濡髪
夏季休暇を利用して、海へ行ってきました。
自分へのお土産は赤珊瑚の簪にしました。
一息ついた金曜日の夜、ベロア素材でできたグレーの箱を開けると、白く柔らかな紙にソレは包まれていました。
「なにこれ」
黒鼈甲でできた簪の足に、黒い糸が一本、絡まっているように見えました。
解いてすぐソレが糸ではなく、濡れた髪の毛だとわかりました。
こめかみに流れる汗を感じながら「私の髪の毛が落ちたんだ」と思い、その日は眠りました。
◆
あの日からいくら除湿しても、息苦しい湿気がべったりとまとわりついてきます。
お皿を洗っていても、蛇口に何かが詰まったような音がして水圧が弱くなり、排水口に水が流れるとゴボボボっと何かが溺れているような惨い音がします。
お風呂はなるべく目を閉じて入っていますが、ぴちょんぴちょんと誘うような水音が聞こえるのです。
◆
さすがに気味が悪くなって、私は赤珊瑚の簪を手放しました。
その夜、久しぶりに湯船に浸かることができました。目をつむり堪能していると、ぴちょんと一滴、冷たい水が瞼に落ちました。目を開けると、ぐっしょりと濡れた黒髪を垂らした女が天井から私を見ていました。
(んー! んー!)
頭の中で必死に叫ぶのに声が出ない。
目を閉じたいのに動かない。
きっと、赤珊瑚は魔除けのお守りだったのです。
海で憑いてきてしまったコノヒトの髪の毛を絡め取って封印してくれていた。手放してしまったから心の中で縋るしかありません。
(助けてください。助けてください。助けて——)
ようやく強張っていた手足が動くようになり、風呂場から逃げ出すことができました。
最低限の用意だけして、会社の最寄りのホテルに泊まり、あの部屋には帰っていません。
赤珊瑚の簪を身につけて行けば大丈夫でしょうか。
お読みいただきありがとうございました。
夏のホラー2025参加作です。
今年も皆さまに読んでいただけて&皆さまのホラーを拝読できてとても楽しいです。
いつもありがとうございます。




