第25話 アニマ
「待ってたぜ・・・お前がくるのをな」
エイトは、ようやく待ち焦がれていたものに出会った。自分と同じ鬼の登場を、心から待っていた。血が騒ぐ。アドレナリンが異常に分泌される。修羅の域にまで到達して、ようやく味わうことのできる戦いの悦び。いま、それがここに列をなす。
「アニミストォォォ!!」
エイトは叫んだ。殺したくてたまらなかった、至高の敵である。そうだ、それはナインの鬼。
(それにしても久々に帰ってきたと思えば、なんだコイツは?)
ナインは今さっき、町田に戻ってきたばかりだ。すると、帰宅早々、弥生遼子に出撃命令を言い渡されたのだ。早速ここまで来て見ると、とんでもないオーガがいて、ここに来るなり左腕を吹っ飛ばされたのだから、彼もよく状況が呑めていない。しかも、中に誰か乗っているし。ただ、ナインの鬼の腕を一撃で断絶させるほどの威力であるから、この鬼が只者ではないことだけは容易に判明する。
「これは、ナイン君と同じプロトオーガなの、気をつけて」
同じといわれても、全然外見が違うではないかと疑いをはさむ。しかし、鬼に人間が乗っている点や、少なくとも実力的には自分の鬼と同じかそれ以上である点から、どうやら詩季のいうことは本当のようだ。とすると、遂に執行官クラスが動き出したのだ。
「戦いの前に、お前何者だ?」
ナインは、素朴な疑問をぶつける。すると、エイトは酷く面食らった。
「あんた、よもや俺のことを忘れたとは言わせねぇぜ」
エイトは非常に息の荒い声で言う。
「悪い、忘れた」
「ざけんじゃねぇ!!さっさと、鬼化しろ!!そして、俺と戦え!!そんな状態のアンタを斃したところで、おもしろくもなんともねぇんだよ!!!」
エイトは、怒号のような声で怒鳴り散らした。そのうえ、両肩の巨大な腕をおったてて、ナインを威嚇する。
「鬼化?何だそれ?」
これを聞いたエイトは唖然としてしまった。
「あんた、マジで覚えてねぇのかよ」
「俺は記憶喪失なんだよ」
エイトは、完全に出鼻をくじかれてしまった。せっかく立てた、両の腕もへなへなと降りていく。これから至高の悦びが待っていたはずなのに、その興奮もいまでは何処吹く風か。
「あーはっはっはっは!!こいつはいいや!!最強のアニミスト様が記憶喪失だとよ!!ちゃんちゃらおかしいや!!」
エイトは気が触れたかのように大声で笑い出した。彼は、ナインに対して過度な期待を抱きすぎていた愚かな自分を、心の底からあざけ笑ったのである。
「あーあ、くだらねぇ。こんな奴もう殺す価値もねぇ。しかし、先生の命を遂げるなら、今が絶好の機会だしなぁ・・・」
アザゼルは、ナインの鬼を一瞥した。
「まあいいや。あんたとりあえず死ねや」
エイトは、急に強烈な殺気を放ちながら、ナインに対して巨大な右腕も同時に突き刺すのである。他方ナインは、とっさに虚物化し、アザゼルの背後に回りこむ。
「虚物化ね。一応、それはできるのか。でもよぉ、そういう戦法は俺たちに通用しないっての」
エイトは完全にナインの行動を読んでいる。すなわち、アザゼルは空いている左腕で、後方に現れたものを思い切りなぎ払うのである。しかし、飛んでいったのは、先ほど切り落とされた腕だけであった。本体はどこかというと、色んなところにいた。
まず、ナインの鬼の片腕が、アザゼルの巨大な腕のうち一本を縛り上げる。他方、ナインは切り落とされた腕を自己再生し、別の方向からもう片方の腕も捕縛する。極めつけは、プロトオーガの両足がアザゼルの腰部を締め上げ、絞め技の条件が整う。あとは、本体がこれを思い切り引っ張るのである。これにより、アザゼルの両腕は根元から引きちぎられたのであった。
「なんだ、結構やるじゃねぇの」
だが、エイトは余裕であった。腕が2本取られたとはいえ、この程度の損傷など致命傷には程遠いのだ。もしこの男の力が、今の攻撃でフルパワーだとしたら、もう勝負はついたも同然である。基本的にプロトオーガ同士の戦いは、先に操縦者たる執行官を殺したほうが勝ちなのだ。だが、今のような攻撃では、このアザゼルにダメージを与えることができても自分を殺すことなど絶対にできない。
「け・・・」
エイトは、なんだか情けなくなって苦笑した。そして、アザゼルは直ちに引っこ抜かれた2本のうでを虚物化させるのである。
「これでもくらいな!」
ナインのオーガの周囲から、何処からともなく2本の腕が空間を裂いて勢いよく飛び出してきた。上からも、下からも、左からも、後ろからも。もぐらたたきのように、次から次へと、腕が飛んでくるのである。アザゼルは逃げ出す暇さえ与えず、ナインをただひたすらにボコボコにするのである。
「ひゃはははは!!手も足もでねぇかよ!!」
「うわぁぁぁ」
どこからか飛んできた巨大な腕に殴られて、プロトオーガは倒れそうになると、倒れようとしている方向からさらに腕が飛んでくる。その繰り返し。もう、ナインの鬼の全身は肉を砕かれ、手も足も曲げられ、戦闘能力を失いつつあった。
「つまんねぇ」
エイトは、遠くの本体から、巨大な両腕にただいたぶられているナインのプロトオーガを傍観していた。
「どうしてこうなっちまったのかよぉ」
アザゼルは最後の一発の代わりに、一本の腕でナインの鬼を掴んでは投げ、大地に叩きつけた。そして、アザゼルは、ナインの傍へと移動する。
「なぁ、本当に俺のこと忘れちまったんですかい?俺は、俺を裏切ったアンタを完全に凌駕したうえで、ぶっ殺して復讐をはたしたかっただけなんだよ」
エイトは、ふと懐かしい気持ちに襲われて、過去を思い出していた。
まだ、彼が学生だったころ、自分に外法のいろはを叩きこんでくれたのは、この男だった。この男は、エイトにとってかけがえのない師であったのだ。しかし、この男は仲間を裏切り、ひいては弟子である自分まで裏切ったのだ。許せなかった。自分の信じていたものを全て引き剥がされたのだから。
「昔みたいに俺をぶん殴ってくださいよ、先生!!」
そして、エイトは悲しかった。心のどこかではまだ、この男を尊敬していたから。何か理由があったに違いないと思いたかった。なのに、自分を裏切ったことすら忘れ、自分すらも忘れられたことが、彼にとって非常に悲しかった。
「せん・・せい・・?」
気が遠くなってしまっているのか、ナインは薄れいく意識の中でその単語を口にした。
(せんせい)
ナインの深層意識の中で、濃霧にかかったようなあいまいな像が揺れていた。ただ、その像は自分のことを『先生』と呼んでいるのであった。
「アンタはこんなもんじゃねぇだろ!もっともっと強かっただろ、団堂先生!!」
(団堂)
ナインは、その言葉を認識すると同時に、消えかかっている自我と自分の中の何かが入れ替わっていくような精神状態となり、何もかもが闇に飲まれていったのであった。
(誰か・・・助けて・・・)
(二)
最後の力を振り絞って起き上がろうとしていたプロトオーガであったが、ついには、糸を切ったように停止した。どうやら精神の負荷をかけすぎて、中の人間が死んだのだろう。
「あっけねぇな」
エイトは、とんだ無駄足であったものだと思いつつ、だるそうにナインのオーガを持ち上げてみた。
「何だ・・・?」
だが、ふとその時、エイトは尋常ならざる殺気を感じた。今まさに自分が触っているオーガの顔が愉悦に浸っているようなおぞましい笑顔を振り撒いた気がしたのだ。まるで触ってはいけないものに触ってしまったかのようで、あまりに気味が悪く、エイトはとっさに持ち上げていたプロトオーガを振り放すのだ。
それは、逆切れされて驚くようなレヴェルではない。誰よりも好戦的な男であると自負していた彼であるが、一発で心が砕かれるようなぞっとする悪寒を味わったのである。喉はいっきに渇き、汗が滝のように流れ出てくる。そう、彼はとんでもないものを呼び覚ましてしまったのである。
「アーハッハッハッハッハッハ!!!!」
ナインの鬼は満身創痍のその身体で、ゆっくりと立ち上がった。怪しい叫びが天にとどろくのだ。
「これは・・」
エイトは、この男をなぜ早く殺さなかったのかと今更ながらに後悔した。あれから十分な訓練を積み、外法を修め、たといアニミストであろうと負けない自信はあった。だが、いったい何なのだこの恐怖は。これではまるで、わが師を前にした時の恐怖と一緒ではないか。だからこそ、師はこの男に一目置いていたのだ。まさに、外法において天賦の才を持つ男といわれる所以。
「アニミスト、其ノ能ヲ我ノ為二呈セ!!ヒャハハハハハ!!!」
ナインの鬼がもつメンタルスフィアは異常であった。いつもは、薄気味悪い緑色のそれが、目を塞ぎたくなるような青色に光り輝きだしたのだ。そして、その光の内部にある何かが、高速で回転を始める。それはまるで、ナインの中に強大な鬼の心がのたうちまわっているようなのである。
そして、一瞬のうちにナインの鬼で『鬼化』が始まる。
ナインのプロトオーガは無数の泡に包まれる。あかい泡。あおい泡。くろい泡。色々な泡が、発生しては、鬼の身体を包み込んだ。
「アニミスト・・・」
無限の泡で包まれたナインの鬼は、一斉に泡を吸収すると、すぐに『鬼化』を完了させる。そこにいたのは、『アニミスト』と呼ばれる、ナインの鬼に潜んでいた悪魔である。いや、あるいは、ナイン自身の深層意識に霧散していた『アニマ』、すなわち人間精神の淵源が解放されたのかもしれない。
「憐、受刑者ヨ。汝八ノ執行人ヲ冠セラルルト雖、此処デ処断ス。ギャハハハハハ!!!」
アザゼルも相当極悪な呈を表していたと思う。だが、この『アニミスト』は悪とか善とかいった価値基準で評価できるような代物ではない。すなわち、アニミストそれ自体は正当なる存在であり、邪悪なる存在でもある邪神であった。いうなれば、混沌が最も似合うオーガである。
「これが・・アニミストなのか・・・?」
アニミストの瞳が、前方のアザゼルを捉えた。絶対的強者が、憐れな獲物を索敵したのである。あとは、狩って、殺すだけ。
それと同時に、アニミストの鋭い眼光を通して、死者たちの怨念がエイトの心にも届いてくる気がした。膨大な量の呪いが、一斉に彼の心を地獄へ引き摺り下ろそうとする。
「ネクロマンサー・システム・・・」
エイトは知っていた。事前に先生から聞いたことがある、アニミストの絶対的な強さの秘密。他のプロトオーガには存在しない、アニミスト独自の力の源泉。それをネクロマンサー・システムと呼んだ。もっとも、これの詳しい機能は彼にはわからない。先生が重要なシステムであると、口をすっぱくして言っていたのだ。とにかく、その脅威のシステムが完全に目覚めてしまっている。
怖い。怖すぎる。あの威圧する眼光に見つめられてからというもの、憎しみの力とはこれほどにおそろしいものなのかということを実感する。情けないことに足の震えが止まらない。無数の怨念に責めたてられているこの惨めさを、誰かに知って欲しい。
「先生・・・、俺」
「ニルヴァーナ、アザゼルヲ截断シ且ツ破砕セヨ」
アニミストは、エイトがいわんとしていたことを聞かずして、ニルヴァーナと呼ばれるアニミストの物理属性物理方法攻撃を実行する。ニルヴァーナとはアニミストの背後に浮いている3つの巨大な宝玉のことのようだ。
その3つの宝玉は巨大な槍に再構成され、瞬く間に虚物化し、消える。そして、瞬く間にアザゼルの腹部を貫いていたのであった。しかし、それだけではなかった。突き刺さったニルヴァーナはアザゼルの腹に突き刺さったまま何倍にも膨れ上がり、その肉をミシミシと、なんとも痛々しい音を立てながら引き裂いていく。
「先生。あんたやっぱすげぇや・・」
ニルヴァーナは勢いよく破裂した。それにより、アザゼルの上半身はふっとんで下半身が分断され、肉塊と血の雨を降らせた。最後に、ある程度の原型を保っている上半身が大地に落ちてくる。そして、アザゼルはそのまま動かなくなった。
「ナイン君の鬼・・・なんていう強さなの・・」
詩季は、二人の戦いを遠くの方で見ていたため、詳細は不明だが、あのアザゼルを一撃で葬ったところだけはしっかりと見ていた。
「あ・・」
すると、『アニミスト』はその場で倒れた。青いメンタルスフィアの輝きが通常の緑色に戻っていくと、本体もまた元のプロトオーガに戻っていってしまった。
詩季は、アリスの腕を右手だけ自己再生し、立ち上がる。そして、ナインのところまで、重い身体を引きずって歩く。
「ナイン君、大丈夫?」
詩季は、倒れているナインの鬼に声をかけるも、反応がない。
「アリス、お願い」
詩季は、アリスのもうひとつのプログラムを起動させた。それは、自分の精神を対象に分け与える効果がある。
アリスが、ナインの鬼を優しく撫でると、その手を通じて、ナインにもメンタルポイントが供給される。
「私には、こんなことぐらいしかできないけど・・」
その時、ナインの鬼の腕がかすかに動いた。
「うっ・・・」
「よかった、まだ意識がある」
アリスは、精神の供給をやめ、鬼の顔をぺちぺちと叩く。
「し・・き・・」
「ナイン君」
「俺は・・、いったい・・」
「いいの、今は何も言わなくて」
「へへ・・俺・・帰ってきた・・」
ナインはかすかに笑っていた。
「うん。おかえりなさい」
もう夜も深くなってきていた。しかし、今宵の空は大気に舞う塵が消え去ったためか、珍しく星が無数に輝いていて、妙に明るかったのである。ふたりは、それぞれの鬼の目をとおして、何もしゃべらずにその綺麗な星空をただ見上げていた。
―深夜零時―
一体目の刺客アザゼルを葬った、公益社団法人東京陸運保険機構の従業員たちは、全員無事に事務所へと戻ってくることができた。特に、ずっと気絶していた3人は、なぜ自分たちが生きているのかすらわからないでいた。むしろ、あのアザゼルという鬼の襲撃は夢であったのかと思うほどである。しかし、ガレージにその残骸が転がっているところをみると、今日の出来事はやはり現実のものであったと実感せずにはいられないのだ。
とりあえず、積もる話もあるだろうから、皆、それぞれの鬼から降りて事務所へ集まることにした。
「本当、今日はみんな大変だったわね」
弥生遼子が、心からのねぎらいの言葉を述べる。いつかこの日が来るとは思っていたが、まさか今日であったとは思いもよらなかったためである。しかし、過程はどうあれ、全員無事に帰ってきて来れたのが、彼女はうれしかった。
「まったくっすよ。アタシのセアトが手も足もでないんすからね」
とはいいつつ、辰巳はあの恐怖と強さを楽しんではいたようだ。
「敵のプロトオーガの力がこれほどなんて、思いもよらなかったからね」
まもるも、今では安心しきっているのか、妙に落ち着いてしまっていた。
「それにしても、ナインはよくあいつを斃したよな」
グレイは、ナインに向かって聞く。ナインは、正直とまどっていた。気づいたら敵が死んでたから、どうやってアザゼルを斃したのかも覚えてなかったからである。しかし、そんな空気を辰巳が壊してくれた。
「そうだ、せんぱい。いつのまにか帰ってたんだもん。マジでタイミングよすぎ」
辰巳はナインに抱きついた。
「よう、辰巳。いい子にしてたか?」
「ナインさん。おかえりなさい」
まもるも、うれしそうな表情を浮かべて一礼した。
「ただいま、まもるちゃん」
「でも、せんぱい。どうして帰って来れたんですか?」
辰巳は、依然としてナインにくっついたまま訊く。
「ああ、俺、防衛省辞めたんだ」
「まあ、あんたはやっぱ、そうなると思ってたわよ」
弥生は、そういうも、うれしそうな表情をしてくれた。
「あと、はるきちゃん」
「なに、まもる?」
「そろそろ離れた方がいいと思うよ」
ナインに抱きついていた辰巳は、自己の背後に強烈な殺気を感じていた。いや、正確には自分に向けられているのは、可愛らしい嫉妬心で、このアザゼル級の殺気は抱きついているナインに向けられているのだ。
「あははは・・。ごめんね、詩季」
そういって、辰巳はそろそろとナインから離脱する。
「ふん、ナイン君の馬鹿」
「そうことじゃないって。ていうか、いいじゃないかこれくらい。世界的にみれば珍しくないだろ」
「ここは、日本です」
そういって、機嫌を損ねた詩季は外へと行ってしまった。
「おい、詩季。全く、なんなんだよ」
ナインは、外に行ってしまう彼女を見届けつつ、頭を掻いた。
「ふふ、しーちゃんったら、まだ素直になれないのね。ナインさん、早く追いかけてあげてください」
まもるは、うれしそうな顔をして、ナインに道を示してくれた。
「しょうがねぇな」
ナインは、足早に詩季を追いかけていった。
すると、詩季は事務所の玄関を出てすぐのところで、珍しく目を開いて夜空を見上げていた。彼女はいったい、その見えぬ目を開き、何を見ているのであろうか。
ふと、詩季はナインが近づいてきたことに気づき、ふたりの目が合う。ナインは、久しぶりにその吸い込まれそうな赤黒い瞳をみて、何も考えられなくなる。
「どうしたの、ナイン君。そんなところでぼーっとして。こっちくれば?」
気づけば彼女は、目をいつものように閉じていた。
「そうだな」
ナインは、詩季のすぐ隣に立った。そして、彼女と同じように夜空を見ていた。
「・・・」
ふたりは、あれ以来直接会うことがなかったから、照れくさくて言葉が口をついて出てこなかった。お互いに、いろいろと言うべきことがたくさんあったはずなのに、頭の引き出しから取り出せないでいるのである。しかし、すぐに思いついた簡単な言葉はあった。
「ごめん」
「ごめんなさい」
ふたりの思考過程は全く同じであった。互いに顔を見合わせて、苦笑せざるを得ない。
「なんで、ナイン君が謝るの?酷いこと言ったのは、私なのに」
「いいんだよ。自分なりのけじめだから」
「そうなんだ」
ふたりの心を氷結させていたものが、次第に解けていく気がして、急に話したかったことがあふれてきた。
「でも、本当に防衛省辞めちゃっていいの?」
「独りになって気づいたんだ。過去を持たない俺は、自分の力で自分をつなぎとめておくことができないけど、詩季ならばそれができる。俺がナインでいられるのは、君のおかげだってね。だから、詩季が隣で笑っていてくれているだけで、俺がどれほど助けられているのか知れないよ。だから、俺はここがいいんだ」
「ナイン君・・」
「人は、過去を参照しながら、現在の自分の位置を知る。それは未来の自分さえも同じ。過去があるから、人は希望を抱くことができる、どこかの本にそう書いてあった。だから、唯一俺の位置をよく知っている詩季がいないと何もかもが見えなくなるんだ。そんなかけがえのないモノを守ることに、迷惑なんて消極的な感情が入り込む余地はそもそもなかったんだよ」
「ナイン君・・」
詩季の目から、突然に涙があふれる。
「どうしたんだよ。別に泣かなくてもいいだろ」
「ううん、こんなに人に必要とされたことなんてなかったから、すごく嬉しいの」
詩季は、目をこすって涙を拭いた。
「そうか」
ナインは、それだけ言って、後は何も言わなかった。
「ねぇ」
「どうした」
「どれくらい、私のこと必要?」
「何かに例えればいいか?」
「そうじゃなくて」
「そうじゃないのか」
「態度で」
「態度?」
「うん」
「何をすればよいのだ」
「たとえば、その」
「うん」
「キスとか・・」
「キスって」
「・・・」
「言っててはずかしいだろ」
「言わせたのはナ・・!!」
「・・・」
「・・・」
「これでいいか」
「うん・・」
「ところで」
「え?」
「お前ら、いつから見ていやがった」
ナインは、玄関の扉に隠れて見ていた3人の気配に気づく。ナインは、不覚にも見られていたことに気づかず、顔を赤くする。他方、詩季は冷やかしに遭っていることすら気づかず、ひとり夢見心地の気分に浸っていて周りのことなど、どうでもよくなっているようだ。
「せんぱい、やっちゃいましたね」
「ナインさんたら、うふふふ」
「へへ、顔真っ赤じゃん」
3人は、急いでその場から散っていった。
「こら!!」
ナインはそういって、3人を追い掛け回しに行ってしまったのである。
ひとり残った詩季は、自分の唇に人差し指をあて、満足そうにそれを愛でていたのであった。