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ハーバーセンチュリー

 下の階に入っている中華屋の換気扇から香辛料が香ってくるから、上に住んでいる僕は四六時中お腹を空かせるはめにあっていた。今日は暇で、寝転がって緑がかった曇り空を見上げていた。だがじっとしていては料理の香りが鼻につき、余計に空腹がひどくなる一方で、しかし外食する金はないのでどこか別の場所へ移ることを余儀なくされてしまうのだった。

 コンクリートの固い階段を降りるときいつもここで転げ落ちる妄想にかられた。足を踏み外して踵、背中の順で滑り落ちていく。そのまま後頭部を強打して押し込まれた上あごに追従した奥歯が舌を噛んでそれからやっと激痛が遅れてやって来て、そんな考えを起こしながらでもここは外だから僕には平然と振る舞っている必要があった。間違っても両手を地面について、伸ばした足先で次の階段を探るような降り方をみせるわけにはいかなかった。それでも気持ちの中でだけは恐れ多く階段を一段々々踏みしめてそのまま、すると僕はいつの間にか階下の中華屋のあるところまで降りきっていた。店の前にはメガネでスポーティーな男たちが数人で列をつくっている。そしてやはり中華料理の匂いもより強く届いてしまう。

 腹が減るからとにかくここからは離れるべきだ。中華屋店舗の端っこも眼に映らない右手側の道へ進行方向を変えてしまう。先に大きな客船が浮かんでいるのがみえた。そして港から無精髭の酔っ払いがふらついてやってくる。僕には聞こえないが酔っ払いは何かを喋っているように口を動かしていて、その口まわりの髭の粒ひとつひとつがうねり波をつくる汚らしさだった。

 その酔っ払いは確かに奇妙な千鳥足で歩いていた。その動きの様もそうだが動きのテンポもおかしく、スーパーボールが床を跳ねるたび徐々に高度を落としていくみたいに、ついに跳ねることもなく動きを停止させる……。それを目撃した僕は、僕の中のもう一人が口を挟んだ。

『スーパーボールって最終的に跳ねなくなるんじゃなくて人間に観測不可能なレベルのバウンドを細かく続けているだけだと思うんだが、あの酔っ払いの動きはどっちだと思う?』

 そんなこと知らないと僕は再度、客船の浮いている港へ向かい歩いた。髭の酔っ払いを追い越しぎわ、特に何事もなく過ぎ去るとそのお互いの無事が安心したのかなぜかやけに胸に染みた。


 客船の前には乗客の列ができて、その中のいくつかの人はしきりに騒いでいた。

「フィフティーンミリオン!フィフティンミリオンセンチュリー!センチュリー!フィフティン!」「ハーバー、ハーバーハーバー。ハーバー、ハーバーハーバー。」「ガラ、ガルガルガガルガルグガラー!ググガルガラー、ガルア!」

 僕は彼らの様子になんだか見惚れていた。一人の男が僕に近寄ってくることにも気が付かないほどに。

 目の前に立ちはだかったその男は僕を見下ろし、

「こら列を外れるな。こっちに並べ。」

 その男には僕の肯定も否定も待つ気はなく、さっさと腕を引っ張られた僕はこうしてあの列の一員に混ざった。僕自身、彼らのように騒ぐ気は起きなかったが、ここに溶け込んでいるとどうも言い知れない居心地のよさを覚えてしまい、すでにここから逃げ出す気は失せていた。そのまま列に従って乗船した。船は出港してしまった。

 

 僕らは階段をいくつも降りていき、やがて船底部分につくられた窓もない会場へと通された。勝手にここから出て行くことは禁止だと告げられ、しかし僕以外にその命令の意味が通じたのはこの中に果たして何人いただろう。外で見た通りの騒ぎが伝染してその数が増え続けている。あるいは静かに座り込み、膝に鼻をうずめたまま決して顔を見せない人。ほとんどがその二種に分かれているように見えた。僕は後者の座る側を選んだが、顔を伏せることはせず周りや見張り役を観察して過ごした。すると分かったのは、顔を伏せていると思っていた人たちは次第に観察の側へ回ってきていること。あと騒ぎが収まらないのは、いつの間にか競争じみたムードが漂っているためであること。見張り役はあくびが多く大してやる気がなさそうなこと。座って観察しているだけで時間がすみやかに過ぎてくれたのかどうか、部屋に時計はなく確認しようがなかったが、僕が呼ばれた順番は早い方だった。これは意外な気がしたが、この際の意外は何をもってしてなのか、会場の扉が閉ざされた瞬間に中の騒ぎが遠く聞こえなくなって、看守と僕だけの廊下には緊張が張り詰めていた。

 

 扉の前に到着すると言葉もなく中へ入れられ、あとは後ろ手に手錠とヘッドホンを装着された。独房と呼んでいい部屋だった。天井の隅に隠す気もない監視カメラがこっちをみている。やることを終えたらしい看守は特に説明もしないで、さっさと部屋を出て行ってしまった。それと同時に両耳にノイズが走り、やがて雑音をかき分けるようにして二人の男の会話が聞こえはじめた。

「二人の白衣の男と……*zzzz*女が椅子に座っている。」「どんな様子だ?」「*zzzz*ひじ掛けに腕を固定されてる。それから*zzzz*」「ヘッドホンもされているか?」「……*zzzz*ヘッドホンをされている。流している音声ファイルは……*zzzz*面基地とミルクのにおい……*zzzz*骸骨との通信記録*zzzz*」「それは秘密通信の古典だ。……*zzzz*が使われるのは納得だ。」「彼女、脱力しきってる……*zzzz*口元が閉まら*zzzz*くらいの唾液分泌……*zzzz*正直恐ろしいな。」「……*zzzz*そういってやるな。」「彼女動きだし……*zzzz*取り押さえ*zzzz*の腕を噛みちぎって……*zzzz*他に」

 以降はノイズにかき消され、しばらく雑音だけが続いた。ときどき雨音にすり替わって激しい落雷がするとまたノイズに戻るという遊びのような箇所と出くわしながら、僕はもはた耳を澄ませることにも飽き飽きしているころだった。背後からヘッドホンを浮かされ、さらには独房を見つめていた視界さえも剥がされると、僕はもう一枚向こうに見えた全く同じ独房の中で腰を落とし座っていた。違うのは背後から僕を強引に抱きしめる6本の細い腕と、それを生やした正体不明の生物が背中に密着していることだけだった。耳元に息がかかった。耳の内壁に歯が生えてガムを噛んで転がす幻を誘う心地だった。そして発されたその生物の声はけたたましく、早口というより、数十人が一斉に別ジャンルについて述べて衝突し合う光景が聞こえるようだった。僕は決してその内容を理解できない。だがそれが単なる思い込みに過ぎないのだと分からされたのは、背中の声が伝えている意味を自分が理解していることに遅れて気づいたときだった。理解できることを認めなくなかったのかもしれない。理解した瞬間、馴染みある言語によって訳された文章が一斉に蘇ると頭の奥がしばらく痛んだ。直近の過去が次第に過去の方向へ遠のいていっている危うい自覚が錯覚へとすり減って性欲と音楽欲求がごっちゃになり始めるころに朝から晩の明けるまで君はふにゃついたドゥーワップソングを聞き漁っている。油のように君の跡がソファに染みて、熱を帯び張り詰めたシリコン風船を力強く一突きして割って破水させるために有機的色合いの針を磨きつづけ、表面が鏡面に限りなく近づいた瞬間そこに君の顔が反射して映った。映し出されたその顔は紐になった腸で上からぐちゃぐちゃに覆われていてもはや君自身でさえ判別はつかなくなっていた。君は見えもしない右手を動かしつづけていた。

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