シーン9:暗中模索に光を求めて
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「……うわあ、真っ暗だよ」
レーゲンたちの目に、それは漆黒に塗り込められた分厚い壁に見えた。
旅行士一行が見据える先。大地に生じた裂け目の向こう側に広がるのは、一歩踏み込んだ途端、自分の足元さえ見失いかねないほどの完全な暗黒だ。
重々しく横たわる闇は粘りつくようで、もしも全身を浸したならばその瞬間に絡め捕られ、引き摺り込まれるのではないかと錯覚するほどである。実際、不用意に奥まで入り込んでしまえば、二度と自力では出ては来られないだろう。
「……むむむ」
裂け目を覗き込みつつ、レーゲンは小さく唸る。視力にはかなりの自信がある彼女だが、一寸先も見えないほどの深い闇に対しては、流石に通じなかったらしい。
「ダメだ、何も見えないや。このまま進むのは、いくらなんでも無謀かな」
「へえ。まさかアンタからそんな言葉が出るなんて、明日は雷雨かしら」
「ほらまたすぐそういうこと言う。……否定はまあ、できないけどさ」
相変わらずな皮肉を苦笑ひとつで受け流し、レーゲンはエメリーへ問う。
「エメリー、こういう場合に役立つ空素術とかなかったっけ? ほら、前に夜道を進むときに使ってたじゃん。たしか……≪暗視≫だっけ?」
対し、エメリーは渋い顔で頭を振った。
「残念だけど無理ね。あの術は増幅した月の光や星明りを媒体に視野を確保するものだから、周囲に光源がまったく存在しないような状況だと使えないのよ」
彼女は言いつつ、裂け目を指差す。
「あの暗さじゃ、数メートル進んだところで術が効力を失うでしょうね。優れた空素術士なら、文字通り外から光を“持ってくる”こともできるんだけど……」
そこでエメリーは悔しげな舌打ちを零した。尻切れトンボとなった説明に、レーゲンは「分かった」とだけ返す。ならばどうするか。
「なら、森から素材集めて、松明でも作ってみる?」
「出たわね、野生児的発想。だけどそれ、今から用意して間に合う?」
「……ごめん、厳しい。松脂を必要な分集めるだけで日が暮れそうだ。この森の植生もまだよく把握できてないし、材料が揃うかどうかも不安かな」
「でしょうね。それに、中で何が起こるかわからないし、片手が塞がるのも不味いわよ。だいいち、閉所で火を点けて酸素不足になったら困るわ」
「やっぱり駄目かあ。なんだったら、エメリーに照明代わりの炎を出してもらおうかな、って思ってたんだけど。得意でしょ? 焼いたり燃やしたりするの」
「無茶言わないで。空中に触媒もなく炎を維持し続けるのってすごく大変なのよ? ……それと、火のエーテルに訴えかける空素術士の御業を、焼くだの燃やすだのと無粋な言い方をするのは止してちょうだい」
「うーん、うーん……」
対策をふたりが話し合う横で、リウィアは一生懸命に目を見開いたり細めたりとしているが、そんなことで闇を見通せるなら世話はない。だいいち、あくまでも自然現象である闇を≪整調≫することは、例えば白紙に消しゴムをかけるようなもので、桁外れの才能を持つリウィアであっても不可能だ。
そうなると、やはり問題解決の頼りは、物理法則さえ書き換える空素術士の領分になる――
「どうしたものかしらね。≪閃光≫じゃ照らせるのは一瞬だし、闇そのものを掻き消すのは、かなりの高等技術だから……」
――のだが、どうもエメリーは自信なさげな様子であった。
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理外の力を操る空素術士とて、もちろん完全無欠というわけではない。
扱いが得意なエーテルの属性にも個人個人で差異があり、また当然ながら、難易度の高い術を行使するにはそれ相応の才能と準備が要る。
とりわけエメリーは使える空素術の種類に少なからず偏りがあり、光や熱などの現象が絡む「火属性」の術に関しても、本来は苦手なのだ。
(火焔術の優れた使い手を、長年にわたって輩出してきた〈グラナート家〉の人間としては、まったくもって“失敗作”と呼ぶしかないわね)
エメリーの頬に自嘲を帯びた苦い笑みが滲んだ。
身も蓋もなく言ってしまえば、空素術士、特に詠唱術士としての彼女は間違いなく“落ちこぼれ”の部類に入る。術の行使に関しても、かつては杖なしだと基礎中の基礎である≪点火≫すら満足に成功できなかったほどだ。
それでも血の滲むような努力の甲斐あって、現在では高品質な“共振杖”を用いさえすれば、攻撃系の術に限ってはそれなりの威力が出せるまでになった。
しかしエメリーとしては、あれは大量のエーテルを強引に爆発させているようなものでお世辞にも洗練されているとは言い難い、というのが率直な自己評価だ。
また、繊細な制御が求められる術はいまだに不得手であり、元々適性の無い「水属性」の腕前は壊滅的、特に治療系の術に至っては発動することすらできない。
詠唱術の行使を“共振杖”の性能に頼り、使い捨ての魔導具に戦闘能力の大部分を依存する。そんな彼女が「王道派の空素術士」が尊ばれる故郷においてどのような評価を受けていたかは言わずもがなだろう。
(……どういうわけか「土属性」の術だけなら、そこそこマシなのがいくつか使えるのは、神様のお情けかなにかかしらね)
そんななけなしの才能とて、一時期は憎んだほどだった。
あからさまな無才と、彼女の家系には珍しい黒い色の髪を理由に、「本当は養子か庶子ではないか」という根も葉もない風説を流布されたこともあった。
この件については噂の首謀者を問い詰め、最終的に発言を撤回させてやりはしたものの、周囲から向けられる視線はますます厳しくなるだけだった。
誰からも期待されず、努力するだけ白眼視され、長く孤独を背負ってきた。「そんな自分は役に立てない」という言葉を、エメリーは辛うじて飲み込んだ。
いずれ、いずれは、だ。未来の可能性を弱気な言葉で潰したくはないし、一歩ずつとはいえ前に進めてはいるのだ。なにより、仲間たちの前で弱気を見せるわけにはいかない。そんな無様は例え死んでも許容できない。
ましてやコンプレックスを露わにするなど言語道断。事も無げに風を操るレーゲンや、歌うだけでエーテルを整調するリウィアの才覚が羨ましくないと言えば嘘になるが、羨んだところで意味がないのも分かっているのだ。
ただ、どうしても考えてしまう。もしこの場に自分の姉――グラナートの家系史上最高の逸材と呼ばれ、クラースヌィ連邦の歴史においても百年に一人級の天才と目される彼女――が居たならば、難なく問題を解決できるのだろう、と。
故に、誰にも聞こえないほどの小声で「姉様なら……」と、堪えきれない口惜しさが零れるのは止められなかった。
(……けど、やるしかないのよね。他でもない、私自身が)
さて、どうするか。不安と悔しさを人知れず噛み殺し、エメリーは状況打開の案を探り続ける。残りの手札をじっくりと検討しながら。
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「……駄目でした。ヴィルさん、どうでしょうか?」
そうこうしているうち、ついに諦めたらしいリウィアの望みを込めた問いかけに、瞳に金色の光を灯した魔導機人は「ふむ」と一度頷いてから応えた。
「大丈夫です、いけますよ。私の暗視機能はいわゆる熱線映像装置……、つまり物体から放出される遠赤外線を利用する方式なので」
「えっと、要するに?」
「こういう真っ暗闇でもバッチリ見えるってことです」
「流石!」
レーゲンは喜びの声を上げたが、一方で眉を顰めたのはエメリーだ。
「私たちが見えないなら意味ないと思うんだけど」
「……そうなんだよね」
エメリーの指摘にレーゲンは項垂れる。
これまで通ってきた森も薄暗かったが、お互いの位置を把握できる程度の光量はあった。しかし今から踏み込む場所では、数歩離れただけで相手が見えなくなるだろう。そうなれば連携などあったものではなく、危機への対応もままならない。
「なんなら自前の照明機能使っても良いんですが、お腹が減るんでできれば避けたいです。暗視機能だけでもそれなりにカロリー使ってるので」
状況にそぐわない暢気な物言いだが、ここでヴィルを責める者はエメリーも含めてひとりもいなかった。何故ならヴィルにとって「腹が減る」とは「活動時間が減る」と同義であるからだ。
ただでさえ、さきほどの“鉄棺熊”との戦闘で消耗しているところに、さらなるエネルギー消費が嵩めば……、
「途中でアンタ、倒れかねないわね」
冗談の類ではなく、ヴィルはエネルギーが底を突くと行動不能に陥る。文字通りスイッチが切れたように、倒れて動かなくなってしまうのだ。
薪が入っていない暖炉には、どうやっても火を点けられないようなもので、こればかりはどうしようもない。彼女にどんな悪影響が出るかもわからない以上、無理をさせることは絶対にできなかった。
「いやはや、面目ないですエメリーさん」
「仕方ないわよ。食べれば食べただけ強くなるならともかく……」
あまりにも人間臭い言動――と非常に旺盛な食欲――からつい忘れがちになるが、ヴィルの身体はあくまでも機械なのだ。人間以上の高い能力を持つ一方で、予め定められた限界点を越えることは不可能な存在でもある。
「いやいや、テンションやモチベーションにはかなり差が出ますよ?」
「性能面の話をしてるのよ。それにアンタ、必要な分以上に食べるじゃない」
言いつつエメリーは肩を竦めた。
内心にはまだ“鉄棺熊”から庇われた負い目が残っているが、それを理由に敬遠し合っても意味はない。これから未知の領域に踏み込むにあたり、エメリーは互いのコミュニケーションを普段通りに戻しておきたかったのだ。
そしてそれはヴィルも同意見だったようで、相変わらずのへらへらとした――どこか嬉しそうな――笑みを浮かべながら話を戻した。
「それに照明機能は元々緊急用なので、光量としては心許ないですしねえ。全員の視界を確保できるかはちょっと不安ですよ」
「だとしたら、こういう時に頼れるのはやっぱり……」
そこでリウィアが目を向けたのは、やはり一行の参謀役にして問題解決役であるエメリーだ。仲間たちから期待を込めた視線を一身に浴びたエメリーは、ややあって不承不承に頷いた。
「はいはい、分かってるわよ。……はぁ、私の本職は詠唱術士なんだけどな。別にいまさら良いけどさ」
ただ真っ直ぐ進むだけでも困難な道に、ふたつの意味で光を灯すのは、やはり彼女が扱う魔導具の力を置いて他にはない。
とはいえ、皆から頼られる状況そのものは悪くないにしろ、それが本領外の分野とあれば気分は複雑である。が、ここは意地を張るべき場ではない。エメリーはぼやきながらも腰のポーチへと手を伸ばし、目当ての中身を探った。
「確かまだ、あれが残ってたはず……。えっと……、あった!」
取り出されたのは手の平サイズの透明な球体だ。
エメリーはその球体を両手に包み込み、軽く力を込めた。魔導具の起動に必要な分のエーテルを流し込んでいるのだ。すると球体は俄かに発光し始め、やがて直視すれば目を焼きかねないほどの強い輝きを生むようになる。
「〈太陽提燈〉っと。はぁ、この調子じゃ赤字になるところね」
「う、ごめん」
思わず愚痴を零したエメリーに、レーゲンが気まずそうに頭を下げる。
ここまでの道中において、エメリーは手持ちの魔導具をかなりの量消費している。その理由が経緯はどうあれレーゲンの決断に起因している以上、どうしても罪悪感は生まれてしまうものだ。
そんなレーゲンの様子に、エメリーは首を振ると吐息交じりに口を開いた。
「……良いわよ、別に。必要なものをケチって死ぬ方がよっぽど馬鹿らしいし、ここで意地張っても全員が危険に晒されるだけだしね。私はもう、今回の件についてはトコトンやるって納得したから構わないわ。それに――」
そこで〈太陽提燈〉に照らされたエメリーの頬に、嬉しそうな笑みが生まれた。彼女は懐のポーチ、拳大に丸く膨らんだひとつを撫でながら続ける。
「――さっきの“鉄棺熊”から出たエーテル結晶を売り払えば、十分に御釣りが出るだろうし。今回使った分の魔導具も首都で補充すればトントンよ」
「おやおや現金ですねぇ。それにそういうの、エメリーさんの嫌いなタナボタじゃないんですか?」
「こういうのは正当な損失補填って言うのよ」
ヴィルの揶揄にもどこ吹く風、一度腹を括ったエメリーは非常にタフで強かであった。そしてエメリーは〈太陽提燈〉へ≪浮遊≫と≪追従≫の詠唱術を施し、隊列の後方上空を浮かびながら着いてくるようにする。これで見通しに関する問題は解決されたと見ていいだろう。
「これで良し。ただ、光が強い分影も濃くなるから、物陰には十分注意して進みましょう。ヴィル、……先導任せるわよ」
「ほいほい、便利で丈夫なヴィルベルヴィントちゃんにお任せ下さい、っと」
進軍の準備を済ませた一行は、裂け目の奥へ踏み込んで行く。
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しん、と静まり返った静寂の中で、四人分の足音が甲高く反響する。隊列はこれまでと同じ、ヴィルを先頭にレーゲンを殿とする形だ。
内部の床は木材や石材、はたまた鉄材とも異なるのっぺりとして微かな弾力のある材質によって覆われており、一行はこれまで感じたこともない奇妙な踏み応えに戸惑う。表面が滑らかなおかげで躓くこともなく、見た目ほどには滑らないので有難くはあったが、どうにも気持ちが落ち着かなかった。
「変わった床ですね……」
リウィアが首を傾げつつ言う。彼女は足運びを確かめるように靴裏で床を叩きつつ、一行の歩みに遅れぬよう進んで行く。
「それに、なんだか不思議な造り……」
〈太陽提燈〉に照らし出された風景は、なんとも不可解かつ、極めて無機質な印象を受けるものだった。
現在一行が進む場所はおそらく通路として利用されていたのだろうが、低い天井にも両側の壁にも凹凸はほとんど存在しない。ときおり壁際に正体不明の細長い箱やら、配線やらが設置されているが、それ以外には扉すらもないのだ。
「……なんだか、ちょっと不気味です」
リウィアは思わず身震いした。ただただ延々と真っ直ぐ伸びるだけの造作のない通路は、いったい何処に続いているのかさえ分からず、理由の分からない不安を呼び起こすようだった。
「ここもかつては、誰かに使用されていたんでしょうか?」
「多分、そうじゃないかな。でもなんだか、……ずっといたら気が滅入っちゃいそうだよ。というかすでに嫌な感じだ」
珍しくげんなりとした様子でレーゲンも頷いた。幼い頃から自然に親しんできた彼女にとって、生命の匂いを徹底的なまでに廃されたような一連の光景は、どうにも馴染めないものがある。
「そうね、こればかりはアンタに同意見」
エメリーも最初のうちはかつて通っていた〈皇都魔導学院〉の長い廊下の面影を感じていたが、すぐに似ても似つかないものであると認識を改めていた。
「生活臭みたいなものが、これっぽっちもないわね……。地下に沈んでるんだから当然だけど、通気口すらないなんて、匂いとか籠らないのかしら……うぇっ」
「エメリー、あまり深呼吸しない方が良いよ」
深く息を吸うと、刺々しい薬品臭さに混じり、黴の匂いが鼻を突く。あまり長居をしたい場所ではない。加えてもうひとつ、一行の緊張感を強める要因があった。
「……ここって多分、未発見の遺跡よね」
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これまでにも幾度か出た、遺跡という単語。
辞書などに記される一般的な意味合いとしては、過去に建築物や何らかの出来事が存在した場所、引いてはその痕跡自体を指す言葉だが、この世界ではさらに「古代技術の産出地」を総称する言葉でもある。
古代技術、と一括りに称しても内実は様々だ。
その大半は、往時の暮らしぶりや文明発展の度合いや方向性を窺える程度の――考古学的には貴重な資料になるのだろうが――他愛のない品々でしかない。
例えば食器だとか農耕具、あるいは祭器、武器などである。
それらから読み取れる事実としては、道具類に使われる素材の変遷だとか、加工技術が徐々に洗練されていく過程だとか、ある時代で流行っていた芸術が次の時代には廃れていたことだとか、体系立てて記すことが可能な「自然な歴史の流れ」を証明するものでしかない。
しかし稀に「自然な歴史の流れ」と著しく矛盾するような、いわゆるオーパーツ、この世界の言葉で呼ぶところの超越技術が発見されることがある。
かの〈天輪〉も、用いられている材質や出自など数多くの不明点や、今も何故空に浮いているのかさえ解明できていないことから、超越技術に数えられる代表的な物品のひとつだ。
一方で全容が解析され、再現と利用が可能となった超越技術に関しては、もはや人間社会に溶け込み有効活用されている場合もある。
例としては空素機関や転送装置などの他、大半の魔導具も元は超越技術の細分化と再解釈によって生まれたものなのだ。
このように超越技術は現代文明に多大な利益をもたらすこともあれば、時に恐ろしい災禍を招くこともある。
例えば、現在では普遍的な技術である空素機関も、開発当初には凄惨な事故を引き起こした事例が少なくない。
故に、発見された超越技術は国家の下に管理され、その保有と取扱いには厳重な試験と審査なくしては得られない専門資格が必要なのだ。
そして大半の国家において、遺跡へ立ち入る者は例外なく、前述した資格を保有していることが求められる。遺跡発掘人と呼ばれる者たちがそれだ。
なお、イグルスタ合州国では長年に渡って国家主導での遺跡発掘と超越技術の回収が行われているのだが、この場では説明を割愛する。
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さて、シュタルク共和国内にも遺跡は数多く存在する。
すでに全域調査が済んだ遺跡は、政府の管理下で封鎖が為されているのだが、そうでない未発見の遺跡も未だ彼方此方に点在している。
危険な超越技術が保管されている可能性も鑑みて、これら未発見の遺跡への無許可立ち入りは、おおむねどの地域においても重罪だ。
つまり、レーゲンたちの行動は、この国の法律に照らし合わせると、
「前科者だね。しかもヴィルの時とで再犯だ。父さん、怒るかなあ」
「いやはや、縛り首か銃殺か、想像するだに恐ろしいですねえ」
「じ、銃殺って、そんな……」
決して大袈裟な話ではない。今回の場合は緊急の事情があるとは言え、そのあたりを司法の裁きが汲んでくれるかは未知数だ。他人事のように言うふたりに、リウィアは怯えた声を出す。そんなやり取りに半目で嘆息したのはエメリーだ。
「……今回は人助けが目的だし抒情酌量の余地はあるでしょ。それに、誰かに実害や迷惑を与えたわけじゃないのなら、バレなければ犯罪にはならないわよ」
「エメリー、不良だ」
レーゲンがからかうと、エメリーは鼻を鳴らした。
「うっさいわね、セーヴェルでは“必要は法など知らぬ”って言うのよ。飢えた者がパンを盗んだとして、それを罪とは言わないわ。道徳や倫理の授業やってるわけじゃないんだし、無駄なこと話してる暇があるなら足を動かしなさい」
それに、と。エメリーは皮肉るような笑みを浮かべると、こう付け加えた。
「“七つの苦悩に一つの答え”」
「へぇ、意味は?」
「意味は自分で調べなさい。アンタが好きそうな言葉よ」
誤魔化されたような気がしてレーゲンは口を尖らせる。エメリーはそれ以上なにも言わない。後で辞書でも引いてみようかと思いつつ、レーゲンは行動方針についての結論を出した。
「早いところ用事を済ませて、さっさとここを出よう」
その言葉に全員が頷いた。
罪状云々を差し引いたとしても、閉塞感のある場所に長居はしたくないのが人情だ。いまだ見つからない迷子の安否も気にかかるし、それに加えてより直接的な危険の要因としては、
「空気が淀んでるってことは、空素構成もかなり乱れてるだろうし」
大気の対流がない閉所では、エーテルは淀みやすい。そうなれば〈骸機獣〉の出現確率も高くなる。長期に渡って閉鎖されていた場所が〈骸機獣〉の巣と化していた事例は多く、これも遺跡への立ち入りが禁じられている理由のひとつだ。
「……もしかすると、さっき“三眼狼”や“鉄棺熊”が現れたのは、この遺跡から漏れ出した淀みが原因なのかしら?」
「可能性はありますねえ」
エメリーの推理にヴィルが頷く。
ここが未発見の遺跡であったならば、エーテルの整調など行われるはずもない。
長年積もり積もった淀みが今になって外界に漏れ出し、オープスト村を脅かしたのだとすれば、突然の〈骸機獣〉出現という現象にも説明がつく。
「……老朽化か、それとも外的要因による崩落?」
エメリーはそこまで考え、即座に思考を打ち切った。
今はそんなことより、目の前の問題に取り組むべきだ。詳しい調査や対策は、この国の専門家に任せればいいのだから。
エメリーは一先ず原因究明を脇に置き、リウィアへ問う。
「リウィア、貴方の目にはどう見えてるのかしら?」
問われ、リウィアは眉尻を下げて応じる。
「……今のところは〈骸機獣〉が生まれるほど大きな淀みはないです。多分、その分はエメリーさんの言う通り、外に漏れ出したんだと思います」
ならば突然〈骸機獣〉に襲われるような事態にはならないだろう。禍を転じて福と為すとはよく言ったものである。道中に生じた消耗とそれで釣り合いが取れるかは考えものだが……。
「分かったわ、有難うリウィア。なにか感じたら教えてちょうだい」
エメリーから礼を受け、リウィアの顔が綻んだ。
彼女は嬉しそうに「はい!」と答えると、いっそう張り切った様子で首を左右に振り、周囲の空素構成の把握に努める。
そんな彼女の所作に合わせて、一房編み込んだ髪が振り子のように揺れるのを、エメリーは苦笑交じりに眺めた。
ともかく、危険がないなら前進あるのみだ。
幸いなことに罠や防衛装置の類もこの遺跡には設置されていないか、機能停止状態にあるようで、一行の道行を阻む要素は存在しない。
ただ、ひたすら奥へ奥へと歩き続けるだけの行為には、どうしても徒労感が付き纏うものだ。遺跡に入ってからすでに数分近く経過しているが、一向に迷子の姿が見当たらない事実も、皆の焦燥に拍車をかけた。
「真新しい泥の跡は続いてるので、奥にいるのは間違いないと思うんですが」
ヴィルの指摘通り、床面にはまだ湿り気のある泥が子供の足跡のサイズで、奥へと向かって点々と続いていた。
つまり迷子がこの遺跡内にいるのは間違いないのだが、
「……まったく、どれだけ奥に入ったのよ。〈骸機獣〉に追われたにしたって、よくもまあこんな暗い場所に飛び込んだわね」
「パニックになっていたんじゃ、ないでしょうか。それとも恐ろしさに目を瞑っていて、知らず知らずのうちに入り込んだとか……」
「それでわけも分からず奥へ奥へ、って? 責めるのはお門違いだけどさ」
とはいえ、あの“鉄棺熊”から逃れるためならば、暗闇の中にでも無我夢中で入っていく可能性は十分にある。しかし子供の体力ならば限界も早いはず。ならば遠からず見つかるに違いない。そう一行は信じることにした。
願わくは生きていて欲しいと祈りつつ、不可思議な風景の遺跡内を、レーゲンたちは自分を励ましつつ進んで行く。速度は急ぎ足。帰りのことを考えれば体力を残しておかねばならないので、一気に駆け抜けることもできない。
やがて一行は、通路が緩やかに右へ歪曲した、下り坂になっているという事実に気付く。地下へと向かっているのだ。心なしか空気が重苦しくなっていくような気配に、流石のレーゲンも苛立ちを露わにしかけた、その時である。
突然、前面の暗闇が、開けたように見えた。
「通路が途切れた……?」
同時、頬を撫でるかすかな空気の流れを、皆は感じた。
どうやら通路が途切れてどこか別の場所に繋がっているらしい。警戒しつつ足を踏み入れた一行が見たものは、円状に構築された広大な空間と、その中央をぶち抜く巨大な吹き抜けであった。直径にして数十メートルはあるだろうか。
「うわ……!?」
遠近感を急に狂わされ、思わずレーゲンはよろめいた。咄嗟に吹き抜け回りに設置されていた手摺りに掴まったので転倒は避けられたが、却って果てのない大穴を間近に覗き込むことになり、その圧倒的なスケール差にレーゲンは眩暈を覚える。
「な、なによ、ここ……」
エメリーも度肝を抜かれたようで、呆然と立ち尽くす。
〈太陽提燈〉の強烈な光も、これだけの空間全体からしてみれば、ほんの一角を照らすだけの豆電球も同然だ。とてもじゃないが全貌を見渡すことなどできない。
恐る恐る手摺り際に近付いたエメリーは、ぽっかりと口を開ける円形の奈落に睨み返され、思わず息を呑んだ。遠近感が狂いそうになる。
「こんな、巨大な構造物が、地下に……? い、いつの時代の……?」
エメリーの知る限り、このような建造物は見たことも聞いたこともなかった。
食べ物から建物まで、なにもかもが馬鹿でかいという噂のイグルスタ合州国ならば、似たような景色を見られるだろうか? 益体もない考えが浮かぶ。
なんにせよ、到底人間業とは思えない、まさしく超越技術の所業である。本職である遺跡発掘人が見れば泣いて喜ぶか、恐れを為して逃げ去るか……。
そんなとりとめもない思考を打ち破ったのは、リウィアの叫び声だった。
「――皆さん、あそこ!!」
リウィアが指差した先、手摺りに凭れ掛かる小さな影があった。
レーゲンたちが慌てて駆け寄れば、そこに居たのは紛れもなく、探していた迷子の少女であった。可愛らしいワンピースは彼方此方破れ、布地に枝葉が突き刺さっている。靴は片方脱げ落ち、足は膝まで泥だらけだ。必死の逃亡の代償であろう。
「大丈夫ですか!?」
真っ先に飛び出したリウィアが少女の様子を窺う。
少女はどうやら眠っているらしかった。恐怖と疲労に因るものか、顔は血の気を失って蒼褪め、頬には涙の痕が残る痛ましい姿だ。
しかしそれでも、生きている。浅く上下する胸と、その奥から響く心臓の鼓動がなによりの証拠だ。
「良かった……!」
安堵からか、リウィアが涙を零す。他の面々も最悪の想定を免れたことで、幾らか肩から力が抜けた様子だった。
レーゲンは眠りこける少女に歩み寄ると、汗と泥で解れた前髪を梳いてやる。すると指先の感覚がこそばゆかったのか、少女はゆっくりと目を開けた。鳶色の小さな瞳がぼんやりと瞬きし、やがて像を結んでレーゲンを捉える。
「……お姉ちゃん、誰?」
罅割れた唇から漏れたか細い声。それにレーゲンは目一杯の笑顔を返した。
「もう大丈夫、助けに来たよ。……頑張ったね」
まだ思考がはっきりしないのか、少女は曖昧な表情でこくりと首を傾げた。やはり衰弱している。それに〈骸機獣〉に襲われたのならば、瘴気を吸い込んでいる可能性も否定できない。その場合は早急な対処が必要になる。
「ヴィル、診てあげて」
「お任せあれ。さあお嬢ちゃん、ヴィルお姉さんの健康診断ですよー」
レーゲンに呼ばれ、お道化た調子でヴィルが寄ってきた。
態度は別として処置自体は適切なものである。ヴィルは少女の健康状態をバイオセンサによって診断し、逃げる時に足を挫いた以外は外傷もなく、また瘴気による汚染もごく微量なものであるとの結論を下した。
「これなら良く食べて良く眠れば、数日で回復するでしょうねー」
ヴィルに太鼓判を押され、今度こそ一行の肩の荷が下りる。その後、レーゲンが水でふやかしたビスケットと実家から持ち出してきた薬草液を与えてやると、少女は多量なりとも活力を取り戻した。
「にがい……」
そう言って舌を出しつつ、少女はレーゲンの施しを拒みはしなかった。段々と状況が理解できるようになってきたのだろう。そうして、レーゲンたちが自分を助けに来たのだと悟った少女は緊張の糸が切れたのか、やがてぽろぽろと泣き出した。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
禁じられていた森の奥への立ち入り。両親に心配を掛けたこと。見ず知らずの人に迷惑をかけてしまったこと。諸々の要因が謝罪の言葉となって溢れ出たようだ。
そんな少女をレーゲンは抱き締め、小さな背中を優しく叩いてやった。
「それは家に帰って、お父さんとお母さんに言ってあげようね。大丈夫、すぐにお姉ちゃんたちが連れて帰ってあげるから。それにきっと君の無事な姿を見たら皆が喜ぶよ。だからほら、笑って笑って! ね?」
レーゲンの励ましで、ようやく少女の顔に薄らと笑みが戻った。なにより「家に帰れる」という言葉が希望を与えたのだろう。捻挫した足首には添え木と布で応急手当てをし、レーゲンは少女を背負ってやる。
「さあ、帰ろう!」
力強く言い放ち、一行は来た道を戻り始める。これにてレーゲンたちの「迷子探し」は恙なく終了し、なにもかもが無事に終了する……――
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――そんな暖かい結末を叩き潰すかのように、凄まじい地響きが一行を襲った。
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「――きゃあああッ!?」
まるで大地が爆発したような凄まじい振動に、リウィアが悲鳴を上げる。エメリーも驚愕に目を見開き、バランスを崩して膝を突く。レーゲンは踏ん張ろうとしたが、少女を背負っているために叶わなかった。
「うわ、……くっ!?」
「っと、レーゲンさん!」
少女を守るため、受け身も取れずに顔面から床に叩きつけられそうになったレーゲンを、間一髪ヴィルが抱き止めた。
「ごめん、ありがと……」
「いえいえ、なんのなんの。しかし、これは一体……?」
明らかな異常事態を訝しんだヴィルは、熱線映像装置を用いて周囲の状況を確認するが、特段変わったことはなかった。
「……地震か、なにかですかね」
結論付けようとした、その寸前。ヴィルはふと、なにかに気付いたように吹き抜けの方へ視線を向け、一瞬で表情を変えた。
「皆さん――」
普段の彼女からは掛け離れた、緊張に強張った声。何事かと皆が身構えた直後、ヴィルが叫んだ。危機感に満ちた早口で、断定的に、明快極まりない指示として。
「――今すぐここから離れて下さいッ!!」
そして。その叫びが空間内に反響する前に、それは姿を現していた。
黒々と口を開けた奈落の、その最下層。
〈太陽提燈〉の光も届かぬ暗黒の奥底に潜んでいた巨体が、身を震わし絶叫を迸らせ、破滅的な暴と威を撒き散らしながら吹き抜けを一気に駆け上がった。
強靭な爪を備えた四肢を用い、壁面を盛大に削り瓦礫を蹴散らしながら、一行の前に曝け出された禍々しいその大顎の正体とは――、
「――ぁ、」
喉奥から引き攣ったような声を漏らしたのは、誰だったか。否、誰でも構わないだろう。なにせその程度のかすかな息吹、矮小な人間如きの放つ声など、その存在が放つ咆哮の前では塵のように吹き飛ぶのだから。
「――GoWuAGAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!!!」
大気を打ち破り、引き裂く大音声。
身も心も粉々にするような音の爆風を真正面から浴び、それでもレーゲンは腰砕けになりそうな己を意思と気力でどうにか保つ。そうして、背に負う少女を必死に庇いながら、その名を呼んだ。
「――〈骸機獣:恐嶽砲竜〉……ッ!!」
その言葉が契機となったように。暴威の体現者たる巨竜型〈骸機獣〉は、灼熱の殺意を孕んだどろりとした眼で、立ち尽くす旅行士たちを捉え――
「逃げ、」
――その大顎から、なにもかもを焼き尽くす劫炎を迸らせた。
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