第2話 イワシ定食
結局日曜日はいつものようにダラダラして、次の月曜。
夜22時を回ってようやく深春は帰路につく。
残業なんてただ疲れるだけ、苦痛でしかなかったけれど。
……今日は、フユキ、やってるよな?
果たして、店には明かりが灯っていた。
風に揺れる暖簾が、深春を手招いているようだ。
いそいそと暖簾をくぐり、引き戸に手をかける。
だが建付けの悪い戸をほんの数センチ開けたとき、中からどっと笑い声がした。
常連たちの楽しげな声に、深春は身がすくんだ。
端で、BGM的に賑やかな話し声を聞いている分にはいいのだが、
既に盛り上がっている中に踏み込むのはなんだか億劫だ。
自分だけが異物のようで、居た堪れない。
残業上がりに飯を食うだけなのに。
それ以上、深春が戸を開けられずにいると
「やー、開けにくくてごめんなさい!」
元気な声とともにガラッと中から戸が開いた。
夏彦は、戸口でオロオロする深春に
「あ、おにーさん!ほんとにすぐ来てくれたんですね!」
と喜んだ。
それが途轍もなく嬉しくて、でも土曜日の肩透かしと落胆も思い出し、
「なんで土曜休みって、金曜に教えてくれなかったんですか」
思わず、深春はぶすくれた。
「え、ガチで次の日に来てくれたの?土曜もお仕事だったんですか?」
夏彦がびっくりした顔になる。
深春はその反応に、
「あ、いや、……お邪魔します」
……自分が勝手に来ただけだし、なんで文句たれてんだ。
恥ずかしくて身を縮めつつ、店内にコソコソ入る。
カウンター席のど真ん中が空いているが、常連さんの間に座るのは気が引けて、深春は先日のテーブル席を選ぶ。
「ねぇ、土曜日、何時に来てくれたの?土曜も朝の9時までやってるんですよ。だから休業日って感覚薄くて。ごめんなさい、土曜だけ夜営業ないの、言えばよかった」
お冷やを持ってきてくれながら、夏彦は謝った。しょぼしょぼと悲しそうな顔になっている。
「いや、別に、俺が勝手に来ただけだし、」
深春の返事に
「でも、まじですぐ来てくれてありがとうね、めっちゃ嬉しい。今日こそ、ゆっくりしてって」
夏彦は笑う。
その笑顔が眩しすぎて、深春は落ち着きをなくし、お冷やを呷る。
カウンターのお客に呼ばれて、夏彦が戻っていってしまう。
今日の定食、聞きそびれた……黒板もここからじゃよく見えないな、と深春がもぞもぞしていると、
夏彦はずっと話しかけてくるお客に相槌を打ちつつ、カウンターの奥からひょいと出てきた。
レジ横の、戸口に向けておいてある「今日のメニュー」の黒板になにか書き足し、深春に見やすいようにさり気なく置き直してくれる。
「①本日の肉定食:ロースとんかつ
②本日の魚定食:イワシの梅煮
小鉢・小松菜と油揚げの煮浸しのみ」
だそうだ。
しかも、②のところにぐるぐると丸が付いているし、
オススメだよ!と明らかに走り書きしてある。
「あの、すみません……」
深春がおずおずと声をかけると、
「ん!おにーさん、どっちにします?」
夏彦がぱっと顔を上げて応じる。
飼い主に名前を呼ばれた犬みたいに、目をきらきらさせて深春を見てくる。
熱い眼差しに辟易しながら、深春は
「あの、オススメの方で。あ、あと雑穀米で」
と言ってみた。
「お、オススメ?了解〜」
夏彦がニコッとして軽く手を挙げた。
鰯を冷蔵庫から取り出して鍋に入れ、火をつけてから、とことこと此方へ来て黒板の付け足し部分を消す。
「え、オススメってなに?そんなんあったの?」
厨房へ戻る夏彦にカウンターでとんかつを頬張る中年男性が聞く。
「お客さんごとに、オススメは違うの」
なんて夏彦は答えている。
あの走り書きは、2択ですら迷いがちな深春のためだけに付け足してくれたのか。
まだ2度目の客なのに、なんか特別サービスをしてくれたみたいで深春はどきどきしてしまう。
そこへ2人連れのサラリーマンが入ってきた。黒板をじっと見て、
「肉と魚、一つずつ、飯は白で」
と声を張りつつ、カウンター横のおしぼりの予備とお冷やを自分たちで運び、深春の後ろのテーブル席に座る。
「はーい、麦飯ね。お水とおしぼり、セルフ助かります!」
夏彦が、カウンター席ののテーブルより高いところ、いわゆる付け台にお盆を準備しながら礼を言う。
衣をつけた肉を揚げ油に入れたのだろう、じゅわあああ……と心躍る音がする。
……ん、なんだかとんかつも食べたくなってきてしまったな、と深春は胃をさすった。
そこへまた一人、老客が来た。カウンターのど真ん中の席にどっしりと座る。
「おい、客に水も出さねぇのか、この店は!」
なんて言うが
「すんません、揚げ物中なんで、手ぇ離せません。少々お待ちください」
夏彦は穏やかに答え、常連客が笑う。
「おじーさん、ここ初めて?夏彦くん困らせちゃだめ」
窘められて、老客は、チッと忌々しげに舌打ちする。そして、1分も経たぬうちに
「おい、俺のトンカツはまだかッ」
……なんて客だ、そもそもまだ注文してもいないだろお前。
と周りがざわついても、夏彦は動じない。
「はーい、肉定食ね、お待ち下さい」
からっと爽やかに受け流し、
肉はどうやら二度揚げするらしく、バットにとんかつを引き上げている。
そしてその間に夏彦は急いでカウンターに来て、老客に水とおしぼりを渡しつつ、付け台に準備した盆を脇の方へ何故か移動させ、順番も変えている。
あ、これ老客の手の届かないところに避難させたんだな、と深春は気付いた。
香ばしく揚がったとんかつを一番奥の端の盆、それから隣には鰯、と乗せていく。
「ひこちゃーん、席ある?3名」
がらりと引き戸が開いて、子連れの男女の客が顔を覗かせる。
「みーちゃん、ごめん、今満席」
夏彦が向こうですまなさそうに言う。
「ひこちゃん、またねー」
小学校の高学年ぐらいの子が夏彦に手を振る。
「ゆーとくん、またねー」
夏彦も手を振り返している。
見れば、空いているのは深春のテーブルの向かい席だけだ。
小さいテーブルを2つ付けての2名席。ここを一人で使うのもアレかな、やっぱり一人ならカウンターを使うべきだったか、
でも俺がカウンターに行ってても3人は座れないか……
などと深春は、長居したい気持ちと微かな罪悪感で揺れていた。
2切れめのとんかつの、2度揚げ前の一休みの間に
「はい、肉と魚、おまたせ」
夏彦が深春より先にサラリーマン達に定食を出した。
あれ?俺、飛ばされた?
軽くショックを受ける深春のところへ、夏彦が来る。
くっつけたテーブルを離して、一人テーブルにしてくれる。
「おにーさん、なにそんな怖い顔でテーブルのお向かい見てんの」
夏彦は笑って、
「さ、テーブルセッティング完了。すぐオススメ定食持って来ますね」
確かに、料理乗せたテーブルの真横で家具動かすのは、塵とか立ってアレだもんな。
それでわざわざ2名連れに先に配膳したのか。
自分が蔑ろにされたわけではないとわかって、深春はほっとした。
「はい、おにーさん。おすすめの金樽鰯」
とお盆を持ってきてくれる。
鰯を梅干しとともに煮付けにした一皿だ。
「キンタルイワシ?」
「後で教えてあげますね」
夏彦は急ぎ足で戻ってしまう。
あ、そうか、気難しい短気な老客のとんかつが2度揚げを待ってるんだった。
さらに数分間とんかつを揚げた夏彦は
「お客様、大変お待たせ致しました、とんかつ定食です」
老客には普段のように付け台から降ろさず、わざわざ盆を運んで丁寧にそっと差し出している。その客は、うむ、と横柄に頷いて満足げだ。
……一人ひとりにサービスするの大変だろうに。
深春はカウンターの様子を窺いつつ、脂の乗った鰯に舌鼓を打った。
それにしても。2枚おろしなのに充分に分厚いイワシだ。
おろす前は相当太短かろうと、鰯の生前の姿を思い浮かべ、深春は思わず一人笑う。
こんなにも、鰯に“こってり”感があるなんて。
濃厚な脂が煮汁に虹色に反射して浮いている。
味醂を控えめにして甘みを抑えてあるのは、味がくどくなりすぎないようにという工夫だろう。
梅干しの酸味も口直しになって、こんなに魚の脂を食べても全然胃がもたれてこない。
おすすめしてもらえて良かったな。
鰯を楽しむ深春の背後で、とんかつを食らうサクサクと軽快な音がする。
くぅうう、煮た鰯も旨いが、揚げ物は耳でも味わえるのが、こう……食欲を刺激して困る。
肉の脂身やフライを控えようとは思うのだが、いつかはこのフユキの揚げ物もぜひ賞味したい。
後ろのサラリーマン達は食べ終わるとすぐに出ていき、夏彦がささっと食器を下げ、すぐに厨房に引っ込む。
夏彦はずっと、くるくると忙しく立ち働いている。
立て続けにオーダーの入ったとんかつを揚げ終えて、
少しばかりくらっとしたのか、額を押さえている。
厨房は暑くて大変なんだろうな。
この蒸し暑い日に揚げ物、つらそうだなぁ、と思いつつ、
……キンタルイワシについてのご講義はいつ拝聴できるんだろう、と深春は空っぽの食器を前にして楽しみに待った。
「まぁたあの人、ほとんど残していったね」
カウンターの端でゆっくりジョッキを傾けていた初老の男性が、席を立ちながら言う。
あの人,例の老人客は、結局半分も食べずに帰ってしまったようだ。
勿体ないなぁ、と深春は食べ残された盆を横目に見た。
「最初から減らしたり、魚勧めるとねぇ、……」
夏彦も困り顔だ。
「年寄り扱いするなっ!だもんね」
一緒に苦笑する常連客。
「もうこの5年、ツキイチのイベントだから。もっとあっさりした肉料理にしようとも思ったんだけど、今日は常連さんからトンカツリクエストあってね」
カウンターテーブルを拭きながら夏彦が言う。
「来たの?リクエストした人」
「いつも午前さまだから、これからかな」
人によって、来る時間帯もだいたい決まってるのか。
それだけ固定客が居るのは凄いな。
それにリクエストも受け付けているのか。
……何年通えば、そこまでの常連になれるだろう。
深春は、年季の入った内装を見つめて思った。
カウンターも客が入れ替わり立ち替わりで常に満席で、深春の前にできた臨時の一人席にも、サラリーマンが座っている。
気づけば、深春が来たときに既に居た人達は全員居なくなっていた。
酒を飲まない人は料理が来てから30分くらいで食べて席を立つのがこの店のルールのようだ。
深春は、夏彦がカウンターの客に盆を出したタイミングで
「……あの、ノンアルビールください」
と思い切って声を掛けた。
「はいよー」
500mlの缶をぷしゅっと開けて、傾けた大ジョッキにとくとくと注いでくれる。
それを持ってきて、入れ替わりに深春の食器を下げつつ
「気にせず、ゆっくりしてって」
ぼそっと夏彦は深春に耳打ちした。
「あ、……すみません」
深春は思わず耳まで赤くなる。長居する口実に追加注文したのがお見通しのようだった。
怒涛のような出入りが落ち着き、カウンターも両端の二人だけになる。
「そういえば、嫁さん今日は来たの?」
と、誰かが夏彦に話しかけたのが聞こえた。
「ん?あぁ、みーちゃんね。せっかくだからゆーとにとんかつ食べさせてあげたかったなぁ」
夏彦が残念がっている。
「でもパパさんは最近魚定食じゃない?」
常連さんが笑っている。
「ちょっと、山野井さん。健太さんのご飯チェックしないで。それは俺の特権」
いくら顔馴染みの常連同士でも、あんまりジロジロ見るなという牽制だろう。
でも、ちょっと待て。
夏彦の嫁のみーちゃん&子どものゆうと、そして健太とかいうパパ?
ひとり混乱する深春のところへ、
手の空いた夏彦が
「お冷や、おかわりいる?」
とやって来る。
「嫁で……パパ……?」
夏彦を見上げつつ、深春はそう声に出してしまった。
「……は?」
夏彦が呆けた顔で聞き返し
「俺が、おにーさんのパパで嫁、になるのは、無理があるかな……?」
困惑したまま続ける。
夏彦が、俺の、嫁
とてつもない衝撃を伴うフレーズに
「いや、あの!そうじゃなく!」
深春は顔を真赤にした。
「あの、……お子さん、いらっしゃるんですね」
どうにか聞き直す深春に、夏彦が首を傾げる。
「俺、嫁も子もいないっすよ?独身だし……」
それから合点がいったように、ばっとカウンターを振り返った。
「ちょっと、山野井さん!変なこと言うから、他のお客さんが混乱してるじゃん」
笑い混じりに怒る。すまんすまん、とその山野井とかいう常連が軽い調子で詫びる。もう一人の客も、がははと笑っている。
夏彦が独身と聞いて、
「独身、そ、そうか、……」
深春は少しほっとしている自分に気づく。
なんだよ、いいじゃないか、夏彦が既婚者だって、別に。
ビールをちびっと舐めて深春は雑念を振り払う。
……昔馴染みの知人たちは、次々と結婚して、今は深春とは疎遠だ。
ライフステージが変われば、人間関係が変わっていくのも当然だけれども。
同年代の友人との関わりがほぼない今、
たかが定食屋の店主の結婚事情でさえもが、妙に気になってしまう深春である。
「えーっと、さっき、俺の幼馴染が旦那と子ども連れて来てたんですよ、……まぁ、その。昔ね、ほんのちょっとだけ、俺、その人と籍入れてたんだ。まぁ、嫁さんってか、元嫁ってやつ。子どもも俺の子じゃないよ」
言葉を選びつつ、夏彦は深春に教えてくれる。
深春は、思わず呟いた。
「……嫁さん、いたんだ」
結婚してたのか。
選んでもらえたのか、この男は。
夏彦は、きょとんとした顔で深春を見つめ、
「でも今は俺、この店がパートナーだから」
にかっと笑ってみせた。
「ねー、夏彦くんは“皆のフユキ”の夏彦くんだもんね、独り占めは駄目だよ」
常連の声がする。
「そーそー、誰か一人の特別になっちゃって恋人優先、お店も昼営業のみとかなったら困るよ」
山野井とかいう常連も乗っかってやいのやいの賑やかになる。
楽しそうに盛り上がっている、カウンター席の常連と夏彦を、深春はテーブル席から眺める。
「もうさ、夏彦“くん”が中坊ん時から見てっからさー、結婚って聞いたときはびっくりしたし」
「割烹の陽一さんの頃から、夏彦くんお店にいたもんね」
常連は、そんなにも長く通っているのか。
それこそ、このフユキが割烹だった頃から。
もう20年とかの付き合いがあって、今なおそれが続いてるなんて。
カウンターでは、深春には分からない誰かの話や思い出話に花が咲いている。
親とも遠く離れ、地元でもない場所に暮らす今、自分には職場の上司と部下しかいないというのに。休憩時間に雑談できる相手もいない。
昔はそれなりに遊んでもいて、友人にも恋人にも事欠かなかったけれども。
“ミハルは、楽しいけどさ。なんていうか、未来が見えないんだよね。一緒にいる未来みたいなのが”
そう言って恋人とはいつも遊びの関係で終わった。
そして、彼女らの結婚報告をSNSで知るのが常だった。
……あぁ、俺、人恋しいのか。
気づきたくなかった気持ちを、深春は、泡の消えていくビールを一気に呷って飲み込んだ。