第23話 ギヴ・アンド・テイク
―大阪府吹田市―
赤鬼ことユグドラシルの存在ポイントからおよそ7キロメートルほど離れた地点に、ナインを含む赤鬼討伐部隊を乗せた大型輸送機は着陸した。この吹田市も、例によって鬼どもによる損害が極めて深刻であり、かつてのような活気ある町並みとはうって変わり、風塵が舞う音くらいしか聞こえてこない。それどころか、いたるところで砂漠化現象も起こっており、砂ばかりが舞う様子はなんだか寂しい。
「みなさん、聞こえますか?赤鬼の討伐はナイン特使のプロトオーガをメインにして行います。したがいまして、みなさんはナイン特使の援護をして、一刻も早く作戦ポイントまでプロトオーガを護送することを最優先でお願いします。また、プロトオーガの破壊はわが軍の敗北を意味しますので、敵の攻撃をできる限りプロトオーガに寄せ付けないようにしてください」
オペレーターの的確なナレーションが聞こえてくる。そして、まわりの友軍も必死になって、自己に与えられたミッションの最終確認を行っているのであった。
(赤鬼程度、俺だけいれば十分なんだがな)
俺は、周りの連中の必死さが少しおかしくて笑いそうになった。30秒もあれば十分にユグドラシルを破壊してここに還ってこれる。そう、こんな楽勝な任務を完了するに、援護なんてもったいないのだ。まるでこれは質の悪いデモンストレーションなのか、それとも単なる余興としてのエキシヴィジョンなのかとさえ思えてくる。もっとも、宿敵赤鬼を倒すためにこれだけの人が集まったのだから、もう少し盛り上げるような演出をした方がいいと思われたが、それ以上に俺は早く帰りたかった。だから、ここにいる人たちが面倒ごとに巻き込まれる前に、さっさと倒してこようと考えた。
(赤鬼はあそこにいるのか)
ちょうど、赤鬼のいると思われる辺りを、ズームして観察する。そして、しっかりと場の状況を頭に叩き込み、認識する。そのまま、得られた視覚的情報を基に世界を構築する。
「さっさと行って、おわらせよう」
周りがまだ上層部からの最終注意事項を聞いているにもかかわらず、いち早く虚物化により消えてしまった。
するとすぐに俺が頭に叩き込んだ地点まで、プロトオーガが一気に瞬間移動する。そして、赤いラグビーボール状の物体を前方に確認できた。それにしてもここは鬼だらけであり、完全にプロトオーガは包囲されていた。どうやら、とんでもないところに出てきてしまったらしい。他方、周りの鬼たちも、突然の敵の出現に腰を抜かしているようである。しかし、ナインにとって、それもどうでもよかった。
(本当は倒した方がいいんだろうけど、今は赤鬼のところまで行ってしまおう)
俺は、今度は赤鬼周辺の世界情報を認識する。無論、そこまでさっさと移動するためだ。周りの鬼たちが一斉に食いかかろうとするが、それもどうでもよい。
「じゃあな」
再びプロトオーガは消えてしまった。そして、一斉に鬼たちの腕は空を切り、血しぶきも、悲鳴も何も起こらない。鬼たちはまるで、狐に化かされたかのように首をかしげるのであった。
「よし、ついた」
ようやく赤鬼の目の前に現れた。改めてこの巨体を間近で見ると壮観である。しかし、そんな呑気なことを考えている場合ではない。こちらの存在を探知した赤鬼は、すぐさま臨戦態勢に入る。
しかし、そんなのをいちいち相手にしている時間も惜しいので、プロトオーガは赤鬼の堅固な装甲を見事に砕いて、自分が十分に通り抜けられるだけの穴を作成することに成功する。その殴打の勢いのまま、赤鬼の内部に転がるように入っていく。
ラグビーボールの中は、ユグドラシルの木の枝のような触手で一杯だった。その赤い触手は血管のように外壁に這っており、全身の力が抜けるような気色悪さが感じられる。しかし、俺はその触手の迷路の中心に本体があることを確認、認識する。
「あの中まで行けば終了か」
俺は、再度、消滅。しかし、すぐに本体を触れる距離に実物として出現する。赤鬼は覚醒していないのか、まさに殺人犯人が目の前にいるにもかかわらず、うんともすんとも言わない。まるで眠っているかのようであった。
「悪く思うなよ」
寝首をかくようなことは少々性に合わなかったが、任務だからと割り切って一瞬でその首を切り落とした。
(二)
―30秒後―
「みなさん、作戦の概要は以下のとおりです。では、御武運をお祈りします」
これから恐怖の赤鬼討伐に乗り出そうと、大阪に集まっていた集団は緊張のあまり胸が張り裂けそうになっていた。あの赤鬼を倒したプロトオーガがいるとはいえど、苦しい戦いになるに違いない。少なからず犠牲者が出るに違いない。そう、ほぼ全員が不安を募らせていたその時であった。
俺が集団のところに突然戻ってきた。
「うわぁぁ!!」
何人かが突然に背後を取られたため、絶叫する。それと同時に、反射的に銃をこちらに対して向ける。
「おや、特使ではありませんか、びっくりさせないで下さいよ」
そういって、彼らは向けていた銃を下ろす。
「えーと、みなさん。任務は終了です」
「は?」
俺は無感情にそう告げた。みな、俺の言っていることがさっぱり理解できず、唖然としている。
「あの、だから赤鬼はもう破壊しました」
まだ、ここにいる連中は思考停止しているようだ。まるで脳死でもしているかのようにピクリとも動かない。だが、だれかがようやく口を開く。
「そんなばかな」
「ここに着いてまだ、1分くらいしか経ってないのに」
ひとりが口火を切ると皆、一斉に声高に反論、というか抗議してきた。意気込んでいたところ、すっかり出鼻をくじかれたため、その気持ちの行き場を失っているのであろう。
「信じられないかもしれないけど、倒したのは事実なんです」
本当は、赤鬼の首でも持ってこれたら一番よいのだが、うっかり忘れてしまった。今更取りにいってもしょうがない。そのために俺は、どうしたものかと頭を抱えていると。
「えぇー、みなさん。お静かに」
議論が過熱してきたところ、亜季が突然、皆に聞こえるようマイクを使ってそう言った。
「桐生中佐!」
「中佐!!」
すると、特にうるさかった男性兵を中心に、次々と皆が静まっていく。そして、あたりはあっという間に静寂によって支配されるに至る。それにしても亜季は中佐であったのかと驚きを隠せなかった。
「特使の仰ることは事実です。なぜなら、プロトオーガには、いわゆる瞬間移動の能力が備わっていて、30秒もあれば作戦を完了することも可能だからです」
「そうだったのか」
「なんだ・・」
亜季の証言により、強く反論していた男たちを中心に冷静さを取り戻していく。そして、次第に皆が俺の言葉を信じるようになっていった。
「中佐、それならばなぜ、そのことを仰らなかったんでしょうか?」
ひとりの男が、とても申し訳なさそうに亜季に対して、問う。
「ごめんなさい。このことを上層部が全く信じてくれないまま、作戦を指示したためなの。皆には多大な迷惑をかけましたね」
そういって亜季は、皆の前で深く頭を下げたのである。
「頭をお上げください」
「それならしょうがないですよ」
「一生ついてまいります」
むさくるしい男を中心に、亜季に対して忠誠を誓いはじめたのであった。
(三)
そのあと、ナインは亜季のところへ向かった。
「中佐、すいません。僕が勝手なことをしたために、お手数をおかけして・・」
「ナイン君ったら、なに急にかしこまってるの?亜季でいいわよ」
亜季は、俺の彼女に対する呼称が急に変化したことがおかしいのか、くすくすと笑う。
「すいません、亜季さんが中佐だなんて思いもよりませんでしたから・・」
「そうだったの。まあ、あんなこと、お手数でもなんでもないから大丈夫よ」
「それなら安心しました」
そういって、ため息を吐いた。しかし。
「ただ、勝手な行動は控えて欲しいのは事実。気をつけてね、ナイン君」
曲がったことは許さないのがこの家族の特性なのか、亜季は下を向いている俺の顔を覗き込んできて、厳しい口調で釘を刺してきた。
「はい・・」
怒られてしまったので、少ししょんぼりとした気持ちになる。そんな残念そうな俺の気持ちを察したのか、亜季は柔らかい表情に戻って続ける。
「・・・とはいえ、みんな無事に任務を終えることができたし、私個人としてはあなたの働きを評価しているわ」
「もったいないお言葉です。僕はただ、執行機関のひとつにすぎませんからね。本当にすごいのはこのプロトオーガですよ」
そういって、俺は自分のプロトオーガを指差す。
「そんなことないわよ。あのプロトオーガもあなたがいればこそ、なんだから」
亜季は、俺の背中をポンと押してくれた。
「それにしても、亜季さんはなぜ、虚物化のことを?」
「実は妹から聞いたのよ。私も最初聞かされたときは、そんな非現実的な現象なんて信じなかったけどね」
亜季はぺろっと舌先を出しては、悪戯そうな顔をする。
「でも今回、プロトオーガが突然消えたり、現われたるするのを見て確信したわ」
「そうだったんですか・・」
俺は件の妹のことを思い出し、少しだけ悲しい顔をした。亜季は、そんな深刻な表情に気づいてか、別の話題を持ち出す。
「そういえば、これから本隊は淡路島の基地まで行って休憩するんだけど、知ってる?」
「え、知りませんでした」
「もう、ちゃんと人の話は聞かないとだめよ」
「すいません」
「だからね、今日は私たち、そこでお泊りってわけだから」
そういえば下着の代えなど、全く持ってきていないことに気づく。しかし、一日くらいならどうにかなるかと思い、すぐにあきらめた。
「それで、今日は偶々、その基地に防衛大臣が来てるから、ナイン君は気に入られるようにがんばってね」
亜季は相変わらず、俺に対して突っつくようにしては、たいへんおもしろがって言う。それにしてもなぜ彼女が、あえて『気に入られるように』と言ったのかを理解できずにいた。
(四)
―淡路島特別営設基地―
ここは、大阪の西にある基地で、横須賀の基地に比べたらはるかに規模の小さいところであった。本当に休息を目的としたような基地であり、実質的には基地ではない。もっとも、ガレージや武器倉庫なども存在するため、ホテルと言うには程遠いのではあるが。
そのため、今回ばかりは特別VIPの俺も横須賀の基地とは打って変わって、数人の豚箱共同室で寝泊りすることになりそうである。いびきがうるさい人間と一緒にならなければ良いが、とずっと気をもんでいた。
もう夕食も食べ終わり、夜もふけてきて、まったり読書でもしながらまどろんでしまおうと思っていたそのときであった。ふと、携帯電話が振動した。おそらく、誰かからの電話であろう。
「はい、もしもし」
『ナイン君、亜季です。大臣があなたのことを呼んでるんだけど、今から来れないかしら?』
「大臣が?なぜ僕なんかを?」
『あなたに会いたいそうよ』
亜季の声調からして、彼女が電話の向こうで悪戯そうな笑みを浮かべているだろうことは、容易に想像できた。
「はい、わかりました・・」
俺は、なんとも嫌な抽象的危惧感を感じつつも、渋々彼女の要求を了承するのであった。
亜季からの電話を切ると、俺はすぐに大臣が滞在しているとされる部屋へと赴いた。どれほどすごい部屋なのだろうかと内心ビクビクしていたが、着いてみると自分たち兵士が使っている部屋と大して変わらない部屋だった。そのためか、少し緊張はほぐれ、自然に扉をノックすることができた。
「ナインです」
『はぁーい』
扉の向こうから、亜季の妖艶な声が聞こえてきた。
「待ってたわよ」
亜季が扉を開けてくれた。
「失礼します」
何で大臣の部屋に亜季が一緒にいるのかを疑問に感じたが、そのまま中に入ることにした。
「防衛大臣。ナイン特使をお連れ致しました」
亜季に連れられて部屋の奥へ招かれると、そこには背の高い中年の男性がいた。髪型はオールバックで、白髪も多少は混じってはいるが、基本的には黒髪である。なによりも、頬骨をそぎ落としたかのような年期の入った顔つきはどこか、厳かさや誇りを感じさせざるを得ない。
「君が、例のプロトオーガの操縦者、ナイン君か」
防衛大臣とされる中年の男は、俺の顔をまじまじと見つめて訊いてきた。
「はい、おっしゃるとおりでございます。大臣」
前方の男に対して敬礼する。しばらく、軍隊に身を置いていたためか、自分よりも偉そうな人を見ると、つい反射的に敬礼してしまうようになっていたのだ。
「君は、どこかで・・」
ふと、大臣は何かを言いかけて、眉をしかめてしまった。彼は、デ・ジャヴュにも似た感覚に陥っているようで、一生懸命に追憶をしている。しかし、気のせいに過ぎないというほどのものだったのだろうか、大臣はそれ以上追憶することをやめた。
「いや、すまない、ナイン君。自己紹介がまだであったな。私は桐生 憲次郎。防衛省で閣僚をやらせてもらっている」
桐生?この人もまさか。
「亜季、ご苦労だった。もう休んでいいぞ」
「はい、お父様」
亜季は、ふたりに対して深く礼をして、部屋から静かに出て行った。
「お父様ということは・・大臣が亜季さんのお父上だったんですね」
大臣が桐生と名乗ったこと、亜季が大臣に対してお父様と言ったことから合理的に推論した。
「そう。そして、詩季の父でもある。君のことは娘からよく聞いているよ」
その台詞は本日、亜季からも聞いていた。詩季があまりにも自分のことを家族に言いふらすがために、少し照れくさくなっていた。
「それは恐縮です」
「いわゆる記憶喪失、だそうだな。そして、鬼を持つ身でありながら、鬼と対峙する存在。はたして君は、一体何者なのか、個人的に興味がある」
桐生大臣は、ずっとこちらの目を見続けていった。
「それは、僕自身もわかりません」
気づいたら自分の鬼と一緒だったのだ。そして、なぜにこれほどまでの鬼を有していたのかは、全くもって見当も付かなかった。
「まあ、それはともかく。うちの小田原が執拗に君を引っ掻き回してしまっていたようだな。こんなところにまで来させてしまい申し訳ない」
「いいえ、僕は自分の意思でここに来ましたから・・」
とっさに大臣から目を逸らして、そういう。
「それは、本当かね?」
そして、いきなり目を逸らした態度を不審に思った大臣はさらに問う。
「え?」
「いや、もちろん、君ほどの戦力がうちに加わってくれることは大いに喜ばしい。しかし、君の意思に反してまでそれを強制したくはないからな」
「意思に反しているなんてことは・・」
今度は、大臣と目を合わせてそういった。
「ならば、なぜ君の目は輝きを失っているのか?」
「俺の、目・・?」
俺は近くにあった鏡で自分の顔を見た。たしかに、桐生防衛相がいうように、あまり活力の感じられる表情とはいえない。最近は、良い物をたくさん食べているはずなんだが・・・。
「そう、私が娘から聞いているのとは異なって、今の君の目はくすんでしまっているのだよ」
「そんなはずないですよ。僕は、自分の意思で来たのですから」
そうだ、たしかに詩季に行けと言われたからここに来たのかもしれない。しかし、最終的には自分の意思でここに来たはずだ。だからこそ俺は、一度も町田市に帰ることもなく、ここに居続けて任務を全うしているのではないか。
「そうか、それが本当に君の意思ならば何も言うまい。しかし、これだけは君に聞いておいて欲しい。ただこれは、あくまで詩季の父親としての言葉であり、軍人としては決して許されない言葉だから、すぐに忘れてしまってかまわない」
「何でしょう」
「詩季を守ってやってほしいのだ」
大臣は、窓の外に目をやり、まるで独り言を装うかのようにぼそりという。
「大臣、恐れながら申し上げますが、そもそも僕がここに来たのは、あなた方が引き抜いてきたからですよ」
「たしかに、それが防衛省の意思表示である。だからこそこれは、軍人として許されることのない言葉なのだ」
防衛大臣、いや、今ここにいる桐生憲次郎という、ひとりの父親としてのこの男は、再びこちらに向き直る。そして、その目をしっかりと見据えて言葉を続ける。
「失明してしまったあの子に、私は光をあててやることすらできない。私の力では、あの子を苦しみからから解き放ってやることができないのだ。だからせめて、あの子が選んだナインという光を遮らないことが、私の唯一つのなし得ることなのだ。だから、ナイン君、詩季を守ってやってほしい」
桐生防衛相は深々と頭を下げた。
「俺が・・詩季の光・・」
「あの子は、他人に気を遣わせてしまうことを何よりも嫌うから、少し素直になれないだけなのだ。本当は君に守ってもらいたいに決まっている。だから、君のいるべき場所はここではない。帰るべき場所がちゃんとあるはずだ」
それを聞いて俺は、ようやくあの時の彼女の気持ちを理解した。なぜ、彼女は泣きそうな声で、ナインを防衛省へと行かせたのか。なぜ、俺が去っていくことを引き止めなかったのか。なぜ、あんなに俺に辛く当たったのか。おそらくはそうでもしなければ、俺に多大な迷惑がかかるとでも思っていたのであろう。
(馬鹿やろう)
何が迷惑なものか。この出来損ないな俺を、ナインたらしめてくれているのは紛れもなく彼女だ。そんな大切な人を守ることの何がいけないのだ。俺には詩季という光がなければ、途端に自分の世界を見失ってしまうのだから、彼女を守るのは当然のはず。それは、東京陸運保険機構を離れてからというもの、身にしみて感じていたことだ。だからこそ、詩季のことを守りたい。そうしたいのだ。その結果、自分が怪我をしてもいい。生死の境を彷徨ったって全然いい。たとえ詩季が自分をお荷物だと思い込んでいたとしても、俺はそれを背負いこんでいきたい。全くもって、重いなどと思ったこともない。むしろ一番つらいのは、自分すらも見失ってしまうほどの窮極の孤独の方だ。
そもそも、誰かに迷惑をかけないで生きていくことのできない人間なんて存在し得ない。だからこそ、迷惑をかけた分だけ、逆に何かで助けてあげながら生きていけばいい。詩季のような子であればなおさら、他人に頼ってもいいのだ。詩季は、真っ暗な俺に光を照らし、道を示してくれればよい。それだけで、十分な見返りだ。俺の魂はそれで安らぎを得ることができるのだから。
(馬鹿やろう)
そして、一番の馬鹿やろうは自分自身だった。はじめから気づいていたはずである。そんな簡単なこと。あの時、俺は素直に詩季を守りたいと言っていればよかっただけの話なのだ。なのに、社会的な体裁などを気にして、回りくどい言い方をしてしまい、彼女を傷つけたのだ。
俺は改めて自分の顔を鏡で見ると、その目には、強い意思の光が灯っていたのがわかった。
「大臣、すいません。俺、防衛省を辞めます」
「本当かね、ナイン君」
「はい」
「ありがとう。どうか、娘をよろしくお願いします」
大臣は、一国の防衛を任されたトップとしての権威も誇りも、全て捨て去って、詩季の父、桐生憲次郎として、深く頭を下げた。
「はい、必ずや成し遂げて見せます」
俺は駆け出していた。プロトオーガのもとへ。一刻も早く、自分のいるべき場所へ。
ナインが出て行ったあとで、桐生防衛相はいう。
「亜季・・。私は、軍人として最低の人間だ・・・」
すると、とっくに部屋で休んでいると思われた亜季が、ひょっこりと姿を現した。
「お父様、そのようなことはありません。私は、誰よりもお父様を誇りに思っていますし、誰よりも国のために命を削ってきていたことも知っています。だから、大切な娘をひとり守るくらい、いいではありませんか」
「そう言ってもらえると、助かる」
「私とて、あの子の幸せを願うのはお父様に劣りません。それに、あの子のいる東京陸運とこれから協力していけば同じ結論も出せますから」
「ああ、ありがとう」
亜季は、自分の父を強く抱きしめた。
(五)
―東京都町田市―
東京の空は、すっかり暗く沈んでいた。大量の粉塵が空を舞っているためか、夜空に星は輝かない。ただ、薄気味悪い満月だけが、太陽の光をもらい、強く輝いていた。今宵はきっと何かが起こる。そう感じずにはいられないほどの怪しい夜なのだ。
「メンタルスフィアがやたらと暴れまくりやがる」
町田市の上空100メートル弱の地点に、プロトオーガがいた。そう、ナインの乗るプロトオーガと全く同じである。しかし、そのメンタルスフィアを中心に纏まりついている薄緑のオーラは、憎悪と執念に燃え、純粋なる悪意によって研ぎ澄まされているのだ。その点において、このプロトオーガはナインのそれとは相反するものであった。
「『アニミスト』か・・。くくくく・・」
操縦者は、引きつるようなおぞましい笑みを浮かべていた。その瞬間、プロトオーガの周囲はどろどろに溶解した殺気で充たされたのであった。