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### 第四十一話:神業
#### 店内の静寂:別れと決意
ミミの裁縫店は、朝の柔らかな光が窓から差し込み、埃の粒子を金色に舞わせていた。棚の布地が微かに揺れ、蝋の甘い香りが空気に溶け込む。リアの指先には、まだ蝋引きの温もりが残っていた。彼女の小さな成功──均一な玉結び──が、胸に小さな希望を灯す。
ミミはコウタを一瞥し、あごでドアの方向をしゃくった。老婆の目は、鋭く、しかし優しい。
「小僧、あんたはもういっていいぞ。小娘はあたしがみといてやる。夕方まで、ゆっくり修行だ」
「でも…」コウタはリアを見た。彼女の紫がかった瞳に、わずかな不安が宿る。昨日からのクエストの達成感が、彼の胸を満たすが、別れの寂しさが混じる。「リア、大丈夫か? 無理すんなよ」
リアは小さく微笑み、針を握った手を軽く振る。「心配すんな。裁縫の基本も教えるが、それ以上に、この娘が本当に必要な『基礎』を叩き込んでやる」ミミの言葉を借りて、彼女はコウタにうなずいた。「大丈夫、コウタくん。私…ここで続けたいの。影が、初めて『繋がった』気がするから」
コウタは逡巡したが、ミミの確かな眼差しとリアの決意に背中を押され、ゆっくりとうなずいた。ドアノブに手をかける瞬間、彼の視界に、かすかな青白い文字が浮かぶ──【絆ポイント+20】。それは、静かな肯定のように感じられた。
「わかった。夕方に迎えに来る。何かあったら、叫べよ」
ドアを閉める音がし、店内には針が布を貫く静かな音だけが残った。外の足音が遠ざかり、リアの肩から力が抜ける。ミミは机の上のわずかな小銭をちらりと見て、コウタに言い添えた言葉を思い出すように、ぽつりと呟く。
「お金には期待すんじゃないよ。こっちだって毎日必死なんだ。見ての通り、儲かる商売じゃないからな。この店、昔はもっと賑わったが…今は、静かな客だけさ」
リアは深く息を吸い、針を握りしめた。そこには、魔法学校でも、ギルドでもない、もう一つの道が開けていた。ミミの横顔──皺の奥に潜む、深淵のような静けさ──が、彼女を支える。
#### 過去の影:ミミの正体
ドアが閉まり、コウタの足音が遠ざかっていく。店内には、静かな緊張が残った。リアはミミの手元から目を離さず、ためらいながら口を開いた。声が、かすかに震える。
「…ミミさんは、闇魔法使いなんですか? さっきの話…魔力の流れや、影の暴走を、詳しく知りすぎてて…」
ミミの手は止まらず、針はリズムを保ちながら布を進んでいく。蝋引きの糸が、滑らかに光を反射する。彼女の指は、まるで影を操るように、無駄がない。
「今までのやり取りでわかるだろ」彼女は淡々と言った。「もうとっくに引退してるよ。今はただの裁縫婆さんだ。針と糸で、布の穢れを浄化するだけさ」
「でも、さっきまでの話…魔力の流れや制御のことを、詳しくて…ギルドの魔術師だって、そんなに体でわかる人、いないですよ」
「ふん」ミミは鼻で笑った。針が布を貫く音が、一瞬鋭くなる。「長く生きりゃ、いろんなものを見て、いろんなことを覚えるもんだ。魔法使いだけが魔法のことを知ってるわけじゃない。職人はな、布の深淵を知ってる。糸の静寂を、影のように感じるんだ」
老婆はようやく手を止め、リアをまっすぐ見た。皺の奥の目が、紫の瞳を映す。リアの心臓が、早鐘のように鳴る。
「お前さんが知りたいのは、あたしが何者かじゃない。お前自身が何者か、だろ? 闇の影が、お前を飲み込もうとする夜を、あたしは知ってるよ。昔の弟子が、同じ目をしてた」
「…はい」リアの声が、小さくなる。彼女の指が、無意識に布を撫でる。ミミの言葉が、胸に染み込む。
「ならば、余計なことは考えず、目の前のことに集中しろ。魔法のことも、あたしの過去も、どうでもいい。今はただ、この針と糸と、そしてお前自身の呼吸だけを感じろ。闇の基礎は、体で紡ぐものだ」
ミミは新しい布を差し出した。厚手の麻布で、触るとざらつき、深淵の硬さを思わせる。「さあ、始めよう。お前の『基礎』を築くのは今日からだ。魔法の話は一切しない。ただ、裁縫を教えるだけだ」
そう言ってミミは再び針を握り、実演を見せ始めた。その動きは無駄がなく、洗練されており、長年の経験がにじみ出ていた。リアはミミの手元を見つめながら、この老婆が単なる裁縫師ではないことを確信した。しかし同時に、それ以上を追求すべきではないことも感じ取った。今、彼女に必要なのは、答えではなく、この場所で得られる「何か」なのだから。
#### ミミの手がほんの一瞬止まり、鋭い視線がリアに向けられる。
「小僧はどうやってここを見つけたんだい?」
「…え?」リアは目を瞬かせる。コウタの顔が、脳裏に浮かぶ。
「コウタくんが…何も言わずに連れてきただけなので…ギルドの紹介じゃなくて、直感だって」
「ふん」ミミは細い目をさらに細め、窓の外を見やる。朝霧が、路地を白く覆う。「あの小僧、魔法も使えねえくせに、よくまあこんな場所を見つけ出したもんだ」
針仕事を再開しながら、ミミは独り言のように呟く。声が、低く響く。
「この店は、表通りからは見えにくい。看板も古びて読みづらい。普通なら、まず見つけられねえ。昔の客は、噂で来るか、運で迷い込むか…」
リアも考え込んだ。確かに、コウタが普段から通る道ではない。彼がどうやってこの店を知ったのか、不思議に思わないわけではなかった。
「あの小僧…どこかであたしの噂を聞いたのか? いや、違うな…」
ミミは首を振る。針の動きが、一瞬速くなる。
「あたしが魔法に関わってたのは、ずいぶん前の話だ。今では、ギルドの連中でさえ、あたしがここにいることすら知らねえ。影の糸を引く婆さんなんて」
しばらく沈黙が続き、針が布を貫く音だけが響く。店内の空気が、重く、しかし心地よい。
「まあいい」ミミは突然、話を打ち切るように言った。糸を切る音が、決意のように鋭い。「どうやって見つけたかは、どうでもいい。ただ、あの小僧には…ただ者じゃない『勘』があるようだな。お前さんのためを思って、ここに連れてきた。それだけは確かだ。相棒の絆は、闇の糸より強いよ」
ミミはリアに糸玉を投げ渡す。糸が、空気中で弧を描く。「さあ、余計なことは考えるな。今はただ、この糸と針に集中だ。あの小僧が必死で見つけ出したこの場所…無駄にしねえよう、しっかり学んでいけ」
#### 修行の深淵:技法の神業
リアの言葉に、ミミの手が再び止まった。「でも師匠がわかるかもみたいなこといってたような」──その一言が、老婆の記憶を揺さぶる。
「…師匠がわかるかも、だと?」
老婆の目に、一瞬だけ鋭い光が走る。まるで古い記憶が呼び起こされたようだ。失われた弟子の影、闇の暴走の夜──しかし、それはすぐに霧散する。
「ふっ…」
やがてミミは小さく笑った。皺が、優しく寄る。
「なるほどな。あの小僧、ただの勘じゃないかもしれねえ。運命の糸を、引いたんだよ」
ミミは針を置き、ゆっくりと立ち上がる。膝がきしむ音がする。そして棚の奥から、ほこりをかぶった古い箱を取り出した。木箱の蓋が、軋みを上げて開く。中には、古びた裁縫道具──針、糸巻き、蝋燭の欠片──と、一冊の分厚いノートが入っていた。ページは黄ばみ、メモがびっしり。影のスケッチと、裁縫の図解が混在する。
「小娘、お前さんに一つだけ教えてやる」
ミミは箱を開けながら言った。声が、懐かしく低くなる。
「本当の闇魔法ってのはな、派手な光や爆発じゃない。静かに、深く、物事の本質に触れる力だ。吸収し、浄化し、影を紡ぐ」
「裁縫も同じだ。表面上の綺麗さだけが目的じゃない。布の性質を見極め、糸の強さを知り、一つ一つの縫い目で全体を支える…これが本質だ。このノートは、昔のあたしの弟子のもの。闇の影を、糸で制御した記録さ。神業じゃなく、ただの繰り返しだよ」
ミミはリアをじっと見つめる。目が、師匠のそれのように温かい。
「あの小僧は、お前が本当に必要としてるものに、なぜか気づいていた。それは、魔法の技じゃない。物事の本質を見極める力…そしてそれを支える『基礎』だ。裁縫の技法が、お前の影を磨くんだ」
再び針を手に取ると、ミミは静かに付け加えた。声が、糸のように細く。
「師匠がわかるかどうかは知らん。だが、あの小僧には…人を見る目があるようだな。お前さん、いい相棒を持ったもんだ。闇の道は孤独だが、糸のように繋がれば、強くなるよ」
そう言ってミミは裁縫を再開したが、その手つきは以前より少しだけ丁寧に、そしてどこか懐かしそうに見えた。薔薇の刺繍が、ゆっくりと形作られる──しかし、それは単なる模様ではない。ミミの指が動きを変え、神業の幕が開く。
「次はなみ縫いだ」ミミの声が響く。「魔法よりずっと地味で、ずっと難しいからな。絡むまで繰り返せ。闇の深淵は、解くたびに強くなる」
リアは新しい布を受け取り、針を構える。ミミは隣で実演を始める──それは、神業だった。針が布を表裏交互に貫き、0.3cmのピッチで直線を刻む。息が同期し、糸が影のように滑る。リアが真似しようとすると、ピッチが崩れ、緩む。
「…緩い…」
「ふん、なみ縫いは闇の基本流れだ。速いが、強度が低い。間隔を崩せば散逸する」ミミは糸を指で弾き、修正。「息を刻め。影の静寂は、乱れを許さん」
リアはやり直し、徐々に均一に。ミミの指導が、耳元で続く。「よし、今度は返し縫い。後ろに戻して固定せよ。深淵の吸収は、内省から」
リアの針が前後に──張力過多で切れ。「…また!」
ミミは淡々と蝋を塗り直す。「失敗は試練。返しは強度2倍。無理なら崩壊だ。お前の影も、同じ」彼女自身が返しを披露──針が往復し、布が鉄のように固まる。神業の速さと精度に、リアの息が止まる。
「次、まつり縫い。端を隠せ」ミミの梯子状のステッチが、隙間ゼロで平滑に。リアの試みは隙間だらけだが、ミミの「息で繋げ」で改善。「隙間は浄化の敵。影の封じだ」
応用へ。「かがり縫い。巻いて包め」ミミの斜め巻きが、端を完璧に守る。リアのほつれに、「巻きを深く。境界の防壁さ」。リアの完成品が、ようやく安定。
最後に、ミミはブランケットステッチを──輪郭をステッチで囲み、薔薇を縁取る。半返しで細部修復。技法のチェーンが、布に生命を吹き込む。リアの目が、輝く。「これ…神業…」
ミミは笑う。「神業じゃねえ。ただの基礎だ。お前の影も、こう紡げ」
二人は針を手に取った。リアの指先から、影が静かに紡がれ始める。絡まりを解き、ほつれを防ぎ、輪郭を固める──裁縫の神業が、彼女の闇を「滑らかに」導いた。夕陽が店を赤く染め、修行の第一日が、静かに終わる。
(続く)




