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短編しゅう

A4招待状

作者: 高居望

「おーい西岡」

 大して楽しくもない授業も終わり、冬の外気へさらされる支度をしていたところにひとつの声が。

 声の主は安藤先生。教卓で手を上げて僕を呼んでいる。

「はーい」

 指先が出る手袋の装着に苦戦していたが、仕方ないといったんはずしてセイウチ──安藤先生は生徒の間でセイウチと呼ばれている──の立つ場所へ向かった。途中、掃除のために開いていた窓を横切ったときに、窓から入り込んできた冷気にブルッと震える。寒いのは何よりも苦手だ。

「おう、帰り支度の途中に悪いな」

「いいえ。で、何ですか?」

 今日はまっすぐ家に帰って、読みかけの小説を読破するつもりだったのに…… 早くも予定外の妨害が入ってしまった。

 何ですか? なんて尋ねておいてこんなことを言うもの変かもしれないが、別にセイウチが僕と井戸端会議をするつもりでないぐらいのことはわかっている。別段愛想がいいわけでない僕が教員に話しかけられるなんて、理由がない限りない。それが担任であったところで、変わらない。それくらいには無愛想なつもりだ。

 何か押し付けられる用事があるな、と推測してみる。それからチラリ、とセイウチが持っているA4のプリントを見る。そして予想される面倒ごとに心中でため息。もちろん、僕は水面下のそんな感情なんてまるっきり見せずに応答しているが。心を見せてない、とも言うが、それは何も僕に限ったことではない。誰しもそんなものだろう、と自己防衛。

「コレな、家も近いってことで頼みたいんだが」

 説明足らずなその言葉でも、セイウチの言わんとすることはわかった。


 今日は、クラス委員──僕の隣の席の女子が休んでいる。僕のことが嫌いなあの子が。


「それって、わざわざ家まで持っていくものなんですか?」

 自分が雑用を嫌がっているようには聞こえない、あくまで単純に疑問に思っているような顔で尋ねた。

 正直、たいした理由がないんだったらわざわざ自分の自由な時間をそんな親しくもないクラスメイトのために奪われたくはなかった。それに彼女は…… いや、たとえ彼女でなかったとしても、僕は高校二年生、世間はまだ子供というかもしれないが…… この年になって異性の相手の家まで訪ねに行くのは何か気恥ずかしいものがある。

 だが、そんな悩める青年の頭の渦など悟ることもなく、ただただセイウチは頭をかいている。頭をかきたいのはこっちだってのに…… と心中で何度目かのため息。

「いや、昼休みに野山の様子をお母さんに電話で尋ねたときにな、『もし今日配られた手紙があれば、ぜひ家に送っていただきたいのですが』といわれちまってな。断るのも変だと思ったし、何よりお前──同じクラス委員で家も近所っていうちょうどよいやつがいたからな。了解しましたって言っちまったんだ」

 ははは、と笑うセイウチ。僕はそんなセイウチの身勝手さにちょっと腹が立った。そもそも、クラス委員もアンタのはかりごとで陥れられた役職だよな…… と言ってやりたい気分だった。だが……

「あぁ、それは……」

 だが、それはもうどうしようもない。たとえ僕が、彼女が僕のことをいかに嫌っているかを、どうして嫌っているかを語ったところでもう覆せないだろう。その言い分だと、もう誰かが手紙を届けに行くと伝えてしまっているだろうし。もう、それはどうしようもない。

「よく考えてみればいくら近所だからって、男の僕が家まで押しかけるのは、野山さんにとっても迷惑だと思うんですけど……」

 それでもいちおう正論を述べてみる。相手のことを慮ったふりをして、万が一をたのんでみる。

「うーん…… いや、オレもそうは思うんだが……」

 セイウチは決まり悪そうに今度は頬をかいた。オジサンが困った顔をしても、ぜんぜん助けてやろうとは思えないが。むしろ助けてほしいくらいなのに……

「相手方のお母さんがな…… 『たしか家が近所の、中学校も同じだった子がいたはずだから、その子なら帰り道によれるんじゃないかしら』なんて言うもんだから…… あ、それは名案ですね! なんて答えちゃったんだよ。つまり、配達者はもう知らせてあるってこと、だ」

 だ、といったん区切って言うところに無償に腹が立った。なにが『だ』だ…… と、ここで僕はいくつかの謎が飛んできたことに気がついた。

 なんで僕が近所なことを知っている? なんで僕がクラスメイトだと知っている? いや、そもそも…… なんで僕のことを生徒の母親が知っている?

 その母親の言葉はほのかな作為のにおいがする。セイウチをうまく誘導して、セイウチが僕をその役に選んだように見える。つまり野山母は僕の存在を知っている……

 むぅ……

 なんて推理小説めいた独白をしてみたが、よくよく考えればそこまで驚くことでもないか。第一、同じ中学校から同じ高校に行った生徒ぐらい、たとえそれが男であったところで、むしろ知らないほうが変わっている。それに今、僕は野山の隣の席。 食卓での毎日の会話の中で、一度ぐらい登場したことがあるのかもしれない。なら、隣の女子の母が僕を指名のようなことをする程度に知っていても、それほど不思議ではないか…… ただし、そう考えるには、僕が彼女に嫌われているという事実を見ないふりをすることになるが……

「だから、な! 頼んだぞ」

 セイウチはもう決定事項だから、という声で言い放った。僕はもう仕方がないので素直にうなずいた。そのまま立ち去るのかと思ったが、突然思い出したように、「あ、花壇当番、今週はうちだからな。野山が休みなんだから、西岡がやるんだぞ」といって、今そのまま去っていった。

 花壇。その言葉に僕は暗い気持ちにさせられた。彼女に嫌われたあれを思い出すから……


 そのままうなだれていても仕方がないので、僕は黙って自分の席に戻った。手袋が片方机から落ちかけていたのでプリントを持っていない方の手で直した。

 もうプリントを家まで届けるのは仕方がない…… あとはせいぜい、僕が着いたときにだれもインターホンのチャイムに出ないで、そのままポストに投入して家に帰宅できる、という可能性にかけよう。

 もう覆せない、覆すのにもむやみに時間がかかる事態は受け入れて、僕は再び指が出る手袋との格闘を始めた。特に不器用というわけではないのだけど、僕はコレを、指を一本ずつちゃんと直していかないとうまく装着できない。

 比較的楽な左手の手袋を完了して、次は右手──聞き手と逆の手を使用する上にその手は既に毛糸に覆われて扱いにくくなっている──に取り掛かろうとしたとき。

「おう、ニシオン。さっきセイウチになに頼まれてたの?」

 ポン、と後ろから肩に手が置かれた。

「あぁ、なんか…… プリント持っていけって」

 渡されたプリントを指差す。横水はとたんにニヤけついた。

「ははぁん…… なるほどなるほどぉ」

 からかうようにニヤけながら、彼女はその細い人差し指を唇に当てた。

「つまりニシオンはコレから、偶然手に入れた女子宅訪問チケットをもって弱っているお姫様のところに行くってわけですにゃ……」

 にゃんと招き猫のポーズをする少女。そのしぐさはいたずらに心踊る少女のようで、自分がからかわれているとわかっていながらもそんなに悪い気にはならなかった。

「つぅかお姫様って…… でもまぁお前よりかはお姫様か」

 冗談半分、いや冗談全部でそう返しておくことにした。僕をからかってきた意趣返しにもならないただの言葉遊びのつもりで。そう、そのつもりだったんだけど……

「……」

 とたん、彼女は急に口を閉じてしまった。その小さな顔は、不思議なことに僕をにらんでいた。

「ん? どうした?」

 突然の変異に戸惑いながらも僕は横水の肩に手を置こうとした。手を置くこと自体には何の意味もないのだけれど、ただなんとなく手が出ていた。

 スルリ、しかし彼女はそれをよけた。よけられることはそれほど驚く運動能力ではないけど、ぼくはよけられたことに驚いた。おもわずじっと横水を見てしまう。

 横水は三回ぐらい表情を変えて──いかり、とまどい、うつむき──プイと横を向いてしまった。

「確かにお姫様ってのはあたしじゃないな。じゃ、平民はさっさと帰ることにするよ」

 とだけ言って僕に背中を向けた。

「お、おぉい」

 なんで怒っているのか、いやそもそも彼女は怒っているのかよくわからないまま、ゆっくり遠ざかっていく横水の背中に声をかけた。でも停止する様子も、百八十度回転を決めてこちらに戻ってくる様子もない。

「あ、言い忘れたけど」

 ピタリ、と教室の出口あたりで一回止まって…… でもこちらへ振り向くことのないまま彼女は言った。

「手袋してからじゃマフラーは巻けないよ」

 それだけ言うとそのまま出て行ってしまった。僕はなにがなんだかよくわからず、ただ一回ため息をしてから手袋をはずしにかかった。



 冬はただ寒いだけじゃなくて体が痛くなる。風が吹けば耳が千切れそうな気になるし、そうでなくとも寒さで体がこわばって背中が痛くなる。だから、ここは人間の知恵──重ね着という技術でしのぐしかない。学ランの下のワイシャツ、その下には長袖のシャツを着てさらに肌着を着込んでいる。さらにネックウォーマーにニット帽に手袋。これだけ装着しないと僕は冬外出することも出来ない。そのくせ夏は夏で暑がりなものだから本当にどうしようもない。

 今日はまた一段と寒い。何らかの悪意を感じる寒風と戦いながら、僕は帰宅路ではない道を歩いている。理由はもちろん、A4の届け物。自分の時間を奪われた上に、後ろの席のアイツにも気になる態度をとられて、今の僕はそれなりにイライラしていた。こんな、明日学校に来ればすぐに手に入る上にたいした情報を載せていない紙──A4用紙の記すところは風邪の予防、つまりは保健通信だったわけだが──なんて本当にどうかしている、そうひとり恨んだ。野山の母親、この災難の元凶たるマダムは確実に嫌なやつだな、そう勝手に決め付けた。

 これだけの防寒対策をしてもなお寒い路地路、人一人歩いていない道というのはなんというか余計寒く見える。それは、寂しさからくるものなのかもしれない。くそぅ野山母め、なんて苦行を与えてくれたんだ……

 ほかにすることもなかったので、僕はこの件の悪が何なのか考えてみようと思う。

 誰が悪いか特定しても何の意味もない、というのは集団行動をしたことがあれば一度は聞いたことがあると思うけど、僕はそれに真っ向から反対する。問題があったら原因を特定する、それのどこが悪いのかと。つまるところその悪が特定される過程および結果が与える気まずさ、それを恐れての逃げなんじゃないか、と。

 なんて格好つけたことを言ってみたけど、実際に僕が指導者、管理者の立場だとして、集団で問題が起きたとしたら、「誰が悪いか特定しても何の意味もない」と言うだろう。それが間違っていると感じていても、便利なものは使ってしまう。ここからわかるのは、モノは言い様? 道具は使い様? あるいは僕が卑劣な人間ということ?

 ビュウ、一段と強い風が僕を直撃した。つまらない言葉遊びはやめろと言う天からの指示かもしれない。これ以上寒くされたらかなわないので素直に従うことにしよう。


「えっと、こっちかな?」

 僕は十五分ぶりに声を発した。生態が凍り付いていないかと心配しが、そんな異常現象は日本では起きない。僕はあいまいな記憶を思い出しながら、この三叉路のどれを行けばいいのかを考える。

「こっちだな」

 今度は意図的に声を出す。意図的なんて言っておきながら何だけど、別に意図があるわけじゃない。意図的にやっただけで、意図はない。


 先ほどの三叉路の選択はどうやら正しかったようだ。なんだか見覚えのある住宅街に出た。一つ一つの家が大きい、裕福な人たちが集合している土地だ。庭を駆け回っている犬、という風景は僕にとってはなかなか珍しい。

 僕は野山の家を見たことがない。同じ中学校出身とはいえ異性、家がこの辺りにあることは知っているけど、その明確な点までは知らなかった。セイウチは確か、ヨコミチという喫茶店の近くの赤い屋根の家がそうだと言っていたから、それを頼りに探すしかない。

 近所、なんてセイウチは言っていたけど、僕がこのあたりにくることはめったにない。ここは住宅地、多少の店はあっても大きなスーパーや本屋は別の場所にある。わざわざ外から来るようなところじゃないから、このあたりの地形はほとんどおぼろげだ。

 少し神経を使って回りの景色を見ながら歩く。行きは着けたけど帰りに迷った、なんてことがおきそうだから気をつけないと。道は広く、基本的にまっすぐだから大丈夫だとは思うけど、念には念を。ここまで来てしまったら、せめて帰宅ぐらいは早く済ませてとりあえず風呂に入りたい


 ヨコミチは意外にすぐ見つかった。あの三叉路からずっとまっすぐ、住宅街だとわかってから三分ぐらい歩いたところで左手に見つけた。あとは赤い家を探してプリントを届けるだけ、僕は一度背伸びをしてからまた歩き出した。

 ここまで来てようやく野山について考えてみる。横水が言ったとおり、見た目はお嬢様、性格も貴人という感じ。今日家柄までもがそれに見合うものだったことを知り、野山がお嬢様であることはさらにかたくなった。

 彼女と最後に会話らしい会話をしたのは三ヶ月前だということを僕はよく覚えている。三ヶ月前の放課後、僕は横水と会話をしながら後ろ向きに歩いていて、野山がそこにいることに気がつかなかった。花壇にしゃがんで水を上げていた野山もまた、僕が後ろから後ろ向きで近づいていることに気がつかなかった。そして彼女が立ち上がろうとしたとき、僕が話の落ちを語ろうとしたそのとき、衝突が起きた。僕は一歩前へ、彼女はそのまま花壇へ……。幸い怪我はなかったが、彼女のきれいな制服が、黒く長い髪が、水を含んだ泥で汚れてしまったのはいまっでも覚えている。幸い、花壇との衝突の前に体をひねったことで正面からの衝突は免れたが、その左側は泥で汚れてしまった。

 突然の予想外の出来事、僕はとっさに誤ることも出来ずただうろたえてしまった。彼女は、僕を見て、それから耳まで真っ赤になって、何も言わずに走り去ってしまった。追いかけることは、出来なかった……


 その日から彼女は僕を明らかに避けるようになった。横水あたりの友達はそんな風には見えないといっていたが、これは当事者である以上確信していた。もちろん彼女だって僕の存在自体を無視しているわけじゃない。一言二言必要な場合は下を向きながらでも話しかけてくれる。それでも、そのちょっとした気まずさ、ちょっとしたためらいはどうしようもなくヒシヒシと感じてしまう。

 彼女は控えめな性格をしているから僕を非難しなかったけど、あの時に花壇で僕がぶつかってしまったことが彼女にとっては許しがたいことだったのだろう。きっと僕はあのときにもう取り返しのつかないことをしてしまったのだろう。突然のことだったとはいえ、泥で汚したことさえ謝らなかった、のみならず追いかけることさえしなかったのだから……

 自分を避ける相手に謝る勇気もない僕は、それ以来うやむやにしてしまっている。今日は、もしかたらそのツケがきたのかもしれない。今日のこれは、他の誰のせいでもない、僕のせいなのかもしれない。

 野山、野山(れい)の家に行く。改めて考えるとため息が出る。風がまた寒くなってきた。 



「ここ、でいいのかな?」

 そこは周囲をさらに上回る豪邸だった。もちろん、テレビで見るような超セレブ住宅の様な無茶なモノではないけど、一通りのスポーツをやるのに不自由品広さの庭、厳かでありながら見るものを威圧しない壁、そして、洋風のしゃれた家。外国の大きな家、という印象が強い。

 すでに門──ゲート式だった──の脇に備え付けられたインターホンを押して、簡単な挨拶は済ませたところだ。野山母は、想像していたよりも若々しく、そして優しそうな声だった。

「お待たせしちゃってごめんなさいね」

 だいぶ遠くにある家のドアを開けて、よく通る声でそう言う野山母。僕はお辞儀をした。彼女が門にやってくるころには、どういう仕組みなのか、ゲートの方も勝手に開きだして、A4のプリントを渡すのにちょうどよい場になっていた。

「これ、プリントです。……。早く元気になって学校に来てください、と伝えておいてください」

 最後の一言は言うべきか迷ったけど、プリントを渡してさよならというのも失礼な気がした。野山母はニッコリと笑って、

「ありがとうね。寒い中大変だったでしょう。紅茶をいっぱい飲んで言ってね」

 僕の差し出そうとしたプリントを受け取らず、クルリと背中を向けて家のほうへ歩いていってしまった。

「あ、あのっ」

「ん? もしかして、急用があるの?」

 振り向いて尋ねられた。

「いや、そういうわけじゃ……」

 なんとなく口ごもってしまった僕に「じゃあ、ぜひ飲んで行って」と言うと再び歩み始めた。僕はなにがどうなっているのやらと思いながら仕方なくついていった。庭にはさっきは気づかなかったけど、大きな花壇があった。よく手入れされた、きれいな花壇は僕に嫌な記憶を思い出させた……


「はい、いらっしゃい」

「お邪魔します……」

 玄関にはスリッパ。靴下で汚してしまわないか不安になったけど、まさか使わないわけにも行かないので恐る恐る借りた。

 そこは、やはり洋という雰囲気が強かった。

 玄関をあがったあとに四角い空間。上へと続く青の螺旋階段と、正面、右側へ大きなドアが設けられている。

 野山母は正面のドアのノブをひねり「さぁ、どうぞ」と僕を促す。

「おぉ」

 思わず声を漏らしてしまう部屋だった。何畳という正確な数字はわからないが、十や二十どころじゃない広さだ。

 床には絨毯、壁には絵画…… 大きなつぼのようなかめのようなものもある。天井のシャンデリアの光を反射するそれらは戸惑いすら感じさせるものだった。

 そんな中を平然と歩いていく。野山母が向かう先中央にあるテーブルとソファ。僕は周りのものに眼をとられていてそれらの存在まったく気がついてなかった。だからといってそれらが凡庸なものなのかといえば首を横に振るしかない。それらに目がいった今は、逆に周りの装飾が見えなくなってしまうのだから。

「紅茶は何がいいかしら?」

「え…… え?」

 何って…… 何?

「ウバでいいかしら? 今日ちょうどおいしいのが届いたのよ」

 ウバが果たして何モノなのかわからないままに僕はうなずいた。

「ここへかけてね」

 言われるままに腰掛ける。その沈み具合はいまだかつて体験したことのないものだった。

「はい、どうぞ」

 続いて紅茶をいただいた。白を基調としたカップのところどころに金の模様が描かれていた。中には手にとる前から香ばしい香りのする液体。もしかしたらこれは、僕の知っている紅茶ではないのかもしれない。

「いただきます」

 緊張で渇いたのどを潤すためにもさっそく一杯いただいた。家で飲むような、Tパックを用いたそれとはもはや別物だった。

「お口に合うかしら?」

「はい。おいしいです」

 口に合うとか合わないとか、そういうレベルじゃないと思ったが、この人にとっては好みで好き嫌いが分かれる種類のものなのだろう、と思うことにした。環境が違えば価値観も違うものであるとしみじみ痛感。

「あ、そうだ…… プリントを……」

 ちょうどいいタイミングだったので、つい今まで握り続けていたA4の保健通信を机に置いた。透明の机は何で出来ているのかわからない。

「あぁ、せっかく家に来てくれたんだから、後で直接鈴ちゃんに渡してあげて。きっとあの子も喜ぶから」

 きっと悲しむと思います、とは言えなかった。かといって紙を再びとることも出来なかった、ただ見るだけ。シャンデリアの明かりはA4のプリントさえ何か価値のあるものに見せていた。

「ねぇ、西岡くん」

「は、はいっ」

 思わず背筋をのばしてしまう。それくらいに緊張している。

「名前はなんていうのかしら?」

ひかるです」

 まばゆいものに囲まれた自分が光っているとは思えないけど、そういう名前なのだから仕方がない。

「光くん、いい名前ね」

「あ、ありがとうございますっ」

「光くんのことは鈴ちゃんからよく聞いているわよ」

「え?」

 体中から嫌な汗が出てきた。……、あの花壇事件のことかな……

「優秀なんですってね、鈴ちゃんの家庭教師をやってもらいたいくらいだわ」

「えっ? あ、いや……」

 予想と違った言葉に驚きながらも少しほっとする。でも野山母の飛躍しすぎな話には苦笑してしまう。

 なんだかさっきから、え? を多用している気がするが、どうしても第一声がそれになってしまう。こんな僕のどこが優秀なんだろう……

「さてと、もう時間だわ」

 野山母の左、僕の右にある明るいデザインの時計、それを横目で見ると彼女は立ち上がった。僕は何の時間なのだかまったくわからない。僕がこの家にいていい時間だろうか…… だとしたら今すぐに帰りますが……

「光くん、今日はあえて楽しかったわ。鈴ちゃんのこと、どうかよろしくね」

「え、よろしくって……」

 何をよろしくされているのかまったくわからない。二度とかかわらないように、よろしくってこと?

「これから用事があるから私は出て行くけど、光くんは鈴ちゃんにお手が見渡してあげてね。二回の黄色いドアの部屋にいるわ。今頃はきっと起きていると思うから、ノックをすれば開けてくれるはずよ」

 さも当たり前カのように言って立ち去ろうとする野山母。僕はあわてて何とかとめようとする。

「え、ちょっと! それはなんでも」

「うん? 何か困ったことでもあるの?」

 そうも純粋に尋ねられると返事に窮すしてしまう。でもさすがに、これはダメだと思うから、何とか言葉をまとめて言う。

「いや、だって…… 知らない人間を家において行くなん……」

「私は私の人を見る目を信じているのよ。光くんはそんな心配無用でしょ?」

 自分の頬骨の辺りを指の腹で二回つつき、それから部屋を出て行った。なぜか全幅の信頼を得ている僕は一人、隣の席の女子の家に取り残されてしまった。



 三十分後、僕は今、あの青の螺旋階段を上って二階へやってきている。階段は十畳ほどの部屋につながっていて、そこには赤橙黄緑青紫と六色の扉があった。その原色のような明るい色のどれもが、今は閉じていた。

 とても静かな空間で、部屋の中から物音が聞こえてくるほどだった。つまりは物音が聞こえていた。黄色のドアから。

 その声は紛れもなく野山──この家の住人は皆そうだろうが──僕の同級生の野山という意味で野山だった。だが、とてもとてもドアをノックする勇気はわかなかった。

 彼女は歌を歌っていた。それもこれ以上ないというくらいノリノリで。今話題のあのアイドルの歌を……

「ねえ どうして 気づいてないの

 あついあつい 私の気持ち

 ねえ どうして 知らんぷり

 ほんとうは 気づいて いるくせに」

 ……。気まずさから体が動かない。彼女はそれなりに歌が上手で、歌自体にも文句はないのだけれど…… ギャップ。彼女は、僕のクラスで僕の隣に座っている彼女は、こんなかわいらしい歌をあんなかわいらしい声で歌う少女ではなかった、はずだ。

「たまに あなたと 目が合うの

 それは つまり 恋のサインでしょ」

 サビへ入る前のピアノのパートさえも鼻歌でまねしている。僕はいつの間にかその歌に聞き入ってしまっていた。

「見つめるだけで 熱が出ちゃう

 その瞳 不思議な力がある

 見つめあえば わかるでしょ

 わたしの この コイゴコロ

 あなたの ことが 大好きよ」

 歌が終わり、僕も正気に戻った。いつもの彼女とタイプが違う、なんていったけど、もしかしたら学校での彼女が本当の彼女と違っているのかもしれない。なんとなく、そう思った。

 あんな恋の歌を歌っているの聞くと、ついつい考えてしまう。彼女は、誰を思って──歌っていたのか。

 なんて感慨にふけっていると、不意にひとつのドアが開いた。色はもちろん……

「…………」

「……こ、こんにちは」

「…………」

「……あ、えっと…… こ、これ! 学校からの手紙!」

 A4の手紙を彼女に見えるように高く上げる。彼女は何の反応も示さない。ただ青い顔をしてこちらを見ている。驚きすらも見えない、ただ真っ青な彼女。

「なんか僕が届けることになって、家まで来て君のお母さんに渡して帰ろうと思ったんだけど…… それでお母さん用事があるから……」

 自分でも何を言っているのかよくわからない。ただこの目に映っている真っ青な彼女に、自分は不審者ではないことを示そうとして、それで必死で……

「あ、う、歌! 歌、かわいかったよ!」

 何を思ったのか、何の脈絡もない上に、絶対に気持ち悪がられる台詞をはいてしまった。ここに今鏡があれば、真っ青な自分の顔を見られただろう。

「き…… きいてた、の?」

 口をワナワナさせながら尋ねる彼女。僕はブンブンとうなずいた。

「こ、恋のサインだっけ?」

 今人気の歌、彼女の歌っていたあの歌の題名をつぶやく。他に何を言えばいいのか、わからなかった……

「あ、あわわ……」

 すると、真っ青だった彼女の顔が、今度は耳まで真っ赤になり…… りんごと比べてもそん色ない赤……

 

 パタン。


 彼女は倒れてしまった。突然のショックで熱がぶり返してしまったのだろう。僕はとんでもない見舞い客となってしまった……



「あ、あれ?」

 気がつくとそこはベッドの中だった。私、さっきまで歌を聞いてて…… あれ?

 なにかとてつもない衝撃が体を走った気がしたのだけど…… あれって、夢?

 部屋では相変わらず音楽が流れていた。恋のサイン、ちょうどサビに入る前だった。

 ずっとリピートしてたんだっけ? あ、そうだ! それでちょっとお腹すいちゃったから一階で何か食べようかとお……

 突然停止する思考。とまったのは心だけでなく、その体までもだった。瞬きもしないままで固まっている。

 あ…… ああ…… ああぁぁ!!!

 ガバッ、と飛び起きて、そして室内を見渡した。

 八畳の洋室。ベッドがあって、本棚があって、勉強机があって、オーディオセットがあって…… ソファがあって、テレビがって、ゲーム機があって…… ぬいぐるみがあって、クッションがあって、パソコンがあって…… そして…… 西岡光がいた。すやすやと、壁に体をあずけて眠っていた。


 悲鳴すら出ない。彼を見た瞬間にさっきのことまでも思い出した。自分の歌が聞かれてて、それでかわいいって言われて。

 かわいいっていわれて、彼にそう、かわいいっていわれた。それって、私のこと、だよね? もしかして家のこと? それとも黄色のドアのこと? 部屋のピンクのじゅうたんのこと? 私、のパジャマのこと?

 ……。彼女は見る見る真っ赤になっていった。光くんに、かわいいって、言われた……

 彼女は今まで異性にかわいいっていわれたことがなかった。付き合って、といわれたことは何度かあったが、かわいい、は、なかった。それだけでも十分特別なことだが、彼女がその頬を朱に染めているのは、それだけの理由ではなかった。

 うそ…… 私、光くんに言われちゃった…… 光くんに…… かわいいよって……

 かわいいよとは言っていなかったが、その空想はさらに彼女の赤みを増した。端的に言えば、鈴は光に片思いをしていた。

 やっぱり! そうよ! 光くんが…… って…… なんで彼がこの部屋に……?

 その説明は光が先ほど必死にしていたが、彼女の耳にはまったく入っていなかった。ただ、ドアを開けたら彼がいた。あの日から、あのぶつかった日から恥ずかしくて会話できなかった光が、絶対に自分のことを嫌いになったと思っていた隣の席の男子が、いた。

 ……。あ、毛布! 毛布かけないと! 風邪、引いちゃうから……

 彼女は急いで自らのベッドから毛布を引っ張り出しにかかった。大きな音を立てて、彼にかけてあげようと……

「ん……」

 鈴はその声にびくっとする。そして手に持っていた掛け布団を放してしまった。

「ん、あれ? いつの間にか寝て……」

 光の声が聞こえた。鈴の想像じゃない、本物の……

「あ」

 どうやらこの部屋でうとうとして、そのまま寝てしまった彼も現状を思い出したようだ。

 光は右斜め前のベッドへ顔を向ける。そして、意識を取り戻したらしい彼へと振り向いた鈴と目があった。再びの──視線の衝突。

「……」

「……」

 またしても無言。だが、どちらも先ほどのように取り乱してはいなかった。

「こ、こんにちは」

「こん、にちは」

 光のあいさつに鈴が答える。普段は目を合わせることすら珍しい二人は、見詰め合っている。

「あ、あのですね。僕がここにいるのは、いろいろと込み入った事情がありまして…… 警察に通報する前に聞いて、もらえますか?」

 緊張からか、現状を把握した上での緊張からか、彼は敬語になっていた。

「そ、そんな…… 通報なんて…… しない、よ」

 彼女も何とか返事をする。話を聞く、という意思を示すため。

「あ、ありがとう」

 彼はほっとしたようにため息をついて、それからことのあらましを説明した。緊張しながらも、こわばりながらも、ゆっくりと──これまでを語った。



「な、なるほど……」

 すべてを伝えるのには三十分ぐらいかかったかな。それでも、伝えきれた。たぶん……

「それは、つまり……」

 彼女の下す判決、それは僕の運命を左右する。そのジャッジを、僕は心して聞く。

「おか……」

 おか? にしおかくん最低だねってこと?

「おかあ…… お母さんが悪いんだね」

 よ、よかったぁ。真実が伝わったようで、僕はほっとする。本当にほっとした。

「なんか、ゴメン」

 僕はもう謝るしかなかった。勝手に家にいること、歌っているのを聞いてしまったこと、突然驚かせてしまったこと、無断で部屋で居眠りしていたこと…… そのどれも本当に悪いと思っているけど、僕が謝らなければいけないのは別の……

「三ヶ月前……」

 唐突に思うかもしれないけど、今この時に言っておきたかった。

「君にぶつかって、ドロだらけにしちゃって、そのことを謝りもしないで、そのときも、次の日も、今まで……」

 めちゃくちゃな言葉になっているのはわかっている。それでも、僕は今これを言わなければいけない…… いや、そんな義務感じゃなくて、僕が今そういいたいんだ。

「本当に、ゴメン!」

 僕は頭を下げた、正座して、額が床にぶつかるぐらいで、謝った。

「わ、……」

 彼女は何か言おうとしてそして止まった。

 わかってる。こんなことで許してもらえるほど甘いものじゃない。もう二度と許されなくてもぜんぜん不思議じゃない、それほどのことだった。

 彼女が、自分のきれいな髪が、その制服がどろに汚れたまま走って帰るその気持ちは、どんなものだったろうか。翌日、僕と顔を合わせるのは、どんな気持ちだったろうか。

 そんな彼女を、彼女の心を考えると、今まで逃げていたことに正面から向かってみると…… 目の前がにじんできた。

 ポロリ、と一粒落ちてからそれが涙だと気がつく。彼女が心配そうな顔で見ているのが見える。でもその景色がまたにじんできた。

 ポロリ、ポロリ、どんどんしずくは落ちてきて、僕はあわてて袖で抑える。

 僕が泣くなんて卑怯だ、泣くのは、ダメだ……

 必死でその流れを止めて、それから笑いかける。ギリギリの笑顔。気を抜けばまたこぼれそうで、それでも僕は笑った。

「ゴメン、急に驚かせちゃって…… 男の癖に、ホントなにやってんだろ」

 かっこわりぃ、とつぶやく。その笑みは自嘲だったのかもしれない。

「そ、そんなことないよ!」

 でも、そんな空気を彼女が断ち切った。びっくりするほどの大きな声で。静かな彼女が学校では絶対に出すことのない、本当の彼女の声で。

「涙はかっこ悪くないよ。心があるって証だから」

 彼女は微笑んでいった。僕を嫌っているはずの彼女が、僕に、やわらかい微笑を。

「それにひか、西岡くんはぜんぜん悪くないよ。私が勝手に転んで、私が勝手に避けて…… 勝手だったのは私。私こそごめんなさい。そんな思いをさせて、流したくない涙まで流させて。ごめんなさい」

 僕のことを嫌っているはずの彼女が逆に僕に謝った。それは……

「それにね。あの衝突だって、べつに悪いことばっかりってわけじゃなかったんだ」

 ──あなたのことを思う心が、自分の心が見つかったから。

「好きな人が出来たんだ」

 彼女は語る。滑らかに、普段とはぜんぜん違う、ただ明るく。

「その人は考えかたが素敵で、でも勉強はあんまりしないから歴史とかは苦手で。運動は走るのは早いけど球技は苦手で。それでもたまに見えるその人の考えは、本当に素敵で」

 彼女は楽しそうに語る。

「その人は何も考えてなさそうに見えて、でも責任感は人一倍強いみたいで、人の気持ちを考えて涙を流せる人で。でも涙を流すのは好きじゃないみたいで」

 彼女は僕を見て話す。彼女は僕に話す。

「そんなその人が、私は好き」

 僕にそう言う。微笑んで、微笑んで。

「そんあひか、にしお、ううん。そんな光くんが、私は──    」

 僕のことを嫌いだと思っていた彼女は、そうではなかった。本当は、僕が彼女に思っている気持ちを、彼女も僕に思ってくれていた。

 窓から差し込む夕日、それが照らす彼女の笑顔は、微笑みながら流れている一筋のしずくは


   ──何よりも輝いていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] ハッピーさ溢れるいい話でしたっ!! 重要な台詞をわざわざ空白にするのって、もしかしてそういう作風だから?
感想一覧
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