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-# 第87話:深淵の淵で
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ポータル最深部。空間のひび割れが無数に走る領域の中心に、黒く脈打つコアが浮かんでいた。その周囲を覆う漆黒の影が、突如として異様なうねりを始めた。
「リア、下がれ!」
コウタの警告も虚しく、影は液体のように蠢き、瞬く間にリアの両足を絡め取った。
影の表面から細い触手が伸び、彼女の身体に食い込んでいく。魔力が、吸い取られていく――足元から広がる冷たいぬめりに、リアの心臓が激しく鼓動した。
「コウタ……!」
恐怖が胸を締めつける。息が浅くなり、視界が揺れる。幼い頃、誰も守ってくれなかった闇の中で震えていた記憶が蘇る。
でも、今は違う。コウタがいる。
コウタは一瞬の躊躇もなく駆け寄り、彼女の手を掴んだ。しかし、その感触はぬめり気のある泥に指を突っ込むようなもので、手のひらからするりとすり抜けていく。
「離すな……届けるんだ……!」
コウタは歯を食いしばり、影の渦にまで腕を突っ込んだ。
その瞬間、無数の棘が彼の左腕を貫いた。続いて右の脇腹に。鋭い痛みが全身を駆け巡り、鮮血が影の表面に散る。視界が赤く滲む。
それでもコウタは手を伸ばし続けた。
「助けて……コウタ……!」
リアの悲鳴が響く。彼女の身体が闇の中心へと引きずり込まれていく。手が、遠ざかる。温もりが、消えていく。
ついに、リアの姿が完全に影に飲み込まれた。
コウタの手は、虚しく宙を掴むだけだった。掌に残るのは、わずかなぬめりだけ。激痛に耐えきれず、コウタの意識が闇に落ちた。地面に崩れ落ちる身体。
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その瞬間――
空間が、軋んだ。
リアのいた地点から――何かが。
目に見えぬ力が、空気を引き裂くように突進する。
コアが震える。表面にひび割れが走り、内部から黒い液体が溢れ出す。噴き出した液体が空間に飛び散り、虚空に溶けるように消えていく。
コウタを刺していた影の棘が、音もなく霧散する。影が消え、闇が消え、コアが内側から崩壊していく。
やがて――静寂。
コアは跡形もなく消え去り、歪んだ空間も急速に収束していく。残されたのは、血を流して倒れたコウタと、何事もなかったように眠るリアの姿だけだった。
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「おい!? コウタ! リア!」
剛志の声が静寂を切り裂いた。澪が素早く周囲を確認する。
「……ポータル消失。魔物の気配なし」
澪の視線が、消えたコアのあった空間を捉える。そこには、何の痕跡も残っていなかった。
「コアは……?」
「痕跡もない。まるで、最初から存在しなかったように」
剛志が舌打ちしながらコウタを背負う。
「ちっ……バカが。死にかけてんじゃねえよ」
その手は、しかし驚くほど慎重だった。コウタの傷に触れないよう、細心の注意を払っている。
「……お前らがいなくなったら、誰が俺の飯作んだよ」
ぼそりと呟く。
澪がリアを抱きかかえながら、小さく微笑んだ。
「心配、していたのですね」
「うるせえ。さっさと行くぞ」
剛志が顔を背ける。その耳が、わずかに赤い。
二人の表情には、困惑と安堵――そして、仲間を守れた安心感が入り混じっていた。
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宿舎の医務室。処置が終わり、全身を包帯で覆われたコウタが目を覚ましたのは、数時間後だった。
「リアは……!?」
掠れた声。全身を貫く痛みを無視して、コウタは身を起こそうとする。
澪が静かに答えた。
「……無事です。深い眠りの中にいます。外傷はありません」
その言葉に、コウタの肩から力が抜けた。生きている。それだけで、胸を締めつけていた恐怖がわずかに緩んだ。
「あのコアは……? 影は……?」
剛志が腕を組んだまま答える。
「知らねえ。跡形もねえんだ、全部」
コウタの記憶は、棘に貫かれた痛みで途切れていた。リアを失いかけた恐怖、必死に伸ばした手――その先は、何も覚えていない。気づいたら、こうして生きていた。
「……そうか」
ただ、リアが無事なら、それでいい。
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その夜。
コウタは包帯だらけの身体を引きずり、リアのベッドの傍に座った。左腕を吊られ、右脇腹を固定されている。動くたびに痛みが走るが、それでも彼女の傍にいたかった。
眠るリアの手を、そっと握る。
掌に伝わる温もり。確かにそこにある、彼女の存在。
「……ごめん」
声が震える。
「守るって、言ったのに」
握る手に、力が込もる。
「もう二度と……離さない」
失いかけた。本当に、失いかけた。あの瞬間の絶望は、どんな痛みよりも深く心に刻まれている。
「だから……傍にいさせて」
リアの寝顔は穏やかだった。何も知らないまま、安らかに眠っている。
コウタはその手を握ったまま、静かに目を閉じた。
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翌朝。
リアが目を覚ますと、最初に目に入ったのは、自分の手を握ったまま眠るコウタの姿だった。
包帯だらけの身体。疲れ切った表情。それでも、彼は自分の手を離していない。
リアは静かに微笑んだ。
影に飲み込まれた後のことは、何も覚えていない。気づいたら、こうしてコウタの傍で目を覚ましていた。何があったのかは分からない。
でも、この温もりだけは確かだ。
「おはよう、コウタ」
コウタがはっと目を覚ます。彼女の顔を見て、一瞬呆然とした後、安堵の表情が広がった。
「リア……」
「心配、かけちゃったね」
「いや……無事で、よかった」
二人は何も言わず、握り合った手を見つめる。
「あの後、何があったの?」
リアの問いに、コウタは首を振った。
「分からない。気づいたら、お前が傍にいた」
「コアは?」
「消えた。跡形もなく」
リアは小さく息をつく。
「影に飲み込まれて……その先は、何も覚えてない。でも、コウタが傷だらけなのは――」
視線が、包帯に覆われた彼の腕に落ちる。
「私を、守ろうとしてくれたんだよね」
目が潤む。
「ありがとう。そして……ごめんね」
コウタが首を振る。
「謝るな。お前が無事なら、それでいい」
「でも……」
「これは俺が選んだことだ」
コウタがリアの手を握り返す。
「だから、気にするな」
リアは涙を拭い、小さく笑った。
「……ずるいよ、そんなこと言われたら」
そう言って、リアはコウタの手を少し強く握った。
その瞬間、コウタの視界に淡い文字が浮かんだ。
```
【日常クエスト:この手の温もりを忘れない】
目標:今日一日、彼女の手を離さない
報酬:共に過ごしたかけがえのない時間×1
```
コウタははっとした。胸の奥から、何か温かいものが湧き上がる。
――この手を、今日は絶対に離してはいけない。
「どうしたの?」
リアが不思議そうに見つめる。コウタは首を振り、彼女の手を握り返した。
「何でもない。ただ……」
「ただ?」
「今日は、お前の手を離したくないなって」
リアの頬がほんのり赤く染まる。
「……もう、急に何言ってるの」
でも、彼女は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今日一日、一緒にいよ?」
「ああ」
コウタが頷く。リアはその手を、ぎゅっと握り返した。
何が起きたのかは分からない。でも、この手の温もりだけは確かだ。
これからも、どんな闇が来ても、この手を離さない。
二人はそう、心に誓った。
窓から差し込む朝日が、握り合った二人の手を優しく照らしていた。
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【第87話 終】




