第31話 異国の地で
本章には、おまけとして、鬼女メイデンの画像がアップロードされています。
―大韓民国首都ソウル―
公益社団法人東京陸運保険機構は、韓国の領空に入ると出迎えに来てくれた同国の国防当局に誘導され、ソウルの飛行場に着陸することができた。輸送機の窓から見えるソウルの市街地は、背の高いビルが幾つも立ち並んでおり、崩壊しかけている街などもなく、日本とは違って平穏である。このようなコンクリートジャングルの街なみは、日本人の記憶から既に消えかけているのだ。
「ここがソウルか」
早速、異国の地に降り立ったナインは、活気に満ち溢れているこの国の雰囲気が日本のそれとは違うことを感じた。この国の人間は皆、鬼などに悩まされることなく平穏無事に充実した毎日を送っているのであろう。そのため、街から強いパワーを受け取ることができるのだ。
「あ~、やっと飯が食える」
グレイは、空腹が限界に来ているのか、異国に来たことを感動する余裕は全くないようだ。
「社長、早く行きましょうよ」
詩季もテンションが上がっているのであろう、弥生の腕を引っ張る。
「私は、ちょっとやることがあるから、あんたたちだけで何か適当に食べてきて」
「社長、何か食べないとだめっすよ」
辰巳が珍しく正論をいうのである。
「大丈夫よ。ああ、そういえば、あんたたちここの通貨持ってないでしょ?カード貸してあげるから、これ使いなさい」
そういって弥生は、秘書にクレジットカードを預けた。
「今日は、私がおごってあげるから、好きなもの食べてきていいわ。それで、会計のときに『あいちゃん』が適当にサインしといてね」
「わかりました、理事長」
秘書は、大事そうにクレジットカードを袖下にしまいこみながらいう。
「社長、ご馳走になります」
まもるが、弥生に向かって、ぺこりとお辞儀した。
「よぉし、じゃあ、シジミ食いに行こうぜ」
辰巳が我先にと駆け出した。
「はるきちゃん、それチヂミだよぉ」
「ああ、それそれ」
辰巳は、わかったのか、わかってないのか、適当に返事して先に行ってしまった。
「もう、はるきちゃんったら、先に行っちゃったよ・・」
まもるも、この国に来るのがはじめてであっただけにはしゃぐ辰巳の気持ちがわからないでもないが、彼女が迷子になってしまわないか心配した。
「ったく、しょうがねぇ奴だ。俺があいつマークしてっから、お前らは後からついてきてくれ」
そんな辰巳の幼い言動を見かねたグレイは、彼女を追いかけて行ってしまった。
「じゃあ、私たちも行こう」
「ああ。社長、行ってきます」
そうして、残った4人もソウル市街地へとゆっくり歩き出した。
どんどん遠くへ行ってしまう連中を見届けると、弥生がひとり残された。
「さて、あいつらが帰ってくる前に仕上げとかないとね」
弥生は、軽く身体を伸ばして深呼吸すると、輸送機の中へと戻っていく。そして、胸元のポケットからセブンスターを取り出しては、ふと火をつけることをためらった。
(ここ禁煙だっけ?まあ、自分の艦だし、全面喫煙でいいか)
そう考えると、彼女は改めてタバコに火をつけ、それを口にくわえながら格納庫へと向かう。
弥生は、早急にこの輸送機を実戦にも用いることのできる戦艦へと昇華させる必要があると考えていた。だからこそ、本場の焼肉などを仲間たちと食べたかったのではあるが、時間的なゆとりのある今のうちにこの作業を完了させることを優先したのだ。ここは日本と海を隔てた国とはいえ、いつまた鬼どもの襲撃があるかわからない。そのことを考慮すると、この輸送機ではあまりに心もとないのである。
弥生は、格納庫に到着すると、作業机に置いてあった、読みかけの分厚い本を手に取った。それは、怪しい出版社から出ている怪しい著作である。すなわち、『外法学概論』である。外法学は、学界において法学や経済学などのように確固たる地位を得ているわけではないが、根強い研究者も少数ながら存在するため、そこそこ大きな本屋にいけば容易に教科書を入手することができる。もっとも、価格は1万3千円もした。研究対象が外法であるが故に、このようなめちゃくちゃな本に1万3千円も出すのは大金をドブに捨てるようなものである。実際、これを買う時に、店員に変な目で見られたのを記憶している。
しかし、実際にナインの鬼を具体的素材にしてこの本を紐解くと、案外荒唐無稽なものとはいえなかった。いかように研究したのかは知れないが、外法学の理論がしっかりと解説されており、弥生にとっては1万3千円を支出してもなお、お釣りのくるような代物であった。なんせ、これを元に作成された鬼女は、すでに億単位の仕事をこなしてくれている。
(精神球体の章は・・)
弥生は、目次から該当する章を探し当て、ページを半分ほど一気にめくる。
『精神球体はC類型虚物である。したがって、人間がこれに触れることはおよそ不可能である。もっとも、媒介物に寄生させ、外法物として可触できる状態とすれば、これを制御することは可能である』
『精神球体の寄生は、次の要件を充たした場合に生じる。まず、精神球体を実質的に支配しうる状況にあることを要する。基本的には自分で持つことが必要であるが、補助器具で持っていてもよい。次に、寄生させる対象を指定する。この場合、精神球体が心を自動的に解析してくれるので、口に出す必要はない。最後に、精神球体の尋問に応じ、そのうえでこれに認められることを要する。なお、尋問の内容は個々人や具体的な状況などによって異なるため、一概に言うことは不可能である』
(手順は大丈夫ね)
弥生は、作業の手順を確認し、本を元の場所に戻した。そして彼女は、プロトオーガにキャプチャーしておいたアザゼルのメンタルスフィアを解凍するため、そのプロトオーガに乗り込むことにする。一応、プログラム等の調整のために彼女もプロトオーガに入るための鍵を持っていたのだ。
(ええと、リリースするためには・・)
弥生は、タッチパネルを操作すると、すぐにメンタルスフィアを解凍する項目にたどり着いた。
(それにしても、このプログラム。買ってきたあの本と怖いくらいに一致しちゃってるのよね。もしかしたら、プロトオーガを作ったのはあの本の作者かしらね。著者は、団堂 曹士だったかしら)
弥生は、このような分野を研究する人間が一体どのような人物なのか興味があったので、以前にこの著者の経歴を洗ってみた。すると、弥生でも畏れ多いほどのとんでもない天才であることはまずわかった。彼は当然のように東京大学法学部に入学し、その代における主席クラスの成績であったようだ。さらに彼女が驚いたことに、この本を執筆したのは著者が大学2年のときである。いずれは、霞ヶ関のトップエリート官僚として、国政運営に多く携わることが期待されたのだろう。しかし、この本を出版した直後、留学先のドイツ・ベルリンで死亡したようだ。それにしても天才とは、どうしてこのように早死にする人間が多いのだろうと少し嘆いたのだ。
(仮にまだ著者が生きていれば、ナインと同じくらい・・)
弥生は、そのように考えた途端、おそろしい推理をしてしまった。くわえていたタバコを下に落とし、なぜだか体中の血の気が引いていくのである。
(ナインは記憶喪失で、しかもプロトオーガを始めから持っていた。また、本人は気づいていないが、潜在的に外法を巧みに使いこなしている・・)
弥生は、少し考えすぎだと頭を横に振った。しかし、本能が推論を止めようとはしなかった。
(でも、そう考えると全て筋が通る気がする。実際、団堂の死亡原因はよくわかってないから偽装の可能性だって十分ある。だとすると、ナインが団堂曹士・・)
そこまで推理したところで、弥生は思考を中断した。
(もうやめよう)
弥生は、これ以上余計なことを考えると、ナインをナインとして見れなくなる気がしたのだ。いまのところあの男はナインであって、それ以上でもそれ以下でもない。よく働いてくれるが、優柔不断でただの優しい青年でしかないのだ。それで十分だ。ナインはナインでいればよい。あんなおそろしい本を書くような人間などであってはならないのだ。
「仕事しなきゃ」
弥生は、自分の頬を2,3発強く叩いて、気分を変えることにした。そして、先ほどから操作を中断していたタッチパネルのリリース項目を選択する。
すると、『寄生媒体を思惟してください』という文字が出てきた。このプログラムは、機械的に外法学概論に記載された手続を自動的に行ってくれるのだ。弥生は、この文言にしたがって、この輸送機を対象として想像してみた。
『対象を確認しました。メンタルスフィアが尋問を開始します』
そして、弥生の意識はどこかへと飛ばされていった。
―ソウル市街地―
辰巳はひとり、ソウルのにぎやかな繁華街を歩いていた。通行人が道を敷き詰めてしまうほどいて、ここを通り抜けるだけでも大変であったが、その分たくさんの店が軒を連ねていてウインドウショッピングには飽きない。しかも彼女は、この街が持つ活気に元気付けられ、どんどん街の奥へと進んでしまうのである。
「こういうにぎやかな街は何年ぶりだろ」
辰巳は、日本から出たことがなかったため、日本とはまた違った韓国の街の雰囲気に刺激を受けていた。日本のようにチェーン店ばかりの風景もなく、どこか古めかしい商店街のような町並みがかえって新鮮であった。彼女にとっては、まさに何もかもが新しい発見の連続であり、よい意味でのカルチャーショックとなっているであろう。
「ここ、お漬物屋さんかな」
辰巳は、漬物を販売している露天商を覗いた。何人かの客が試食をしており、自分もできるのでないかと考えたからである。
「こんちわ」
辰巳が元気よくそういうと、漬物屋の中年女性はちょっと驚いた顔をした。彼女にとって、日本語はもちろん聞きなれないものであったが、さすがにこんにちはの意味くらいは知っていたらしく、辰巳が日本人観光客であることに気づいたようだ。
「@@@×××」
その女性は、辰巳が聞き取れない言葉を発しながら、大きな壺に入った赤い漬物を指差した。
「そっか、日本語じゃないんだよね。これを食べていいのかな」
辰巳はその壺の中を言われるがままに覗き込むと、辛そうに熟成されたキムチを発見した。
「うわぁぁ、からそぉ」
辰巳は、辛いものがあまり得意ではないので、十字架を目にしたヴァンパイアのように反射的に逃げてしまった。
「あれは、食えねぇな・・」
やんちゃ娘は、試食できなかったことにつき、柄にもなく肩を落としてはとぼとぼと歩き始めた。
「ありゃ」
自分の腹が鳴ったことで、仲間と食事に行く予定であったことを思い出す。しかし、見渡せど、見渡せど、多数の通行人の波であり、仲間たちが何処にいるのかを発見するのは困難である。
(まもるにでも電話すっか)
辰巳は、迷子になったことをまもるに伝え、迎えに来てもらうなど屈辱以外の何ものでもなかったが、背に腹は代えられない。
「あれぇ?つながんない」
なぜか、まもるの携帯には繋がらなかった。あの女のことだ。辰巳が迷子になって困っていることを見越して電源をわざと切っているのだろう。
「じゃあ、グレイっと・・。うわっ!」
辰巳は、突然、通行人の波にもまれて一瞬よろけてしまった。そのため、携帯を地面に落としてしまった。しかも、後続の通行人に蹴られて、遠くの方へ行ってしまった。
「ったく、あんにゃろう」
しかし、人通りの多い道の真ん中で、漫然と突っ立って携帯を操作していたにもかかわらず、自分に非があるとはこれっぽっちも思わない辰巳である。
「可愛らしいお嬢さん。この携帯電話、あなたのでしょう?」
不機嫌度が頂点に達しようとしていた辰巳であったが、親切な拾い主の顔を見て、逆にご機嫌度がマックスになった。
(あら、いい男)
辰巳は、目をとろけさせ、数秒間思考停止状態に陥った。その男は、背が180センチメートルを超える長身で非常に良い体型をしていて、かつ美形である。しかも、サラサラなミディアムロングの茶髪が清潔感を滲み出している。
「あの、違うんですか?」
しかし、男の再度の問いかけにより、辰巳は我に返る。
「あ、あ、あ、ありがとうございます。私の不注意で落としてしまって・・。とても助かりました」
そして、普段は絶対に使わないような言葉遣いで応えるのである。
「いえいえ、困っているお嬢さんを助けるのは当然の義務です」
「あの、日本語を話せるんですか?」
辰巳は幸福感に包まれながらも、自然と会話をしていたことに気づくと、柄にもなくいじらしそうに尋ねるのである。
「ええ、日本には数年留学していましたから」
「あの、もし宜しければ、ソウル飛行場までご案内いただけないでしょうか?お恥ずかしいことに、道に迷ってしまって・・」
「本当に可愛らしいお嬢さんですね。喜んで承りましょう」
そういって、男は辰巳の右手を取り、軽くキスをした。辰巳は、いつもならこのようなキザな振る舞いに批判的であったが、やはり場合によってはいいものだなと夢見心地である。
「では、参りましょうか。ここは人のとおりが多いので、前方にはお気をつけ下さい」
「は、はい」
辰巳は、返事をしたものの前を歩く男に夢中になり、前方に対する注意を払う気などは毛ほどもない。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。僕は、リーといいます。お嬢さんもよろしければ、お名前を教えてくれませんか?」
「はい。私は、辰巳春樹です」
「春樹さんですね。よい名前です」
「えへへ、リーさんこそ」
「この国の人間は、リーという人間ばかりですよ」
辰巳は、適当な評価をしたのをすっかりリーに見透かされ、笑ってごまかした。そんな彼女を見たリーは、軽く微笑んでくれた。
「あの、リーさんはお仕事とか、何をされているんですか?」
辰巳は、話題を変えようとして、ありきたりな質問をした。
「僕ですか。なんていえばいいんだろう。カテゴリーとしては、パイロットでしょうかね」
「本当ですか?私も実はパイロットなんです!!」
辰巳は、リーがパイロットであると聞いて心の底から熱いものが溢れ、反射的にそういった。すると、リーは鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしてしまった。それをみた辰巳は、しまったと思い、あわてて両手で口を紡いだ。
「嘘です。嘘です。今のは冗談・・」
辰巳がパイロットなんて知れたら完全に引かれるに決まっている。そうすれば、慣れない言葉遣いで、せっかく今まで可愛らしい女の子を通してきたのに、全てが水の泡となる。
「あははは、隠さないでいいですよ。むしろ僕はそれを聞いてうれしいですから」
しかし、リーは意外にも親近感を抱いたようであった。逆に辰巳は拍子抜けしてしまうのである。
「変じゃないですか?私みたいなのがパイロットなんて・・」
「確かに、春樹さんがパイロットだったなんて驚きましたけど、全然そんなことはないですよ」
「本当・・?」
辰巳は、やはり柄にもなく目をうるうるさせて訊く。こんな自分を仲間たちが見れば、一発で呆れられるほどの猫かぶりである。
「本当ですよ。それに、春樹さんをよくよく見ると、僕と同じ人間であるような気がしてきます」
リーは、辰巳の目をみつめて言った。そのため、彼女は極度に緊張してしまっていた。
「そ、そんな。リーさんを私と一緒にするなんて、とても畏れ多い・・」
辰巳は、なんだか小さくなってしまって、リーから目を逸らす。
「僕も社会的な体裁がありますから、普段は気取った身のこなし方をしています。しかし、僕も本当はもっと本能的なんですよ。貴女もきっと、そういう人なんでしょうね」
辰巳は、猫をかぶっていることも見透かされて、顔が真っ赤になった。そのため、普段からもっと礼儀正しくしておけばよかったと、いまさら後悔した。
「だから、僕達は同じ側にいる人間なんでしょうね」
とはいえ、この男が別にそれでよいと感じているようだったので、辰巳は後悔することをやめた。
その時、前方に見知った人間の姿が見えた。そう、グレイである。よりにもよって、こんな時にあの男がいたのだ。しかも、こっちに気づいた。最悪だ。もう終わった。短い幸福だった。さようなら。私の王子さま。
「お~い、はるき!!ひとりでつまみ食いしてんじゃねぇよ!みんな待ってんだろぉ」
辰巳は耳まで真っ赤になっていた。今のグレイの発言は100パーセント、リーの耳に入っているであろう。今の発言には、良くも悪くも辰巳のありのままの人格がよく現れているだけに、悪気のないグレイであったが、彼に全てをぶち壊されたのだ。そのため、彼女はグレイを蜂の巣にしたくなった。
「春樹さん。ここで、どうやらお別れのようですね」
「そんな、リーさん!私、あんな男知りません!人違いです」
「隠さなくてもいいですよ。大方、あなたはここに来てはしゃいでしまい、迷ってしまわれたのでしょう。それくらい、始めからわかっていましたよ」
「リーさん、それは・・」
はじめから辰巳はこの男の掌で踊らされていたと思うと、否定も肯定もできなくなった。
「でも、貴女とはまたいずれどこかでお会いできると思います。その時を楽しみにしていますよ。可愛らしいお嬢さん」
そういうと、リーはお化けのようにドロンと、人ごみに紛れて消えていった。
するとすぐに、グレイが辰巳のところに駆け寄ってきた。
「おい、はるき、今の男は・・いてっ!」
辰巳は、射程内にグレイが入ると、その頭をすかさずグーで殴った。
「アンタが余計なこというから、全部台無しよ!どアホ!!」
そういって、辰巳はずかずかと先に行ってしまった。
「ったくよ、せっかく迎えに来てやったってのに、なんなんだよ」
グレイは、不機嫌に戻っていく辰巳を、頭を撫でながら見送っていた。