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第3話 豚しゃぶサラダ定食@フユキ


月曜の夜。


「これ、先方に電話連絡要るじゃねぇの……なんでまだ架電すらしてねぇのさ。向こうもう今日は終業してっぞ」


自分しか残っていない執務室で、後輩たちのやり残した仕事をしながら深春はぼやいた。




毎週月曜日は、午後に何かしらの会議があるせいで、それなりに深春の通常業務も滞りがちだ。


それだけならまだしも


【あきじまさん こちら、ご確認おねがいします】


と用件を書いた付箋を面に貼った資料が、会議を終えて戻った席に山積みになっているのだ。


自分の仕事と並行してそれらに目を通したらあっという間に定時の午後5時半だ。




「やばいやばい、保育園のお迎えがあるから、これで!」


と真っ先に上司が帰り、


「あの、これ……、」


とこちらも身支度して鞄も提げた新入社員が申し訳なさそうに差し出してくる業務を受け取りつつ


「……もう定時だから帰りな」


と深春は言ってやらねばならないのだ。




いや、早く帰らにゃならん奴がちゃんと帰れる職場環境は大変に良いのだが。


そのしわ寄せは全部、深春が独りで処理することになる。


なぜなら、この部署の独身者は深春だけなのだ。とても悲しいことに。




「もっと早く言ってくれりゃ昼間のうちに何とかしてやるのになぁ……」


深春の離席時を狙って付箋で業務報告されるのは、やはり深春がこの部署での新顔だからだろう。


深春は数年前に年度途中の異動で今の職場に来た。同じ会社の別支部への、左遷でも栄転でもなく、人手不足ゆえの経験者補充という名目だった。


後輩の育成やら上司との調整やらをしつつ、様々な案件の責任者も担わされるのに、明確な肩書はない。


平社員の万年トップ。そして独身。


つまり自分はサービス残業の担い手だ。




「俺の前のとことは大違いだなぁ……」


無人の若手たちの机にタスクを書きつけた付箋を貼って回りながら、ため息をつく。




「これで、明日どうにかなるだろ」


深春は、両手に溢れる付箋の山をゴミ箱に突っ込むと、自席に戻って帰り支度をした。


雑にジャケットを羽織って、腕時計を見やる。


「今日のサービス残業は5時間か……腹減るわけだ」


時間を意識した途端、胃が空腹を訴えはじめる。




頭に浮かぶのは、カウンターの向こうで料理に勤しむ青年の姿。


「フユキ、今日のメニューなんだろうな……」


深春はごくりと唾を飲んだ。


胃が、くぅうううと切ない悲鳴をあげてフユキの飯を求めている。




“また”来てね、おにーさん。俺、待ってるよ。


フユキの夏彦の言葉と笑顔を思い出すだけで、思わず頬も熱くなる。


……自分がそんな事を言ってもらえるなんて。


社交辞令だと分かっているのに。


胃も心もフユキを求めて切なく疼いている。


甘い言葉と美味い飯をくれる人に、本当にまた会いに行きたくなっている。




よし、やはり今日はフユキに食べに行こ……


1週間ぶりなら、こう、


……頻繁すぎず、いい間隔だ、きっと。




深春は鞄を手にしてから、思いついて部屋の隅の給湯スペースの鏡で軽く髪を手櫛で整え、上着の裾を伸ばしたりなどした。




いそいそと執務室を後にし、守衛に


「お先です!」


などと元気に退勤のあいさつまでして、通用口を小走りで出ていった。




フユキは、会社の最寄駅の裏にある定食屋だ。


深春が初めて訪問したのは、残業で遅くなった先週の金曜日。その日に食べたゴマサバ定食で、フユキの虜になった。




土曜に、もうあの味が食べたくなって意気込んで店に行ったら休業日で落胆した。




気を取り直して再訪した月曜にはキンタルイワシとやらを堪能し、


それからずっと時間の合わないまま1週間が過ぎてしまった。




それでもフユキの味と店主・夏彦の笑顔が忘れられずに、つい先日の金曜は、外で夕飯を食べたあとに、営業時間直前にわざわざ店の近くまで行ってから帰宅した。




でも、運良く夏彦と僅かながら言葉を交わせたんだよな。




駅へと急ぎながらそこまで振り返って、深春は己の行動にゾッとした。




「いや、おかしいだろ」


何だよ、ストーカーみたいじゃないか、俺。




道沿いの店のショーウィンドウに映る自分の顔は、冴えない中年の相貌。


しかもでれっと締まりの無い笑みを浮かべていて、目も当てられない。




自分というつまらぬ40歳の男に、こんなにも執着される夏彦が可哀想だ。




「俺につきまとわれても、相手が困るだろ」


崩れた笑みを引っ込めて深春は自分の頬を叩く。


少し気を落ち着けようと、手近な自販機で冷たい缶珈琲を買って、ずずっと啜った。




苦い。




焦げたような匂いも、鼻どころか胸まで突き刺すようだ。




飢えた胃袋が泣いている。


欲しいのはこんな苦くて冷たい水じゃない。




あったかいお店で優しい笑顔の彼が作る飯だけだ。




定食屋に行く動機なんて、料理そのものであるべきで。


店主を目当てに行くのはどうなんだ。




それも、地元の人間でもない、もちろん店の常連でもない自分が。




人恋しさで店に通うなんて、許されないぞ、深春。




己の歳と醜さと、そして欲求を自覚すればするほどに、深春は必死に己を叱った。




こんなにも人恋しさが妙に募るのは、歳のせいか、独り身の不安からか、或いはこの異動先の孤独感のせいか。




それとも先月、前職場の後輩の訃報を社内報で見てしまったせいか。




直接的死因は事故と聞いているが、本当のところは知らない。


彼は新卒2年目の若さでうつ病と診断され、ずっと休職していた。


深春が知っているのはその事実だけだ。




「いいか、俺は、独りで良いんだ」


言い聞かせても、寂しいと叫ぶ自分が胸の奥にいて、深春は舌打ちした。




昔の友人はいつしかただの知人になり、連絡も途絶えた。


遊び相手たちは皆、深春を過去に置き去りにして、未来を共にする相手を見つけた。




「今更、この歳で」


珈琲の缶をぐっと握りしめる。


「誰かと居たいなんて、ばかばかしい」


空き缶をゴミバケツに投げ入れる。


がらんと鈍い音を立てて、空き缶の山が崩れる。




自分は誰からも期待されず、選ばれない人間であり、未来はただ一人で歩むものになった。




取り残された自分は、誰にも依存せず、誰からも頼りにされず、ただ黙々と働くだけでいい。


今の職場の後輩や上司ですら、自分なんかと雑談しやしない。





本当にたった独りで何時間もの残業をこなしても、仕事帰りに一緒に飲んで愚痴る相手もいない。




地元でもないから、気軽に会える知人もいない。




ただビルの中だけの表面的な人間関係が深春の世界のすべてだ。




それでいいと思っていたのに。


それなのに。




あの、フユキのカウンター席に座れる客たちが羨ましい。




彼らの雑談が羨ましい。




夏彦を昔から知っているということは、つまり、夏彦も彼らとそれだけの年月を過ごしているということで。


あぁ、なんて羨ましい。




「……誰か、気の置けないやつ、せめて気楽に会える顔なじみが居たら……」




自分を昔からうっすらと知っていてくれて、今も特に理由なく、何となく会えるような。




そして今、自分もそういう相手が無性に欲しい。


自分にとって今、そういう相手がいないのと同様に、自分は誰にとってもそういう存在になれなかった。


そんな相手が居れば、もしかしたら後輩は消えずに済んだかもしれないのに。




ため息をこぼして、深春はのろのろと歩き出す。


「行っちゃだめだな、こんな俺は。あの店に」


歩きながら、今夜も新着通知など一つもないスマートフォンのトークアプリを開く。


……




【葉月ねえさん、結婚&新築引っ越しおめでとう。新居はどう?落ち着いたら改めてお祝いしたいのだけど、今度、飯でもいけないかな。】




深春の送ったメッセージに、従姉の葉月が返信することはなかった。




葉月は、旦那の不倫と暴力DVを、SNS上で見ず知らずの他者フォロワーには吐露して、そのまま消息を絶った。





深春は独り、駅の周辺を彷徨った。




さっさと電車に乗るつもりだったのに。


葉月を思い出した傷心のまま、あの1Kの暗い部屋に帰りたくなかった。




多国籍パブや性風俗店のネオンがいくつも光る裏通りを、よれた中年男性がふらふらしている様は、滑稽で、不健全で、蔑まれもするだろう。




物思いに耽りつつ、酔ってもいないのに覚束ない足取りで、深春は裏通りをふらついていた。




バックしてくる車の音に顔を上げれば、そこはフユキの駐車場のすぐ横だった。




無意識にここへ来てしまったことに内心戸惑う深春の眼前を、見たことのあるタクシー運転手が通っていく。彼はいそいそとフユキへ向かう。




「あ、ねえ、なっつん、扉あかなーーい!」




ガタンガタンと建付けの悪い引き戸を揺すって、運転手は大声で呼ぶ。




「稲田いなださんごめんなさーい、あと今、テーブル席しか空いてない」




夏彦が上手いこと扉を開けつつ応じ、運転手は入りしなに、




「あ、そこの人、もしかして俺より前に待ってた?」




深春を振り返った。


それを聞いて夏彦がひょこっとこちらへ身を乗り出す。




「おにーさん、また来てくれた!お仕事お疲れ様!入って入って」




夏彦が弾けるような笑みで出てきて、深春の腕をくいくいと優しく引っ張る。




なんだろう、リードを引っ張って飼い主の歩みを急かす飼い犬のようだ。




深春は夏彦を見上げる。


あぁ、もう。これから、独り住まいの寂しい家に帰ろうと思っていたのに。


店の人が入れって言ったら、入るしかなくなるじゃないか。




「今日はね、豚しゃぶサラダ定食と、イナダの照り焼き定食」




夏彦の言葉に、タクシー運転手の稲田が




「えぇ、俺の照り焼きぃ?」


大げさに驚いてみせる。




「ブリの若い個体だよ。ハマチと一緒」




夏彦は2名席テーブルを以前のように1人がけ2席に変えて、稲田と深春を案内する。




「え、ぶりっ子? やだぁ〜、俺、共食いじゃん。ってことで俺、魚定食うおていとノンアルビール」




稲田がつまらない冗談を言い、




「イナダだのハマチだの、全部ブリでいいのにな。名前なんていっぱいあってもわけわかんねぇ、覚えられないし」




カウンターの客が、魚を食べながら笑う。




「別の名前がつくぐらい、それぞれの時期が美味しいってことかもね」




優しく答えてから夏彦は深春に向き直る。




「あ、おにーさん、どうしよう。今日のはどっちもおすすめ。イナダも美味しいし、暑いから豚肉で元気にもなってほしいなぁ」




確かに、話題にのぼった魚も気になる。


だが、豚しゃぶサラダと聞いて、深春の心は早くもそれを食べたがっている。




「あ、あの。今日は、肉定食で」


深春が即答すると夏彦が目を丸くし、それから


「お、早いね。前2回とも魚だったもんね、うちでの初ミーテイだぁ」


と破顔する。




「ミーテイ?」


「お客さんが言い出したの、魚定食はウオテイ、肉定食はミート定食でミーテイって」




……なんか会議ミーティングっぽくて嫌な言い方だな。




会議のせいで残業を強いられがちな深春は少し気持ちがザワッとした。




夏彦は厨房へ入ると、


酒と調味液に漬け込んで臭みを抜いた魚の切り身を用意した。


それをフライパンで甘辛いタレに絡めて焼き上げる。




「稲田さんのイナダできました〜」




いい匂いをさせたイナダが、皿の上でつやつやに輝いている。




そして




「はい、おにーさんの“初ミーテイ”です」




続けて運ばれてきた豚しゃぶサラダに深春は


「おぉ……」


思わず感嘆した。




皿から溢れそうなほどの、水菜と少し変わったレタス、それからしんなりした玉ねぎのサラダ。


その中央に、薄切りの豚肉がこんもりと山になって盛られている。


さらに、豚の山のぐるりをたっぷりのキュウリと茗荷が囲っている。




チェーン店の豚しゃぶ定食が悪いとは言わないが。




こう、……見た目から満足度が違う。




肉は俗に言う切り落としを使っているらしい。


一枚一枚の大きさはまちまちだが、鉋屑かんなくずみたいな極端に薄いものではなく、しっかりとした肉の歯触りが楽しめた。




豚の独特な甘みも感じる。


それでいて臭さはなく、肉質も硬くない。




何もつけずそのままでも美味しいぐらいだが、出汁醤油にわさびを溶いたタレで食べれば、爽やかな刺激と出汁の旨味が合わさってこれまた違った美味しさがある。




サラダの玉ねぎは酢漬けになっていて、酸味の軽やかさが肉とも相性が良い。




変わったレタスの葉はそれ自体に微かな辛みがあって、肉の味を一層引き締めて旨みを強くしてくれる。




サラダも肉もそれぞれで食べてもちゃんと旨く、一緒に食べるとまた違った風味と食感が楽しめた。




そして、数口ずつ味を変えられる充分な量もある。




これ、他所で食ったら2,000円するな……




などと深春は唸ったのだった。









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