第6話 約束
―東京陸運保険機構事務所―
ナインは、青鬼の討伐を成功させ、その残骸と西田機とを事務所となりのガレージに運びこんだ。
そのために、ガレージには新たな残骸コレクションが追加される形となった。
「おはようございます」
そんな中、大学からの帰りで桐生詩季ときゅうすけが出社してきた。
「ナイン君、青鬼を仕留めたんだってね。さっき社長から電話があったよ。おめでとう」
「そんなに大したことはしていないよ。プロトオーガの性能がいいだけだからさ」
「ナイン君はそういうかもしれないけど、アイツを倒すって本当にすごいことなんだから。もっと喜べばいいのに」
「そうなのか?」
「うん」
自分にとっては本当に大したことではないのだが、彼女は、まるで自分のことのように喜んでくれているようなので、少しだけ気分がよかった。
「それに比べて、この男は情けないわね」
弥生がすっかり呆れて、ため息をついた。この男とはもちろん西田のことである。西田は大げさに頭に包帯をまいて椅子に座っていた。弥生はガレージに横たわる西田ロボットの残骸をちらちら見ながら言う。
「あんた、マジで今月の給料からマシンの修理費引いとくから」
西田の怪我は大したことないのだが、ロボットを大破させて帰ってきたため、弥生の逆鱗に触れたようである。
「たいちょー。そんなことされると、俺3年は給料もらえないっすよ?かんべんしてくださいよー」
「はぁ?首にしないだけマシよ。ありがたく思いなさい」
西田は弥生に泣きつく。そんな西田に対して彼女は、まるで害虫をあしらうような取扱をするのだ。ちなみに、西田のロボットは現在の客観的な市場価値では1200万円である。とすると、単純計算で西田の年収は400万ということがわかる。
「西田さんかわいそ」
詩季はふたりのやりとりを見ながらそのように言うも、無邪気に笑う。
「でも、本当に西田さん無事でよかったよ」
青鬼に蜂の巣にされた時はもう助からないものと思っていたが、この人のしぶとさはゴキブリクラスであること改めて実感する。おそらく西田は頭部を失ったくらいで、機能を停止することもないだろう。彼の本質は、その屈強な肉体にこそあるのだ。
ふとそのとき、詩季がナインの袖を引っ張るのであった。
「この部屋、あと3時間はこの状態だから、外行かない?」
詩季は、前方のふたりのやり取りを指差しながら言う。ナインはそれもそのとおりだろうと思った。彼は先ほどからこの様子をただ傍観しているが、ふたりが口論を開始して既に30分を経過している。また、これが収まる気配も無い。そうならば、ここにいてもふたりの喧嘩を見ているだけで、時間の浪費以外の何ものでもない。
「それもそうだな」
「じゃあ、ふたりに気づかれないようにいこうか?」
ナインたちは、そろそろと忍び足でこの修羅場を後にし、町田の市街地へと赴くのであった。
(二)
―事務所向かいのカフェ―
ここは、よく機構の従業員が昼時や休み時間に利用する小さなカフェ。ここのマスターは古くからこの町田市で生まれ育った人で、鬼が来ようがなにが来ようがこの店だけは手放さないと決めているらしい。アルバイトなども現在はひとりもおらず、マスターひとりだけで切り盛りしているのであるが、その決意は岩より固く、今なお、こんな街でもしぶとく営業を続けられている。実際のところ、このカフェもオーガに付け狙われて危ない時も多々あったが、お向かいである弊社もこの店がなくなるといろいろと不都合なので、ここだけは最優先で死守している。
中に入ると、葉巻の香ばしい香りとともに、挽きたてのコーヒー豆の濃厚な香りが客であるふたりを包み込んでくれる。カフェの内装は、ログハウスを意識しているのか、太く立派な黒塗り丸太を基礎として、檜の板で壁も床もできている。それに、緑色の観葉植物の展示もここのマスターのこだわりか。そのため都内にいながら、自然を感じることのできるここは、まさに都会のオアシスである。・・・というのは、町田がまだにぎやかであった数年前の話で、今はけっこう寂れてきている。
また、この店は原則として喫煙席であるが、例外的に禁煙席が1組分だけ置いてある。そのため、普段は圧倒的多数の喫煙者が一斉に煙を吐くので非常に煙たいカフェなのであるが、現在はもうすぐ夕方になる時間で、客もほとんどおらず、いつもの煙たさは全くなくなっている。
ナインも詩季も非喫煙者なので、空いている禁煙席に座ることにした。きゅうすけはいちはやく詩季の足元にぺたりと伏せては、いつものように休んでいる。
「おや、こんにちわ。桐生さん」
マスターが詩季に声をかけてくれた。意外にも詩季は常連でよくここに来るらしい。もっとも、ここの他に飲食店が近くにないというのも、ひとつのファクターと考えられなくもないが。
「店長、こんにちは。私、エスプレッソね」
マスターは詩季の注文を聞く前に豆の抽出を始めようとしていた。詩季はここに来ると必ずエスプレッソを頼むのだそうだ。だから、マスターはいち早く顧客の要求に合った行動をとることができる。
「彼氏の君はどうする?」
マスターは、カウンターの向こうから、いたずらそうな顔で尋ねてきた。
「え?俺のこと?」
「マ、マスタぁ!ナイン君は、そういうんじゃないんです!!」
詩季は急に立ち上がって、赤くした顔にあるさらに紅い目を開いて、慌てて訂正した。
「ああ、そうか。それは残念だ」
「もぉ」
彼女は、頬を膨らませて倒れこむように椅子に座った。
「えぇと。俺は、アメリカンで」
その間ナインは、なにも聞かなかったことにして、注文を考えていた。預金も資産もない人間なので、最も安価で、かつ量の多い商品を注文した。一応、弥生から5万円ほど給料の前借りをしているが、調子に乗って使っていると破産しかねない。
「それにしても、社長、あんなに西田さんのこと怒らなくてもいいのにね」
「ああ、一緒に戦っていたからわかるけど、彼はよく戦っていたよ。実際、西田さんが撃たれてくれたおかげで俺も敵が青鬼だって気づけたし」
「あはは、怪我の功名だね」
もとい、西田が生きて帰らなかったら、こんな笑い事にはならなかったであろう。損害が西田機だけであってよかったと、詩季の笑顔を見て改めて思う。
「ありがとう」
詩季はテーブルの下で脚を上下にじたばたしながら照れくさそうに何か呟いた。
「え?」
「ナイン君がいなかったら、西田さん死んでた。ありがとう」
死んでたって、さらりと言うものではないと言いたくなるような発言だったので少し驚いた。たまにこの少女は口が悪いようなのだ。まあ、それは自己中心的な悪意から来るものではなく、西田が死ぬことを想像すらできないから少し大げさに言っているのだろうとわかる。
「あの人も今の俺には大切な仲間だからな」
「うん、ふたりが仲良くなって私も嬉しい」
ナインが西田と目もまともに合わせられないほど忌み嫌われていたことは、ふたりの想像に新しい。
「お待ちどうさま」
ちょうど会話が途切れたところで、タイミングよく注文の品がでてきた。小さいほうのカップが詩季のエスプレッソで、大きいほうのそれが私のアメリカンコーヒーである。挽きたてのコーヒー豆の芳醇な香りがナインたちを包んだ。彼はひとくちそれをすする。
「そういえば、ナイン君。社長から聞いてる?」
詩季はガラス製の小さな器に入っているミルクをコーヒーに混ぜ入れ、スプーンでゆっくりと攪拌させながら聞く。
「ん、なにを?」
「明日は事務所に来ないでって話」
ナインは、そんな話は全く記憶になかったが、どうせまたしょうもないことを考えているのだろうと、はなし半分に、コーヒーをすすりながら聞く。
「いや、聞いてないよ」
「私もさっき社長から電話がかかってきたときに直接聞いたんだけど、何でも会社説明会をやるとか言ってたよ」
ナインは口に含んだコーヒーを詩季の顔に向けて噴出しそうになった。
「あの人、一体なに考えてんだ?」
「きっと、景気よくなってきたから人手を増やしたいんじゃない」
「まあそうだろうな」
少しリアクションが大きすぎたことを恥ずかしく思い、照れ隠しにもう一度コーヒーをすする。希薄化された苦味が、口の中に行き渡ると、心なしか気分は落ち着いた。そうやって考えてみると、今日ナインが青鬼を倒したことが弥生にそれを決意させたことは想像に難くない。
「で、明日なんだけど、どうせ予定もないんでしょ?」
「まあな」
事務所にいられないのでは、読書にふけることもできないし、鬼に乗っていたら説明会に来た就活生を驚かせてしまうことは必至だろう。そうなると、一日中どこかでヒマを潰さなければならないことになる。
「じゃあ、うちの大学来ない?ナイン君の好きそうな本もたくさんあるの」
「いや、やだよ」
たしかに、大学といえばその蔵書の量は魅力的だが、異質な人間を排斥するような空間であろうし、なによりこの少女と行動を共にするのはなんだか照れくさい。
「大丈夫だよ、あそこは誰でも入れるし、ナイン君は好きなだけ本を読んでてくれればいいんだからさ。こんなとこに一日中いてもしょうがないよ」
ナインの心の中では、しばらく天秤が左右に揺れていたものの、彼女の説得により、ようやく一方に落ち着いた。
「わかったよ。そこまでいうんなら」
「おっけぇ、決まりね」
結局、いいように乗せられてしまったようだ。こうなってしまっては、詩季もなかなか引き下がるような性質ではないことも薄々わかっている。
「ところで、詩季の通ってる大学ってどこ?」
「え、東京大学だよ」
「そこって程度はいいのか?」
「一応、日本で一番の国立大学」
「本当か。詩季って実は頭いいのな」
「『実は』ってどういう意味?私そんなに頭悪そうに見える?」
詩季はふくれてしまったようである。しかし、ナインはこの少女が冗談の通じる相手ということを理解しているので、それが過剰なリアクションであることにも気づいた。だから、格別に慌てることはしなかった。
「ごめん。でも、日本一の大学ならいろんな本があるんだろ。楽しみだ」
「うん、そこは期待してていいよ」
詩季はまるで自分の事のように胸を張って言った。それにしても、日本最大の頭脳を持つ大学の蔵書である。興奮冷めやらぬ気持ちを抑えることができない自分がいた。