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:最初の、深い棘
ギルドの談話室は、いつものんびりとした午後の空気に包まれていた。
「はぁ、今日も疲れたぜえ」
剛志が大きく伸びをした。
コウタは明日の依頼書に目を通し、美鈴は紅茶を啜る。
そんな中、澪はカップ麺にお湯を注ぎ、三間待つ。いつものパターンだ。
だが、彼女はふたを開けると──
半分だけ別の容器に移し、きちんとラップをかけた。
「あれ?澪ちゃん、もうお腹いっぱい?」
リアが気軽に声をかける。
澪はラップをかけた容器をリュックの奥に仕舞い込み、俯いたまま答えた。
「……明日の朝、冷蔵庫が空だから」
───シーン。
剛志「……」
コウタ「……」
美鈴「……」
リア「……え?」
5秒間、誰も何も言えなかった。
談話室に響くのは、カップ麺の湯気が立つ音だけ。
「な、なんだそれ!もったいない!俺が食ってやる!」
剛志が、無理にテンションを上げて立ち上がり、澪のラップされた容器に手を伸ばした。
その瞬間──
ビクッ!
澪の肩が小さく跳ねた。
彼女は反射的にリュックを胸に抱え、一歩後ずさり、剛志から離れた。
「……触るな」
その声は小さく、しかし鋭く、そして明らかに震えていた。
剛志の手が空中で止まる。
コウタと美鈴の息が詰まる。
澪は誰とも目を合わせず、残りの半分を震える手で急いで口に運んだ。
まるで、誰かに奪われる前に、必死で胃に収めなければならないかのように。
「ち……ちっ、わかったよ!触らねえよ!」
剛志が大きく背を向け、自分の弁当をガバガバと食べ始めた。
「……もう一枚パン食うぜ!」
その言葉に、誰も笑わなかった。
5秒の沈黙が生んだ深い傷口は、剛志の無理やりな笑い声では、もう塞げなかった。
:小さな幸せのありか
ギルドの談話室には、昨日の少し重い空気はどこへやら。
朝日が窓から差し込み、剛志の大きなあくびとともに、いつもの喧騒が戻っていた。
「おーい、今日はどこ行くんだ?」
剛志が、相変わらずの大声でコウタに聞く。
「今日は資料整理の日だよ。図書室に行くはずだね、澪は」
コウタが答えると、澪はこっくりと頷いた。
「……そうだ。静かで、集中できる」
──彼女は、あの昨日のできごとを、きれいさっぱり忘れたように振る舞っている。
まるで、深く刺さった棘を自分で隠すように。
図書室に着くと、澪はいつもの窓際の席へ直行する。
コウタたちは別のテーブルで、魔獣図鑑を広げて議論を始めた。
「おい、この魔獣、弱点は翼の付け根らしいぜ」
「剛志さん、声が大きすぎます……ここは図書室ですよ」
「あ、すんません!」
賑やかな囁き声が、静かな図書室に響く。
でも、なぜか澪は気にならない。
むしろ、この“ほどよい雑音”が、逆に安心感を覚える。
彼女は本を読みながら、ふとコウタたちの方を一瞥した。
剛志が珍しく真剣な顔で図鑑を指さし、美鈴が優しく解説し、リアが感動して目を輝かせている。
(……みんな、楽しそうだ)
そのとき、司書の老婆が澪の隣にやってきて、小さな包みを差し出した。
「ほら、いつも頑張ってるから、おやつよ」
それは、ひとくちサイズの焼き菓子だった。
澪は一瞬目を大きくするが、「……ありがとうございます」とそっと受け取る。
包みを開けると、ほんのり甘い香りがした。
彼女はその焼き菓子を、まるで小さな宝石を扱うように、ゆっくりと口に運んだ。
甘さがほのかに広がる。
(……おいしい)
そして、なぜか自然に口元がほころんだ。
コウタが遠くからそれに気づき、こっそりと剛志を肘でつつく。
「おい、見ろよ。澪が笑ってる」
剛志も目を丸くする。「おっ、マジだ!珍しいぞ!」
美鈴は「ふふ……よかったですね」と微笑み、リアは「わあ、澪ちゃん、かわいい!」と小声で叫んだ。
彼らは、あの昨日の棘のことを、口には出さない。
でも、心の底では、この笑顔を守りたいと思った。
澪は気づかれていないふりをして、再び本に目を落とした。
でも、頬のほんのりとした温もりは、しばらく消えなかった。
:澪ちゃんと迷子の子猫
ギルドの掲示板に、新しい依頼が貼り出された朝だった。区域Bの森で、迷子の子猫を探す──報酬は100Gと、ほんの少しの薬草。
そんな小さな依頼に、剛志が目を輝かせた。
「おーい!これ、俺たちで引き受けようぜ!子猫助けたら、澪ちゃんも笑うだろ?」
澪はカウンターで手帳をめくりながら、ぽつり。
「……報酬効率、低い。薬草は市場で買った方が早い」
「えー、澪ちゃん冷たい!子猫の命がかかってるんだよ~」
リアが澪の袖を引っ張る。彼女の瞳は、子猫のようにキラキラしていた。
コウタが依頼書を剥がしながら、にこり。
「まあまあ、たまにはこういうのもいいよ。区域Bなら、30分で往復できるし」
美鈴は優しく微笑んで、紅茶を注ぎながら。
「澪さんも、動物は好きでしょう? 私のところのハーブ園にも、野良猫がよく来るんですよ」
澪は一瞬、手帳のページを止めた。
──母の帰国が遅れた夜、家に迷い込んだ野良猫を、澪は一人で世話した。
「……わかった。行く」
澪は長弓を肩にかけ、淡々と立ち上がった。
森の入口は、柔らかな陽光が木々の隙間から差し込んでいた。
剛志が先頭を切って進み、リアが花を摘みながらついてくる。コウタと美鈴は後ろで地図を確認し、澪は周囲を静かに見回す──観察眼の鋭い弓使いとして。
「にゃー……」
小さな鳴き声が、木の根元から聞こえてきた。
「いた!ここだよ!」
リアが駆け寄り、子猫を抱き上げる。灰色の毛玉は、怯えた目でみんなを見上げた。
剛志がガハハと笑う。
「よし、助けたぜ!澪ちゃん、褒めてくれよ!」
澪は子猫に近づき、無言で手を差し出した。子猫は、彼女の指先にそっと鼻を寄せる。
──柔らかい。温かい。
──家にいるとき、こんな感触を、澪は時々思い出す。母の膝の上、昔の記憶。
「……よし。安全」
澪は子猫の首輪を軽く撫で、リアに手渡した。
「澪ちゃん、優しい~!子猫も澪ちゃんのこと、気に入ったみたい!」
リアが子猫を澪の胸に押しつける。澪の頰が、ほんの少し赤らんだ。
「……重い。早く、依頼主に」
澪はそっと子猫を下ろし、先に歩き出す。背中が、いつもより少しだけ丸まっていた。
ギルドに戻ると、依頼主のおばあさんが涙を浮かべて子猫を抱きしめた。
「ありがとう、みんなさん。本当に……」
報酬の銅貨を受け取り、澪は手帳にメモを加える。
──区域B、子猫救助。所要時間:28分。予定通り。
コウタが澪の肩を軽く叩く。
「澪、今日はありがとう。子猫の目、澪見て安心したみたいだったよ」
澪は小さくうなずき、リュックから小さな袋を取り出した。
──森で摘んだ薬草のサンプル。依頼主へのおまけ。
「……これ、持ってって」
おばあさんが驚いて受け取る。澪は、何も言わずにカウンターに戻った。
その夜、澪のスマホに、依頼主からお礼のメッセージが届く。
──子猫が元気になりました。ありがとう。
澪は画面を眺め、電源を切った。
──よかった。
手帳の最後のページに、ぽつりと。
──子猫、無事。
:**澪ちゃんが、「泊まりたい」と言った日**
花畑の丘。
ルナフラワーの採取が終わり、みんなで花冠を編んでいる。
美鈴が澪の頭にそっと乗せて、
「澪さん、とてもお似合いですわ」
澪は俯いたまま、
「……ありがとう」
リアがコウタの腕に絡みつきながら、無邪気に言う。
「ねえ! 次は私たちの家でお泊まり会しよ!
……って言っても、Eランクだからボロアパートの1DKだけど!
布団は3枚しかないし、冷蔵庫はいつも空っぽだけど!」
コウタが苦笑いで補足。
「家賃も滞納ギリギリだし、澪ならいつでも歓迎だよ」
空気が、ぴたりと止まる。
澪は花冠の下で唇を噛み、
数秒の沈黙。
澪は花冠の下で唇を噛み、30秒間何も言わない。
コウタ「無理しなくていいよ」
剛志「そうだぜ、金ないし狭いし」
澪は俯いたまま、初めて視線を上げる。
そして、誰とも目を合わせず、ぽつりと。
「……家賃、いくら?」
リア「え?」
澪「Eランクの1DK……家賃、いくら?」
コウタ「まあ……安いよ」
澪は深く息を吸い、
まだ俯いたまま、
誰の袖も触らず、
ただ小さく呟いた。
「……検討、する」
それだけ。
でも、みんなにはわかった。
澪が初めて、自分から一歩を踏み出そうとしたということ。
澪は花冠をそっと外し、リュックにしまった。
枯れないうちに、持って帰るため
リアの目が一瞬で潤み、
「ほんと!?」
すぐに泣き笑いで抱きつく。
「やったー! 3人で川の字で寝ようね!」
コウタも驚いた顔の後、優しく笑って、
「布団は俺が床で寝るから。澪はベッド使ってくれ」
澪は俯いたまま、
涙を零さないよう必死に堪えていた。
剛志が遠くでガハハと笑う。
「おいおい、金ないのに泊まり客かよ!
でもいいぜ! 俺も押しかけるからな!」
美鈴が微笑みながら、
「では私もお菓子を持っていきますわ」




