第57話 malicious fascination
アポカリプスとの死闘を終えた団堂は、息つく間もないまま、袴田の待つ戦場へ向かっていた。広大なドーム状の空間の床部にあった下降用ゲートより、再び地へと下る。何がいつ現れてもおかしくないという、張り詰めた緊張感を維持したまま、さらに下降を続けて10分ほど経過したころであった。あれからずっと地中に向けて突っ切っていたようであったから、とうにマントル層にでも到達しているかのように思われたが、そんな灼熱の溶岩地獄のような光景はいつまでたっても現れなかった。それどころか下れば下るほど、視界はどんどん広くなっていく。地中にありながら、天空よりも広い無限の世界がそこにはあった。
そう、湧き出る泉のごとく自分の目の前にはスモッグのような黒い闇が拡散を始め、拡散を始めた闇がさらに拡散を始め、累乗倍に展開される。狭かったシャフトのような一本道は、すでに暗黒の闇が覆い尽くす巨大な空間となっていたのだ。むしろここは、宇宙のような広大な空間だ。上を見上げれば、どこまでも広がる黒い空がある。そう、ここはすでに『この世』ではない。いつのまにか団堂は、莫大な力によって作り出された異世界へのゲートをくぐらされて、外法が支配する異なる世界へと放り投げられたのだ。だから、彼の知る常識や良識の手垢にまみれた世界など、もう何処にも存在しないのだ。
「寒いな・・・」
物理法則の適用が排除されたこの世界において、いったい寒いとはどのような、もとい、どれほどの意味を持つものかはあきらかではない。灼熱の焔を前にしても、身が凍りつくようなこともありえるだろうし、またその逆も然りだ。ただ少なくとも、見知らぬ世界でただひとり、無謀な戦いに挑み、そしてただ死んでいく。そんな自分の寂しさがとても寒かったことだけは確かだ。人間の心の動き。ただそれだけは、どこに行っても通用する普遍的なルールのようだ。
「なあ、アニミスト。お前は、俺みたいなやつがお前の執行官で、本当によかったのか?」
団堂はただなんとなく、半分ふざけてそんなことを訊いてみる。だが、アニミストは答えない。積極的に団堂のことを肯定するでもないし、否定するでもない。ただそれは、団堂の意思に忠実に動いてくれるだけなのだ。アニミストもれっきとした外法生命体であるのだから洒落のひとつを吐くぐらいの可愛げがあってもよいように思えるが、もとより言葉を発するようにはできてはいないから、当然といえば当然だ。
「・・・・」
団堂は、あまりに寂しすぎてとうとう邪気に気でも触れたのかと思い、自分のことを少し苦笑した。オーガが、自分の執行官に対して文句もクソも言うはずがないのに、なんともおかしな行為をしたものだ。
「いずれにしても、もう間もなくして、この戦いも終わる。結果云々はぬきにして・・・」
短かったような、長かったようなこの戦いであったが、もうゴール地点はそう遠い場所にあるわけではない。袴田との決着のときはすぐそこにあるのだ。もっとも、少なくとも非常に高い確率で、団堂は袴田に殺されるだろう。最悪の場合、もしくは、その手前で、ということも十分にありうる。しかしながら、それはそれでいいのかもしれない。やることはやったわけだし、ようやくあいつと同じ場所に行けるから。
だが、万が一、団堂がこの世界を変える権利を手に入れたら、そのときは─。
「そのとき、俺はどうするんだろう」
一応、この世界を元に戻す。当初からの建前でいけば、それが最大の目的であったはずだった。世界を元に戻して、今までと同じ世界を歩いていく。失ったものもたくさんあるけれど、きっとすぐにこの国に活気は戻ってきてくれるはず。オーガというとんでもない外法生命体と長きに渡って抵抗を続けてきた日本人だ。きっと、強く、たくましく、これからの未来を切り拓いていけるはずだ。
だが、そのあと俺はいったいどうするのだろう。あいつのいないこの孤独の世界で、絶対零度の砂漠のような世界で、俺はいったい何のために生き、なにを喜びにすればいい。それとも自分は死ぬこともできずに独り、のうのうと生きていけばいいのだろうか。それは、本当に自分が望んだ世界なのだろうか。いや、そもそも生きていてもいいのだろうか。海の藻屑にでもなって消えればいいのだろうか。それとも、俺は・・・・。
「ん・・?」
自問自答に夢中であった団堂であったが、突如、前方に巨大な物体があることに気づく。ススの塊のような闇にアニミストの周辺領域全体が覆われていたのでなかなか気づけなかったが、近づくことによってその実体がある程度明らかになってきた。それはまるで、闇を纏う暗黒の魔城のように気高く聳え立つのだ。見上げども、見上げども、頂上がまるで拝めない、山のごとき巨大建造物。
「これはいったい?」
団堂は、もっとそれに近づいてみることにする。近づけば近づくほど、モヤのような闇が晴れてその正体がよく分かってくる。まさにこの巨大な物体の正体は壁。堅牢なる分厚い城壁。この広い空間の果てを画定し、はみ出ようとするもの一切を堰きとめ、遮ろうとする巨大な壁であった。しかし、ただの壁ではない。触手のようなパイプが無数に張り巡らされては、壁を這いずっている。まるで生きているかのよう。まさに生命の鼓動のようなものが感じられるのだ。
「まさか、これがオーガとでもいうのか・・・」
これが仮にオーガであるとして、かつてオーガの作成を担当していた団堂にも全く記憶がないものである。そうなると、団堂が抜けたあとに袴田が新しく作った新型オーガと考えるのが凡そ妥当そうだ。いや、そうとしか考えられない。さっきから、コクピット備え付けのポンコツディスプレイがビープ音をぎゃあぎゃあ喚きたてている。このアニミストが同じオーガとして、あの巨大な壁が危険であると団堂に警告を告げているのだ。しかし、こんなに大きなオーガなどあってよいのだろうか。アイアンメイデンも相当に巨大であったが、これはその比ではない。
「これを破壊すればいいんだな」
だが、巨大であるとはいえ、単に大きいだけの壁である。これを破壊するのもそう難しいことはないはずだ。一箇所だけでもぶち抜いて、向こう側に出られればそれで事足りるはずだ。こんな巨大なものを全部跡形もなくぶちこわしていたら、自分の一生かかってもたりないぐらいだ。
「ニルヴァーナ、こいつをぶち破るぞ」
団堂は、5本のニルヴァーナをアニミストの胸部に集め、なにやら縦長の筒を形作る。それらは、綺麗に整えた筒の形を崩さないよう、器用にもくるくると高速回転を始めて、筒の内部に巨大なエネルギーを生み出す。
やがて、筒の中には許容限度を超えたエネルギーが充満してしまったのか、鮮やかな桃色の光が筒の隙間という隙間から滲み出してくる。とんでもないエネルギーを含んだそれは、まさにエナジー棒。果てしないエネルギーを棒状に限りなく圧縮させ、極々小化した破滅そのものだ。あまりにたがの外れたその塊は、周囲の空間を歪ませ、光彩を屈折させ、周囲の闇を吹き飛ばす。
「撃て、アニミスト」
ありあまるほどのエネルギーを溜め込んだそれは、爆発の先を求めて暴走寸前となっている。まるでオーバーヒートしてガタガタいっている洗濯機のようになっているので、そろそろ投げてしまった方がよさそうだった。だから団堂は、遠慮なくそれをぶっ放すのだ。
本来、あまり仲のよくない(?)個々独立のじゃじゃ馬娘のようなニルヴァーナであるが、それらが5本も集まって発動する協働兵器。たとえ、前方の壁がどれほど厚かろうと、一切合切くり抜いて、滅失させるはずだ。
「・・・どうした?」
だが、その壁に接触する直前、エナジー棒を纏っていた鮮やかな光は一瞬にして失せ、高速回転する5本のニルヴァーナだけがむなしく残り、その壁に突き刺さる。そのまま、ニルヴァーナたちは、せっせとがんばって、ドリルのように壁をガリガリ抉り取ろうとするだけであった。やがて、高速回転の勢いすら失ったニルヴァーナたちは、慣性によって残っていたエネルギーまでもが底を尽き、その壁に突き刺さったまま動きを止めて沈黙するに至ってしまった。
「外法無効シールドか?」
この現象の原因として考えられるのは、この壁全体に外法無効シールドでも張り巡らされているのではないか、ということが挙げられる。
しかしながら、それはありえないだろう。たとえ、外法無効シールドであっても、物理との併合兵器であるニルヴァーナのエナジー棒が直ちに失速するなど、それほどの効用があるはずもない。
それならなぜ・・・。
「・・・!!」
原因究明のため、思考を巡らせていた団堂に対して突如、壁のどこからか数本の触手がアニミストに向けて伸びてきた。闇が濃くてどこから来たのかもわからないが、早めに危機を探知できたので、これをかろうじてかわす。否、この軌道では、もとよりかすりもしないから、団堂が避けたのではなく、当たらなかったのだ。当てる気がそもそもないのだ。それなら当たるわけがないはずだ。なぜなら、これはただの威嚇だから。開戦の狼煙を上げるため、あくまで挨拶代わりにした、攻撃ですらない攻撃。有効打にすらならないジャブのような、ほんのささいな、取るに足らない数撃。わざと相手はかわせるような速度、角度で攻撃しただけだ。
だが、そのおかげでわかった。団堂の敵はやはりここにいる。
「お前がそうか・・・」
触手の戻っていく先を目で追っていくと、そこにはアニミストの5倍ほどの大きさがある巨大な蕾が、まるで空中に鎮座するように浮いていた。巨大な鉄板を幾重にも貼り付けたような鉄の塊か。いや、よく目を凝らしてみれば、その分厚い鋼の板は薔薇の花弁の一片に酷似する。それはいわば、鋼の花弁を闇のような宇宙に咲き乱れさせている、異形かつ巨大な妖花。
「こいつ」
おぼろげな意識の中、以前、全執行官が団堂の前に集まったとき、団堂はコイツを見た。見たことのないオーガであったこと以上に、コイツはあの中で特に異彩を放っていたから、相当印象に残っていたのだ。
「お前・・・お前は誰だ?」
団堂は、顔も知らない謎の執行官に対して問う。あえてこのタイミングで、この場所で、団堂の邪魔をするこの未知なる執行官に、団堂は問う。
「フフフフ・・・」
謎の執行官は笑う。あくまで上品に、口先だけで、だけど、ふきこぼれそうなほどの喜びを必死に抑えつけるように。
しかし、そこからもれる声のあどけなさといえば、まるで少年のよう。悪戯が功を奏した時に見せる、少年の悪意なき無邪気な嗤い。
「僕は・・・そう僕は、ナイン。かつて、先生の下を抜け出した君の後釜だよ。団堂曹士先生」
そうだ、この声は・・・。少し前のことではあるが、はっきりと覚えている。
団堂は、この声だけを手繰り寄せて、記憶を遡っていく。あのとき、たしか八王子の山中で、これと同じクソ生意気な糞餓鬼の声を聞いたんだ。ピーピーと耳元で、散々喚かれたから思い出すたびに頭痛が走る。
「お前は、あの時の・・・ノイ!」
確かあの時、この餓鬼は己のことを『ノイ』と名乗っていた。その名前を口に出した瞬間、ノイのクソ生意気な面もはっきりと想起できた。私学教育で義務教育を修了してしまったいいところの坊ちゃんのような餓鬼の顔が、団堂の脳裏で再生産されたのだ。
「へへへ、団堂先生、僕のこと覚えていてくれたんだ。うれしいな。でも、それは残念ながら便宜上、つけさせてもらった仮名でね。僕の本当の名前はナインっていうんだよ。まあ、あの時は君と被っていたからね」
ノイは、やはりあの時の大人を小ばかにしたような口調のままで応える。何も変わらない、無邪気な子どもの口調で、人懐っこい話し方をするのだ。
「ノイ・・・。お前はやはり、執行官だったのか」
しかし、その声が発せられるのが、あの巨大なオーガからであると、いくらそれが子どもの口調であるとはいえ、かえって不気味さが増し、団堂も全く予断を許せない状況にあった。
「そうだよ、団堂先生。あのときは黙っていて悪かったね。僕は、このアーリマンの執行官さ。そして、君の敵でもあるのだけれど・・・」
ノイの声のトーンが、だんだんと暗くなっていく。彼の声が暗くなっていくほど、溢れんばかりの殺気が反比例して増えてくる。ノイは、途方もない闘争心をむき出しにしているようだ。
「さあ、早くはじめようか。僕たちの戦いを・・・」
ノイがそういうと、アーリマンの周りにびっしりと張り付いていた、花弁のような分厚い装甲は、めりめりと音を立てながら花開いていき、粘液のような体液が長い糸を引きながら、その内部を曝け出していく。巨大な蕾にすぎなかったアーリマンは、果実を包む鋼鉄の花びらを引き剥がすように捲り続けると、中から悪の極を身をもって体現するかのような最兇のオーガが現れる。
巨大な蕾が花開いて出てきたのは、アニミストとさほど変わらない大きさの真っ赤なオーガ。しかし、花開いた鋼鉄の花弁が蝶の羽のようにアーリマンの背部で広がり、羽までその大きさに含めるとそのサイズは相当でかい。
そんなことよりも殊に目を引くのはアーリマンの兇悪さだ。それは全世界の悪意を掻き集め、結晶化した、悪100パーセント。いや、それは悪であると同時に美しくすらある。美しいほどに悪であり、悪しきほどに美しい。生物一般は、なぜだかやくざなものに心惹かれる性質があるが、それに極々近い感覚であると思う。
「ノイ・・・お前」
「いくよ。団堂先生」
アーリマンの放つ、圧倒的な魔性に魅せられた団堂を正面に、アーリマンは巨大な花のような羽をはためかせて飛来する。うっかり不意を打たれた団堂は、急いで防禦行動へと移る。今からでは回避など到底間に合いそうにないのだ。
(こ・・これは?)
団堂は、すぐに違和感に気づいた。しかし、ただでさえ不意をつかれ、呆気にとられている団堂は、そのことに気づいても何もできなかった。
すぐ目の前には、のた打ち回る数本の触手にまみれた、アーリマンの巨大な右腕が振りかぶられる。回避はもはや無理。ならば、仕方がない。一発ぐらい、もらってやる。
アーリマンより放たれた、図太い触手を叩きつけるかのような右フックの一撃は、拳の衝撃と同時に、数本の触手がアニミストの装甲を穿ち、突き刺して、蹂躙する。その直後、衝撃のために後方へと仰け反らせるが、触手がそれを絡めとり、アニミストを後ろに逃がすことはない。
そのため、アニミストの内部では、後方へとかかってたすさまじい重力が、一気に前方へと反転させられることになる。これにより、中の団堂は、おそろしくかき回され、内臓を抉られるような感覚を味わう。
「おぇあ・・・」
喉の奥まで腕を突っ込まれたかのような不快感により、嘔吐感が昂ぶる。だが、そんなことを気にしている場合ではない。まだアニミストは、敵の触手に捕らわれているのだから。
「やれ、アーリマン」
触手の収縮のより、アーリマンのリーチに引き戻されたアニミストは、いまや格好の的である。敵は十二分に溜め込んだ至高の右ストレートの構えでアニミストをぶっ飛ばす気だ。
「くそ、虚物化もできないのか?」
やはり、このアーリマンには特殊能力があるようだ。あの時に感じた違和感から類推して、もしやと思ったが、まさか虚物化まで許されないとは。ならばもう、こちらも真っ向勝負に出るほかない。
「うおぁぁぁぁぁ!!!!」
吐きそうな最低の気分は気合いで吹っ飛ばして、こちらも右ストレートを構える。触手の収縮する勢いに乗って、このままアニミストの強烈な拳を叩き込んでやる。
そして、ふたつの鉄拳が正面衝突する。ふたつのオーガの間が爆砕し、モヤのような濃密な闇を吹き飛ばし、互いに後方へと吹っ飛んでしまう。これによって、幸運にもアニミストを絡めとっていた触手はぶちぶちと根っこから千切れ飛んでいってしまい、ようやくにして解放された。
「ははははは・・・」
ノイは、嗤う。これは愛想笑いなどではない。彼は半ば、恍惚状態に酔いしれ、異常なアドレナリンの分泌のために、心の底から嗤っているのだ。団堂との殺し合いが愉し過ぎて、膝までもがカクカク嗤っている。
「あはははははははははははは」
ノイは、瞬きひとつせず、狂気に染まった猫のようなくりくりした眼を開き、叫びのような嗤いを響かせる。
「いいよ・・・。いいよ・・。団堂先生。僕、いま、すっごく愉しいんだよ」
ノイは、息継ぎをするのがやっとというほどに、興奮したまま、今の自分の最高の気持ちを団堂に伝えてくれた。
「なにが愉しいだと?お前のおかげで死にかけたぞ・・・。全く、お前のそのアーリマンというオーガは、とんでもない力をもっているな」
団堂は、命からがら、アーリマン必殺の右ストレートを、こちらの右ストレートでなんとか相殺できたことに安堵する。しかし、その反動で、アニミストの右腕の基本部分は完全にいかれてしまっているようだ。これは、早急に自己修復する必要がある。
だが、おそらくそれは無駄であろう。先ほどのエナジー棒の件といい、防禦の際といい、いくらなんでも気づくはずだ。
「そうだね。これ以上隠しても無意味だし・・・。おそらくは先生の考えているとおり。アーリマンの力で、ここら一帯の外法規則は全て無効化させてもらっているよ。だから、物理法則以外の原理原則をこの戦闘において使用することはできない。つまりは、外法属性攻撃も、各種防禦シールドも、虚物化も、自己修復さえも、全てできないんだよ」
やはりそうだ。団堂自身、お初にお目にかかる高等外法技術、いわゆる外法封じ。
理論的には、外法効果の部分についてのみ、これを無効とする特則で、あらゆる外法規則を塗り替えてしまい、効果妨害をするもののようだ。
「だから、団堂先生。オカルトなんかに頼らないでさ、僕に見せてよ。君自身の本当の強さを。アニミストなんかよりも、もっと恐ろしい。団堂曹士という男の真の恐ろしさを」