第38話 ただそれを信じたくて
突如、机の上に置いてあった弥生の携帯電話が、地鳴りのようなやかましい振動音を鳴り立てながら光りだした。どうやら誰かから緊急の連絡が入ったらしい。
「うるさいなぁ」
椅子に座った状態で仮眠をとっていた弥生遼子は、その五月蝿い音によって睡眠を中断させられる。そのため、彼女はやや目覚めが悪く、乱雑に電話に出る。
「はい。代表理事」
弥生の口調は、仮に電話をかけた理由がくだらないものであったならば、即刻電話線をぶった切りかねないものである。
「あぁ!?事務所!?新聞は間に合ってるって、いつも言ってるでしょ」
弥生はやはり寝ぼけているのだろうか、相手の言いたいことがよく伝わっていないようなのだ。
「ふんふん・・・」
しかし、だんだんと思考力が通常のレヴェルまで回復してきたのか、落ち着いて通話に応じるようになってきた。
「なんですって・・?」
しかし、弥生が落ち着いていられたのはほんの数秒にも満たなかった。次第に彼女の表情が青ざめていくのがわかる。
「地検が事務所を強制捜査・・・」
弥生は、衝撃の事実を伝えられて、完全に目を覚ましたようである。そして、本能的に現状をうまく逃れるためのあらゆる手段を頭の中で考え始めた。事務所に致命的な証拠を残してこなかったか。事務所に残してきた西田は余計なことをしゃべっていないだろうか、云々。とにかく、いろいろな不安要素が彼女の頭をよぎるのである。そのようなことで数秒沈黙してしまった弥生であるが、話し相手から呼びかけられたのか、急に我に返って会話に戻る。
「それと、被疑者は誰よ?」
そういって問いかけると、相手からはあいまいな返答しか返ってこないようである。
「心当たりのない人間?いいから教えなさい」
弥生はいらいらしながら自らが望む答を待つ。
「団堂曹士ですって?」
弥生はいよいよ心臓が高鳴るのを隠せなかった。
(団堂)
団堂曹士なる人物は、この東京陸運保険機構に存在しないはずである。そのことは、機構の人事権を掌握している彼女が一番良くわかっている。実際、彼女もそのような名前の人物を雇った覚えなどない。だから、そんな無関係な人物の事件を捜査するために、機構の事務所が捜索されることなどおよそありえない。
しかし、現に東京地検は、機構が、団堂に強くかかわっていると踏んで、強制捜査に踏み切っている。しかも有罪率99パーセント以上を誇る、あの東京地検がなんとなく強制捜査に踏み切ったりはしない。彼らは相当な嫌疑が存在しないかぎり、下手な捜査を仕掛けてくることはないのだ。
にもかかわらず、東京地検がこの団堂曹士という人物を突き止め、この人物が東京陸運保険機構との関連性を見出し、遂には強制捜査に及んだという事実は、相当な嫌疑あることを逆説的に語っている。
(団堂、プロトオーガ、そして東京陸運保険機構)
これらみっつの情報が弥生の脳内で有機的に結びつき合い、ひとつの結論を導出する。
(地検はおそらく、ナインのことを団堂曹士と考えている)
弥生はふと、先の戦闘において、ナインのプロトオーガが青い光を放ち、天下無双の力で敵のプロトオーガを圧倒していたことを思い出す。
(あの時、ナインは団堂曹士になっていたとでもいうの?)
弥生は、合理的な疑いを差し挟む余地がないほどの確信を抱いてしまった。まちがいなく、ナインはこの事件の鍵を握っている団堂という男なのだ。
「とにかく、事実はわかったわ。なにかあったら、また連絡しなさい、西田」
弥生は、通話を終えてさっさと携帯をしまうと、身だしなみは酷く乱れていたが、慌てて自分の部屋を飛び出した。
(東京地検が動いた。とにかく、今は日本がどうなっているかを知ることが大事ね)
何よりも情報が大事であると考えた弥生は、ブリーフィングルームへと向かうことにするのであった。
(二)
戦艦アガメムノンのブリーフィングルームには、グレイ・辰巳・まもるの3人がすでに集まって、テレビを見ながら、なにやら話し合いをしていた。
「うぅーん・・・」
「きもちわりぃ・・」
しかし、そのうちのグレイ・辰巳のふたりは、何やら気分が悪そうに、ソファの上で仰向けになってグータラしていた。たまらず、まもるがふたりのところに駆け寄る。
「ふたりとも・・大丈夫?戦艦に乗るの初めてだから、船に酔ったの?」
まもるは、心配そうな表情でふたりの顔を覗き込み、それぞれの額に濡れタオルを置いていった。
「まもる、そういうオメェは大丈夫なのかよ・・・?」
「今のところはね。でも、そんなに揺れが酷いわけでもないのに、おかしいなぁ・・・」
「そぉなんだよね・・。車酔いとかとはちょっと違う・・・このキモわるさ・・。なんつぅか、押さえ込んでいるものが飛び出しそうなんだけど、飛び出せなくて、身体の中ぐるぐる回ってて・・・」
「はるきちゃん・・、なんなのそれ?」
まもるは、辰巳がふざけているようにも思えてきてため息を吐いたが、どうにも彼女が苦しむ様子に嘘はないみたいだ。辰巳が、仮病を使ってでも、まもるにかまってほしいと考えている・・そんなわけはないだろうし、そもそも彼女は演技がニガテだ。そうだとすると、彼女の症状には、本当に異常があるのではないかと疑うようになる。
「はるきの言うことは確かだぜ、まもる。なんか、うまくは言えねぇけど・・・とにかくぐるぐる回ってて、地に足がついてねぇんだ・・・」
「本当に、ふたりとも大丈夫?」
まもるは、このふたりが同じ症状に悩まされるという異常性がひっかかっていたが、やはりただの船酔いだろうと、彼らの気を紛らわすためにテレビのチャンネルを変えた。
いくつかのチャンネルを何気なく変えていくうちに、まもるは見知った名前を、そこで目にする。
「まさか・・・うちの事務所が強制捜査?」
「マジ?なんで?」
まもるの呟きを聞いて、辰巳が飛び起きる。続いて、グレイもまた、ダウンしている場合ではないと、起き上がった。
「まあ、プロトオーガも目撃されているから、いつ強制捜査をされてもおかしくはないんだけど」
「でもよ、どうしてこんなタイミングで?」
「さあ・・わからない・・・」
まもるは、ぞくぞくと事務所に踏み込んでいく捜査員たちの映像を、立ち尽くしながら見ていた。
するとそのとき、よいタイミングなのか、弥生遼子がブリーフィング・ルームに駆け入ってきた。
「あんたたち、テレビ見てる?」
「ええ・・・。社長、最悪の展開になってきました・・」
まもるは、気が重くなっているのであろうか、弥生に対しても、元気なくテレビの画面を示した。
『ついさきほど、東京都町田市にある公益社団法人東京陸運保険機構の事務所に、東京地検特捜部が捜索に入りました。これはそのときの映像です』
映像によれば、空の段ボールをかかえた捜査員たちが続々と機構の事務所内部へ、ずかずかと入っていくのがわかる。それを横で西田が指をくわえて見ているという、なんとも情けない映像である。
一方で、映像はスタジオの方へと戻されると、そこには見知ったアナウンサー2名と、複数のコメンテータが座って、論議を開始する。
『ところで、昨日、韓国ソウルで大規模な戦闘があったそうですね。例の特殊部隊の方が1名、命を落とされたとか・・』
『はい。どうやら東京陸運保険機構がソウルに逃亡していたようで、彼らの反撃にあって死亡したものと思われます。しかしながら、この事件についてソウル当局に問い合わせると、機構は韓国の安全のために戦ってくれたと言っているので、こちらと話が全くかみ合わない状況にあります』
『そうですか。しかし、真実はひとつですからね。機構は、韓国上層部と通謀しているとも思えます。とにかく、いま言えることは、安易な推測に流れるのは危険ということでしょうかね』
テレビの中で、40代くらいの女性アナウンサーと政治評論家らしきコメンテーターがなにやら議論をしているのである。それにしても、なにゆえこの場における議論というものは、根拠のない空論ばかり持ち出して無意味な議論ばかりするのであろうか。弥生を含む、テレビの前の4人は、行き場のない怒りに打ち震えていた。
「チャンネル変えようぜ」
グレイは、これ以上同じ番組を見続けることができないようで、さっさとチャンネルを変えてしまう。しかし、どの番組も同じようなニュースばかりであり、グレイはいくつものテレビ局をたらい回しにあっている。
「ち・・ろくなのやってねぇ」
グレイは、『強制捜査』という文言を目にすると、直ちにチャンネルを変えていった。
「ちょっと、グレイ!!今のチャンネルに戻して!!」
だが、弥生はひとりとんでもない映像を目にしたため、思わず叫んだ。
「すんません。えぇと、これか・・」
そういって、グレイは一個前のチャンネルに戻す。
「これって・・・」
そして、弥生の見たものを、この部屋にいる全員が目にして驚愕する。
『東京地検によると、この写真の人物が一連のオーガ襲撃事件において中心的役割を果たした煽動犯であるとされ、急遽、指名手配されるに至りました』
「なんてこと・・」
『容疑者の名前は・・』
「団堂・・曹士・・・」
そう、そこには事件の首謀者である男の顔写真が大きく映されていた。それは、多少相違点はあるものの、紛れもなくナインである。そして、その顔写真の下には、容疑者団堂曹士というテロップが張られている。
「ナインさんが容疑者って、どういうこと?」
「それに、団堂って・・?」
「ナインが、少なくとも、一連のオーガ事件に関係していることは間違いないようね」
この衝撃の事実を目の当たりにした3人は、口々に思ったことを述べていく。まだ被疑者段階であるとはいえ、マスコミに報道された人間はほぼ100パーセント、有罪判決を受ける。そうだとするならば、この報道がなされた時点において、ナインが少なくともこの事件に関与しているであろうことは確実であった。
「うそだろ?せんぱいが・・・」
「事件に関係してんのか・・・」
火のないところに煙は立たない。だから、そんなはずないと思っても、その思いもすぐに打ち消されてしまう。
よくよく考えれば、ナインがプロトオーガなんていうものを持っていること、それ自体がおかしいのだ。そんな疑問に全く気づかなかった。いや、気づかなかったのではない。目を瞑っていたのだ。ナインは人を殺せるような人間ではないし、何よりもプロトオーガの戦力が魅力的だった。だから、そのような疑問には、あえて目を瞑っていたのだ。しかし、冷静になって、ことの本質を見抜けばナインという人間が、一体何者であるのか見えてくる。
(そうだよ・・・。ナインは、君達が考えているような人間なんかじゃない。自分の利益のためならば、平気でヒトも殺すよ)
ふと、ふたりは、そんなおそろしいことを考えた。まるで誰かが、心の中でささやいているかのように、ふと心にすりこまれた、ひとつの考え方。悪魔のような、なんとも甘美な響きだ。
(だってねぇ。オーガを作って、世界にばら撒いたのもナインなんだからさぁ。君達も家族や友達を奪われているよね。あれは、みぃんな、ナインの仕業なんだ。すごいよね。すごいよね。彼は、数えきれないヒトを殺したんだよ。あははははははははは)
心の中の自分が嗤う。いや、それとも誰かが、心の中で嗤っているのだろうか。それは、いずれにしても悪魔が、馬鹿みたいに嗤うようなのだ。
(それなのにね、記憶喪失とか言っちゃって、君達と仲良くしているんだからお笑いだよね。でも、そんな裏切り行為をされた君達は、笑えないか・・・。君達がすべきは、自分の悲劇を笑うことではない。ナインという男を憎むこと。憎しみを研ぎ澄ませて、増幅させること。そうでしょう?なら、君達は、自分がどうするべきか、わかるでしょう?)
悪魔のささやきは、それに耳を傾ける者の心をついに融解させた。
「あのナインが全ての原因なのかよ」
「ははは。意味わかんねぇ」
辰巳は、考えるのをやめてボソッとつぶやいた。その時の彼女の目からは狂気の炎がかすかに宿っていた。
「よく考えれば、簡単なことだよな。なんであいつが、プロトオーガを持っていたのか。事件の首謀者だからだろう。裁判なんかやるまでもねぇ」
「ちょっと待って、グレイ!私たちが機構に入ったときからプロトオーガはあったし、あのナインさんがまさか悪い人だなんて想像もしなかったから、特に気にしなかったけど、これだけ情報があればナインさんが関係者であるのも間違いないと思う。だけど、まだ首謀者と決まったわけじゃないよ!!」
まもるは、暴走するグレイの推理を止めようとする。しかし、そんなまもるを他所に、辰巳が口を開いた。
「あはははははは。アタシたちはずっと、鬼どものボスと一緒に戦っていたのかよ」
「ちょっと、待って。ナインは、少なくとも私たちの味方よ。そんなナインをあんたたちは疑う気?」
「社長、そういう問題じゃないんすよ。俺がここにいるのは、何よりも妹を殺した鬼どもに復讐するため。そして、ナインが首謀者だとすれば、ナインが妹を殺した張本人ってことになっちまう」
「グレイ!!」
弥生は、絶叫するように彼の名を呼んだ。その先を口に出してはいけない。その先を言うと、もう後戻りができなくなる気がしたのだ。
「俺だって、ナインのことは信じたい!!でも、これだけネタがあがってくると、自分をごまかすことなんてできねぇ」
グレイは、心の中で葛藤が起こっているのであろうか、頭を両手でぐしゃぐしゃに揉み解すしぐさをする。
「ほんと、なんでアタシの信じた人ってみんなそうなのかな。どいつもこいつもふざけやがって・・・」
「はるきちゃん・・」
まもるは、虚ろな目でどこかを見つめている辰巳を心配した。まもるは彼女の中で、何かが弾け飛んでいるような気がしてならなかったのだ。
「何より、殺さなけりゃならねぇ仇が、すぐそこにいたのに気づかなかった自分が情けねぇ。なんで、はじめにプロトオーガを見たときに気づかなかったんだ!!」
「そうだよ・・。ナインは、アタシから全てを奪っていったクソ野郎なんだ。アタシは、そのクソ野郎を血祭りにするためだけに生きてきたんだ。早く殺さなきゃ」
「アンタたち、それ本気で言ってんの?」
弥生は、耳を疑った。ついさっきまで、かけがえのない仲間だと思っていた人間を殺すなどということは冗談としか思えないのだ。とはいえ、全く笑えるような冗談ではない。
「もちろん、本気です。俺もそのためだけに生きてきたんだ」
グレイにとっては当然のごとく、冗談ではなかった。
「はるきちゃんもグレイも変だよ!ナインさんは、首謀者かもしれないけど、少なくとも私たちの知っている彼は優しい人だった。短い間だったけど、思い出もいっぱいあった。そういうことも、全部捨てちゃう気なの?」
まもるは、泣きそうになって問い詰めた。
「思い出・・・?」
そんなまもるの必死の説得に触発されたのか、辰巳は一瞬、とまどいの表情をみせた。おそらく、ナインと一緒に助け合ったことや、遊んでいたことでも思い出しているのであろうか。
「そうだな、あいつのプロトオーガは強ぇからな、いっぺんマジで戦ってみたかったっけ」
「それアタシもだわ。あはははは」
しかし、彼らに残っていたナインとの大切な思い出はその程度のものしかなかったようだ。
「あぶねぇな。その夢かなえる前に、あいつ殺しちまうところだった。教えてくれてありがとうな、まもる」
「そういう意味じゃない!!みんなおかしいよ!」
まもるは、自分の友人の異常性を必死に訴えようとする。
「でも、ナインの顔を見た途端、アタシあいつを殺しちゃいそうだわ。できればしばらく消えていて欲しいんだよね」
「だったら、警察に突きだしゃいいんじゃねぇの?そうすりゃ、うちの身の潔白を立てられるしな」
「それいいじゃん!!」
良い策がうかんだふたりは、ハイタッチをしだした。
「というわけで、社長。直ちにナインを警察に突き出したほうがいいんじゃないっすか。さもなければ、俺か春樹のどちらかがナインを殺すことになるんで」
「あんたたち、こんなことをして許されるとでも思っているの?」
「許されないことをしたのは、あの男っすから。ていうか、今、殺さないだけマシじゃないかなぁ?」
「グレイ、いい加減にして!!」
まもるは、怒鳴り散らすように叫んだ。
「まもる。ふたりとも本気よ」
弥生は、このふたりの狂気を目の当たりにして、本当にナインを殺しかねないと確信した。だから、今にも泣きそうなまもるを押しのけて、ふたりの前に出る。
「わかった・・。ただこの私を脅迫した以上、あんたたちへの信頼は消え失せたわ。したがって、現時刻をもって、辰巳春樹及び黒井珀の両名を解雇処分とする。ナインを追い出したのを確認したら、即刻消え去りなさい」
「へぇーい」
気のない返事を聞いた弥生は、そのブリーフィングルームから退出した。まもるも彼女に追随するようにその部屋から出てくる。
「社長・・。こんなのひどすぎます」
まもるは、弥生の表情をうかがう。弥生は平静を保っているも、心の中は煮えくり返りそうなほどに怒り狂っているに違いない。
「・・・」
案の定、弥生は何も応えようとはしない。
「はるきちゃんも、グレイも、どうして・・」
まもるは、急に悲しみに襲われて、その場に立ち尽くした。そんな彼女を、弥生は振り返ってみる。
「まもる。あれが、メンタルスフィアに心を飲まれた人間の末路なの。憎しみに溺れ、人の心を失い、ゆくゆくは何も見えなくなってしまう。そして、最後に鬼そのものになってしまうのよ。よく覚えておいて」
弥生は、怒りを必死に押さえ込みながらも冷たくそういうと、ナインの部屋へ向かって、再度歩き出した。
「社長・・・」
(三)
弥生は、ナインの部屋の前に来て、立ち止まる。
(本当にこれでいいのだろうか)
確かに、あのふたりのめちゃくちゃな要求が許されるようなものであるわけがない。しかし、だからといってそれが不合理であるとまではいえないのもたしかである。実際、東京陸運保険機構は、マスコミ・検察・鬼の3者から、かなり追い詰められている状況にあり、ナインを売って身の潔白を証明すれば、会社全体としての利益は大きい。
だが、そのような貧乏くじを引かされるナインはどうだ。ただでさえ、人を信じやすい性格の男であるから、相当に傷つくはずであろう。
(でも、このままじゃ、ナインはあのふたりに殺されてしまう。そうなるよりは、はるかにマシか)
弥生は、そうやってあのふたりのせいにすることで自分の論を正当化した。もう、お手上げ状態の彼女にとって、それが一番楽なのだ。
「ナイン。入るわよ」
言うと同時に、弥生は扉を開いた。
「あ、社長」
そこには詩季がいた。今ナインに起こっている劇的な状況を知らないで、彼女は幸せそうに、そばで寝ているナインを優しく見つめている。
「どうしたんですか、そんな怖い顔して?」
彼女は、ナインを起こさないように、小さな声で聞いてきた。
「・・・・」
弥生は応えられなかった。いまから自分がしようとしていることは、詩季にとっても残酷な仕打ちを与えることになるからである。しかも、まるでわが子を愛でるかのように母なるまなざしを送る詩季の様子を見ていると、なおのこと事情をいうことはできない。
「社長?」
詩季もそんな弥生の心境を察知したのか、不安感が募っているようだ。
「ごめんなさい。ナインに話があるの。だから、詩季は外してもらえる?」
弥生は、詩季の顔を見て言えなかった。下を向いて、震える声を押し殺すように言う。
「は、はい」
詩季は、弥生の不可解な態度に首をかしげつつも、慌てて立ち上がって、弥生と入れ替わるように出て行く。
「あ、社長。ナイン君、いろいろと悩んでたみたいですけど、何があってもみんなを守るって。元気が戻ったみたいです」
「そう・・」
詩季は笑顔をつくってポジティヴな情報を与えたが、かえってそれは弥生の表情を暗くさせた。
「すいません。もう行きますね」
詩季は、喜ばない弥生に後ろ髪を引かれながらも、自分の部屋へと戻っていった。
(ごめんね。詩季)
(四)
ナインは、八王子山林地帯に来ていた。というのも、弥生遼子が、ここである人物からブツを受け取って欲しいとナインに頼んだからだ。そのため、プロトオーガを使い、虚物化の瞬間移動により、ここに到着する。相変わらず、この山林地帯には人の気配はなく、以前来たときの状態がそのまま保存されて残っている。
(それにしても、ここにはよく来るな)
ナインは、プロトオーガを背もたれにして、日が沈み行く空を見上げていた。もっとも、木々に囲まれたこのエリアは、既に夜ではないかというほど暗くなっている。
(こんなところで待ち合わせるなんて、よほど大事な物なんだろう)
ナインの周囲はおどろくほど静まり返っていた。まるでこの世界には、自分とこのプロトオーガしか存在しないとさえ思えてしまう。
(何かくる)
しかし、上空がざわめきだしたようだ。これは、ヘリコプターのブレードが回転する音だろうか。その音はだんだん大きくなってくる。おそらく、ヘリがこの近くに向かってきているのだろう。
次第にヘリにより発生する上昇気流が、木々をざわつかせて、落ち葉を空へと舞い上げる。
(例の人物が到着したのか)
モーターの非常に大きな回転音とともに、木の葉の隙間からヘリがその顔をのぞかせた。それと同時に、強烈なスポットライトの光がナインの目に突き刺さる。そして間もなく、ヘリからロープ製の梯子が投下され、数名の人間が続々とそれをつたって降りてきた。
「君は、機構の者か?」
体格のよい、戦闘スーツに身を包んだ男が、ナインの前にたって問いかける。
「はい。とすると、あなた方が理事の言っていた人たちですね」
「そうだ」
男は、無愛想に肯定した。
「にしても、これが例のオーガか。怖ぇ顔してやがるな」
男は、ナインの後ろに控えている巨大なプロトオーガに目をやった。また、彼に引き続いて降りてきた連中も、プロトオーガに目を奪われてしまっている。この光景を見ていたナインは、この男がなんとなく胡散臭い匂いを出していたことを感じた。
「それより、渡したいものとは?」
「ああ、これだ」
ナインの目の前の男は、なにやら紙袋のようなものをナインに差し出す。そして、ナインはそれを受け取ろうとした。
「え・・」
だが突如、鍵がかけられるような軽い金属音が響く。そして、ナインの手首を冷たい感触が締めつけた。ナインは、いやな予感がして、とっさに身をよじろうとする。
「被疑者確保!!」
しかし、抵抗しようとしたナインの片腕は、思い切り引っ張られたうえ、足をかけられてしまい、男の柔道技が綺麗に決まってしまうのであった。そのままナインは、大地に叩きつけられる。抵抗できなくなったナインは、いよいよ両腕に手錠がかけられる。
「これは一体、どういうことだ!!」
地に這い蹲るナインを見下すように立っていたひとりの男が、ナインの抗議を無視して逮捕状を呈示してきた。それを見たナインは、ようやく自分が置かれた状況を飲み込めた。この連中は捜査機関だったのだ。しかし、もう身動きすら取れない状況でそれに気づいても、全くの無意味である。
「団堂曹士。貴様を内乱首謀の容疑で逮捕する。もっとも、お前には黙秘権と弁護人選任権がある。これらを行使することはお前の勝手だ。だが、俺たちが優しい取扱いをするだなんて思うなよ」
男は、淡々と手続的事項の説明をする。
「ふざけるな!俺が一体、何をしたっていうんだ!!」
「それはこれから明らかになるだろうよ」
ナインの身体を押さえつけている男が、いっそう強く地面に彼を押さえつけながら応える。
「俺は、仲間を守るために戦っていたんだ!お前たちに逮捕される筋合いはない!!」
ナインは、苦痛に顔を歪めながら叫ぶ。
「仲間・・か。ひとつお前に教えておいてやる。お前の居場所を我々に教えたのは機構の代表理事、弥生遼子。お前が守る仲間ってやつだ」
「何をいっている!!彼女がそんなことをするはずがない!!」
「驚いているのは我々も同じだよ。まさか、重要人物から直接声がかかるとは思いもよらなかったからな。それに奴の情報がなければ、こんなところにお前を捕まえに来るわけがないだろう」
「そんな・・。社長が、俺を売った・・」
信じたくはなかったが、この男の説明が最もよく筋が通っている。そうなると、この男の発言を真実と受け止めざるを得ないのだ。
「そういうわけだ。ご愁傷様」
頭が真っ白になっていくナインに対して、男は吐き捨てるようにいった。
「詩季だ。彼女なら、俺の無実を証明できる!」
それでもナインは足掻いた。自分の信じたものを信じ続けたかったから。
「残念ながら、全員一致でお前を売ったみたいだぜ。だから、機構は本件となんら関係が無いということにしてくれってよ。まるで、トカゲの尻尾だな」
全員一致でナインを売った。それはどういうことか。詩季も反対の意思表示を行わなかったということだ。
「でたらめを言うな!!」
「詩季といったか?お前に操られていた被害者だとか言ってたぜ。つくづくひでぇ言われようだな」
男のとどめの一撃で、ナインは絶望の底へと突き落とされた。反面で、男は憎たらしい笑顔を浮かべていた。
「嘘だ!!」
あの詩季までもが、自分を捨てた。ナインに進むべき途を示してくれた彼女が。自分を見失っていたナインを救い出してくれた彼女が。
「本当にこいつはめられたんだな」
割と小柄の男が、かったるそうにナインを見下しに来た。
「まあ、こんな奴、哀れんでやる価値もねぇがな」
捜査官の男たちは、地に這いつくばり、仲間にまで裏切られた、この哀れな犯罪者をあざけ笑った。
(だって、詩季は俺に言ってくれたじゃないか。俺をずっとつなぎとめていてくれるって。たとえ俺が、自分を消してしまいそうになっても、命を賭けて守ってくれるって。だから、俺は、君を信じたし、心から愛おしいとさえ思えた。なのに、それさえも嘘なら、俺の信じたものは、一体、なんだったんだ、詩季。君がいてくれたから、俺は俺を見失わないですんだんだぞ。君が俺を裏切ったとすれば、俺はどうすればいいんだ。俺は、一体、誰なんだ)
ナインは全身から力が抜けていった。もう、抗う気力もなければ、生きる気力もなくなってしまった。それは、根を奪われた草のように、根底からその支持基盤を揺るがされるものである。
「なんだこいつ?今度は、動かなくなっちまったよ」
ためしに、ひとりの男が足でナインの腹を乱暴に突いた。しかし、ナインは感覚がないのか、全く反応しない。
(許せない・・)
しかし、絶望の最底辺に到達したナインは、再度、上昇を始める。行くところまで行ったら、あとは上るだけしかない。しかし、その上昇先は、かつてのナインへと向かうものではない。
「俺を、俺を裏切りやがって!!ちくしょぉぉぉぉぉぉ!!ふざけやがって!!貴様ら、全員ぶっ殺してやる!!!」
ナインの中にあった大切な仲間たちへの思いは、おどろおどろしい底なしの憎悪へと変わっていた。今の彼を支えているのは、仲間への信頼などではなく、かつての仲間への深い憎しみであった。
「この俺を謀りやがって!!貴様らは、絶対に俺が殺す!!絶対に!!!!」
もうそこには優柔不断で、お人好しで、なおかつ読書好きなナインという男は存在しなかった。そこにいるのは、ただの鬼である。憎しみに支配され、完全に心が狂気に染まってしまった、憐れな鬼だったのだ。