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殺人鬼白日に晒さる

 今出川の町屋に戻ると、二人は茶の間の座卓に差し向かいになり、お互いの意見を交わしあった。しかし、どの意見も推察の域を出ないものばかりで、亜沙美が怪しいと感じているのは佐原の思い過ごし、という具合にまとまってしまうのだった。

「――あかんっ、このままじゃいぶされてまう。この話はいったん止めにして、メシにしようや」

「了解! にしても、ずいぶん吸ったねぇ――」

 窓を開け、換気扇の紐を引く有作の言葉に、浮音はせやなあ……と灰皿へ目を落とす。一箱分の吸いさしがいちどきに差し込まれた灰皿は強烈な迫力があった。

「ちっと顔洗ってくるわ。ハンドタオルの新しいの、ついでに持ってくで」

「あ、それなら顔用のも持っていったら? そろそろ五時だし、髭剃るのに使うでしょ?」

 掛け時計を指さす有作に、浮音はせやねえ、と微笑んでみせる。「五時の影」と呼ばれる夕方の髭剃りの習慣を、有作はきちんと心得ていたのだ。

「ほんじゃ、洗濯したてのいいとこ、さっそく使わせてもらうで――」

 そういって、タンスに仕舞ってあったタオルを受け取ると、浮音は洗面所の方へ向かった。

「――佐原くん、どうもおかしな話になってきたで」

「――えっ?」

 鍋を火にかけ、流しでごぼうの泥をを落としていた有作は、ふらりと現れた浮音の言葉に眉をひくつかせた。見ると、浮音の左手には床屋の使うようなシェービングカップ、右手にはその相方である刷毛が握られている。

「この形の刷毛、見覚えあらへんか?」

 何が何だかわからず困っている有作をよそに、浮音は件の刷毛を有作の目先へ近づけた。しばらく、有作はたわしを持ったままそれを見つめていたが、

「――これ、おかみさんが拾ったのと同じやつだ!」

 白い持ち手の刷毛が、先日の出来事と結びつき、有作は声を上げる。

「やっぱり! ――こいつは二た月ばかり前、薬局で出会った大将にすすめられて一緒に買うたやつなんよ。せやけど、今日洗面所で見たのはまるで、それより古い品みたいな匂いがしたで」

「ええっ」

 毛先に染みたシャボンの香りを嗅いでいた有作が目を見張る。

「大将の家もこの家も、典型的な換気の鈍い京町屋や。ここんとこ、季節外れの雨もあって、なんとなく湿気のこもる日もあった。けど、そんならこっちだって同じぐらい青臭く、カビが蒸してもおかしくはないはずやけど、んなこたぁなかった」

「じゃ、時次郎さんの家にあった刷毛は、わざとカビが生えるようにしむけられたってこと? でも、そんなのいったいどうするのさ。そのまま使って泡なんか塗って……」

 そこまで言いかけて、有作は顔から血の気の引くのが分かった。

「ねえ、たしか頭を剃るのって、奥さんの担当だったよね。……もしも、もしもカビの生えた刷毛で泡を塗って、その泡なんかがうっかり切れたところから染みこんだら、どうなるの?」

 有作の問いに、浮音は苦い目をしてみせる。

「――泡の熱気なんかもあるからほぼ確実とはいえへんけど、病気で免疫が弱ってるような人間にはなんともない雑菌が猛毒として作用することがある。ことに、薄くて切れやすい頭の皮膚なんかは、脳神経にまわる血管が近いから、潰した吹き出物の雑菌なんかが血液にまじって重篤な症状になることもあるらしい――」

「それじゃ、錆びた剃刀もカビた刷毛も、毒の宝庫じゃないか!」

 有作が叫ぶと同時に、火にかけてあった鍋のフタから、煮立った中身がシュッとコンロへこぼれる。咄嗟に左手を出してツマミをひねった有作に、浮音は手にしたカップや刷毛を置いてから、

「刺殺のような直接的な方法でなく、毒殺などのやや遠回しな手を用いるのは女性に多いとは、犯罪学者のロンブローゾも言うとるが……理由はともかく、佐原くんの感じた奇妙な感じ、ほんまやったらえらいことになるで」

「カモさんっ」

「なにはともかく、行くだけ行ってみようや。今晩のうちに毛なんかあたられたら、どえらいことに……」

 と、その時だった。立て続けに沸き上がった奇妙な疑惑に焦燥の色を浮かべていた浮音の顔に、冷静な色味が差したのは――。

「なぁ佐原くん、出かける前にちっと聞きたいんやけど……」

 そこからいくつか、話とは無縁なように思える質問が交わされると、浮音はしばらく、腕を組んで何かを考えていた。が、やがて何か憑き物でもとれたように晴れ晴れとした顔色へ変わると、浮音は襟足へ手をあて、キッチン一杯に盛大な笑いを轟かせた。

「なるほど、そういうこっちゃなぁ。――いやぁ、相手も一本上手やなぁ」

「カモさん、何笑ってるの! 放っといたらおかみさん、何するかわからないよ」

 半ば怒りを露わにしている有作に対し、浮音は悠然とした調子で返す。

「安心しな、今日一晩は大丈夫や。相手も人間、こないなときにそないな真似はせんよ……」

 浮音の自信に満ちた顔を、有作はどこか不思議そうに見つめているのだった。


 京町屋特有のこじんまりとした洗面所に、鼻をくすぐるようなシャボンの甘い香りが漂い出したのは、心地の良い日差しのあたる、日曜の昼下がりのことだった。

「――すまんなぁ、なにかと用事もあるやろに……」

 遠くから聞こえる時次郎の声に、相手は気にしないで、というような塩梅で返事をする。しかしその返答の最中も、目線や顔は一転を集中したままだ。

 ――あの二人、変なことに気づいてはいないだろうか。

 不意の訪問の話にはずいぶんと驚かされたが、あれ以来何の返答もないのを見るとどうやらなんともなかったらしい。

 ――ちょうどいい具合だ、早く行って、やってしまおう。

 研ぎに出して戻って来たばかりの、滴るような輝きを孕んだ和剃刀へ目をくれると、返事の相手はカップからそっと刷毛を取り出し、まとわりついた泡を息で吹き飛ばした。

 飛び去った泡の中から、全体にやや青っぽいまだらのかかったような毛先が姿を見せる。相手は口元へ沸き上がる笑みを必死になって抑えると、半ば急ぎ足で時次郎のいる八畳間へと向かった。左手にはカップ、右手に剃刀を携えたまま――。

「――おお、来たか、はよう頼むで」

 障子越しに自分の気配のしたのを悟ったらしく、部屋へ近づくと時次郎が呼びかけてきた。

 ……いよいよこの時が来たか。

 心の内でそうつぶやくと、呼びかけられた相手はカップを床へ置いて、そっと障子へ手をかけた――その時である。

「――やあっぱり、あんたが手ぐすね引いてたんかぁ。あんまり話が達者なんで、友達ともどもだまされるとこやったで」

「――!」

 勢いよく開いた障子の影から、見知った顔の出たのに相手は驚いて固まってしまった。店の常連、大阪のさる実業家の息子で、いつも着物姿で現れる細身の青年――鴨川浮音の何もかも見透かしたような表情に、相手は声も上がらず、ただただひきつったような目線を向けているばかりであった。

「鴨川さん、いったいこれは……どういうことなんですか」

 浮音の左肩から、わななくような声が上がると、相手のひきつったような目線にパニックの色味が加わった。

「――説明はともかく、ほんの一瞬でもあなたのことを疑ったの、ここにお詫びしますわ」「さぁ、あとはあなたのお役目です。二人の意見がまとまれば、僕らはそれに従います」

 浮音の後ろで、縁側の方を向いて座っている時次郎と一緒に立っていた有作が声を上げる。すると、いくらかためらったような息遣いに続いて、力のこもった叫びが部屋いっぱいに響き渡った。

「――あんたはもう、うちの店の板前やありません!」

「――ああ」

 袷を着込んだ険しい顔の女将・亜沙美から突きつけられた宣告に、普段着のまま悠然と控えていた板前・司京太郎は、枯れた大木のようにその場へ倒れこんだのだった。


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