第2.5話 1週間の過ごし方
深春は、キンタルイワシの翌日の火曜日から金曜の今日まで、運良くサクサクと業務が進み、定時上がりの日が続いていた。
今日も、時計はまだ夜の7時を回ったところだ。
今までなら、早く帰れることを喜んでいただろう。
特に金曜はサブスクの映画を夜通し観るのがささやかな楽しみで、それこそ定時に上がろうと努めていたほどだ。
ソロ映画会のアテはいつものビールといつものスナック菓子と決めていて、それらをいつもの格安スーパーで買うには、夜20時半には最寄り駅に着いている必要があるのだ。
でも、今日はその金曜日だというのに、深春は家に帰る気が起こらなかった。
そもそも、ソロ映画会を本当に楽しんでいるわけではないのだと、深春は薄々自覚していた。
観たい映画があるわけでもなく、ただオススメとか無料とかで出てくる映画を片っ端から流して、酒を飲んで寝落ちする。
こんなに怠惰に時間を使えるのは、
独身ならではの贅沢だと思おうとしているだけだと、気づいていた。
他にやりたいことがないだけ。
週末の夜の街の喧騒を通り抜けて帰った先の、独り暮らしの部屋の静けさが寂しいだけなのだ。
健康面を思えば自炊ができないなりにも食生活を何とかするべきとわかっている。
朝は早く起きられないので食わず、昼は職場の自席でカップ麺。
夜はコンビニやスーパーの弁当。
一番栄養面を工夫できるのは、深春にとっては夕飯だ。
だがコンビニやスーパーで弁当の他にわざわざ野菜のおかずや味噌汁を買い足すとなると、優柔不断な彼にはなかなか億劫だ。
それで結局、一番安い売れ残り弁当を一つだけ買って帰るのが、今までの深春のルーティンだった。
だから、イワシ定食の翌日、今週火曜日も、フユキを知る前と同じく最寄駅前のスーパーで何割引きかになった弁当を買った。
帰ってチンして食べるだけ。
火曜日は、ソースとんかつ弁当。
ソースでペちゃりとした衣のとんかつ。
大根の漬物が数切れ。
ごまを振った白飯ががっつり。
味は悪くない。
500円で満腹になれる。
今まではこれで良かったのに。
フユキで食べたゴマサバもイワシも美味だったな。
とんかつを食べているのに、思い返すのはフユキの魚定食。
水曜日は、
焼き鯖が一欠片と卵焼きと唐揚げと、赤いウインナー……おかずが細々入った弁当を買った。
分厚くてふにゃふにゃした衣の奥にいる、ゴムみたいな食感の鶏肉を無言で噛んで飲み込む。
一口で消えてしまう魚の身は、青臭いばかりでぱさついていた。
あぁ、そうか。
フユキで美味しい魚を2度も食べたから、
きっと今も魚をしっかり食べたいフェーズなんだ、自分は。
そう思い込むことにして、
木曜日は悩んだ末にコンビニのちょっとお高い焼き鯖のパックとおにぎりにしてみた。
でも、何かが違った。
腹は確かにくちくなった。
弁当の一口サイズの魚と違って、しっかり半身入っていた。
身が薄っぺらくて、塩味がきつくて、満足感に欠けていた。
……フユキの、脂のしっとりした分厚い鯖と比べて。
映画と天気予報以外に観ることのないテレビをなんとなくつけると、芸能人がドッキリ企画とかいうのをやっていた。
本気で焦り怖がる若い男性芸人を、周りの連中が馬鹿にして笑うのが不快で、さっさとテレビを消した。
静かな部屋で、ゴミ袋に魚のパックをガサゴソと捨てた。
市販の飯もちゃんと美味しいはずなのに、満たされない。
ものを食べれば食べるほど、
フユキに行きたい。
という欲求がどうにも膨れてくる。
そうして今日、金曜夜。映画を観に帰る気も起きない。
……今から駅へ向かってもフユキはまだ開店前なのに。
キンタルイワシの講義を聞かずに逃げ帰ってから、退勤時間の都合もあってフユキを一度も訪れていないのに。
でも、初めて行った日から丁度一週間でもある。
フユキに行きたいけれど、行きたいと思っている自分にも深春は戸惑っていた。
先週の土曜日は、前夜に食べた鯖の旨さの衝撃が強くて、思わず2日続けて行ってしまったけれど。
こうして間をあければ、別にそんな衝動は日に日に落ち着いて行くものなのに。
若い頃に友人や女性たちと行った飲食店で、なかなかの当たりの店があったこともある。
これ美味しいな、なんてその瞬間は思っても、
翌日にはもう、何を食べたかろくに覚えていない。
もちろん、リピートしたこともない。
今となっては、店名はもちろん、誰と行ったのかも忘れた。
……それぐらい、食にも人にもこだわりのない自分だったのに。
今までこんなに、“また行きたい”と思ったことはない。
駅前では、かっこよくベストなんて着こなしたどこかのお店のキャッチの若い兄ちゃんが、道行く人に声を掛けている。
「ね、そこのおにーさん!寄ってかない?」
近くから聞こえた元気な声に、深春は思わず顔を上げてそちらを見て、……
キャッチがもっと若い子を引き留めているのに気付いて慌てて顔を伏せる。
違う、俺みたいなおっさんを、誰も“おにーさん”なんて呼ばない。
あんな店の客として俺が《《選ばれる》》はずもないのに。
でも、フユキの夏彦だけは、
“おにーさん、何にする?”
人懐っこい大型犬みたいに、屈託なくにこにこして、アラフォーの自分にまで、“おにーさん”なんて呼びかけてきて……。
夏彦の笑顔が頭に浮かんでしまう。
フユキは飯を食いに行くところだぞ。
夏彦に会いに行くところではないぞ。
深春は何度も自分に言い聞かせる。
彼は長く深い関係を築ける、公平で誠実な人間だ。“みんなの”夏彦だと常連さんが言っていたように。
……そして彼は、伴侶に選んでもらえるような人だ。
俺と違って。
何もかも、俺と違う。
さっさと帰って、いつものように、独りの夜を過ごそう。でももうコンビニ弁当は味気ない。
空腹感と帰り難さに、駅前を深春は延々と歩き回っていた。
雑居ビルの色んな飲み屋の看板を何となしに見上げ、突然深春は思い立った。
よし、この時間でも行ける、フユキ以外の行きつけを作ろう。
……だって、外で食べれば、ゴミも出ない。
後片付けも自分でしなくていい。買って帰るよりも、効率が良い。それなりに時間も潰せる。
まずは、家に帰らない理由をどうにかこじつける。
職場の最寄駅前の、チェーンの居酒屋に行ってみた。
一人でも入りやすいという口コミで選んだ一軒だ。
……メニューには多少迷うだろうけど、なんか季節の一品ぐらいはあるかもしれない。
深春は、1席ずつ仕切られたカウンターに案内された。
店員は「ご注文は、そちらのタブレットでどうぞー」
とだけ言ってさっさと居なくなった。
画像付きのメニューが色々載っている。
よく見れば、夏の豚しゃぶサラダ定食も単品のグリーサラダも、使われている野菜が同じだ。
だけど油を使っていなくて野菜も多くて、体には良さそうだし、何より、期間限定だし。
これにしよう。
普段の深春にしては早い判断でメニューを決める。
毎日とは行かずとも、定期的に通うにはいい店な気がする。来るたびに新商品を選べばいいし。
朝から23時までやっているから、退勤時間に関係なく来れるし。
深春は、家に帰らない理由の次に、フユキに行かない理由を捻り出す。
そうやって自分を納得させて、フユキへの妙な執着を消そうとした。
カウンターの並びでは、自分と同じようなサラリーマンが黙々と食べている。
向こうでは、若者たちの団体が酒を飲んで大騒ぎしている。
その合間を、営業スマイルを貼り付けた店員が機械的な調子で声を張りつつ食事を運んでくる。
深春の席に、味噌汁と白飯と、皿にサラダの敷かれた上に薄い豚肉が3切れのっただけの定食が運ばれてくる。
蓋付きの小さなお椀の味噌汁に、わかめが1枚だけ浮いている。
「……野菜たっぷり味噌汁、飲みたいな」
冷め始めている味噌汁を啜ってそんなつぶやきが漏れる。
豚肉にかけてあるタレは、市販のおろし玉ねぎドレッシングと同じ味がした。
……この味と量で、1200円か。コスパが悪いな。
ついそう思ってしまう。
無人のセルフレジで会計を済ませ、
「帰ろう……」
満たされない思いと腹を抱えて、深春は店を後にした。
「……8時半か」
自転車通勤は早くも諦めてしまった深春だが、気付けば駅裏の駐輪場まで足を伸ばしていた。
どんなに、フユキへ行かない理由、フユキでなくてもいい理由を考えても、
無意識にフユキに惹かれてしまう自分に深春は呆れた。
フユキの戸口には暖簾もまだ下がっておらず、店内も暗い。
代わりに、店の2階の窓のカーテンからは、薄明かりが漏れている。
「……夏彦さん、店の上に住んでるのかな」
深春はその明かりに目を細めた。
一時期でも幼なじみと結婚して、ここで一緒に暮らしていたのか。
夏彦が毎日の飯も作って、いや、奥さんも一緒に店のカウンターに立っていたんだろうか。
……今は誰かと住んでいたりするんだろうか。
その誰かがとてつもなく羨ましい。
玄関を開けて、
ただいまって言うと
パチっと電気がついて
お帰り、今日の夕飯はね……、
などと夏彦があの懐っこい笑顔で出迎えてくれるんだ。
そんな妄想が頭を巡る。
タクシーが1台、フユキの駐車場に止まる。
フユキの店内にぽっと明かりが灯って、からら、と引き戸が開いた。
夏彦が暖簾を掛けて、タクシーの運転手と親しげに言葉を交わしているのが見える。
夏彦がふとこちらを見た。
一車線の道を隔てた駐輪場に居る自分と、目が合った気がする。
深春は思わず、頭を下げて挨拶していた。
夏彦が、こちらへてくてく歩いてきた。
「やっぱり、おにーさんだ」
ふにゃと頬を緩めて笑う。
「……あの、すみません、今日はもう食事済ませてて……」
深春がしどろもどろに言うと、途端に夏彦はしょげた顔をする。でも一瞬で切り替えてにこっとすると
夏彦は深春に囁いた。
「初めて来てくれたの金曜日だからさ、おにーさんもしかして今日来てくれるかなって、俺ちょっと期待しちゃったな」
照れる深春に夏彦は面白そうにくくっと笑って
「もうご飯食べたのに、ここでうちの店見てたの、なんか嬉しい。時間が合う日あったらさ、また来てくださいね。俺、待ってるんで」
そう言って店に戻っていった。
俺にまで優しくしてくれるのは、ただの客だからなのに。
夏彦の優しさが、親しみが、深春をますますフユキに強く惹きつけるのであった……。




