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王太子の婚礼肖像を修復したら、花嫁が二人いました

作者: 星渡リン
掲載日:2026/07/19

「殿下。この肖像には、花嫁が二人います」


 婚礼まで、あと六日。


 王宮の大広間に飾られる予定だった婚礼肖像を前に、リュネア・フェルゼンはそう告げた。


 高さは人の背丈を優に超える。金箔を施した額縁の中で、王太子オルディスと、その婚約者であるリュネアが並んでいる。


 王太子は紺青の礼装に身を包み、リュネアは真珠色の婚礼衣装をまとっていた。背後の窓からは王都の尖塔が見え、二人の間には白薔薇が飾られている。


 婚礼後には複製画が各地へ送られる、王家の正式な記録画だ。


 その花嫁の左肩に、細い亀裂が入っていた。


「二人?」


 隣に立つオルディスが、わずかに眉を寄せる。


「はい。こちらをご覧ください」


 リュネアは携帯用の拡大鏡を差し出した。


 亀裂は首飾りの下から肩へ向かって伸びている。輸送中にぶつけたのではない。表面の絵具が、内側から押し上げられていた。


 斜めから灯りを当てると、花嫁の肩の下に別の輪郭が浮かび上がる。


 さらに、亀裂の奥から小さな目がのぞいていた。


 リュネアの顔より低い位置に描かれた、別の女性の目だった。


「私の顔と婚礼衣装は、この肖像にあとから描き加えられています」


「古い画布を使ったということか」


「それだけでは、説明がつきません。古い絵を完全に覆うなら、下の保護膜を落としてから新しい下地を作ります。ですが、これは完成した絵の保護膜の上へ、別の顔と衣装だけを重ねています」


 リュネアは亀裂へ顔を近づけた。


「しかも、急いで仕上げたのでしょう。上塗りに使われた乾燥促進剤が強すぎます。表面だけが先に縮み、下の層との間にひずみが生まれた。それが、今回の亀裂です」


 昨日まで、王宮はこの肖像の完成を祝っていた。


 今朝になって傷が見つかり、王宮付きの修復師を呼ぼうとしたが、彼は地方神殿の壁画修復へ出ている。戻るのは半月後だった。


 婚礼には間に合わない。


 そこで名乗り出たのが、花嫁本人であるリュネアだった。


 彼女の亡き母は、公爵家へ嫁ぐ前に王立美術院で絵画保存を学んでいた。結婚後も領内の礼拝堂や古い肖像の修復を続け、その技術を次女へ教えていた。


 亀裂を目立たなくするだけならば、難しい作業ではないはずだった。


 しかし、修復より先に調べるべきものが現れた。


「上の絵具だけを取り除けるか」


 オルディスが尋ねる。


「一部であれば可能です。ただし、すぐにはできません」


 リュネアは亀裂の周囲を指した。


「顕微鏡を使い、髪の毛ほどの幅ずつ進めます。数日かけても、確認できるのは目元や手元などに限られるでしょう」


「全体を見る方法はないのか」


「一時的に透かすだけでしたら」


 リュネアは道具箱から、銀色の細い瓶を取り出した。


「母が作った層映し液です。異なる乾性油で作られた絵具へ順番に作用し、指定した層だけ光を通しやすくします。絵具そのものを剥がすものではありません」


「下の人物を見られるのか」


「上塗りと元の絵で使われた油が異なっていれば。ただし、効果は半刻ほどです。濃度を誤れば保護膜が白く曇ります。何度も使える方法でもありません」


「試してくれ」


「殿下」


 冷静な声が、二人の間に割って入った。


 従者を伴って大広間へ入ってきたのは、王国宰相ガルヴェンだった。五十代半ばの男で、銀色の髪を隙なく後ろへ撫でつけている。


「婚礼を六日後に控えた今、公式肖像へ薬液を塗るおつもりですか」


「表面の下に、別の人物が描かれている」


 オルディスが答える。


 ガルヴェンは亀裂を一瞥した。


「乾燥の際に生じた絵具のむらを、人物の目と見間違えられたのではありませんか。絵の中に秘密の花嫁がいるとは、ずいぶん空想小説めいたお話ですな」


「調べれば分かります」


「分からなかった場合、残るのは婚礼肖像へ薬液を塗ったという事実だけです」


 ガルヴェンはリュネアへ視線を移した。


「フェルゼン公爵令嬢。あなたは間もなく王太子妃となられる。根拠の乏しい疑念で、ご自身の婚礼へ傷をつけることはお勧めいたしません」


「婚礼肖像の下に誰がいるのかを確かめることは、根拠の乏しい疑念ではございません」


「上塗りのある肖像など珍しくもない。絵師が構図を直したのでしょう」


「でしたら、誰を描き直したのかを記した制作記録があるはずです」


「絵師へ確認すれば済むことです」


「その絵師は、二年前から行方が分からないと聞いております」


 一瞬の間があった。


 ガルヴェンは眉一つ動かさなかった。


「外国へ移住したのでしょう。芸術家というものは、官僚のように行き先を逐一届け出るとは限りません」


「それも含めて調べます」


 オルディスが言った。


「この部屋を封鎖する。作業に必要な者以外は入れるな」


「婚礼の日程に影響が出ます」


「肖像を調べるだけだ。婚礼の日程を変えるとは言っていない」


 ガルヴェンはわずかに目を細めた。


「承知いたしました。ただし、王国の慶事を混乱させる結果にならぬようお願いいたします」


 丁寧に一礼し、ガルヴェンは退室した。


 扉が閉じるまで、その足取りは一度も乱れなかった。


     ◇


 リュネアは、最初に亀裂の端を針先ほど開いた。


 作業用の拡大鏡を固定し、表面の絵具を髪の毛より細い幅で削っていく。


 上塗りの下には、琥珀色の保護膜があった。


 さらにその下から、淡い金色が現れる。


 髪だった。


 リュネアはそこで手を止めた。


 それ以上、直接剥がす必要はない。


 上塗りに使われた絵具を微量だけ採取し、油の種類を確かめる。元の絵には胡桃油、上塗りには速乾性の琥珀油が使われていた。


 層映し液で分けられる組み合わせだった。


 リュネアは肖像の目立たない隅へ、薄く薬液を塗った。銀白色の粉末を含む液体が、保護膜の上へ広がっていく。


 青い魔導灯を当てると、現在の花嫁衣装がゆっくりと半透明になった。


 その下から、別の袖が現れる。


「作用しています」


 リュネアは濃度をわずかに調整した。


 上塗りの輪郭が薄れ、その下にある元の色彩が浮かび上がる。


 唇。


 頬。


 薄青の瞳。


 淡い金色の髪。


 見覚えのある顔が、半透明のリュネアと重なっていた。


「カティエナ……」


 オルディスの声が掠れた。


 二年前に死んだはずの、リュネアの姉。


 かつてオルディスの婚約者だった、カティエナ・フェルゼンである。


 リュネアは返事をしなかった。


 薬液の変化から目を離せない。


 姉の輪郭が現れた瞬間、瓶を持つ指先から感覚が消えていた。


 濃度を誤れば、保護膜を曇らせる。


 筆圧をかければ、姉の顔を傷つける。


 死んだと思っていた姉の姿を、自分の手でもう一度消してしまうかもしれない。


 その恐怖が、指先から腕へ這い上がってくる。


 細いガラス瓶が、器の縁に触れた。


 硬い音が鳴った。


「リュネア」


「話しかけないでください」


 反射的に強い声が出た。


 オルディスが黙る。


「申し訳ございません」


「謝らなくていい。私は何をすればいい」


「魔導灯を持ってください。角度を変えないで」


 オルディスは灯りを受け取った。


 リュネアの指先が彼の手へ触れる。


 自分でも驚くほど冷え切っていた。


「この部屋を暖めさせる」


「温度を急に上げれば、画布が動きます」


「では、せめて休め」


「今、薬液の反応を見逃す方が危険です」


「君は姉の顔を壊すことを恐れている」


 リュネアの手が止まった。


「分かったようなことを言わないでください」


「分かってはいない。だから聞いている」


 オルディスは灯りを動かさなかった。


「私は、カティエナの死を疑わなかった」


「供述書があったのでしょう」


「あった。彼女の署名も、公爵家の印も。面会を求めても、精神が不安定だから刺激すべきではないと退けられた。その数日後に、馬車事故の知らせが届いた」


 リュネアは薬液を吸い取る布を取り替えた。


「殿下が悪いわけではありません」


「そう言ってもらう方が楽だから、私は二年間、自分にもそう言い続けた」


 オルディスの声には、王太子らしい整いがなかった。


「調査は行われた。印も署名も揃っていた。王家の法務官が確認した。だから仕方がなかったと」


 青い灯りの下で、姉の片目がこちらを見ている。


「本当は、疑って調べ、まだ生きているかもしれないと知るのが怖かった。もし生きているなら、なぜ助けられなかったのかを考えなければならない。死んだと受け入れた方が、悲しむだけで済んだ」


「それを今、私に聞かせてどうなさるのですか」


「分からない」


 オルディスは唇を噛んだ。


「君がその手で姉の顔を傷つけることを恐れている隣で、私はきれいな慰めの言葉を口にしそうになった。それがひどく卑怯に思えた」


 リュネアはしばらく黙っていた。


 やがて、細筆を握り直す。


「私も、姉様の代わりを務めれば、家族がこれ以上傷つかずに済むと思っていました」


「リュネア」


「なぜ姉様が反逆したのか、考えようともしなかった。考えれば、王家との婚約を受け入れられなくなるからです。私も、疑問を持たない方を選びました」


 二人の間に、慰め合う言葉はなかった。


 許しを与えられる者も、この場にはいない。


「灯りを少しだけ右へ」


 リュネアが言った。


 オルディスは黙って従った。


「そこで止めてください」


「ああ」


「絶対に動かさないで」


「分かった」


 層映し液の効果が切れるまで、オルディスは同じ姿勢で灯りを持ち続けた。


     ◇


 翌日、リュネアは王立美術院から二人の修復師を呼び寄せた。


 自分一人の見立てでは、婚礼を揺るがす証拠として弱い。第三者による確認が必要だった。


 二人の修復師は絵具を調べ、同じ結論を出した。


 肖像の大部分は二年前に完成している。


 その後、花嫁の顔と衣装だけが上から描き替えられた。


 層映し液で全体を透かす作業は、必要な箇所だけに絞った。残りは魔導光を反射する観測板へ記録し、元の絵と上塗りの位置を比較する。


 姉の左手には、白薔薇が握られていた。


 棘は鑑賞者の側へ向けられている。


「姉妹で決めた合図です」


 リュネアはオルディスへ説明した。


「誰かに見張られている、という意味でした」


 棘だけは、周囲と筆致が異なっていた。王宮絵師ではなく、カティエナ本人が細筆で描き足した可能性が高い。


 右手には、婚約指輪がない。


 指輪は小卓の上に置かれ、その隣には折り畳まれた書面が描かれていた。


 表題の一部は、婚姻――申立書。


 下には王宮法務局の整理番号が記されている。


 さらに、背景にある鏡にも不自然なものが描き込まれていた。


 鏡に映っているのは、王都には存在しない八角形の鐘楼だった。その下には縦線が七本、横線が三本並んでいる。


「これはどこかの部屋を示すものではありません」


 建築台帳を調べたリュネアは、古い図面を机へ広げた。


「セレドナ旧関税庫です」


 かつて国境から運び込まれる交易品を検査していた施設だった。王都の街道が付け替えられてからは使われなくなり、現在は中央復興局の資材倉庫になっている。


 その目印が、八角形の鐘楼だった。


「七と三は?」


「姉様が調べていた運送記録に、同じ形式の番号がありました。第七保管庫、第三区画です」


 つまり、鏡が示していたのは未来の幽閉先ではない。


 カティエナが肖像を描かれていた時点で突き止めていた、不正に関わる場所だった。


「姉様は、ここに何かがあると伝えようとしたのです」


 オルディスはすぐに近衛隊長を呼んだ。


 だが、軍勢を直接向かわせることはしなかった。


 セレドナ旧関税庫を管理しているのは、ガルヴェンが長官を務める中央復興局だ。目立つ動きを見せれば、証拠を移される。


 オルディスは王家の備蓄品検査という名目で、二人の監査官と少数の近衛を現地へ送った。


「第七保管庫の第三区画を確認しろ。ただし、見つけてもその場で動くな。誰が出入りしているか、運搬経路まで押さえろ」


「承知いたしました」


「報告は私へ直接。王太子宮の通常経路を使うな」


 近衛隊長が退出したあと、オルディスはリュネアへ向き直った。


「婚礼までは予定どおり動く」


「ガルヴェンを油断させるためですか」


「あの男は、肖像だけなら言い逃れられると考えている。今、中止を発表すれば、倉庫を空にして部下へ責任を負わせるだろう」


「姉様の婚姻辞退申立書も探す必要があります」


「ああ。王宮用の控えと、公爵家用の控えがあるはずだ」


 リュネアは父の顔を思い浮かべた。


 その夜、彼女はフェルゼン公爵邸へ戻った。


     ◇


「姉様が提出した婚姻辞退申立書は、どこですか」


 父の書斎へ入るなり、リュネアは尋ねた。


 フェルゼン公爵は机の向こうで、娘が差し出した整理番号を見つめた。


「何の話だ」


「カティエナ姉様が婚礼肖像へ描き残した番号です。王宮側の記録箱は、宰相府へ貸し出されたあと、中身だけ失われていました」


「カティエナは反逆の疑いをかけられていた。古い書面に価値はない」


「申立書が存在したことは否定なさらないのですね」


 父の目が、わずかに動く。


「公爵家用の控えを見せてください」


「お前が知る必要はない」


「六日後には王太子妃となる娘へ、婚姻契約の内容を知らせる必要がないと?」


「お前の契約とは別のものだ」


「姉様の身体の上に私の顔を描き、その絵を新しい婚礼肖像として登録しておきながら、別の契約だとおっしゃるのですか」


 父は立ち上がった。


「声を落としなさい」


「誰に聞かれることを恐れているのです」


「リュネア」


「申立書を見せてください。拒まれるのでしたら、王家へ家宅調査を願い出ます」


「実の父を罪人として扱うつもりか」


「私は、姉様が罪人として扱われた理由を調べています」


 書斎に長い沈黙が落ちた。


 やがて父は壁金庫を開け、奥から一通の封筒を取り出した。


 婚姻辞退申立書。


 カティエナの署名がある。


 理由欄には、婚姻契約へ無断で加えられた条項について記されていた。


 婚姻成立後、フェルゼン公爵領にある鉱山の管理権を中央復興局へ移すこと。


 国境地域へ送られるはずの復興資金が、架空の輸送費や資材費へ付け替えられていること。


 その物資が、セレドナ旧関税庫へ運ばれていること。


 不正の調査が終わるまで、婚姻契約への署名を拒否する。


 それが姉の意思だった。


「姉様は反逆などしていなかった」


 リュネアは書面から顔を上げた。


「なぜ、これを隠したのですか」


「公表できるはずがなかった」


 父は椅子へ腰を落とした。


「ガルヴェン宰相は、王宮会計の大半を握っていた。逆らえば、領地への穀物輸送を止めると告げられた。あの年、北部は凶作だった」


「だから、姉様を見捨てたのですか」


「死んだと聞かされた」


「本当に信じたのですか」


 父は答えなかった。


 信じてはいなかった。


 疑いながら、調べなかったのだ。


「お前との婚約を受け入れれば、この件は終わらせると言われた。領地への支援も続けると」


「姉様を消し、私を代わりに差し出せば」


「お前なら役目を果たせると思った」


 リュネアは申立書を持つ指へ力を込めた。


「役目を果たせる娘なら、本人に何も知らせなくてもよいのですか」


「家には、家の事情がある」


「姉様の意思も、私の意思も、その事情には含まれないのですね」


 父は黙ったままだった。


 リュネアは申立書を封筒へ戻す。


「それをどこへ持っていく」


「本来、届くべきだった場所へ」


「待ちなさい」


「お父様」


 リュネアは扉の前で振り返った。


「私は、姉様の代わりなら務められると思っていました。けれど、姉様の意思を消すための上塗りになるつもりはありません」


     ◇


 婚礼の二日前。


 王太子宮へ、セレドナ旧関税庫を調べていた近衛隊長が戻った。


 報告を受けたオルディスは、その日の深夜、国王との非公開面会を求めた。


 同席を許されたのは、国王直属の法務卿、会計院長、王宮医師長。そして、リュネアだけだった。


「第七保管庫の第三区画に、二重の床がありました」


 近衛隊長が報告する。


「床下には、中央復興局から抜かれた資金の移送記録と、名義を偽装した商会の帳簿が保管されています。また、保管庫の地下に、台帳へ記載されていない監禁区画を確認しました」


 リュネアは息を詰めた。


「中に、女性が一名います。年齢と外見はカティエナ・フェルゼン嬢と一致します」


 椅子から立ち上がりかけたリュネアを、オルディスが視線で制した。


「生存は確認できたのですね」


「あくまで外からの確認です。見張りは六名。交代時刻と連絡経路は把握しました」


 今すぐ助けに行きたい。


 その思いを、リュネアは爪が掌へ食い込むほど握り込んだ。


 ここで急げば、姉を人質に取られる。


 国王は机上の帳簿の写しに目を通した。


「ガルヴェンの関与を示すものは」


「本人の署名がある命令書は、まだ確認できておりません。ですが、資金の一部は三つの商会を経由し、宰相の所有する土地の購入へ使われています」


 会計院長が答える。


「明日の夜、王家直属の監査命令を発出する」


 国王が決断した。


「旧関税庫を制圧し、帳簿と監禁されている女性を保護せよ。同時に、王都にある中央復興局と関係商会を封鎖する」


「ガルヴェン本人は?」


 法務卿が尋ねる。


「婚礼まで泳がせる」


 答えたのはオルディスだった。


「彼が異変を知れば、国外へ逃げるか、国王陛下の命令を側近の独断に仕立てるでしょう。婚礼当日まで、王宮の門と街道は慶事警備の名目で閉じられます。関係者を同時に拘束するには、その方が都合がいい」


 国王が息子を見る。


「婚礼を罠として使うつもりか」


「リュネアとの婚礼を、このまま成立させるつもりはありません」


 オルディスはリュネアへ目を向けた。


「その点だけは、すでに合意しています」


 国王はしばらく黙ったあと、うなずいた。


「では、婚礼の開始時刻をもって中央復興局の全施設を封鎖する。ガルヴェンには、旧関税庫から決定的な証拠は見つからなかったと流せ」


「御意」


 その夜、リュネアは王宮の一室で待ち続けた。


 窓の外が白み始めたころ、扉が開いた。


 最初に入ってきた王宮医師長が、静かにうなずく。


「ご存命です」


 リュネアは、その場から動けなかった。


「衰弱はしていますが、命に別状はありません。ただし、長時間の聴取や人前へ出すことは認められません」


 寝台のある隣室へ案内される。


 蜂蜜色の髪は短く切られ、頬は痩せていた。それでも、薄青の瞳を見間違えるはずがない。


「姉様」


 呼びかけると、その目がゆっくりと開いた。


「リュネア?」


 かすれた声だった。


 リュネアは寝台の脇へ膝をつき、姉の手を両手で包んだ。


 細く、冷たい。


 それでも、確かな温もりがあった。


「遅くなって、ごめんなさい」


「あなたが謝ることではないわ」


「私は、姉様が反逆したのだと思っていました」


「そう思わせるために、あの人たちは記録を作ったのよ」


「それでも、調べようとしなかった」


 カティエナの指が、妹の手を弱く握り返した。


「今、見つけてくれたでしょう」


「肖像に残してくれたからです」


「棘に気づいた?」


「すぐに」


 カティエナは、ほんの少し笑った。


「あの鐘楼は、倉庫の場所を知らせるためだったの。婚姻契約の資材費を調べて、帳簿があそこへ集められていると突き止めた。肖像を仕上げた翌日に、法務局へ告発するつもりだった」


 だが、その前に連れ去られた。


 カティエナは署名を強要され続けていた。フェルゼン公爵家の継承印を使える長女として、鉱山移管を承認させるために生かされていたのだ。


 法務卿と会計院長は、医師の許可する短い時間の中で証言を確認した。証言書にはカティエナ本人の署名だけでなく、医師長と国王直属の記録官が立会人として署名する。


 婚礼当日に彼女を人前へ出す必要はなかった。


 すでに必要な証言と証拠は揃っている。


 あとは、ガルヴェンに逃げる隙を与えず、彼の指揮下にある者たちを同時に拘束するだけだった。


     ◇


 婚礼当日。


 王宮礼拝堂には、国中の有力者が集まっていた。


 天井から下がる銀の燭台。白薔薇で飾られた柱。王家の紋章を織り込んだ深紅の絨毯。


 ガルヴェンは宰相席に座り、普段と変わらない顔で祭壇を見ていた。


 彼のもとへは、旧関税庫の監査では空の木箱がいくつか見つかっただけ、という報告が届いている。


 婚礼の鐘が鳴る。


 扉が開いた。


 入ってきたリュネアは、婚礼衣装をまとっていなかった。


 灰青色の簡素なドレス。


 髪にも宝冠はなく、白いリボンで束ねている。


 続いて運び込まれたのは、巨大な婚礼肖像だった。


 右半分には、現在のリュネア。


 左半分には層映し液が施され、その下からカティエナの姿が浮かび上がっている。


 一枚の絵の中に、二人の花嫁がいた。


「これは、婚礼の装いではございませんな」


 ガルヴェンが静かに口を開いた。


「何か手違いがありましたか、フェルゼン公爵令嬢」


「手違いがあったのは、二年前です」


 リュネアは肖像の隣へ立った。


「この婚礼肖像には、もともと姉カティエナが描かれていました。完成後、その顔と衣装だけが塗り替えられ、私の肖像として再登録されています」


「王立美術院の確認は?」


「三名の修復師が、使用された絵具、乾性油、保護膜の年代を確認しています」


 美術院長が席から立ち、報告書を国王へ提出する。


 ガルヴェンは動じなかった。


「たとえ絵が再利用されていたとしても、それ自体は不正の証拠にはならないでしょう。費用と時間を節約するため、使える部分を残したとも考えられる」


「王家の婚礼肖像に未使用の画布を用いる規定へ違反しています」


「規定違反ならば、担当絵師を処分すれば済む話です」


「その絵師が二年前に行方不明になった件も、現在調査中です」


「芸術家の失踪まで、私の責任にされるのですかな」


「いいえ。肖像だけで、あなたを告発するつもりはありません」


 リュネアは、カティエナの手元を示した。


「姉は肖像の中へ、婚姻辞退申立書の整理番号と、セレドナ旧関税庫の場所を残していました」


 法務卿が申立書を開く。


「申立書には、婚姻契約への鉱山管理権移管が無断で加えられたこと、復興資金が架空の輸送費へ付け替えられていたことが記載されています」


「亡くなった令嬢の推測でしょう」


「カティエナ・フェルゼン嬢は生存している」


 国王が告げた。


 礼拝堂に低いざわめきが広がった。


 ガルヴェンの表情は変わらない。


 ただ、その目が国王、法務卿、会計院長の順に動いた。


「いつ、保護されたのでしょう」


「昨日の未明だ」


「なるほど」


 それだけを言い、ガルヴェンは視線をオルディスへ移した。


「旧関税庫には帳簿も残されていました」


 会計院長が続ける。


「資金は中央復興局から三つの商会を経由し、宰相家の所有地購入に使われています。関係商会の代表者は、すでに身柄を確保しました」


「私の名を使った者がいる可能性は?」


「あなたの私的な印章による命令書があります」


「印章の複製でしょう」


「それも想定しました」


 オルディスが初めて口を開いた。


「命令書だけではない。あなたの秘書官、復興局の倉庫長、資金移動を担当した会計官から、今朝までに個別の証言を取った。互いに連絡できない状態でな」


 ガルヴェンは礼拝堂の扉を見る。


 外には王家直属の近衛が立っている。


「婚礼の開始時刻と同時に、中央復興局、関係商会、あなたの王都邸を封鎖した。王都を出るすべての街道も、慶事警備の名目で閉じてある」


「私に空の倉庫だったと報告した監査官は?」


「法務卿の部下だ」


 ガルヴェンはしばらく黙っていた。


 怒鳴りもせず、弁明を重ねもしなかった。


 やがて、口元に冷たい笑みを浮かべる。


「……見事な手際ですな、殿下」


「褒められても嬉しくはない」


「私があなたを、婚約者を失っても事実を確認できなかった若者のままだと見誤った。それが敗因ですか」


「違う」


 オルディスは答えた。


「あなたは、意思を奪った人間は二度と立ち上がらないと思っていた。だから、絵の中に残された小さな棘を見落とした」


「王国は、小さな棘だけで治められるものではありません」


 ガルヴェンは肖像を見上げた。


「飢えた領民へ穀物を送るには金がいる。鉱山を動かすには権限がいる。すべての者へ事情を説明し、同意を待っていれば、冬が先に来る」


「そのために横領し、告発者を監禁したのですか」


 リュネアが尋ねる。


「公爵家も王家も、結果として動いた。あなたの父上は領民を守り、王家は同盟を保った。あなた自身も王太子妃となるところだった。国は、誰かが決めなければ動かない」


「誰かが決めることと、本人の意思を消すことは同じではありません」


「結果が正しければ、過程は後世の記録官が整えます」


「だから、肖像まで塗り替えたのですね」


 リュネアは二人の花嫁を見る。


「ですが、下にあったものは消えませんでした」


 国王が片手を上げた。


「ガルヴェンを拘束せよ」


 近衛兵が進み出る。


 ガルヴェンは抵抗しなかった。


「裁判では、今のお話をもう少し詳しく伺いましょう」


 法務卿が告げる。


「ええ。私一人を取り除けば、王国が清潔になるとお考えでないことを願います」


 ガルヴェンは最後にオルディスへ一礼した。


「次は、殿下が決める側です」


「ああ」


 オルディスはその視線を受け止めた。


「だからこそ、自分の決定を記録させる。誰が異議を唱えたかも含めて」


 ガルヴェンは何も答えず、礼拝堂を出ていった。


 祭壇には、婚姻誓約書と指輪が残されている。


 オルディスはその前へ進まなかった。


「本日予定されていた婚礼は中止する」


 参列者たちへ向けて告げる。


「リュネア・フェルゼンの同意は、事件の真相を知らされないまま得られたものだった。カティエナ・フェルゼンの婚姻辞退も、正式に処理されていない。よって、どちらの婚姻も成立させない」


 オルディスはリュネアへ向き直った。


「君を姉の代わりとして、この場所へ立たせようとした。知らなかったという言葉だけで、責任から逃げるつもりはない」


「私も、自分から調べようとはしませんでした」


「それでも、君は見つけた」


 リュネアは肖像を見上げた。


 上塗りされた自分。


 その下から現れた姉。


 整った婚礼肖像ではなくなった今の姿の方が、以前よりずっと正しく見えた。


「この肖像は、どうなさいますか」


「王立美術院で保管してもらう。上塗りも、下の絵も、そのまま残して」


「よろしいのですか」


「消してしまえば、また都合のよい一人だけを選ぶことになる」


 層映し液の効果が薄れ始める。


 姉の顔の上へ、少しずつリュネアの姿が戻ってくる。


 けれど、今度は誰も、下に何があるのかを忘れなかった。


     ◇


「カティエナ様から、また書類が届いています」


 王立美術院の修復室で、助手が分厚い封筒を差し出した。


 事件から半年。


 リュネアは王家所有の記録画を調査する、修復室の主任補佐となっていた。


 机の上には、各地から集められた肖像の調査記録が積まれている。


 誰かの顔があとから消されていないか。


 紋章や署名が、後世の都合で描き替えられていないか。


 今回の事件を受け、百年以上手つかずだった記録画まで調べ直すことになった。


 リュネアは姉からの封筒を開く。


 療養を続けながら会計院の調査に協力しているカティエナは、奪われた復興資金の返還状況まで確認していた。


「北部三領への返還額が合わないそうです」


 リュネアは書面を読みながら苦笑した。


「銀貨二枚分の差まで見つけています」


「お元気になられた証拠ですね」


「医師から、一日三時間までと決められているはずなのですが」


「カティエナ様は、計算は療養に含まれると主張されているそうです」


「姉様らしい理屈です」


 そのとき、修復室の入り口が騒がしくなった。


 数人の従者が、大きな画布を運び込んでくる。


 その後ろからオルディスが現れた。


「殿下。今日は公式肖像の検査予定はありません」


「公式の用件ではない」


「では、その画布は?」


 従者が覆いを外す。


 何も描かれていない、新しい画布だった。


 リュネアは無言でオルディスを見る。


「求婚に来た」


「その画布を持って?」


「婚礼肖像に使う可能性がある」


「求婚を受ける前から、婚礼肖像の画布を用意したのですか」


「そう言われると思った」


 オルディスは抱えていた書類の束を差し出した。


 表紙には、求婚意思確認書とある。


 その下に、回答期限を設けないこと、拒否による不利益を与えないこと、美術院での職務を婚姻後も保障すること、姉カティエナの地位と処遇へ影響させないことが細かく記されていた。


「付属書類が六枚ありますね」


「ああ」


「婚姻契約ではなく、求婚ですよね?」


「だから、まだ婚姻の条項は入れていない」


「求婚に契約書を添える方を、初めて拝見しました」


「情緒がないことは自覚している」


「自覚していて、なぜ直さなかったのですか」


「言葉だけで君の意思を尊重すると言っても、信用されないと思った」


 オルディスは別の書類を取り出した。


「これは画布の扱いについてだ。君が断った場合は、美術院へ寄贈する」


「こちらにも書面が?」


「求婚を断ったあと、画布を見るたびに気まずい思いをさせる可能性を指摘された」


「誰にですか」


「カティエナに」


 リュネアは姉から届いた封筒を見る。


「姉様にも相談なさったのですか」


「相談というより、下書きを読まれて十五か所直された」


「十五か所」


「最初は回答期限を三か月にしていた」


「短すぎます」


「同じことを言われた」


 オルディスはさらに一枚取り出そうとして、書類を床へ落とした。


 慌てて拾い集める。


 その耳が、わずかに赤くなっていた。


「殿下」


「何だ」


「もしかして、緊張していらっしゃいますか」


「半年かけて準備した求婚を、開始から三分で笑われている」


「笑ってはおりません」


「口元が笑っている」


 リュネアは手で口元を隠した。


 祭壇の前で婚礼を中止したときも、国王を説得したときも、ガルヴェンを追い詰めたときも、オルディスはここまで落ち着きを失ってはいなかった。


「本当は、もっと違うことを言うつもりだった」


「どのような?」


「昨日までは覚えていた」


「忘れてしまったのですか」


「ああ。君がその書類を嫌そうに見た瞬間、すべて飛んだ」


「嫌そうに見たのではなく、厚さに驚いただけです」


「同じようなものだ」


 オルディスは拾い集めた書類をそろえた。


 王太子らしい体裁を取り戻そうとして、うまくいっていない。


「私は、君と結婚したい」


 今度の言葉は、ひどく短かった。


「姉の代わりだからではない。事件を解決してくれた恩義でもない。君が絵を見るとき、表面だけで判断しないところが好きだ。自分が間違っているかもしれないと考えながら、それでも手を止めないところも」


 オルディスの指が、書類の端を押さえている。


「私には、決める権限がある。その権限を使えば、また誰かの声を聞かずに済ませてしまうかもしれない。だから、私が間違えたときに、正面から違うと言ってくれる人と生きたい」


「王太子妃としての能力を評価しているようにも聞こえます」


「そこが問題だ。何度書き直しても、求婚が人材登用の話になる」


 リュネアは、とうとう声を立てて笑った。


「やはり笑っているではないか」


「申し訳ございません。でも、殿下らしいと思いまして」


「よい意味で?」


「半分ほどは」


「残りの半分は?」


「求婚に六枚の付属書類を添える方なのだな、と」


 オルディスは肩を落とした。


 リュネアは改めて書面へ目を通す。


 不器用なほど細かい。


 返事を急がせない。


 拒んでも何も奪わない。


 結婚しても仕事を辞めさせない。


 本人に確認せず、善意や配慮を理由に条文を変えない。


 半年前の彼なら、ここまで書かなかっただろう。


 そして半年前のリュネアなら、何も尋ねず署名したかもしれない。


「一つ、条項を追加してください」


 オルディスが顔を上げる。


「何だ」


「私の同意なしに、婚礼肖像の制作を始めないこと」


「ああ」


「下絵の段階から、二人そろって確認すること」


「分かった」


「絵師の制作記録を、完成後も保存すること」


「それも加える」


「それから――」


 リュネアは真っ白な画布を見る。


「花嫁は、一人分しか描かせません」


 オルディスは、今度こそ少し笑った。


「そのつもりだ」


「では、付属書類を修正してください。確認後に署名します」


「それは、求婚を受けるという意味でいいのか」


「王太子殿下ともあろう方が、本人の回答を推測で処理なさるのですか」


 オルディスの顔から笑みが消えた。


「……すまない。改めて確認する」


「はい」


「私と結婚してくれますか」


 リュネアは、すぐには答えなかった。


 目の前にある画布には、古い顔も、隠された指輪も、誰かが決めた構図もない。


 これから描くものを、自分で選べる。


「お受けします」


 オルディスが息を吐く。


 書類を抱える腕から、目に見えて力が抜けた。


「ただし、修正後の書面を確認してから署名いたします」


「ああ。今日中に直させる」


「急がなくても結構です」


「いや、今日中に」


「回答期限は設けないと書いてありますが」


「私の修正期限については書いていない」


 リュネアは、また笑った。


 新しい婚礼肖像の制作が始まったのは、それから一か月後だった。


 未使用の画布であることを確認し、絵師と顔料を登録し、二人そろって最初の下絵を見る。


 今度の花嫁は、誰かの上へ描き足されたものではない。


 初めから自分の名前と意思を持って、たった一人でその場所に立っていた。

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