌てて顔を上げた。すると目の前にレーゲンの眉を立てた力強い笑みがある。いつの間にか傍まで近付いてきたらしい。
戸惑うエメリーへと、灰白髪の若き旅行士は、一語一語を噛み締めるように言葉を送っていく。
「私と初めて会った時も、きっとその前からも、ずっとエメリーは諦めが悪かったんでしょ? 筋金入りの意地っ張りで、不撓不屈を絵に描いたような子で、だからこそ、これまで私を色んな場面で助けてくれたエメリーじゃんか。だったらさ、今回もそれを期待して良いかなって思うんだ」
聞きようによっては無茶難題に等しい台詞。しかし、それで良いのだ。何故ならレーゲンが信じ、レーゲンが語る人物像こそが、エメリーという少女をなにより正確に表すものに違いないのだから。
「私も、リウィアも、ヴィルも。全員エメリーに助けられた経験がある。エメリーが凄い奴だって皆が知ってるんだ。だから普段からちょっと――いや、かなりかな――口が悪かったり態度がキツくても、結局色々と頼っちゃうんだよ。エメリーなら何とかしてくれるって、信じてるから」
「レーゲン、今、アンタ余計なこと言わなかったかしら」
「待った待った、怒んないでって、冗談だよ。それともエメリーは――」
と、そこでレーゲンは肩を一度竦めると、挑発的に片眉を上げて言い放った。
「――あんなちょっとばかし図体が大きいだけの〈骸機獣〉が吐いた炎より、エメリーが操る炎が劣ると思ってる?」
「そんなふざけたこと、あるわけないでしょうッ!!」
反射的に言い返したエメリーは、直後に脊髄を稲妻が走るような驚愕に襲われた。まさか、命が失われる瀬戸際にあって、こんな威勢の良い啖呵が自分の口から飛び出るとは。
どれだけ自信過剰なのだろう、自分の不出来ならば、今まで幾度となく突き付けられてきたではないか。
羞恥心が急速に頬へと駆け上り……しかし、ふと、こうも思った。
(……悪い気は、しないわね)
ならば、それが答えで、良いのではないか?
エメリーがそう感じた時。彼女の口元には、笑みが浮かんでいた。
彼女らしい傲岸不遜な、世界の全てに対して挑みかかるような、自信と自負に満ち溢れた強気な笑みが。
ああ、そうとも。自分は何時だって、意地を張って、張り続けてここまで生きてきたのだ。理不尽も不条理も、身に降りかかるあらゆる逆境に真正面から挑み、何度膝を折ってでも突き進んで己を証明してきた。
では、それをこの場ではやらないという、腑抜けた姿勢など――
「……私はなにを、怖気付いてたのかしらね」
――断じて、エメリー・グラナートの生き方ではない。
肚は決まった。否、覚悟などとうに済んでいたことを、ようやく思い出しただけだ。故に、エメリーは仲間たちを見回し、ただ一言問い掛ける。
「あのさ、皆。……私にアンタたちの命、預けてくれる?」
答えは即座だった。レーゲンも、リウィアも、ヴィルも。その全員が「なにをいまさら」とばかりの表情で頷いてみせたのだ。
ならば、もはや一蓮托生、恨みっこなし。ただひとり、不安そうにレーゲンを見上げる迷子の少女には、レーゲン自身が笑いかけた。
「大丈夫! この眼鏡のお姉ちゃんは、私が知ってる中では一番凄い空素術士だからね! だいたいエメリーにしてみたら、あんな炎くらい蝋燭の火みたいなもんだろうし、安心していいよ!」
(……随分と煽ててくれるものね)
エメリーはこそばゆい感覚を味わった。
なにが恐ろしいかって、嘘を吐かないこのお人好しは、本気なのだ。
いったい、いつの間にこれだけの信頼を、自分は勝ち得たのだろう?
それとも単純にド田舎暮らしが長すぎて、判断基準が狂っているのか。
なんにせよ、今の自分にとっては分不相応にもほどがある期待だ。
日々の暮らしや戦いに、毎回必ずひとつは不足を見出して臍を噛むばかり。
自分を纏う意地とは、もしかしたら単なる鍍金に過ぎないのかもしれないと、夜に微睡む度に考えている。
強気な態度も、横暴な物言いも、なにもかもが不安の裏返し。エメリー・グラナートと書いて「虚飾」と読むような、自分はそんな存在なのかもしれない。
(……だったら、それを今、本物にすれば良い!)
さあ、やってやろう。一世一代の大賭けだ。
決意を固めたエメリーは、一度だけ大きく深呼吸をしてから、矢継ぎ早に仲間たちへ指示を出した。
「リウィア、貴方は歌でエーテルを≪整調≫してちょうだい。均等に均すんじゃなくて、特に火の属性に偏重して強化するような形で、頼めるかしら?」
「……やってみます、いえ、任せて下さい!」
リウィアの返答は力強い。普段は気弱だが、与えられた役目を最後まで果たそうとする根の強さを彼女は秘めている。
「ありがと。それで、ヴィル? アンタの電磁斥力場はまだ保つわね? もう少しだけ、耐えてちょうだい。私がどうにかするから。失敗したら、そうね、あの世まで付き合ってあげる」
「……はいはい、エメリーさんの仰せのまま、どうぞ思うがままに」
ヴィルがそう言った直後にリウィアは歌い始めた。場にそぐわない涼やかで優しい歌声が響き渡る。彼女が普段狂ったエーテルを≪整調≫する際に口遊むものと、やや趣を変えた歌詞がその桜色の唇から零れ出て行く。
≪――火よ 火よ 熱にして乾の象徴たるエーテルよ≫
≪――其は高めるもの 其は育むもの≫
≪――総てを先へと導くもの≫
≪――其は巡るもの 其は解きほぐすもの≫
≪――総てを広げ膨らませるもの≫
≪――其は終わりを示すもの 其は焼き尽くすもの≫
≪――総てを終焉へと導くもの≫
≪――導き 極め 昇華せし赤の正四面体よ≫
≪――原初の火より至り 世界の果てを染め上げしエーテルよ≫
≪――そうあれかし 火の理よ 永久に 永久に≫
それは明るく軽快なアップテンポの曲調として奏でられ、一音一音が大気に溶け込む毎に周囲の空素構成は火の属性へと偏重して≪整調≫されていく。
目には見えず、肌に感じられることもない変化を、エメリーの第六の感覚――エーテルを認識する“第三の眼”――は鋭敏に捉えていた。
「……本当の天才ってのは、いるものよね」
逆立ちしても敵わない、圧倒的な才能の差。でも、それでいい。だからこそ、燃えるのだ。そう思いつつ、エメリーはレーゲンに視線を向けた。
「レーゲン、アンタはもしも私が万が一にでもしくじった場合、その子とリウィアを連れて逃げなさい」
彼女だけに聞こえる小声で告げるのは、最悪の事態に備えたアフターケアだ。
「私たちはもう、全員、どんな結末になってもいいって納得したわ。だけど無関係のその子の命まで、全賭けするわけにはいかないし……」
つと、歌を奏でるリウィアに目を向けて、
「……あの子は、死なせたくないもの」
必死に歌い続けるリウィアは、エメリーとレーゲンの会話に気付いていない。その真剣な横顔を見つめながら、エメリーは言葉を続けた。
「絶対残るって言いそうだから、無理矢理にでも引っ張って行きなさい。幸い、馬鹿力のアンタなら女の子ふたりを抱えて走るくらいできるでしょうし、背中が多少焦げても死にはしないだろうから、運び役にはもってこいね」
冗談めかした言葉には、エメリーの不退転の意思が込められていた。
もしもこれからの試みが失敗した場合、自分はヴィルに変わって火勢を押し止める役割になる。数秒、限界まで命を燃やして十数秒。それだけあればレーゲンが地上まで脱出するには足りる計算だ。最悪、彼女が操る風がその身を守るだろう。
「……エメリーと、ヴィルは」
「流石に無理でしょ。というか、四人も抱えて逃げられるなら、最初からアンタそうしてるでしょうに」
図星を突かれたとばかりレーゲンの顔が歪んだ。それに妙な心地好さを覚えつつ、エメリーは肩を竦めて尚も言った。
「単なる役割分担よ。それに私が力不足で死ぬならまだしも、助けると誓った存在を守れずに果てるなんてのは、それこそ地獄に落ちるより酷い無様で不名誉だわ。だからレーゲン、アンタは私の名誉を守るために、命懸けで働くの」
そうとも、言い出しっぺの責任は取ってもらわねばならない。自分が役目を果たすなら、レーゲンもまた初志を貫徹するべきなのだ。エメリーはハッキリと、念を押して言い含める。
「後悔だのを抱えて泣いたり、死ぬのはその後。良いわね?」
「……分かった。死んでも、二人は守るよ」
レーゲンが了承したことで、エメリーはひどく気楽になった。この馬鹿正直な少女が約束を違えることは有り得ない。それこそ本当に全身焼け焦げてでも、託したふたりは守り抜くだろう。
(……まあ、仮にあの世なんてものがあったとして。この馬鹿がふたりを連れてノコノコ顔出したなら、横面引っ叩いてから燃やしてやるけれど)
ともかく、後顧の憂いは断った。ならば、後は全力でやるだけだ。
ゆらりと、眼前へ黒檀の“共振杖”を構えたエメリーへ、そこでレーゲンが声を掛けた。
「エメリー」
「なによ」
「格好良いよ、頑張ってね」
「――――ッ、」
――こいつは、なにを突然、言い出すのか。
そんな励ましひとつでこちらが奮起すると考えているのなら、なんとも癪に障る話だ。まったく、分かってはいたが、やはりこいつは本当の馬鹿だ。大馬鹿。子供にもほどがある。だいたい、なにが格好良いだ。
(当たり前でしょう、そんなことッ!!)
だからこの頬の熱は照れではなく、奮起の証だ。
しかし、まあ、うん。期待に応えるのは吝かではない。
なら、精々目を輝かせて、この私の勇姿を見ていると良い。
返事は返さず、息を吸い、エメリーは発動詞を唱え始める。
「――“温にして乾なりしエーテルへ”――」
一語一語を大切に。
「――“我は求め訴えたり”――」
自分の言葉が世界に届き、通じるように。
「――“其は熱”、“其は光”、“其は雷”――」
すべては、信じることだ。
己の意思が世界を変えると。
エーテルは必ず応えてくれると。
「――“還流する熱き力よ”――」
疑わず、迷わず、一途に。
恋人に愛を囁くように、親の仇に呪いを吐くように。愛でも憎でも、どちらでも良いのだ。大事なのはひとつの想いを命がけで貫くこと。
「――“万物を終焉へと導く力よ”、“今その猛る威を”――」
集中。
集中。
集中。
脳が焼き切れんばかりの速度で、精密な理論の組み立てを行っていく。
そう、私には目の前の現実を改変するだけの力と資格があるのだと――
「――“我の力に”、“我の意志に”、“我の手指に従い”――」
――示せ。力あるこの詞で。
「――“逆巻き”、“渦を成し”、“天を貫け”――」
そうして。火のエーテルの担い手たる黒髪の空素術士は、最高潮まで高まった灼熱の意志力を、弾け炸裂する眩い深紅の光をその証明として、全身から手指へ“共振杖”を通じ、
「――≪天昇渦炎≫――ッ!!」
そうあれかしという宣言と共に、引き金を引いた。
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直後に起きた現象を列挙するならば、ごく単純な事実でしかない。
つまりは、叛逆。“恐嶽砲竜”がその大顎により噴出していた劫火が、まるで時間が巻き戻るように逆流し、巨山の如き体躯へと吹き付けられたのである。
渦を成して遡った炎は、突如として己に牙を剥いた灼熱に戸惑う“恐嶽砲竜”を包み込むと、そのまま直上へ向かう巨大な竜巻と化した。
堪らず叫び声を上げた“恐嶽砲竜”は、全身に纏わりつく火炎を振り払おうと身を捩らせるが、無駄な抵抗だった。
もはやこの空間に存在するすべての炎は、完全にエメリーの支配下にあり、その意志に従うまま超大型〈骸機獣〉の身を焼き焦がしていく。
炎の威力で敵わないのならば、相手の力を利用してやれば良い。さらにリウィアの歌によって最大まで威力を高められた≪天昇渦炎≫は、元々の生産者が持つ耐火性を大きく凌駕していた。
そしてなにより。炎を操ることにかけて、魂を持たない〈骸機獣〉如きに、エメリーの全身全霊が負ける道理など、あるはずがないのだ。
「――ざまあみなさいッ!!」
猛々しい笑みを満面に浮かべ、エメリーが吼えた。彼女は己よりも遥かに巨大な存在を前に、見事一矢報いたのである。彼女の仲間たちも歓声を上げた。
後は“恐嶽砲竜”が炎に巻かれて行動不能に陥っている間に脱出するだけだ。地上に出た後のことはその時考えれば良い。酸素が完全に尽きる前にと、一行は急ぎ出口へ向けて揃って駆け出していく。
……しかし、この場においてある種の“勝利”を収めたレーゲンたちは、たったひとつだけ想定を誤っていた。
「――GoWuAGAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!!!」
それは〈骸機獣〉という生命の冒涜者、冷酷無情な殺人兵器が持つ耐久性。
一度攻撃対象と定めた相手を完全に消滅させるまで尽きることのない、苛烈にしてどこまでも徹底的な殺意を、若き旅行士たちは失念していたのだ。
「嘘でしょうッ!? あれでまだ動けるのッ!?」
「……うわわ、ヤバい!! 逃げろッ!!」
レーゲンが叫ぶのとほぼ同時。全身を炎に蹂躙されながらも、“恐嶽砲竜”は身に宿る力のすべてを発揮して暴れた。当然、数十メートル以上の巨体が重量任せにのたうち回れば、遺跡内には甚大なダメージが生じる。
「うわあ――ッ!!?!」
凄まじい揺れが一行を襲い、また彼方此方で崩落と破壊が生じた。
壁と床には等しく亀裂が走り、“恐嶽砲竜”が身体を手当たり次第に叩きつける度に、それは薄紙でも破るような速度で大きく広がって行く。
天井から降り注ぐ瓦礫は徐々に大きさを増し、とうとう決定的ななにかが砕ける音を皮切りに、構造ブロックそのものが崩壊を始めた。
「もしかして……崩れる?」
その予想は正鵠を射た。
一行の眼前、来る時に使った通路が歪み、捩じ切れるように上から圧し潰されようとしている。このままでは閉じ込められる。否、それどころか大質量の下敷きとなって、見るも無残な挽肉になってしまうだろう。
「だ、だ、脱出ッ!! 急いでッ!!」
「い、い、言われなくても分かってるわよッ!!」
もはや一刻の猶予もない。しかし、不運とは畳み掛けるからこそ不運なのだ。
「あ、すいません。どうやら、その、限界みたいで――」
突如として足を止めたヴィルがそう呟くと、糸が切れたようにその場に倒れ伏した。ガツン、と硬質な音が響き渡る。
「ヴィルさん――ッ!?」
「――稼働用エネルギー不足。当機は情報保全の為、休止モードに入ります」
リウィアの呼び掛けに返ったのは、滑らかな自動音声だけだった。完全に動きを止めたヴィルの瞳からは光が失せ、表情が消える。人間らしく瑞々しい肌は、急速に乾いたプラスチック質感へと変貌し、もう起き上がらない。
「エメリーッ!! 先行っててッ!!」
「レーゲンッ!?」
咄嗟にレーゲンは迷子の少女をエメリーへ預けると、ヴィルの方へと踵を返して駆け出した。救いに行くつもりなのだ。すでに遺跡は原形を失いつつある中、あまりに危険な判断である。
そしてリスクのある行動には、応報としての結末が降りかかる。素早くヴィルの下へ辿り着き、その身体を抱え上げたレーゲンの頭上に、高速で落下する瓦礫が迫っていた。
「レーゲン、上ッ!!」
エメリーの呼び掛けで窮地を認識したレーゲンだが、時すでに遅し。ヴィルを抱いたまま駆け出そうとしたその背に、傍目にもかなりの重量がある瓦礫が、鋭く突き刺さった。
「――がっ!?」
レーゲンの身体がくの字に折れ、口からは呻き声が漏れる。血の色を交えた涎も共に、だ。リウィアと迷子の少女が悲鳴を上げた。対し、エメリーは表情を蒼褪め引き攣らせながらも、悲鳴ではなく別の言葉を放っていた。
「――“冷にして乾なりしエーテルへ”、“我は求め訴えたり”、“土よその密と硬とを以て”――」
素晴らしく滑らかな活舌で、その発動詞は紡がれた。
しかし、時の経過は無情だ。その詠唱が終わるか否かという瞬間、“恐嶽砲竜”の暴虐に耐え切れなくなった遺跡は、遂に完全に崩壊した。
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その崩壊を外から眺めれば、森の一角が轟音を立てて沈み込んで行くようにも見えるだろう。大きく裂け割れた大地に次々と土砂や木々が飲み込まれ、奈落の底へと落下していくのだ。崩壊はかなりの規模に及び、凡そ周囲数十メートル以上が見るも無残な焦土と化した。
ならばすべてはこれで終結だろうか? 四人の若き旅行士も、恐ろしき“恐嶽砲竜”も、共に地の底へと永遠に飲み込まれ、命を終えたのだろうか?
もちろん、否である。
前兆としての強烈な地響きが一度起きた後、かつて森とその下に遺跡があった一角が、盛大に盛り上がり破裂した。
火山噴火もかくやという勢いで空高く跳ね上げられたのは、土塊、瓦礫、砂埃、木々の破片或いは丸ごとの集合体。
天地逆さまとなった滝の如く、天へと向かう黄土色と濃緑色の濁流の奥底、果たして“恐嶽砲竜”の巨体は健在であった。
全身を酷く焼き焦がし、煤の色で彩られながら、その生命活動には一切の支障なしと示すように。暴と威の超大型〈骸機獣〉はのっそりと立ち上がり、
「――GoWuAGAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!!!」
大気を打ち鳴らす破鐘の雄叫びを轟かせた。
そして周囲の木々を踏み倒しながら、怒りと殺意に燃える“恐嶽砲竜”は、ある方角へ向けてゆっくりと歩み出した。
どろりと赤濁した凶悪極まりない眼が向いたその先。緑豊かな草原の上、透き通る青空の中、人々の営みを意味する白煙がたなびいていた。
“恐嶽砲竜”は――総ての〈骸機獣〉は――知っている。
それは、その場所に人間が暮らしている証拠だと。
破壊すべき。
滅ぼすべき。
蹂躙すべき。
己の全存在と全機能を傾けて、引き裂き、焼き尽くし。
屍と骸の山、血と臓物の河を築き上げねばならない。
あの人間共の生活圏が、そこに存在しているのだと。
“恐嶽砲竜”は行く。
一歩ごとに撒き散らす、大量の瘴気で森を枯らしながら。
その魂と呼ぶことすら憚られる悍ましい行動原理に刻み込まれた行為を果たすため、大地を揺らしながら一心不乱に確実に、オープスト村へと迫って行く……。
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