転機 4
ぽた、ぽた、と。
一滴ずつ点滴の液が管を伝っていく。
それを、あごの下で手を組んで見つめていた。する事もないからだ。規則的なその動きを見ていると、心が静まっていくのを感じた。
細長く息を吐き、ベッドからはみ出した手を戻してやる。
「いず。……いるか」
『んん? いるよ?』
「どう、したらいい」
『僕が聞きたーい』
少しだけ茶化して、和泉は背後から出てきた。陽燈の隣にかがみこみ、顔をのぞきこむ。ずいぶん長く見ているんだなと思いそちらを見やると、和泉は何の緊張感も無く、得意の変顔レパートリーを眠り姫へ披露していた。………おい。
『ふぇふひひーひゃん、ふぉふひゅうひはいひ』
「何言ってんだ」
『別にいーじゃん。僕リュウ以外に見えないんだし』
ごもっともである。
『でもさ、もしもハルが僕のこと見えて、目覚めた瞬間この顔が間近にあったら死ぬほどびっくりするだろうね、やめとこうか』
しばらく和泉は何とかハルを起こそうと躍起になっていたが、やはり触れないことは相当なペナルティーらしく、言い訳がましい一言を残し、諦めて立ち上がった。と思いきや側の医療器具を眺めて顔を綻ばせたり。
どれだけ暇なんだ。
『そうだ。ふと思ったんだけどさ』
いつの間にか窓の縁に座っていた和泉が俺を見下ろしつつ言った。
『なんでリュウだけなんだろうねえ』
「何が?」
『僕のコトが見えるの』
えー……
「知らねえよ」
ぶっきらぼうに言うと、和泉はいつものように「あはは」と体をのけ反らせた。
『だってさあ? 音葉も豪も先生もマルでさえも僕の事見えないし聞こえないんだよ? だって僕全員に言ってたもん。
「今日は、ありがとうね」って』
『気がついてくれたの、リュウだけだった』
「それは……あれじゃあないか? 俺が、お前の病気の事、知ってたから……だから、じゃないのか?」
至極真っ当な事を言ったはずだ。なのに、和泉はほんとうに不思議そうに「んんん?」と首を傾げて見せた。
『どうして?』
「だから知らねえよ」
『あははっ』
ねぇどうしよっか?
和泉が小さく足をばたつかせながら言った。『ハルなんか倒れちゃったし。……あ、言うなれば僕のせいか。』
「よくわかっているじゃないか」
『あ、リュウひどーい。デリカシーが欠落してまーすっ』
「言ってろ」
しばらく和泉はご機嫌そうに足をばたつかせていた。
これが、死んだ人間。
言われれば言われるほど信じられない。……いや、誰にも言われてないけれども。
『君が泣かない人だからかなぁ?』
のんびりした声でとても失礼な事が聞こえたため、顔を上げる。
「さすがに泣いたに決まってるだろー? 俺がお前のためにどれだけ悲しんだと思ってるんだバカ。俺が…どれだけ…っ」
泣くつもりなんて一切無かった。なのに、突然視界がぼやけ、あわてるはめとなってしまった。喉がつまる。声が、出なくなる。
まずいな。そう思って、歯をくいしばって顔を上げた。和泉はその先で悲しそうに笑った。
『ごめんね、泣くの、禁止』
その言葉に、吹き出した。
「鬼め」
『「言ってろ」?』
「真似すんなっての」
いや、似てねーから。
しばらくして、笑いの発作がおさまると、和泉は額の汗をぬぐう動作をしながら俺に向き直った。『あーおかし。ほんっと真面目な話できないよねぇ僕ら』「本当だよ」
『んあ』
突然、間抜けな声を出したかと思うと、和泉は窓枠から身軽な動作で飛び降り、陽燈のベッドへと駆け寄った。
『おはよう? ハル』
陽燈が、目を覚ましている。俺も何気なく立ち上がり陽燈の脇へと膝をついた。
陽燈は額をおさえ、おっくうそうに起き上がった。ぼう、とした目で周りを見渡し、ゆるゆると首を振る。
『ハ―ル―………?』
疑問文になったのは、痛いほど理解できる。期待と、諦め。そんなごちゃまぜの感情が入り混じっている。
陽燈は、答えてくれなかった。
「ハル」
仕方なく俺が名前を呼ぶと、陽燈ははじかれたように顔を上げ、俺を見た。勢いよく振り返った瞬間、肩のあたりで切りそろえられた髪が風をはらんだ。
「………りゅう、へい」
「起きた、な。大丈夫か?」
「え、うん、でもっ……私……なんで……。だって部屋に……あれ?」
混乱して揺れる細い肩をやさしくつかんだ。陽燈は俺の顔と手を交互に見て、俺に説明を求めた。
「お前、食ってないだろ」
「う、うん」
「バカ。栄養失調で倒れたんだよ。お前まで体調崩してどうすんだまったく? なあ? しっかりしてくれよ」
陽燈は申し訳なさそうに、目を伏せた。少しだけ罪悪感を覚える。
「……ごめんなさい………」
「………別に、いーって」
ちら、と陽燈が俺を見た。「ん」と頷いて頭をかきまわすように撫でてやる。力なく陽燈は笑って、俺の肩口に額を預けた。
「……………ん?」
体が熱い。
「お、お前………っ」
あわてて額に手をあてがうと、陽燈は顔をしかめていやいやをするように首を振った。
「あ、たま…いたい」
隣で静かに話を聞いていた和泉がやはりあわてた様子で立ち上がった。少しだけ、反動でベッドが揺れた。
『ハ、ハルっ…だ、大丈夫?』
額に触れようと、手を伸ばす。
そして。
『あ……』
その手は、陽燈をすり抜けた。
『もう、やだよこんな身体っ………!』
何かの糸が切れてしまったように、和泉は唇をかみしめ、走りだした。その勢いのまま、白い引き戸を引く。
“いきなり開いた引き戸”に陽燈はびくん、と体をふるわせた。
「な、なに今の……?」
「……………ハル」
ゆっくりと、言い含めるように口を開いた。
「ちょっとだけ、待っていてくれないか」
陽燈はゆっくりと首を回して俺を見た。少しだけ、焦点が合っていない。今は、陽燈を優先すべきだ。わかっていても、放っておけなかった。
「いいか」
陽燈がこくんと頷いたことを確認し、俺も見えない和泉の後を追って引き戸を開けた。