転機
「リュウ、今日はありがとうね」
読経に交じってそんな声が聞こえた。
やけに蒸し暑い日だった。曇天の曇り空で、こんな日にはぴったりだと、勝手にそう思っていた。
思わず、目の高さにつまみ上げていたよくわからないいい匂いのするものをボロボロとこぼす。
「ちょっと」
控え目な声で音葉に叱られる。
「しっかりしてよ」
すみません。
気を取り直し、もう一度名前のわからない例のものをつまみ、目の高さで少しこすり合わせて、隣の鉢へと移す。
ぶっちゃけた話、気が気じゃあなかった。
『ありがとうね』
俺は、こんな柔らかい声の持ち主、一人しか知らない。
そして、残念なことに、そいつはもうこの世に存在しない。
ちょ、ちょっと待て。
首を振る。ありえない、あっていいはずがない。
いやいやいや。
駄目なやつだろこれ。どう考えても。
ささやかな抵抗は焼香をおえ、振り返った瞬間に打ち砕かれた。
割と、粉砕で。
『りゅ、りゅう、へい………?』
奴は、誰よりも驚いた顔で、俺の前に立っていた。
そして。
幽霊。反射的に脳裏に浮かんだのは、そんなありきたりすぎる単語だった。
* * *
「故 嵯峨野和泉」
そんな文字。もう、忌々しいとも感じなくなってしまった。
というか、何かを考える前に、今の状況がまったくもって理解できていなかった。
『驚かないんだね』
扉からもれる光にゆらゆらとゆれながら和泉は笑った。
心外だ。
「………驚いてないわけ、ねえじゃん」
『あはは』
笑う。いつもそうだったように、本当に楽しそうに、あはは、と。
「お前、変わんねえんだな」
言うと、和泉はまた笑って見せた。
『変わるよ』
『幽霊だもん』
「……………そう、なのか」
別に、納得したわけじゃなくても、頷くしかなかった。
『まさか、自分のお葬式を見ることになるとはね、思ってもいなかったよ。案外、普通なんだね』
「なにが、『普通』だよ」
不意に笑いやみ、和泉はすこし考えるそぶりを見せた。どうなんだろうね、といいつつ、体をゆっくりと揺らす。
そして、困ったように俺を見て、首をかしげた。
『……何も感じなかった』
「なあ」
『んん?』
「お前、幽霊、か?」
『多分ね』
「なんで」
『…………わかんない』
和泉は肩をすくめた。困ったように、また、笑いだす。
『みんな、来てくれたんだね』
「ああ」
『………ハルは?』
「…………………来れるわけ、ねえ、だろ」
和泉にはその答えが、わかりきっていたようだった。
『だよね』
その顔がくしゃり、とゆがむ。何かに耐えきれなかったように、視線が下へと、泳ぐ。
『………だよね』
『……………………………………ごめんね……………………』
それは、消え入りそうな無声音だった。
聞こえなかったふりをした。今更、だ。どうしようもない。
やはり、平然とした顔で笑っていても、しこりのように固まった悲しみはほどけないままで、
和泉は、ずっと漂ったままなのだろう。
『また、さ、ハル、吐いちゃってるのかな、大丈夫かな』
こんなときにまで、他人の心配ばかりして。
こんなときぐらい、自分を気遣ってやってもいいだろうに。
和泉はゆっくりと顔を上げた。
『ごめん、取りみだした』
「いや、あやまることじゃあねぇよ」
言うと、和泉はあはは、と笑って、『君は相変わらずだなぁ、デリカシーのかけらもない』
ため息をついた。
和泉は、白血病だった。
俺の記憶にある和泉は、最期の数か月、白いベッドの上で疲れたように笑っていた。
「大丈夫。だから、ハルだけにはお願い、言わないで」
それを守った俺が駄目だった。和泉は、数か月の闘病生活の果てに
死んでしまった。
『どうしたの?』
きがつくと、和泉が俺の顔を覗き込んでいた。
「ん、なんでもねえ」
『そっか』
ぽん、と細い肩を小突こうとしたら、その手は空を切った。
『あ』
気まずそうに和泉が言う。
『ごめんね、ほら僕、一応幽霊だからさ』
「そ、そっか」
『無機物は触れるんだけどね、ほら』
和泉は近くにあった石を持ち上げ、ひゅっ、と投げて見せた。小石は綺麗に弧を描き、数十メートル先へと音を立てて落ちた。
『なんて言うか、心、があるのって、駄目らしい。だからね、蟻とかにでも無理なんだよ、するっと逃げちゃう』
結構ね、不便ですよ?
そう言って茶化し、ひらひらと手を振る。
また和泉は小石を握った。投げる。
『ねえリュウ』
『ハルに会いに行こうと思うんだけど』
『どう思う?』
一瞬言葉を失った。和泉は俺と目をあわせようとしない。また一個、小石を握り、投げる。
『どうしたら………いいのかな』
ため息のようなその言葉はしばらくその場に漂って、俺を責め立てた。




