プロローグ:森に囚われて
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影に満たされた深い森の中を、ひとりぼっちの少女が彷徨っていた。
鳶色の瞳に栗色のおさげ髪。色濃い不安が滲むその顔つきはまだ幼く、年頃は十代前半と思しい。可愛らしいワンピースに包まれた細く小さな身体は、湧き上がる恐怖のためか、小刻みに震え続けている。
少女は怯えた目つきでなにかを探すように、ちらちらと周囲の様子を窺いながら、ひどく頼りない足取りで進んでいく。履いている靴は本来なら鮮やかな赤色をしていたのだが、今では泥に塗れて足首近くまで真っ黒に汚れていた。
その、恐る恐る踏み出した右足が、不意になにかを踏みつけた。
しなるような、たわむような抵抗が足裏を押したのは、ほんの一瞬。戸惑いがその心に浮かぶよりも早く「ぼきり」と乾いた音が鳴り響く。
枯れ枝を踏み折ったのだと、そこで少女はようやく悟った。
「ぁ、」
音が、鳴った。鳴らして、しまった。
状況を理解した少女の背筋に、切り裂くような勢いで怖気が走る。喉奥から、引き攣るような感覚がこみ上がるのを、彼女は感じ――
「ぃ、ひ……っ」
――咄嗟に両手で口を塞ぎ、どうにか叫びを封じ込めた。
が、少女の眉根が寄った。息が詰まったらしい。行き場を失った空気が頬の内側で膨れ、苦しくて仕方がないようだった。
それでも少女は頑なに口元を押さえ続ける。絶対に開くわけにはいかないと言わんばかりの必死な表情で。
だって、もしも開いてしまえば。悲鳴を上げてしまえば。その時こそアレに気付かれるかも知れないのだから。
石像のように固まったまま、少女は思い出す。
闇の中、鬼火のように爛々と光る眼。
大きく引き裂けた口元から覗く、鋭利な乱杭歯。
錆と、油と、血の匂いが混ざり合った生臭い呼気。
獣でもなく、機械でもなく、ましてや生物だとは到底思えないようなその姿。狂暴と害意を具象化したような、あのおぞましい異形……。
「…………ッ!!」
下手な想像力が、却って恐怖に拍車をかけた。
ぶわ、と。少女の全身から、冷や汗が一斉に噴き出す。
顔が火照る。目の奥で星が弾け、頭の天辺がちりちりとする。
鉛でも飲み込んだような苦く重い感触が胃の中で渦巻く。
氷のように冷たくなった手足が激しく震え出す。
少女はもはや、まともに立っていられなかった。
油が切れた機械のように、ぎくしゃくとその場に腰を下ろしていく。
途中、生い茂る下草に尻を撫でられ、少女は肩を跳ね上げた。感触よりも「音が鳴った」という事実を恐れているらしい。
それでも少女は目を瞑ると、スカート越しに伝わる冷たさを堪え、座り込む。今度はなるべく音を立てないよう慎重に。
少女は必死になって歯を食い縛った。歯の根が合わない「がちがち」という、微かな音が漏れることさえ、恐ろしがっているようだった。
その口元を覆っていた手が、自然と顎にまでかかっていた。
ふと思いついて、少女は人差し指を歯の間に噛ませる。そうして身を縮めたまま「止まれ、止まれ」と懇願にも似て祈った。
しかし、ついに沈黙そのものにも堪えられなくなったのか、少女はやがて救いを求めるように天を仰いだ。せめて太陽の光を見られたなら、いくらか恐怖も紛れるかもしれない。そう期待したのだろう。
生憎、その思いはすぐに裏切られることとなる。彼女が見上げた先は、鬱蒼と茂る枝葉によって覆い尽くされていた。
木々が作り出す影はひたすら深く、濃く、わずかな木漏れ日さえない。少女が求めた温かい陽射しは、どこにも見つからなかった。
思わず「ひ」と息を吸い込んだ少女の胸に、ひんやりとした大気が滑り込む。その冷たさが無性に哀しくて、孤独はいっそう掻き立てられる。少女は観念したように再び目を瞑ると、自身を抱き締めるように俯いた。
孤独な少女を取り囲む木々の群れは、ほとんど間隔もなく立ち並んでいる。
周囲一帯には黒々とした影が満ち、吸い込まれるような闇を成していた。どれだけ目を凝らしても、たった数メートル先にある物体の正体さえ判然としない。
本来なら少女にとってこの森は、幼い頃から慣れ親しみ、幾度となく足を運んだ遊び場も同然の場所だった。勝手知ったる自分の庭とばかり、気ままに訪れては一日を過ごすような、憩いの場のはずだった。
子供の足でも、ほんの十分ほど。少女が住む村を出て、草原地帯を東の方角へと横切れば、すぐに入口まで辿り着けるような身近な森である。
そんな森が彼女に対して牙を剥いた。迷子の少女を、奥深くにまで引き摺り込み、けっして逃さぬ牢獄へと変貌していた。
実際のところ、この森は実際にはかなりの面積を有しており、仮に横断しようと思えば慣れた者でも三日は要する。
おまけに奥へ行けば行くほど構造が複雑になるので、村の住民たちが生活に利用するのも浅い範囲までだ。
理由は単純。道を外れて迷い込めば、帰れなくなるからだ。
つまり。少女は思う。つまり、自分はもう帰れないのではないか。
仮に村人たちが捜索に乗り出したとして、はたして少女を発見するまでに何日かかることだろう。そもそも現在地がわからないのだし、互いに連絡を取り合う手段もない。状況は絶望的というほかなかった。
少女にはもはや、頬を伝う涙を拭う余裕もない。ただ、目の前の現実を受け入れられずに、いやいやと首を振るだけだ。
(……どうして、こんなことになっちゃったんだろう)
すでに十回は繰り返した自問にも、答えは出なかった。
だって、ほんのすこし前まではいつも通りだったのだから。
朝起きて両親に挨拶をして、身だしなみを整えて、朝ごはんを食べて……。
そう、ここまでは何も問題はなかった。問題なんて起こるはずがなかった。いつも通り、ほとんど日課となった果実摘みのため、友人たちと連れ立ってこの森へとやって来ただけなのだから。
(……そう、ただそれだけ、なのに)
手製の籠を片手に、他愛のないお喋りを交わしながら、少女と友人たちは森の入口付近でキイチゴなどを探した。
結果は上々。春という季節は実りの時期だ。甘酸っぱいキイチゴは採り切れないほどに実っており、少女たちは大喜びで森の恵みを堪能した。
もちろん、そのときの彼女に、森の奥深くへ行くつもりはなかった。
両親との約束もあったし、いくら良く知る場所と言っても、猪や熊などの危険な獣は棲んでいる。「森を畏れよ」。数年前に亡くなった祖母が折に触れ、普段は柔和な皺だらけの顔を厳めしくしながら、少女へ言い聞かせていた言葉だ。
しかして今、少女は理解していた。自分は本気でその忠言を信じてはいなかったのだと。だから友人たちのあんな誘いに、易々と乗ってしまったのだろう。
(少し奥に行った所に、サクランボが沢山生ってるのを見た、なんて……)
……確かにサクランボはあった。それがいけなかった。
木々の切れ間、陽光を浴びてたわわに実った大粒の果実が、紅玉のようにキラキラと輝いているのを見た瞬間、少女はすっかり虜になってしまった。
そうして夢中で艶やかな果実を頬張り、お土産にするため籠に入れ、そしてふと気が付いたときには友人たちの姿はどこにも無かった。
サクランボ摘みに熱中していたせいで逸れてしまったのだ。
ひとりぼっちになった途端、少女は急に心細くなった。
辺りを見回せば、見たこともない深い森の景色が広がっている。
さきほどまでのうきうきした気分は、すっかり消え失せてしまった。
早く帰ろう。少女は素直にそう思った。
あまり遅くなると両親も心配するし、もしかしたら勝手に森の奥へ入ったことで怒られるかもしれない。それでも暢気なことに、この時点で少女はまだ親の叱責の方を恐れていた。帰れる、と信じていたから。
だから彼女は早足に、サクランボがたくさん詰まった籠を握り締め、記憶を頼りに来た道を辿ろうとして歩き出して。
(……そこに、アレがいた)
最初、少女はそこに何がいるのか、わからなかった。
あまりにも現実離れしたものを前にしたとき、人は一種の混乱状態に陥る。幼い少女の凍り付いた思考と身体が戒めを解かれたのは、アレが明確な害意をこちらに向けていると、偶然気が付けたためだ。
その後のことを、少女はもうほとんど憶えていない。
少女は籠を放り出して、泣き叫びながら逃げ出した。
木々の合間を縫い、草むらを突っ切り、泥を跳ね上げて。
張り出した根っ子に足を取られ、枝にワンピースの裾を引っ掛けて。何度も転びそうになりながら、息ができなくなる寸前まで走って、走って……。
そうして、いつの間にか、森の奥深くにまで入りこんでしまっていた。
迷子。そう、自分は迷子だ。もしかしたら、この後もずっと、永遠に。そう思うと鼻の奥がつんとして、心を暗雲のような重苦しい不安が埋め尽くしていく。
(……そもそも、どうしてアレがこの森にいるの?)
少女にとってアレは、いないもののはずだった。
定期的にやってくる勇ましい鎧姿の騎士たちは、いつも村の周囲に危険がないか見回ってくれているし、その度に彼らが「異常はなかった」と村長に報告している光景を少女は――物陰からこっそり――幾度となく見てきた。
実際に見たこともなければ、村の近くに現れたという話も聞いたことがない、あくまで遠い世界の存在。ならばそれは少女にとって日常と結びつかない概念であり、曖昧な認識を元に想像するしかない「架空」の存在である。
そうして出来上がった認識は、御伽噺に登場する恐ろしい化け物程度の、なんともおぼろげで他愛のないものでしかなかった。
しかし、現実は違った。化け物は「実在」していた。それも自分の想像など及びもつかないほど、遥かに恐ろしい存在だったのだ。
「もう、やだぁ……」
そこでとうとう、少女の心が限界を迎えた。
「なんで、私がこんな目に遭うのぉ……?」
少女は嗚咽を漏らす。心だけでなく身体も疲れ切っていた。ましてや空腹感まで湧いてきた。朝食もキイチゴも、とっくに消化してしまっていた。
「お家に帰りたいよぅ。お父さん。お母さん……」
このままここに座り込んでいれば、誰かが自分を助けに来てくれるだろうか。現実逃避気味の考えが過ったその時――
「え」
――あの唸り声がすぐ傍で聞こえた。
その瞬間。少女は声を上げる暇さえなかった。彼女は弾かれた発条のように身体を跳ね上げ、全力でその場を駆け出す。一歩目を躓かなかったのは奇跡だ。
直後、背後から草を荒々しく踏み拉きながら、猛然と追いかけてくる足音を少女は聴いた。四つ足が奏でる速いテンポのそれは、真っ直ぐこちらに向かって来ていた。完全に見つかっている。
アレがいる。近くに。荒い息遣いが、もうすぐ傍、耳元近くまで。
わたしを殺す気だ。あの牙で、爪で、肉を引き裂き骨を砕いて、喰うのだろう。
死にたくない。足を動かす理由はそれだけだった。疲労なんて吹き飛んでいる。
だけど、しかし、ああ。
自分は、あとどれだけ、生きていられるのだろうか……?
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