第1.5話 土曜の夜
土曜日の、19時を回った頃。
深春は1Kの自宅アパートの狭い台所で、カップ麺を手に難しい顔をしていた。
朝兼昼飯は、家にあったチョコと菓子パンで適当に済ませたのだが
「なんか、今日はコレの気分じゃねぇな」
深春は、昨日の夜の、旨い焼き鯖を思い出していた。
箸で解した身は、ほろっと簡単に崩れるのに、パサパサはしてなくて、舌にしっとりと水気と脂を感じる絶妙な焼き加減。
食べる手が止まらなくて、でも食べ終わってしまうのも嫌で。
そして、夏彦の弾けるような笑顔も、なんだか胸が満ち足りるような幸福感があって。
「今日も行こうかな……」
でも本当に2日続けて行ったら呆れられるだろうか。
優柔不断で冴えない40歳、会話も苦手なおじさんが通ってもなぁ。場違い感あるかなぁ。
うじうじ悩みつつ、念の為、営業時間をネットで調べてみた。
店頭には、21時からと書いてあった気がするが、休業日の記載がなかったのが少し引っかかる。
土日休みとか、不定休とか、盆暮れ正月の連休だけとか、色んな可能性があるけれど……。
「え、全然載ってねぇ」
公式サイトは無く、口コミグルメサイトにも載っていない。
ただ、『定食屋 フユキ』と同じ場所で数十年営業していた『料亭フユキ』が『割烹フユキ』になり、それも7年前に閉業した、ということは分かった。
なるほど、代替わりの度に規模を縮小して、どんどん庶民的な店になっていったのか。
店の駐車場の隣の、だだっ広いコインパーキングも、もしかしたら昔は料亭の敷地だったのかもしれない。
「……料亭とか割烹だと、俺なんかは行けないな、敷居高すぎ」
夏彦さんが定食屋にしてくれて良かったな。
なんて少々失礼なことを思いつつ、深春はカップ麺を棚に戻した。
夕飯、コンビニ飯かスーパーの惣菜か。それともフユキに行くか。
……通勤定期もあるし、もう直接行ってみるか。
Tシャツとジャージのズボンではなく、
何となく今日もワイシャツとスーツパンツを着てみる。
会社へ行くときのように、髭を剃り、軽く髪を梳く。
少し迷って、ジャケットは着ずに深春は家を出た。書類鞄も持たず、財布と定期だけ持って街灯のともる道を歩く足取りは軽い。
休日にわざわざ電車に乗って出掛けるなんて、何年ぶりだろう。
土日なんて、ダラダラとベッドで惰眠をむさぼるだけで終わる。
出かけると言っても、よれたTシャツにジャージ下というだらけた格好でコンビニかスーパーに行って、弁当やカップ麺を買い漁るだけ。
それなのに、まともな身なりで、連日会いに行こうなんて。
でも、本当に美味しかった。
だからそう伝えただけなのに。
あの夏彦という若い店主は、あんなに嬉しそうにする。
いい笑顔で「また来てね」、なんてお世辞でも言われたら、年甲斐もなく浮かれてしまう。
会社の上司と部下以外、言葉を交わす人もいない深春にとって、それほどに新鮮なひと時だったのだ。
土曜の夜の21時過ぎ。
店の前で深春は茫然と立ち尽くした。
暖簾が片付けられ、代わりに
「本日閉店ーclosedー」
の札が下がっているではないか。
張り切って来た自分がとても滑稽に思える。
21時半過ぎまで待ってみたが、開店の兆しはない。
深春はトボトボと、駐輪場に置きっぱなしの自転車を押して帰った。
漕ぐ元気もなく、延々と歩く。
こうやって歩くのと、自転車に乗るのと、どっちが楽なのかもよく分からない。
途中、個人経営の立ち飲み屋をいくつか見かけたが、入る気にはならなかった。
だって、俺が行きたかったのは、フユキであって、……
夏彦に会いたかったのであって、……
いや、40歳のおじさんである自分が、あんな快活で常連に囲まれた若者に執着するとか。
それも1度行っただけの店だぞ?
でも、会いたかったな……
悶々としつつ深春は一人、軋む自転車を力なく押しながら帰って行った。