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【前日談】崖の上から

霧は、生暖かい獣の吐息のように王国軍を包み込んでいた。

道なき山を進む行軍は、もはや軍隊の形をなしていなかった。

深い泥濘に足を取られ、兵站の荷馬車は遥か後方、あるいは断崖の底へと消えた。

兵たちは空腹と疲労に喘ぎ、進むことも退くこともできぬ絶望の中にいた。


「道に、迷われたのですか……?」

副将ダリウスの問いに、王子ベルトランは答えなかった。

ただ、霧の向こうを見つめていた。その時、風が吹き抜けた。

幕を引くように霧が晴れた瞬間、彼らの足元には村が見えた。


「崖の下に、村が見えます!って、村?

 あの村は……あの村は帝国の補給基地です!」


本来の目的地であるはずの前線砦ではなく、

見たこともない光景が広がっていた。

帝国の「喉元」――巨大な物資集積村である。

無数の天幕が並び、帝国旗がのどかに翻っている。

防備は紙のように薄い。だが、そこへ至る道はなかった。

彼らが立っているのは、垂直に近い、剥き出しの断崖絶壁の上だったからだ。


「天だ」

ベルトランが、掠れた声で呟いた。

その顔には、少年のような無邪気さと、

獲物を見つけた獣の残忍さが同居した、狂気じみた笑みが浮かんでいた。

「天が、私にこの国を統べろと命じているのだ!

ダリウス、見ろ。敵の心臓が、すぐそこにあるぞ」


「王子、正気ですか。ここを降りれば、人も馬もただでは済みません。

もはや作戦以前の自死です!」


ダリウスの悲痛な叫びを、ベルトランは冷笑で一蹴した。

彼は傍らに控える、ダリウスの腹心である二人の近衛中隊長とダリウスを指差した。

「臆病者の言葉は聞き飽きた。

 ダリウス、貴公とその配下の中隊二名が先鋒を務めろ。

 貴公らの命で、わが軍が通るための道を作れ。

 あの村を落とせば、兵糧も医薬品も手に入るだろう。

 これでお前が言っていた補給とやらも問題なくなる。行け!」


それは命令ではなく、死刑宣告だった。

拒絶は許されない。

ダリウスは、己を信じる二人の中隊長と顔を見合わせた。

一人は覚悟を決めたように頷き、もう一人は静かに剣を握りしめた。


「……突撃!」

ダリウスの号令とともに、王国近衛隊の一部が崖へと身を投げた。

地獄が具現化した。

「ヒヒンッ!」

という馬の絶叫が鼓膜を突き刺す。

蹄が岩を削り、火花が散る。

制御を失った馬が、乗り手もろとも横転し、

肉塊となって崖下へと転落していく。

岩が砕ける轟音と、人間の骨が折れる鈍い音が絶え間なく響いた。


「ひるむな! 続け!」


ダリウスの目の前で、忠実だった中隊長の一人が、崩れた岩盤に飲み込まれた。

短い悲鳴さえ上げられず、彼は愛馬と共に千尋の谷底へと消えた。

ダリウス自身も、滑落する馬の腹にしがみつき、

死の淵を綱渡りするように崖を下った。

先鋒の半数近くが、集積村に辿り着く前に物言わぬ屍となった。

しかし、その犠牲が、奇跡的に「道」を切り開いた。

血と泥に塗れた斜面は、後続が降りるための緩衝材となったのだ。


「全軍、続け! 英雄になれ!」

ベルトランが、歓喜に声を震わせながら崖を駆け下りる。

その瞳には、犠牲になった兵たちの姿など一分も映っていなかった。


思いもかけない方向からの人馬の悲鳴に、帝国陣内は浮足立った。

「敵襲!!」

「敵?前線ははるか奥深くだぞ。見間違い、、、おいおい、あの崖を馬でなんて、

ほら、無理だった、、、って、なんで成功するやつがいるんだ!!!」

「急げ!鎧をつけろ!」

「飯なんか食っている場合じゃない!帯剣せよ!」


空から降ってきた王国軍に対し、

油断しきっていた帝国軍はパニックに陥った。

食事を摂っていた兵は喉を切り裂かれ、

鎧を着用しようとしていた指揮官は天幕ごと踏み潰された。

物資集積所が炎上し、黒煙が天を突く。

この「偶然」の一撃により、

前線の帝国主力部隊は兵糧も矢も全てを鹵獲され、

雪崩を打つように瓦解していった。

王国軍の、完全なる大勝利であった。


________________________________________

一ヶ月後。

王都の喧騒から離れた、冷たく湿った地下牢の前に、一人の男が立っていた。

かつてダリウスの部下でありながら、戦場でいち早く王子に媚を売り、

今や近衛の若きエリートとして頭角を現した中隊長――アレンである。

鉄格子の向こう側では、ダリウスが重い鎖に繋がれていた。

「救護のために突撃を遅滞させた」

「軍資を横領し、私腹を肥やしていた」

……王子によって捏造された罪状は、

ダリウスと、彼に忠誠を誓った生き残りの兵たち六十名を、

一瞬にして英雄から反逆者へと突き落とした。


アレンは、磨き上げられた長靴で格子の鉄を軽く叩いた。

「負け犬の気分はどうです、元副将殿?」

ダリウスは答えず、ただ静かにアレンを見据えた。

その瞳には憎しみすらなく、ただ深い悲しみだけがあった。

アレンはその視線に苛立ち、唇を歪めて嘲笑った。


「貴方の時代は終わったのです。あの崖で、貴方は判断を誤った。

王子の『神がかり』を否定し、命を惜しんだ。

……おかげで、私はこうして貴方の椅子に座ることができた」


アレンは腰の鍵束を鳴らし、看守に命じた。

「出せ。この反逆者どもは、明日から鉄鉱山送りだ。

死ぬまで太陽を拝めぬ暗闇の中で、せいぜい自分の『正論』を反芻していろ」


引きずり出されるダリウスの後ろには、

同じく鎖に繋がれた六十名の忠臣たちがいた。

彼らは絶望的な状況にありながらも、ダリウスの背中を追って静かに行進する。

それは、王国が最大の英雄と、最後の良心を失った瞬間であった。

その様子を、王城のバルコニーから眺めるベルトラン王子の口元には、

あの日、崖の上で見せたものと同じ、狂気じみた笑みが浮かんでいた。

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