プロローグ-現実とフィクション-
見切り発車です。
僕は現実って物をしっかりと見てるつもりだ。人の成功談はほんの一握りの話ということも理解しているし、その裏には多くの涙を飲んだ人々がいることを知っている。小説やマンガも好きで読んだりするが、所詮はフィクションということも理解している。現実には起こるはずもない。
平穏な生活が何よりも幸せだとも感じられている。理由は至極簡単で、僕は現実を見ているからだ。僕と同じ生活水準を保てている人なんて世界で見れば少数派に分類される。それなのに贅沢を言おうとしたら罰が当たるかもしれない。
本当に罰が当たるのかについてはわからない。罰の存在すら疑いの対象になる。僕は神様なんかがいるとは思ってはいない。一方では悪いことをした奴に少なくとも相応の代償が下っているとは思う。その代償が物理的か精神的かは別として、きっと何かしらの理や力が働くことで下っているのかもしれない。
それでも現実を見ている僕としては曖昧な物である。贅沢をする訳ではないが、『罰が当たる』という言葉を否定したいとも感じている。そもそも全ての人に代償が下っているわけではないのだから、ルールとして存在しているわけではないだろう。
なぜ僕が唐突にこんなことを考えているのか分かる人はいるのだろうか?
心の声を聞くことが出来る人なんていないだろうからそもそもこんな事を考えること自体が不毛なのだが。
……うん、僕はやっぱり現実がしっかりと見えている方だとおもう。冷静に不毛なこととそうではないことを判断できている。
と……いうことは、これは一体どういうことだろうか?
例えば、フィクションの世界がフィクションの世界たらしめているのは何だろうか?
僕がよく感じることとしては、現実ではそうはならないことを描いて盛り上げることだ。ちょっとだけ身近なことを挙げるとするなら、クレーンで釣られた鉄骨もそのうちの一つだろうか?
クレーンで釣られた鉄骨と聞いて想像するのはなんだろうか?
現実では意識的にその場に近づいたり見たことのある人は多くはいないだろう。だからこそ多くの人は小説やマンガ、映画の影響を受けた情景を思い浮かべる。
そこではきっと主人公達に関係する人物が作業している近くを歩き、急に鉄骨の紐が緩んだりして鉄骨が落ちて来るだろう。
だがしかし、現実は違う。絶対に落ちないとは言わないが、ちゃんとした作業資格を持った人物が紐を結び、クレーンを操作する。さらに、少なくとも作業している場所の下には警備の人が立つことで歩行者の安全管理に努める。
もしも鉄骨が落ちるようなことがあれば作業員はほぼクビが確定だろう。落ちてきた鉄骨は地面を抉り、現場は見るも無残になるだろう。
結論として、そもそも落ちてこないのだから盛り上がる場所にはならない。また、もしも落ちてきたとしても歩行者はできるだけ離れた所を歩かされるのでそう簡単には巻き込まれそうにならないというのが現実である。どちらにしてもフィクションの盛り上がり要素はほとんどない。
では、改めて考えよう。これは一体どういうことだろうか?
現実にはあり得ない法則や状況が発生するのは少なくともフィクションであると僕は考えている。一方で、僕の今居る場所は物理法則では考えられない場所だ。物理法則どころか現実の構造としてありえないのではないかとすら思う。
僕は直前まで確かに現実を生きていたはずだ。だとしたら今現在僕が置かれている状況はフィクションなのか、それとも現実なのか。
考えを巡らせてもどうにも答えが見えてこない。
「ここは一体どこなんだ?」
枯れゆく時に思ふこととはの息抜き的に書いたものです。
更新については「枯思」よりも不定期になります。
前書きにもありましたが見切り発車です。
この先がどう転がるのかは作者にも不明なのであっちゃこっちゃに飛ぶ可能性がある世界観的なものを楽しめる人はお付き合いくださいませ。




