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錆びた剃刀

 だが、このまま沙汰止みにするような浮音ではなかった。父も心配しているだろうから、名代でお見舞いに伺いたいと京太郎へ伝えると、二人は翌日、隣接する居宅で療養中の時次郎を訪ねることとなった。

「なんかごめんね、別段事件でもなさそうなのに来てもらって」

「気にしたらあかんで佐原くん。見舞いのついでに……やがな」

 当日、近場の青果店で買った籠盛りの果物を携えると、浮音は有作ともども、三人の待つ「志ら菊」裏手の、居宅の玄関先へと向かった。午後の一時過ぎ、時期に見合った薄曇りの昼下がりのことである。

「――お待ちしておりました。どうぞ中へ」

「大将、今日は調子ええんですか」

 果物の籠を渡し、羽織っていた二重廻しを脱ぎながら浮音が尋ねると、京太郎は薄く微笑んで、

「鴨川さんがいらっしゃると聞いて、少しは元気そうなのが救いですわ。さ、どうぞ奥へ……」

 そのまま背中を追いかけ、細い廊下の突き当りにある部屋の障子が開くと、はたして暖房の効いた八畳の真ん中に、布団をかぶった大柄な、しかし頬のややこけた、五十がらみの男が横たわっていた。「志ら菊」の主、赤見時次郎である。

「大将、鴨川さんと、ご友人の佐原さんがおつきです」

 京太郎の言葉に時次郎は目を見開いて、右手で体を起こそうとした。

「鴨川のぼん、おひさしゅうございます……」

「あっ、起きたら体に……」

 布団から起き上がろうとする時次郎を、京太郎が咄嗟にたしなめる。ところが、時次郎はうめくような声を上げて再び布団へ戻ってしまった。見れば、顔には苦悶の相が浮かんでいる。

「大将、昔やった病気の関係で、痛み止めの特効薬が使えへんのです。どうにかこうにか、湿布や鍼で痛みを和らげてるような調子で……」

「――起き上がるのもあかん、不浄へ立つのも京太郎の手ェ借りんとあかん始末で……。メシもよう食べられんので、こんザマです。腰を打つのがこれほど辛いとは思わなんですわ」

 玉のように噴き出た汗を京太郎へ拭いてもらうと、時次郎はいくらか痛みが治まったのか、穏やかな表情で浮音の方を向いた。寝たきりが続いて顔や頭をあたる余裕もないらしく、普段ならきちんと手入れの行き届いている時次郎の頭や頬は、それぞれ毛が浅黒く生している。

「いつだかぼんに、髭の手入れは男のたしなみ、なんて言うたのが恥ずかしうてかなんです、面目ない……」

「気にしたらあきませんよ大将、病気の時は誰だってこうなりますわ。僕かてそないな具合になったら、顔も頭もボウボウで……」

 と、浮音がジェスチャーを交えて話をしていたところへするりと障子戸が開いた。

「――失礼します」

 青っぽい袷を着た、小股の切れ上がった妙齢の女性――後妻の亜沙美の姿へ、二人は視線を向けた。そしてその一瞬、有作は亜沙美のやや糸目がかった瞳が大きく見開かれ、自分の方へ向けられたのを見逃さなかった――。

「亜沙美、言うてた鴨川さんのとこの浮音さんや。それと、そちらはご友人の佐原さん」

「――はじめまして、赤見の家内でございます。今日はお見舞いに来ていただいて、ありがとうございます」

 左手に持った湯飲み入りのお盆を置き、片手に提げていた急須を畳の上へそっと置くと、亜沙美は丁重に二人へ挨拶を返す。それからしばらく、有作は浮音ともども、夫婦や京太郎とともに他愛もない世間話に興じていたが、時折茶を口へ含む亜沙美の顔は、どこか浮かない表情に満ちている。しかも、こちらと目が合いそうになると、亜沙美は意図的に顔を逸らしてくる。有作の中に、亜沙美に対する奇妙な感情の種がゆっくりと芽を吹きだしていた。

 話がいくらかはずんだころ、京太郎が気を利かせて剥いてきた、小ぶりのリンゴをつまんでいた浮音は、ちっとお手洗いへ……と言って、その場を離れた。あとに残った有作は、向かいで呑気にリンゴ――見舞いの籠に入っていた、紅玉というやや酸味の強い品種であった――を美味しそうにぱくつく亜沙美の顔を、疑わしげに睨んでいる。

 数分ほどして浮音が部屋へ戻ってくると、どこかの部屋で、掛け時計が年季の入った鐘を三度鳴らした。

「おんやぁ、もうこないな時間か……」

 帯に挟んだ懐中時計のふたを開くと、浮音はどうも長々お邪魔をしまして……と、三人へ深々頭を下げた。夫婦をその場に残し、見送りに出た京太郎と玄関へ向かうと、浮音は二重廻しを羽織りながら、こんな話を振った。

「京太郎さん、さっき間違えて洗面所の方へ出たんやけど、鏡のとこにあった和ガミソリ、ずいぶん傷んでましたで。あれじゃ大将、治ってから顔剃るのに不便ですやろ」

 浮音の言葉に、京太郎はご覧になりましたか……と困ったような顔をしてみせる。有作が道中聞いた話によれば、浮音は時次郎から髭剃りの道具の指南を受けたことがあったのだという。

「こっちもすっかり弱っとるんですわ。いつも大将、刃は自分で研がはるからこっちが勝手に手ェ出せへんのです。ここんとこ、夜に貸し切りの予約が多いから、忙しゅうて手が回らなくて……」

「せやかて、せめて水気の多いとこからはノかさんとあかんでしょ。せっかくの玉鋼も、錆びたら形無しでっせ。それに、刷毛もなんやらつーんと青臭い香りがしたし……」

「そらほんまですか。――しまった、ここのところ天気もいまいちやったしなぁ」

 時次郎の不在をカバーしていたため手が回らなかったのか、京太郎は弱り切った顔を二人の前にさらした。

「まあ、ひとつその辺は大将と相談しておくんなはれ。頭も刈ったらんと、生臭坊主みたいになってまうし……。刈っとるの、京太郎さんやろ?」

 浮音の問いに、京太郎はカブリを振って、

「いいえ、結婚なさってからはずっとおかみさんがやらはってますよ。おっかなびっくり、そーっと剃刀立てながら……」

「ハハ、仲睦まじき夫婦愛、やねぇ」

「ほんとに、今日はどうもありがとうございました。じゃあ、僕は夜の仕込みがあるんで……」

 忙しそうに店の方へ駆ける京太郎へ、浮音は茶目っ気に満ちた笑みを浮かべる。すると、急いだはずみで京太郎のポケットから鍵のようなものが飛び出し、浮音の足元へと転がって来た。浮音はそれを拾い上げてから、

「京太郎さんっ、パス!」

 と、勢いよく放り投げてから、振り向きざまの京太郎が右手で見事にキャッチしたのを見届け、有作ともども家路を急いだ。大通りの方からは相変わらず、慌ただしい喧騒が響いてくる。亜沙美の口から説明などがなされることもない他は、至極平穏な光景がそこに繰り広げられていた――。


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