迫る女
深夜。国道を走る車内に、酒とタバコの匂いがこもっていた。
弘明はぼんやりした頭でハンドルを握り、窓の外の街灯の列を目で追っていた。
その時だった。視界の端で何かが動いた。
目の前の横断歩道を、人影が歩いているのが見えた。車の進行方向は赤信号だ。
やばい。咄嗟に弘明は急ブレーキをかける。だが車は停まらず、悲鳴のようなブレーキ音を響かせながら滑るように進む。
白いワンピースの裾がライトに照らされた、次の瞬間――
鈍い衝撃音が車内に響き、フロントガラスが大きく震えた。
車に撥ねられた女の身体が宙に浮き、そして地面に叩きつけられる。
頭部は不自然に陥没し、黒々とした血がアスファルトに広がっていく。
右腕は肩から逆方向に折れ曲がり、右脚は股関節からねじれたように突き出ていた。
弘明の耳に聞こえる音は、自分の荒い呼吸音と激しい心音だけだった。
「……まずいことになった」
喉の奥から漏れた声は、ほとんど悲鳴に近かった。
しかし次の瞬間、彼はバックミラーから目を逸らし、アクセルを踏み込んだ。
振り返らないまま、夜の闇に逃げ込んだ。
数日後。仕事を終えた弘明は、人気のない路地を歩いていた。
どこからか生ぬるい風が吹き、頬にまとわりつく。
ふと街灯の下に目をやると、そこには女が一人立っていた。
その女は、陥没した頭部から血が垂れ、右腕と右脚は折れた角度のまま、ぎこちなく立ち竦んでいた。
女はその場から一歩も動かない。
だが、視線だけが確実に弘明を捉えていた。
弘明の心臓が凍りついたように感じられた。
「嘘だろ……」
弘明の震えた声は、虚空に吸われるように消えた。
弘明は我を忘れて走り出した。背後に足音はない。それでも確かに、追われている感覚があった。
その日を境に、女は日常に溶け込むように弘明の前に現れるようになった。
朝の通勤電車。混み合う乗客の頭越しに、血まみれの顔がこちらを見つめている。
夜、商店街のショーウィンドウに映る自分の姿。その背後に、折れ曲がった脚で立つ女が映り込む。
コンビニの冷蔵庫のガラス。缶コーヒーを取ろうとした手の横に、女の白い指先が写り込む。
振り返れば誰もいない。だが、確かにそこにいる。
弘明は眠れぬ夜を酒で誤魔化し、睡眠薬を乱用し、次第に仕事も人間関係も壊れていった。
ある晩、コンビニ袋を下げて歩く弘明に、背後から声がかかった。
「……あなた、あれが見えていますよね」
振り向けば、幼い子供の手を引いた中年の女がいた。
「は?」
「あれはあなたが殺した女性ですよ。彼女は、どこまでもあなたを追うつもりみたい。捕まれば、あなたは取り殺される。そうなる前に、罪を認めて償いなさい」
弘明は耳を塞ぎ、頭を振った。
「ふざけるな!俺は知らない!俺じゃない!」
声を荒げた瞬間、背筋に冷たい気配が走る。
いる……。
振り返る勇気はなかった。だが、確かに背後に“あの女”が立っている気がした。
弘明は母子の横を通り抜けると、夜の街を走り去った。
それから数日後の夜、寝汗で目を覚ました弘明は、違和感に気づいた。
部屋の空気が重く淀み、息苦しい。
布団の足元に視線を落とすと――女が立っていた。
陥没した頭部から血が滴り、畳に黒い染みを作っている。
折れた腕が、ゆっくりとこちらへ伸びてくる。
「やめろ……来るな……」
弘明は悲鳴を上げ、窓ガラスを突き破るように外へ飛び出した。裸足で走り、足裏をガラスで切り裂いても痛みを感じなかった。
弘明は女が目の前に現れるたびに逃げ続けた。そうして逃げ続けるうちに、弘明はある法則に気づいた。
女から近くにしか逃げなかったときには、すぐまた弘明の前に現れる。
だが遠くまで逃げれば、次に現れるまでに時間がかかる。
「……あいつ、もしかして歩いて追ってきてるのか……」
あの折れ曲がった脚で、じわじわと迫ってくる様を思い出し、体が震えるのを抑えることができなかった。
だが、その推測から弘明に一つの光明を見いだした。こうすればどうだ。女が歩いて追ってくるのであれば、海外にまで逃げれば流石に追ってはこれないのではないだろうか。
弘明は即座に全財産を叩き、成田からB国へと飛び立った。
飛行機が雲を抜け、眼下に見える街の灯りが遠ざかっていく。これで日本とはお別れだ。そしてあの女からも......。そう思った瞬間に、弘明は全身から力が抜けるのを感じた。
「……もう大丈夫だ。あれは、もう追って来られない」
海外での生活は、最初のうちは平穏だった。
言葉が不自由だが、街を歩いても、部屋で眠っても、あの女は現れない。
弘明は心から安堵を覚え、このまま、かつての日常を取り戻せるのではないかと思った。
だが――。
ある日、街で耳にした噂に弘明は顔色を失った。
――日本からこの地へ向かう飛行機の中で、頭から血を流し、手足が不自然に折れ曲がった女の幽霊を、多くの乗客が目撃したという。
弘明は顔面蒼白になり、頭を抱えた。
「……嘘だろ」
あの女は確実に、歩いて、歩いて、距離を縮めているのだ。
そしていずれ、この地にも現れる。
そして、その時には――もう逃げ場はない。




