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後妻の名は亜沙美

 その日の午後、有作は内外からの観光客に交じり、河原町のアーケード下を一人のんびりと散策していた。あちらこちらに紅葉狩りツアーの告知がかかり、三条河原の楓の葉が黄色くなりはじめた、十一月初旬の水曜日のことである。

 ――こうやって一人で歩くの、すごい久しぶりかもしれないなぁ。

 のっぴきならない用事が出来、映画館のロビーで集合することになった浮音を待つ間、有作は一人、喧騒に満ちた河原町のビルの谷間をあてもなくさまよい歩いていた。

 ひっきりなしに耳のそばを過ぎる日本語、英語、どことも知れない国の喜怒哀楽。数珠つなぎになった市バスへ乗り降りする客の列、けたたましいクラクションとともにすり抜けてゆくタクシーやハイヤー、観光バス――。観光都市京都の、賑々しくも騒がしい、伝統と隣り合わせに存在する日常の光景である。

 ――見慣れたもんだと思ってたけど、こうしてみると、やっぱり人混みって疲れるなぁ。

 丸善を通り過ぎ、チェーンの薬局の前で往来を避けて立ち止まると、有作は深呼吸をしてから、その場を離れようとした。と、

「――きゃっ」

「――わっ」

 小さな悲鳴とともに歩道へ押された有作は、驚いてその場に踏ん張った。男性にしては背の低い方である有作におぶさるような形で、見知らぬ女性が寄り掛かったのである。幸い、近くにいた店員が手を貸したおかげで、有作はどうにか足の力を抜くことができた。

「ご災難でしたねぇ、こんなところで切れるなんて」

 アルバイトらしい若い店員の言葉に、有作はおや、と振り返った。見れば色の白い、細面をした和服姿の女性が、店員に肩を借りて婦人物の駒下駄を拾い上げている。

 ――ああ、鼻緒が切れたのかぁ。

 浮音と一緒に歩いていて、二、三度そうした場面に出くわしたことのあった有作は、応急修理に使おうとハンカチを切り裂く準備を始めた。ふと、流れで彼女の足元へ視線をくれた有作はその場にぴたり、と釘付けになった。

 ――家族か誰かに、頼まれたのかな?

 そう考えれば納得がゆくが、そのあまりにも奇妙な取り合わせに、有作は不思議な感情を抱いた。和装の女性の手から、床屋の使うような黒い持ち手の刷毛(シェービングブラシ)と、泡立てて使う粉石けんの袋が転げ落ちれば、無理もない話である。

「お姉さん、拾いますよ」

 一種の好奇心も込みで、落ちた刷毛と粉石けんへ手を伸ばしかけた有作だったが、その善意は見るも無残に打ち砕かれた。すかさずしゃがみこんだ相手が、色の白い左手で買い物袋へそれらを仕舞い、そのまま立ち去ってしまったからである。

「……行っちゃいましたねぇ」

 鼻緒の切れた下駄を提げ、足袋のままアーケード下を行く姿を、有作と店員は引き留めるでもなくあっけにとられたまま眺めていた。

 そんなことのあったのち、約束の時間に間に合った浮音と合流した有作は、映画鑑賞へと意識を集中させ、不愛想な女性のことなど忘れてしまおうと努めた。

 ところが、映画を見終えて近場のドトールコーヒーへ入った途端、

「――ひょっとして今日あたり、和服の女ともめたりしてへんか?」

 浮音の指摘に有作はひどく驚いてしまった。聞けばどうやら、有作は和服姿の女性がそばを通るたび、苦々しい目線を向けていたらしい。もちろん本人には、そんなつもりなどさらさらなかったのだが――。

「無意識のうちに出てたのかなぁ。実は、待ってる間にこんなことがあってさ……」

 ため込むよりかは発散させた方が吉と悟ると、有作は昼間、河原町の薬局前で起きた出来事を浮音に打ち明けた。ひとしきり有作が話を終えると、浮音は組んでいた手をほどき、

「――人相からして、ひょっとすると『志ら菊』のおかみさんかもしれんなぁ」

 と、Lサイズのカップへ入ったコーヒーを口へ含みながら返した。

「亜沙美さん言うて、祇園で三代続く割烹のオヤジの後妻さんなんよ。十年ばかり前にご先妻がのうなって、子供もおらんで一人きりじゃあ寂しかろうと、周りの勧めもあって最近縁づいたんやけど……。二、三度、店の手伝いに出てたのを見かけただけやから、人となりまではよう知らんのよなぁ」

「高慢な性格の人、とかいう噂はないの?」

 有作の質問に、そないな人やったらとっくに悪評が耳へ飛んでる、と浮音はジェスチャーを交えながら答える。

「祇園ってとこは、人品卑しい御仁の長らくおられんとこやからねぇ。なんか虫の居所が悪かったか、調子が悪かったなんてのが真実な気もするけれどなぁ――」

 そういうと、浮音はカップの残りをクイと飲み干してから、

「ちょうどええ、しばらく顔出しとらんかったし、明日あたり昼でも食べに行ってみよか。いれば本人、まあ、あとは大将かイタ長の京太郎さんに聞けば、タネも割れるやろ。それが済めば、大将の捌いた鱧刺しを食べて帰るだけ――簡単なお仕事や」

「――それもそうだねぇ」

 鱧という魚は小骨が多いため、捌くのには熟練の技が要る。ハモ刺しを食べるついでに事情を探ろう、という具合に話が片付くと、浮音と有作はカップを片付け、どこかほかの喫茶店で感想を語り合おうと、河原町のほうへ続くアーケードの下へ繰り出したのだった。


 翌日、講義の合間がずいぶん空いているのを幸いと、二人は大学の前から二〇六系統のバスへ飛び乗った。そして、八坂神社の門前から一路西へ、通りの中ほどを北へ上がったところにある小さな割烹「志ら菊」ののれんをくぐったのだが――。

「いらっしゃいませ――。あれ、あなた、鴨川さんとこの……」

 きれいに掃除の行き届いた、小あがりの席とカウンターのある店内に、若い板前・司京太郎の声が響く。

「やあ、どうもご無沙汰しとります。昼の日替わり、二人前お願いします。あとビールも……」

 平日の昼前、他に客の姿も見受けられないのを幸いと、浮音はカウンターの、魚や貝の収まったガラス張のネタ箱がよく見える位置へ腰を下ろした。と、

「――京太郎さん、大将どないしたん?」

 いつもならカウンターの中には、役者顔の京太郎の隣で、にこにこ笑いながら包丁を使う、丸坊主の大将・時次郎の姿があるのだが、今日に限ってその顔が見当たらない。

 それが気になった浮音の問いに、京太郎は突き出しの小鉢を支度しながら、ちょっとバツが悪そうに返す。

「――実は大将、ケガで寝込んどるんです」

「手でも切ったんですか?」

 料理人のケガ、といえばそれくらいしか見当がつかない。あてずっぽうの浮音の言葉に、京太郎は腕を組んだまま、

「それならまあ、程度によっては救いがあったんです。お二人の今くぐられた、のれんの竿掛けがぐらついてるのを直そうとして、脚立ごと転んでもうて……」

「じゃ、体打ったんか。――大将、恰幅いいから痛かったやろなぁ」

 料理を食べる直前にとんでもないことを聞いてしまった、と、浮音は京太郎からビールをコップへ注いでもらいながら、軽はずみな質問を悔いた。

「で、寝込んでどんくらい……?」

「今日でもう二週間になります。打ち所が悪かったのか、動くのも厳しくて……。そろそろ秋鱧の季節や言うのに、品書きから下げさせてもろてるのもそういうわけなんです。すり身のしんじょにするならとにかく、刺身にするとなると、やっぱり大将みたいなベテランでないと難しくて……」

 京太郎の言葉に、浮音はひょいと頭上へ目線を挙げた。見れば確かに、ずらりとならんだ品書きの中に、あるべきものがない。鱧の刺身としんじょが旨いと、世間のその名の通っている小料理屋「志ら菊」に肝心のそれがないのは、ほとんど致命傷に等しかった。

「常連の方々にはご納得いただいたんですけど、問題は口コミでいらっしゃる方で……」

「人の口には戸が立たんからねぇ。悪評千里を駆ける、とは弱った世の中やなぁ」

 羽織の袂をそっとまくる浮音に、京太郎はほんまですわ、と困った顔で返す。それきり会話が途切れると、あとには京太郎が包丁を使う音しか聞こえない、ねっとりとした静寂が浮音たちの周りを包んだのだった。

 とてもではないが、亜沙美のことなどは聞けそうにもなかった。


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