息子がドラゴンを拾ってきた
家に帰ると、妻が私の夕食をレンジで温めながら、息子のことで相談があると言い出した。
「あの子がね、こそこそ冷蔵庫から残り物を持ち出したり、給食のパンを持って帰ったりしていたのには、私も気付いていたのよ」
遅めの夕食を食べる私の向かいに座り、すでにパジャマに着替えた妻は話す。
一人息子は今年、小学校に上がったばかりだ。今はもう寝ている時間だろう。私の帰りが遅いため、平日はほとんど顔を見ることはない、少し寂しい思いもあるが、仕方ない。
「それにね、いつもテレビを見に来る時間になっても、リビングに来ないで子供部屋にこもったまま。ご飯もそわそわしながらあっという間に食べて、すぐ部屋に戻っちゃうのよ」
小学生に上がり、学習机を買うと共に息子には自分の部屋を与えた。
しかし、テレビはリビングにあるし、一人でいても楽しくはないのか、リビングにいることの方が多かったと思う。
「しかも、部屋に一人でいるはずなのに、話し声がするの」
まだ小学生の息子には、携帯を買い与えていない。
一度、防犯のためにGPS付きの携帯を持たせるべきか妻と話し合ったが、やはりまだ早いのではないかという結論になったのだ。
「ほう」
「だからね、てっきり、あの子、犬か猫か何かを拾ってきたんだと思ったのよ。うちはマンションだし、そんなの飼うわけにもいかないし。だからこっそり覗いたの」
「それで?」
私が聞くと、妻は心底、心配そうな顔で続けた。
「そしたらあの子、何にもないところに話しかけているのよ! まるで犬や猫を飼うみたいに、段ボールを机の下に隠して、毛布を詰めて、食べ物を置いて! でも、あの子がお風呂に入っている間に、部屋中を見たんだけど、本当に何もいないの!」
「……。」
「だから私、心配になって。私もパートをしているから、あの子には寂しい思いをさせているのかもしれないわ。ねえ、大丈夫なのかしら? 何か心の問題とか……」
妻は息子のことになると、本当に心配性だ。
「心配ないさ、子供ならそういうこともある」
「けど……」
「誰に迷惑をかけているわけでもないし、好きにさせておけばいいだろう。ままごとみたいなものだと思えばいいじゃないか」
妻は何も言えず、私の食器を台所に運んでいく。納得していない様子だったので、私は妻に、こっそりと自分の子供の頃の秘密を打ち明けた。
「実は、私にもそんな時期があった」
「……想像の中で、ペットを飼っていたの?」
妻の言葉に、私は曖昧に肩をすくめて見せた。
「子供の頃、自分も社宅に住んでいたから、犬が飼いたいと親に泣きついても絶対に認めてもらえなくてね。そんな頃だったかな」
「そうなの……」
男の子だとそうやって親に秘密を持ちたがるものなのかもしれないわね、と妻は妻なりの納得をしたらしい。
妻は姉妹だけの女系家族で育ったためか、男の子というものに妙なイメージを持っている。
しかし、私も妻が納得したのならば、それ以上のことは話す必要はないと思った。
何より、話したところで、今度は私の気がおかしくなったのではないかと心配させそうである。
妻の話に、私は遠い昔の、自分が子供だった頃のことを思い出した。
思い出したということは――妻が息子のことを相談してくるまで、すっかり忘れていたということでもあるのだが。
自分が子供の頃、ドラゴンを連れていたことを。
そのドラゴンは、黄色の鱗でびっしりと覆われ、青いたてがみと、コウモリみたいな羽を生やしていた。
ちょんと頭の上からは角が生えている。
学校の教科書にも、図鑑にも載っていないその生き物を、公園のベンチの下で見つけた時、ぼくはとてもびっくりした。
「わあ」
びっくりしたのはドラゴンの方も同じだったみたいで、きゅっと体を丸め、さらにベンチの奥に隠れようとする。
ぼくはそっと、地面に這いつくばってベンチの下を覗き込んだ。
「こわくないよ」
そう言って手を伸ばす。だけどドラゴンはおびえたように体を丸めた。
ぼくは少し考えると、おやつに持っていた飴を取り出して手のひらに乗せて差し出した。
しばらくドラゴンは、すんすんとぼくの手と、飴のニオイを嗅いでいたけど、やがて、ぱくり、と飴を食べた。
一瞬、温かい舌がぼくの手に触って、びっくりする。
「おいで」
そう言うとドラゴンは、のそのそとベンチの下から這い出してきた。そして、飴を出したぼくの手を、名残惜しそうに見ている。
なんとなく元気がない。おなかが空いているんじゃないかなと思った。
ぼくはすぐに連れて帰ることに決めた。お母さんは動物が嫌いだから、ぼくが犬を飼いたいと言っても反対するし、家にヤモリが出ただけでひいひい悲鳴をあげているから、ドラゴンなんて見たら絶対に許さないだろうな、とは思った。
だけど、ドラゴンなんだ。
それだけでぼくは、わくわくした。
ドラゴンを抱え上げて、こっそり家に連れて帰る。
お母さんがテレビを見ている後ろを、ただいま、なんていつもの調子で言って、通りすぎるときが一番緊張した。
急いで自分の部屋に行って、押し入れの中にドラゴンを隠した。
「ちょっと待っててね」
台所に戻って、ドラゴンの食べそうなものを探す。
やっぱりお肉だろうか? でも、さっきは飴を食べたし、お菓子が好きなのかもしれない。
そう考えながらキョロキョロしていると、いつの間にかお母さんが後ろに立っていた。
「こら! そんな汚い手で触らないの! あっ、服、土だらけじゃない」
ぼくは慌てた。
服の土は、さっきドラゴンを抱えた時についたんだ。
それからぼくはお母さんに怒られていたけど、頭の中はドラゴンのことでいっぱいだった。
「遅くなってごめんね、ご飯だよ」
そう言って小声で呼びかけると、ドラゴンはぱっとぼくに飛びついた。
夜遅く、お父さんもお母さんも寝たころ、ぼくはこっそり起きだして、冷蔵庫からソーセージを持ち出した。見つからないか、本当にドキドキした。
差し出したソーセージに、ドラゴンは嬉しそうにぱくりとかぶりつく。
「おいしい?」
小さなドラゴンは、青い羽をぱたぱたさせて、嬉しそうにぼくの周りを飛び回った。 それを見ていると、ぼくもすごく嬉しくなった。本当にぼくに懐いたみたいだ。
ぼくは自分の部屋でこっそりとドラゴンを飼うことにした。
素晴らしいことに、ドラゴンはお母さんやお父さんには見えなかった。
ぼくは秘密の友達を連れて、どこにでも遊びに行った。
ぼくが蹴ったサッカーボールを、ドラゴンは追いかけて、じゃれついた。
夜にはいつも布団の中に入ってきて、一緒に眠った。
学校でつらいことがあっても、ドラゴンにだけは話せた。泣いていても、ドラゴンがそっと涙をなめてくれたら、それだけで元気が出る気がした。
ぼくにとってドラゴンは、とても大切な、友達だった。
――だったというのに、どうして忘れてしまっていたのだろうか。
鱗で覆われていたのに、抱き上げると柔らかくて温かかった。ぎゅっと抱きしめると、甘えるようにすり寄ってきた。あの感触を、なぜ今まで忘れていたのだろう。
あの不思議なドラゴンは、私が中学に上がるころには、いつの間にか、どこかに行ってしまっていた。
私の目の前からも、頭の中からも。
妻は『想像の中でペットを飼っていたの』と言った。だが、あの時私の横には、確かにドラゴンがいたはずなのだ。
なのに、今考えてみると、子供の想像力でそれ――ドラゴンを作り出していたような気もする。
遠い記憶は、ふわふわとして曖昧だ。
「魔法の竜、か……」
親にドラゴンが見えていなかったのは、そういうことなのだろう。
私もまた大人になった、ただそれだけ。
私は息子を起こさないように、静かに子供部屋のドアを開けた。
あどけない顔で眠る息子。部屋の床には、スケッチブックとクレヨンが転がっている。
――息子はどんな、自分だけの友達といるのだろうか。
だけどそれは、親の私が決して尋ねてはいけない、大切な秘密なのだ。
もう私にドラゴンは見えなくても、思い出せたことが、嬉しかった。
「行ってきます!」
土曜日の午後、息子はリュックサックを背負って、勢いよく家を飛び出していった。
「車に気をつけるのよ、ちゃんと五時までには――」
「はあい!」
妻の言葉を聞いているのかいないのか、返事をしながら走っていく。
私は新聞を読みながら、少し寂しい気持ちになった。少し前まで、休みの日、家に私がいれば、遊べ遊べとうるさかった息子が、もう父には見向きもしないのだから。
「もう、あの子ったら、散らかしっぱなしで」
ドアが開けっ放しになった子供部屋の前で、妻が文句を言った。
床に散らばりっぱなしになっていたクレヨンを、拾い集めていく。
「相変わらず、絵が好きなのか?」
「ええ。暇さえあれば、クレヨンで絵を描いているわね」
私は息子のスケッチブックを拾い上げた。幼稚園の頃から、あっという間にお絵描き帳を使い切ってしまう息子に、小学校の入学時に買い与えた大きなスケッチブックだ。
私は中身をぱらぱらとめくって見た。
そして――嬉しさで胸がいっぱいになった。
「どうしたの? そんなに笑って」
妻は不思議そうな顔で私を見るが、これだけはそう、秘密である。
スケッチブックには、黄色い鱗と青い羽のドラゴンが、いっぱいに描かれていた。