少年と魔物
沢山の荷物を詰め込み、パンパンに膨らんだ麻布のショルダーバッグを肩に掛ける。ズッシリとした重みが肩に食い込む。
ファッショナブルとはほど遠い機能重視のバック。一国の姫が持つものではないが、今はそんな事を言っている場合ではない。
陰鬱な空気が二人を取り巻き、何だか息苦しい。前を行くレイドも同じ事を感じているのかもしれない。
先程から黙ったままだ。
パチパチと煙を燻らせ木が燃える音だけが、物悲しくオリビアの耳に届く。
何だか、とてつもない疲労感に襲われていた。しかし、帰る訳にも行かず街中を探索する。一縷の望みを賭けて――
ただ、無情にも静かに時だけが過ぎて行く。
「そろそろ戻りましょうか?」
どれくらい時間が過ぎたのか、不意にレイドが声を懸けて来た。諦めるしかないようだ。
ここに命ある者は、もう誰もいないのだ……
「うわぁぁぁぁぁ〓」
突如静寂を切り裂き、叫び声が響いた。
オリビアとレイドはお互いの視線を一瞬だけ見合わせ、直ぐ様声の方へ駆け出した。
家と家の合間の道に、その声の主はいた。道路に腰を抜かして尻をつき、後退っている。アッシュグレーの髪が妙に印象的だ。
そのすぐ前に対峙する狼のような四つ足の魔物。赤褐色の短い毛、三メートルにはなるだろう巨体。鋭く尖った牙を剥いているのが遠目にも分かる。
グルグルと低い唸り声を上げ、今にも飛び掛かりそうだ。
「レッドウルフ……何故、こんな所に?」
レイドが小さな声で呟く。どうやら、魔物の名前のようだ。
オリビアとレイドは声の主の後ろ、離れた所に立っていた。
そこからでも魔物の獰猛さが伝わってくる。恐怖でオリビアの体は強張った。
あの時の恐怖が蘇る。魔女が街を襲ったあの日の事が――
―パキッ―
乾いた音が鳴った。
オリビアの額に冷や汗が浮かぶ。
恐怖のあまり、思わず一歩後退り小枝を踏んでしまったようだ。
その音に気付き、此方を振り向く。少年だ。その顔は恐怖で引きつっている。
「た、たっ、助けて〜」
必死の形相で救いを求め、此方に四つ這いのまま、這い寄って来た。その声は震え絶叫に近い。
その瞬間、レッドウルフは小さな唸り声を一つあげ、真っ赤な口を大きく開き、それをチャンスとばかりに飛び掛かって来た。
(あっ……)
オリビアが叫び声を上げ、両手で口を覆う。体が氷ついたみたいで動かない。
綺麗な弧を描き狼もどきが、獲物へと飛び掛かる。
(――殺される)
そう思った時だった、魔物と少年の間に黒い影が割り込んだ。
「レイドッ!!」
先程まで、隣にいたレイドだった。いつの間に移動したのだろうか?
全然気が付かなかった。
腰の剣を抜き、楯にする。レッドウルフが突然現れたレイドに一瞬怯むが、空中に跳んだ身体はどうにもならず、そのままの勢いでレイドに飛び掛かり押し倒した。
グルルル……
低い声を上げて、ポタポタと涎を垂らしながら、レイドにのしかかる。真っ赤な口を開け、何度も噛みつこうと試みている。
必死でそれを避けながら、レイドは叫んだ。
「早く、早く逃げなさい」
驚愕で呆然とその場でやり取りを眺めていた少年が、その言葉で我に返り立ち上がる。
レイドは少年が逃げるのを目で追い、攻撃範囲から外れた瞬間、レッドウルフを足と腕の力を使って、器用に後方へ投げ跳ばした。
投げ跳ばされた狼もどきは、体制を一度崩すも、クルリと一回転し上手く着地する。さすが魔物だ。
レイドも反転し機敏に体を起こす。さっきまで時間稼ぎをしていたようだ。
素早い動きで、剣を構え直す。
少年は近くの建物の陰に身を隠す。
レッドウルフの攻撃対象は、少年からレイドへと移る。
唸り声を上げ、身を低くし攻撃態勢をとりながら、眼光鋭く睨む。
緊張が走り、どちらも動かない。
オリビアには、ただ見守る事しか出来なかった。
どれ位睨み合っていたのだろうか?
先に痺れを切らしたのは、レッドウルフだった。
風を切り走る。長い尻尾が揺れ、一気にレイドとの間合いを詰める。
レイドは逃げずに、その姿を見やる。
太い足で地を蹴り、高く飛び上がった。その爪でレイドを切り裂こうと――
「危ないっ!!」
オリビアは叫び、思わず目を閉じる……
とても、見ていられなかったのだ。
――ドサッ――
重い物が倒れる鈍い音。
(レイド……)
恐る恐る目を開ける。
(…………!!)
そこに倒れていたのはレッドウルフの方だった。レイドは冷ややかな目でそれを見つめる。
レイドの右手に持つ剣先からは、体液らしき緑の液体が滴り落ちている。
どうやら、レイドがレッドウルフを斬り付けたようだ。
まだ、身体が上下しているのが見受けられるので、微かに息をしているのだろう。だが、時間の問題だ。
オリビアはホッとして、レイドに駆け寄った。
「大丈……」
「大丈夫です、“ファズ様”」
オリビアの言葉を遮り、レイドは敢えてファズと呼んだ。
(そうだわ、先程の少年がいるのですわ)
チラリと少年を盗み見る。
オリビアは人知れず気を引き締めた。こんな時でもレイドは冷静に状況判断している。
少し遅れて少年もレイドの元に駆け付けて来た。
「あ、有難うございました」
深々と頭を下げ、お礼を言うその声は恐怖で震えていた。余程恐かったと見える。パッチリとした大きな瞳の可愛らしい小柄な少年。オリビアと同じ位の年齢に見える。
その瞳には、未だ脅えが残されていた。臆病な少年だ。
「こんな所で一人で何をしていたのですか?」
レイドがキツい口調で詰問する。確かに怪我一つしていない彼は十分怪しい。だが、先程まで魔物に襲われていたのだ。もう少し気遣ってあげてもいいのではないだろうか?
「レイドッ!!」
非難するように、ファズの口調を真似る。
(気を付けなくては)
「良いんです。怪しまれるのも当然です――突然、街に魔物達が襲って来て、僕、怖くて地下の貯蔵庫に隠れていたんです。辺りが静かになったので、外に出ようとしたら、扉が開かなくて……どうやら、倒れた家の廃材が扉の上に乗っていたみたいで――で、先程、やっと出てこれたんです。父さんや母さんを探していたら――そしたら、今度は突然、魔物に襲われて……」
思い出したように身体をブルリと身震いさせ、レイドの後ろに倒れている魔物を怯えた表情で一瞥した。
「そうですか、疑ってすみませんでした。でも、何故レッドウルフが?この辺りにいる魔物ではありません」
「そうなのですか?」
「えぇ」
頭を傾げる二人の会話をオリビアは黙って視線を落とし聞いていた。ボロを出さないようあんまり喋らない方が良い。
生暖かい嫌な風が不意にオリビアの頬を髪を撫でる。何だか、とてもいやな感じがする。
オリビアは何気なく顔を上げて、風が吹いてきた方を見た。
(あっ!!)
必死の形相で、ゆっくりと立ち上がるレッドウルフ。腹からはダラダラと緑色の液体を地面に垂れ流している。最期の命の炎を使い一矢報いるつもりなのか?
レイドは背を向け、会話に夢中で全くそれに気付いていない。
身体を下げ、飛び掛かる態勢を取る。おかしな事に、その瞳は虚ろだ。
(声を懸けているのでは間に合わない)
オリビアはその瞬間走りだしていた。走りながら腰の短剣を素早く抜く。流れるような身のこなしでレイドと少年の横をすり抜ける。
二人が何事かと此方を振り返る。
レッドウルフが大地を蹴ろうとした、その瞬間オリビアはその背に短剣を突き刺した。
肉を切る、重く鈍い感触がその手に広がる。だが、オリビアは無我夢中だった。(誰かが殺される姿は見たくない。それがレイドなら、尚更)
更にその手に力を込め差し込んだ。
その瞬間眩しい光を短剣が放つ。眩しさで目を開けていられない。
ドサリと近くで何かが倒れる音がした。見なくても、理解できた。レッドウルフが倒れ絶命したのだ。徐々に短剣がオリビアの手中で光を失う。
オリビアは驚きで茫然自失となっていた。短剣を持つ手が小刻みに震えている。動かないオリビア――否、動けないのだ。
そっと震えるオリビアの手に暖かい手が触れた。反射的にそちらを振り返る。
レイドだ――
「有難うございました、ファズ様」
囁くような優しい声。オリビアは剣を持つ手の力を抜いた。カタリと地面に短剣が落ち、カタカタと揺れる。
「嫌な思いをさせてしまいましたね」
腰を折り曲げ、落ちた短剣をレイドが拾い腰布で軽く刃先を拭き、オリビアに渡す。
その後、新しい布をバッグから取り出し差し出した。
「お顔を」
そこで初めてオリビアは気付いた。幾らかの返り血を浴びている事に――
これが、命を奪うという事なのだ。
レイドの身体にも沢山のその跡が残っていた。
読んでいただき有難うございました。