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63 「帰る場所は、まだないけど」
日曜日 5:47
アパートの狭い部屋に、薄い朝日が差し込む。
澪はすでに起きていた。
布団はきちんと畳んで、リュックに着替えを詰め直している。
手帳を開くと、昨日のページに新しい一行。
【泊まり 実績】
・風呂最後
・洗い物済
・布団畳み済
・退出予定 6:00
・母の薬 買い足し済
澪はリュックの中から、小さな薬の袋をそっと取り出し、
テーブルの上に置いた。
【母へ】
・痛み止め 30錠
・睡眠薬 10錠
・メモ「ちゃんと飲んでね」
……母は、もう3年、起き上がれない日が多い。
澪が小学5年のとき、母は交通事故で脊髐を損傷した。
「慢性疼痛」という名の、終わりのない嵐が母を襲った。
身体を灼熱のナイフが切り裂き、神経の末端でガラスの破片が軋む——医者はそう説明した。
それからずっと、痛みと闘病と、積み上がる借金と、酒と薬。
鎮痛剤の副作用で胃を壊し、睡眠薬でかろうじて現実を逃れ、翌朝にはまた地獄の痛みが待っている。
母は「ごめんね」と泣きながら、澪に「金を持ってきて」と言うようになった。
痛みが母を、優しい母親から「苦しみの塊」に変えていった。
澪はそれを、
仕方ないと思っていた。
日曜日 5:47
コウタとリアのボロアパート(談話室)
澪はもう起きていて、リュックを背負い終えている。
手帳に昨日の実績を書き終え、テーブルの上に母用の薬袋とメモを置く。
リアが寝ぼけ眼で起き上がる。
「……澪ちゃん、もう帰るの?」
澪「約束、6時帰宅だから」
「……母が、一人で薬飲まないから。手が震えて……こぼしちゃうから」
5:53
澪、玄関で靴を履く。
背中を向けたまま、小さな声で。
「……次は朝食も条件に入れる」
「だから、また来る」
初めて、自分から頭を下げた。
「お邪魔しました」
6:02
澪、ひとりで自分のアパートに帰宅。
ドアを開ける。
電気はついたまま、冷蔵庫は空。
腐りかけの食材から漂う、微かな酸味。
母の部屋の前には3日分の食事トレイが放置され、埃と諦めの匂いが混ざり合う。
母は布団の中で、痛みに身をよじり、小さくうめいている。
母(弱い声)
「……澪……帰ってきた……?」
「痛い……薬……早く……」
「もう……殺して……」
澪は無言で水を用意し、母の頭を支え、震える手に薬を載せる。
母は渇いた唇で薬を飲み干し、苦しそうに息を吐く。
「ああ……まだ……終わらない……」
澪はテーブルの上に18,400Gを置く。
母はそれを見て、また泣き始める。
「ごめんね……ごめんね……澪……私だけ、こんな体で……」
「生きてるのが……苦しい……」
6:25
澪、母を布団に寝かせ直し、
自分の部屋に引っ込む。
スマホを確認。
【母からの着信 39件】
39件
最新メッセージ(昨夜21:08)
「痛くて動けない……ごめんね……金だけでも……」
その前のメッセージ(19:45)
「澪、どこ?帰って、早く帰って。一人でいるのが怖い。痛みで気が狂いそう」
(18:12)
「お願い、薬が切れる。明日、買って。お金、もうないよね……ごめん……」
澪、スマホを握りしめて30秒固まる。
初めて、手が震えた。
母の苦しみの声が、スマホの画面から這い出し、澪の鼓膜を直接えぐるようだった。
11:38
コウタとリアのボロアパート(玄関)
ドアが静かに開く。
澪が立っていた。
肩と髪に、薄く雪が積もっている。
リュックは朝と同じまま。しかし、その表情には、何かが決断された静かな覚悟が宿っていた。
リアが、ぱっと立ち上がる。
「……澪ちゃん!?」
コウタは無言で、ただドアを大きく開けた。
その手が、ほんのちょっと震えている。
澪は小さく白い息を吐いて、
雪を払いながら一歩踏み込む。
「……今から、朝ごはん食べてもいい?」
リア、目が真っ赤なのに、にっこり笑って。
「もちろん。席、空いてるよ」
コウタが、ぽつりと。
「……おかえり」
って、聞こえたような気がした。
澪の後ろ姿は、もう丸まっていなかった。
帰る場所は、まだない。母との地獄は、まだ終わっていない。
でも、
行く場所は、確かにできた。
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