第3話 鬼払い契約
―東京都町田市某所―
ここはかつて、東京のベットタウンとして、住宅地や商業用施設が数多く密集していたが、今ではそこそこ鬼の出没しやすい地域として危険度Cとの評価を受けている。なお、危険度はAからFまであり、Aが最も危険という。したがって、ここは3番目に鬼が出やすい危険な土地であるとして、かつてほどは人も住んでおらず、所有者がいなくなってしまった土地建物も多く残っている。実際に街中を歩くと、住宅は多いものの、人気はほとんどないか、あるいは全くない。いわば、ゴーストタウンと化している。もっとも、まだ使える家が大量に放置されていることを良いことに、火事場泥棒的な不法占拠者も絶えず、にぎやかなところはにぎやかでアナーキストには絶好の街かもしれない。そのような街の一角に、ナインが出会った少女、桐生詩季の所属する事務所がある。俺は彼女の案内のもと、ようやくそこに到着した。
外の看板には『公益社団法人 東京陸運保険機構』とあり、50坪ほどの横長のガレージと、隣には別棟が付随していた。
ふたりがその敷地内に入ろうとすると、中から小ぢんまりとした女性が出てきて、拡声器を使っていう。
「お乗りになったオーガはとりあえずそちらのガレージに置いて、隣の事務所においでください」
誘導員の指示に従って、ガレージに入る。そこには数台のロボットと先ほど持っていった鬼が2匹倒れていた。自分たちも、ひとまずここから降りて事務所へ向かう。
(二)
「空いている椅子、適当に見つけて座ってもらえる?」
軍人の事務所というから一体どのようなものかと思っていたが、ステンレス製の机がいくつかひざを突き合わすように並べられていて、ビルの一室を借りたデスクワーク専用のオフィスにしか見えなかった。ただし、この部屋からでもガレージ内の様子を見ることができるようになっており、鬼の死体が窓の風景となっている点は例外であるが・・・。
この部屋の中には現在8人ほどの被用者がせかせかと筆を走らせたり、キーボードを叩いたりしていた。さらに、部屋の隅には一つだけ離れ小島のようなデスクがあって、そこにも一人女性がいた。
「ほら、なにぼーっと突っ立ってんの?早く座って」
隅にいる背の高い女性が無意味に立ちすくんでいた俺に早く座るよう働きかける。俺は、ひとつ空いているパイプ椅子を見つけてそれに座る。
「それにしても、軍の事務所という割には、武器とか一切置いてないんですね」
不思議なことに、武器らしき武器はこの部屋に一切ない。急に襲撃があった時、一体どうしているのだろうかと不安にならないでない。
「うちは、どちらかっていうと保険屋が本業だから。あ、君、もうちょっとこっち来て」
俺は若干遠慮がちな位置を陣取ると、背の高い女性は俺にもっと近寄るよう指図した。
「はじめまして、だったわね。私は弥生 遼子。ここの代表理事兼隊長兼整備班長兼工場長をやっているわ。まあ、めんどくさい肩書きだけど、好きなので呼んで」
この女性、弥生遼子はおそらく西田が隊長と呼んでいた人物であろう。年はやはり30前後か。黒のパワースーツをしっかりと着こなしており、フレームレスのインテリ眼鏡をかけている。しかし、彼女は仕事が忙しくて、その長い髪の手入れにまで気が回らないのだろうか、彼女は肩にかかるくらいの長さの茶髪をみだりに垂らしている。もう半年前にかけたようなツイストパーマは、今となっては髪の毛をだらしなく見せるものでしかなくなっている。とはいえ、彼女の容貌からはいかにもキャリアウーマンというべきプライドとヴァイタリティを感じる。それにしてもこの女性の肩書きの数は半端ではない。
「で、早速本題に入りたいんだけど、別に尋問してるわけじゃないから答えたくなかったら答えなくてもいいから」
弥生はそのように言うが、後ろの方からは西田がこちらににらみを利かせていて、強制捜査的雰囲気が漂っていた。あくまで任意の取り調べだというのであれば、まずは後ろに控えている西田を排除してもらわないことには黙秘したくてもできるわけがない。どうみても事実上の強制尋問だった。
「まず、なんで君はオーガをもってたの?」
「わかりません」
「じゃあ、どうして君は同じ仲間である鬼に狙われてたの?」
「・・・わかりません」
「えーと、君がいたところは八王子森林地帯なんだけど、そこにいた理由は?」
「すいません、それもわかりません」
「・・・・」
弥生社長による機関銃方式の尋問の全てを不知で通してしまった。絶対に印象最悪だよな、と不安が募るばかりだ。とはいえ、見に覚えのないことを適当にしゃべるなんて器用な真似もできそうにない。そう思うとため息をつきたくなる。
「ふーん」
不満なのか、いまいち腑に落ちないのか、弥生はこまったこまったと言わんばかりの顔をして頭をかく。無実の被疑者が捜査当局によって犯人に仕立て上げられ、毎日朝から晩まで自白を求められるのは想像を絶する苦痛なのであろうと身をもって知った。身に覚えのないことを言わされる悔しさとはそれほどまでに大きいのだ。だが、黙秘をいつまでも続けていることはできない。そうやって罪から逃れようとする奴は必ずといっていいほど正義の名の下に恐怖の洗礼がなされるのも通例であろう。案の定、後ろの方で苛立ちを抑えていた西田がついに我慢の限界を迎えるのであった。
「てめぇ、知らぬ存ぜぬで通ると思ったら大間違いだぜ。隊長、やっぱこんな奴信用ならねぇ。この野郎、完全に俺たちをなめくさってんすよ!」
西田は溜め込んだ怒りとともに、俺を指差して大声で怒鳴り散らした。
「うるさい。あんたは黙ってて」
弥生は眼鏡の下の細い目でにらみを利かし、そのことばひとつで西田は押し黙らせてしまった。おそらくこの男の方が年長であろうが、完全にこの女の尻に敷かれている。西田は、口をつむいでしまい、部屋中に緊張が走った。
「あの、社長」
西田のせいで話を切り出しにくい雰囲気ができていたが、勇気を持って詩季がおそるおそる手を挙げた。それにしても、この女性、隊長だとか社長だとか呼ばれてややこしくならないのだろうか。
「なぁに、詩季?」
弥生は西田に向けていた殺気に満ちた表情とは対照的に、少女にはまことにこやかな笑顔を向けた。場の空気を悪くしたことを少し反省したのだろうか。
「ナイン君は記憶喪失なんです。だから、彼が何も知らないというのも多分、嘘ではないと考えます」
弥生は頭のどこかでひっかかっていた謎が腑に落ちたのか、表情を緩め、姿勢を正すしぐさをした。
「なるほどね。仮にそれが本当なら、ある程度説明はつきそうね。教えてくれてありがと」
弥生はそういって眼鏡を掛け直すと、なにやらメモ用紙に殴り書きをはじめた。そして、まるで速記語のような彼女にしか解読できない文章群を完成させるとペンを机の上に置いた。
「えーと、君はナイン君って言ったっけ?あ、もっと楽にしていいわよ。強制尋問は終わったから」
その言葉を聞いた途端、気がつけば緊張で背筋が異様に伸びていた。俺は安心したのか、やや背もたれに寄りかかるように姿勢を崩す。
「次からの質問はこちらからも交換条件を出すけど、その代わりかならずイエスかノーで答えること。いいわね」
「イエス」
とりあえず、第一段階はクリアか、と思った。今となっては、詩季のおかげで『ナイン記憶喪失の理論』が広まっているので、都合の悪い質問はこれを援用すれば万事問題ないであろう。そう思うとなんとなく気が楽になり、どんな質問でもこいという勢いで答えた。
「お客様、まずはお茶をどうぞ」
そのタイミングで、給湯係の女性だろうか、先ほど入り口で誘導してくれた小さな女性職員が俺の前にお茶を置いた。そういえば自分は客として招かれて来たのであったか。ここに来て一度もそのような取扱がなされなかったため、すっかり忘れていた。
ずずず・・とお茶を少し口に含んで、からからになった口内を潤す。どうやらここからが本格的な交渉になりそうだということで、いよいよ覚悟を決める。
「まず、私たちがあなたに提供してあげられるのは、相当額の報酬および第1級危険業務取扱手当ならびに君に対する各種保護手続ってところかな」
相当額の報酬。それはいったい何に対する報酬を意味するのだろうか。それに第1級危険業務というのも気になる。いや、これらの情報を有機的に結合させて推理すれば、容易に判断できる。
「それってつまり」
「察しがいいわね。そう、しばらくここで働いてみない?どうせ他に行く宛てもないんでしょ」
弥生遼子は、片目をウインクして笑顔で答えてくれた。
「質問後段に関してはイエス・・・」
「ちょ、隊長。マジでいってんすか?」
突然の意外な質問によって、もっとも面食らったのは西田のようだった。彼はびっくりしすぎて呂律が回っていない。
「こんなやつと戦うなんて、俺はぜってぇやだぜ。たいちょ・・・」
弥生は西田の顔に向けて、机の上にあったコーヒーカップを投擲した。それは、二度も同じことを言わせるなという意思の現れであろう。幸い熱い液体は入っておらず、冷めた液体しか入っていなかったので火傷はしなかったようだ。むしろ中身が熱かったら熱かったで火に油を注ぐようなものか。西田の顔を茶色の液体が滴り落ちる。
「それで、業務内容はあれですか」
聞くまでもない。この人は鬼の力を利用したいのであろう。だからこそ俺はため息をついた。
「そう。鬼退治よ。ちなみに給与なんだけど、うちは歩合制だから基本給20万円プラス仕事量ってとこ」
「とはいっても、俺が使ってるのもオーガですよ。そのオーガが鬼の討伐に加わるって、なんか矛盾しているような」
「一応言っておくけど、うちらはあくまでビジネス。世界の平和を守るなんて大層な理念はこれっぽっちもないから、使えるもんは何だって使うわ。それがたとえ、おそろしいオーガでもね♪まあ、毒をもって毒を制すって言うしね」
弥生は迷えるこの心にダメ押しの一手をかける。正直、今の俺には周りの世界などどうでもよかった。記憶のない自分にとって、この国が母国なのかもわからないし、いなくなって困る人もおぼえていないから、世界平和のためとかいう熱い気持ちが芽生えてこない。かえって、こういった集団のほうが気兼ねなく動けそうで都合がいいかもしれない。いずれにしても行き場をなくしてしまった自分にとっては、記憶を取り戻すためにもなり、この人たちのためにもなり、自分の生活のためにもなる。これほど好条件な環境はもう存在し得ないであろう。
「わかりました。引き受けましょう」
「OK、これで交渉成立ね!じゃ、この契約書に署名・押印してちょうだい!署名は一回的な芸名とかでもいいわよ。有事の時は筆跡鑑定で特定できるから。あと、印鑑がなければ拇印でもいいわ」
一体いつの間に用意していたのか、弥生は雇用契約書と万年筆、さらには朱肉を手際よく俺の前に次々と置いていく。
「契約書の内容はほとんどさっき述べたとおり。あとで、契約解除事由とかいろいろ読んどいてね」
弥生は4から5枚組みの契約書をぱらぱらめくり、もう読んだよねといった顔を向けて、すぐに署名欄にサインするよう指図した。契約書の内容を一瞬見たが、字が非常に細かいにもかかわらず、紙全体に隙間なくびっしりと記載がなされており、読み終えるだけで1時間はかかりそうであった。したがって、先ほどの説明ではポジティヴな条項しか説明できておらず、ネガティヴな条項は全く説明がなされなかったと見るべきか。
とはいえ、どんな契約書であっても、俺が今からしようとしている仕事は鬼を狩る仕事である。所詮人間同士の約束事に過ぎない契約書上の問題は最終的に金で解決できしまう。それとは違って、鬼との戦いは気を抜けば問答無用に自己の死に直結しかねない修羅の道。それに比べれば、契約書にどれほど不利な条項が含まれていようが恐れるに足らなかった。
それにしても、弥生のやり口は、まるでたちの悪い詐術のようで、彼女に乗せられてはあっという間に契約書が完成してしまった。俺は、決して騙されたのではない、自分の意思で決めたのだと、何度も自己に言い聞かすしかなかった。
「ふー、これでいいですか」
最後に自分の親指で指紋押捺をして完成する。
「OK,これでナイン君も東京陸運保険機構の一員ね」
団堂は、弥生が『東京陸運保険機構』と言ったことをきっかけにして、そういえば入り口の看板とか、契約書の上の方に東京陸運保険機構(以下、甲とする)とか書いてあったことに気づく。おそらくこの人たちの団体名義であろうか。
「あの、いまさらなんですけどここって軍隊ではないんですか?」
「まあ、形式上はただの公益社団法人よ。その方が国の予算もおりるわ、税金がかからないわで利点が多いのよ。一応、国内の陸上運輸における安全を保持し、もって、国民の生命・身体・財産の保護に寄与することを目的とする定款記載の団体目的も果たしてるし。あと、公益法人は非営利団体っていう建前があるから、実は金儲けをしているなんてばらさないでね」
この弥生遼子という女性、伊達に肩書きが多いだけではなくて、実質的にもかなり狡猾であると思った。
「で、実質は防衛省に雇われた非正規軍第13部隊っていうのが私たちの正体。要するに、傭兵部隊って感じかな」
詩季がそのように補足的な説明を加えてくれた。
「そういうこと。だから、お得意様である防衛省からお呼びがかかればすぐにでもはせ参じて鬼を倒すこと。あとは、近くに鬼が現れたら、それを仕留めてお得意様に献上するの」
弥生はびしッと人差し指を立ててわが社の理念を口にする。
「あの、献上って?」
「ええ、オーガって賞金首みたいなもんだから、これを捕まえて防衛省にもってくと報酬がでるのよ。ちなみに、今日の3匹(1匹はほとんど消えちゃってたけど)は一番ランクが低いから1体につき1000万円。今の時代、うちみたく鬼退治専門の傭兵派遣会社なんて珍しくないのよ。いやぁ、しかし、今日はナイン君のおかげでもうかっちゃった」
弥生は2000万円が目前にみえているのか、げらげら笑う。しかし、本来恐怖の対象である鬼すらビジネスチャンスにしてしまうとは。このことから、善悪を超越した人間の金への飽くなきまでの欲望とは鬼以上に恐ろしいものであると思った。
「あと、現在ではあと2種類の鬼が確認されてて、もちろんこれらも懸賞の対象よ。すなわち、通称、赤鬼と青鬼。前者と交戦した部隊はいくつかあるんだけど、そのどれもが全滅しているから、これはすごく危険ね。後者は、過去に1つだけ捕獲例があるんだけど、すごい犠牲を払った上で成功させたみたいなのよね」
弥生はプリントアウトしたそれぞれの鬼に関する資料を見せてくれた。赤鬼と呼ばれる方の資料には特に特筆すべき点はない。このことは、逆説的にいえば、資料を持ち帰らんとする者は資料を持ち帰る前に殺されるということを説明してくれている。
他方、青鬼はちゃんと写真が残っているようだ。ところがこの鬼、鬼というには華奢な体つきであり、しかも大きな羽が生えている。ただし、青いという一点に関しては厳密に貫徹してはいる。
「あと、鬼の本隊はどこを拠点にしているのかはわかりますか」
「それなら、結構明確に判明してるわ。まず、大きく分けて鬼は9つの部隊を日本全土に分布しているの。それぞれ、関東は霞ヶ関、横浜、浦和、東北は仙台、北海道は札幌、中部は名古屋、関西は大阪、京都、九州は福岡だったかな。本隊に近づくと、必ずと言っていいほど赤鬼が見張りを担当しているみたいだから本隊の5キロ圏内には誰も近づけないのよね」
このことから、日本の大都市圏はほとんど鬼の手に落ちているということが明白であり、今の日本の危機的状況を痛烈に理解できる。なるほど、いくら金を積もうとも、政府は鬼を排除したいわけである。なぜなら、鬼退治が成功すれば、政府の支持率は磐石なものとなるのは明らかだからだ。
「でも、昨日、浦和にあった鬼の本隊が突然消えたらしいのよ。まあ、こっちとしては脅威が減ったから何にもわるいことはないんだけど、やっぱり気になってね。そんな時浦和からそう遠くない八王子にあなたが現れたのははたして偶然かしらね」
弥生が独り言のようにもらしたこの言葉、たしかに俺自身にとって、嫌でも気になるものであったが、今はまだこれに答えることはできなかった。
(三)
―その夜であった―
場所は事務所付属の仮眠室。弥生は3時間ほど前、俺にこう言った。
『ナイン君、悪いんだけど、今、君の部屋はないから、ひとまずそこで生活しててくれないかな』
『はい、いいですよ・・ってここですか?』
『うん、ごめんねぇ』
これにしたがって、俺はしばらくこの部屋で起臥寝食をすることになった。しかし、ここは仮眠室というより、『仮眠室』という記載(もちろん手書)のある真新しい紙が何人かの手によってついさっき張られたばかりの、もとは2畳間ほどしかない縦長にソファが2つ並んでいるだけのただの喫煙所である。いまは季節的に冬に一直線であり、夜は相当気温が下がるのだ。したがって、俺に与えられた部屋は、夜は結構冷え込み、しかもヤニ臭い豚箱以下の部屋であった。
喫煙所から仕事場へ戻るためのドアには四角いガラス製の覗き窓がついていてそこから仕事場の光が漏れてくる。まだおそらく仕事中の人間がいるのであろう。
(そういえば、はらへったな。)
先ほどから腹の虫が収まらない。そういえば、八王子で目が覚めてから今の今まで何も口にしていなかった。しかたがないので、事務所に何か適当な食料でもないか探しに行こうと思って立ち上がる。と、その時、急に喫煙所の電球が点き、ドアが開いた。
「ごめん、起こしちゃった?」
入ってきたのは、詩季とその飼い犬であるきゅうすけだ。
「いや、大丈夫。ちょっと考え事をしていて、寝付けなかったから・・・。それより一服しにきたのかい?」
「あの、ナイン君。私、そういう風に見える?それに、まだ19だから。もう行こう、きゅうちゃん。ヤニ臭くなっちゃいますよ」
そう、未成年者の喫煙は法律で禁止されている。詩季は機嫌を損なってしまったのか、手に持っていた食料を持ったままで退出してしまった。
「悪い、冗談だよ」
おそらく、詩季はかなりの労力を費やしたに違いない。にもかかわらず、せっかく食料をもって様子を見にきてくれた盲目の少女を不機嫌なまま帰してしまうのは非常に虫の居所が悪かったので、慌てて追いかけてあげた。
「えへへ、うそ。怒ってないよ」
彼女は、喫煙所を出たところで待っていてくれていた。そんなあどけない様子を見て、安堵する。
「何だ、うそだったのか。あの程度で怒るとは思わなかったからびっくりした」
「ふふふ、おもしろい人だね。ナイン君って」
冗談だったのはあちらも同じであったようだ。少女は笑顔を取り戻した。
(四)
「あのさ、詩季はどうしてここに入ったんだ?」
食料を胃に納め、俺たちは少し談笑を始めていた。
「私、正確にはここの社員ではなくて、インターン学生なの」
「あれ、昼間軍人だっていわなかったっけ?」
確か、この少女が自分のことを軍人と名乗っていたことを思い出した。現代は学徒出陣というべき時代なのだろうか。いや、インターンというぐらいだから任意で軍人の仕事をしているのであろう。それにしても弥生は学生までも兵隊に使ってどうする気なのであろうか。
「昼間、私が軍人だって言ったのは説明が面倒だったからで、本業は学生。ここはおとうさんの紹介で働かせてもらってるの」
しかしながら、今や学生もおちおち勉強に遊びに勤しんでいる時代ではなくなったようである。大学の講義中であろうが、ひとたび鬼に襲われれば終わりであるから。鬼の前ではどれほど理論武装したところで、一瞬で首を刈り取られるだろう。
「でも何でよりによって、目の悪い君が傭兵なんだ」
「う~ん、目が見えないからかな」
問いを持って問いを答えるように返答してくれた。彼女にはもう少し実質的な理由を説明して欲しいと思った。
「私、目が見えないでしょう。だから、料理とかそういう仕事は全然だめだけど、ロボットの操縦は機械が私の目になってくれるから案外簡単なの。もちろん、怖い時もあるけど、いつもみんなが助けてくれたよ」
ふつうは料理など一般的な作業ができないなら、当然に普通の人ができないこともできないと考えるのではないかと思う。それだけに、この少女は変わった論理を持っているのだなと感じた。
「西田さんて、怖いだけかと思ってたけど、案外、弱みがある・・というか、とても間抜けな人だね」
俺は昼間の西田の醜態を思い出して言った。
「あはは、あれは西田さんいつものことだから。西田さん、社長のこと好きだからああやって尻に敷かれているの」
「ああ、見てれば解るよ。あんなに体格のいいオッサンが、あそこまで酷い扱いを受けていればね」
「でも社長のこと、誤解しないであげて。あの人はちょっとお金に汚いところもあるけど、少なくとも卑怯な人じゃないよ。むしろ、すごく負けず嫌いな人。これ、社長に言ったら怒られるかなぁ・・・」
少女は、閉じた瞼をさらに強くしかめて、数秒悩むしぐさをみせる。
「大丈夫、誰にも言わないから」
彼女は、言いたくてたまらないような様子を見せていたので、俺はそれとなくその背中を少しだけ押してあげた。
「そうね・・。社長はもともと防衛省の官僚だったの。だけど、リストラ名目でここの代表理事のポストに強制的に天下りさせられたみたいで、その時の社長は悔しさのあまりボロボロ泣いてたって西田さんが言ってた」
弥生という人間はただの合理主義者かと思っていたが、意外と人間っぽいところもあって安心した。人間は強さと弱さとのバランスが何よりも重要である。それにしても、西田と弥生との関係は結構古いものなのだなと思った。もとより、そうでなければコーヒーをぶっかけるなど到底できないであろうが・・。
「社長と西田さんが出会ったのは防衛省時代で、一般兵の指揮監督をしていた社長に西田さんが一目ぼれしたそうなの。かたや本庁勤務の指揮官、かたや一般兵卒よ。でね、・・」
(桐生詩季か・・・)
俺は、彼女の話半分に、すぐ手の届きそうな位置に居る彼女を見つめる。記憶のない自分にとって彼女が重要な存在になりつつあるのは何となく気づいていた。彼女が俺を信じてくれなかったなら、今頃途方にくれていたに違いない。その意味で、俺が記憶を失ってからできた仲間第一号は彼女だった。一番最初に出会ったのが、もし彼女でなかったら一体自分はどうなっていただろうか。
「・・・」
俺は、彼女の顔をまじまじと見た。なぜかその不思議な容貌に引き寄せられてしまうのだ。向こうは目が見えないので、一方的にじっと見ても多分気づかない、という事情もあるが・・・、とにかく、丹念にとかされた黒く綺麗な髪。それとは対照的に白い肌。か弱く伸びた華奢な肢体。その容貌はまるで日本人形をも連想させる、和の世界に潜む美そのもの。また、盲目のため常に目を閉じているその独自の表情と相俟って、この少女が纏うオーラは神秘的ですらある。
(ただ、意外とよくしゃべる子だ・・)
俺は、詩季の足元で伏せているきゅうすけをみる。やはり、めんどくさそうにしていたのであった。